少女が銃を手にした理由

カクア

文字の大きさ
2 / 5

再来

しおりを挟む
季節は過ぎた。ジャケットを着ていた制服も、夏服に変わった。
だが、澄香の心は変わっていなかった。いや、危機感、焦燥感は募るばかりだ。痴漢に刻まれた傷跡が、澄香の安寧を奪っていた。それは以前にもまして澄香と学校、澄香と両親の溝を深めていった。澄香は孤独だった。
「紫藤さん、大丈夫?顔色悪いよ」

隣の席の女子生徒が心配そうに声をかけてきた。しかし、澄香にはそれさえ他人の戯言に感じてしまっていた。

「ううん、大丈夫。ちょっと、寝不足なだけだから」

そう答える声が、自分のものではないように震えていた。彼女の親切が、今は鋭い棘のように感じられた。この人は知らない。自分が昨日、人を撃ったことなど。この人は、自分がもう、彼女たちと同じ世界に住んでいないことを知らないのだ。それがさらに澄香と日常の溝を深くする。
それでも日々は過ぎていく。
7月のある日、澄香は夏期講習の手続きを済ませる。明日から夏休みだ。痴漢に狙われていた、通勤電車ともしばらくお別れだ。その思いが、すみかの心を幾分か軽くした。

電車が滑り込んでくる。その轟音の中で、ふと、澄香は強烈な視線を感じた。
それは、獲物を見つけた肉食獣の、粘りつくような執拗な視線。中学の剣道場で向けられたものと同じ種類であり、そしてここ数週間、彼女の日常を地獄に変えたものと全く同じ種類のものだった。

恐る恐る、澄香は視線の先へと顔を向けた。
人波の向こう。対向車のホームに立つ人々の群れの中に、その男はいた。

男は、澄香を真っ直ぐに見つめていた。右の耳があった場所には分厚い包帯が巻かれ、その端が血で赤黒く滲んでいる。昨日までの、獲物を嬲るような愉悦の色は彼の目から消え失せていた。代わりにそこにあったのは、どす黒く燃え盛る、純粋な憎悪と殺意の炎だった。

時間が止まった。周囲の喧騒が嘘のように遠ざかり、世界には澄香とあの男だけが存在していた。男は何も言わない。ただ、じっと澄香を見つめている。その視線が、無言のうちに全てを物語っていた。

「見つけたぞ」
「次はない」
「お前を、殺す」

電車のドアが開く。人々が乗り降りする。しかし澄香はその場から一歩も動けなかった。男の唇の端が、ゆっくりと歪んだ。それは嘲笑でも、欲望の笑みでもない。これから始まる、長い、長い復讐の儀式を予告する、冷酷な笑みだった。

やがて、男が立っていた側の電車のドアが閉まり、ゆっくりと動き出す。男の姿は遠ざかっていくが、その憎悪に満ちた視線だけは、いつまでも澄香の網膜に焼き付いて離れなかった。

澄香は、ようやく止まっていた呼吸を再開した。浅く、速い呼吸を繰り返しながら、全身がわななくのを止められない。バッグの中で、冷たい鉄の塊が、まるで生き物のようにその重みを増した気がした。

これで終わりではなかったのだ。
いいや、これは、始まりに過ぎなかった。 

澄香が乗るべきだった電車が、耳をつんざくような警笛を鳴らし、ホームを滑り出ていく。人々が乗り込んだ車両の窓は、無数の顔、無数の人生を映しながら、闇の中へと吸い込まれていった。しかし、澄香の目には何も映らない。網膜に焼き付いているのは、対向のホームでゆっくりと遠ざかっていった、あの男の姿だけだった。憎悪に燃える目、血の滲んだ包帯、そして復讐を宣告する冷酷な笑み。その映像が、彼女の脳内で何度も、何度も繰り返し再生される。

「……う」

喉の奥から、意味をなさない呻きが漏れた。全身から急速に血の気が引いていく。立っているのがやっとだった。指先は氷のように冷え、心臓だけが肋骨を内側から激しく打ちつけている。世界がぐにゃりと歪み、ホームのアナウンスも、人々のざわめきも、全てが水中にいるかのようにくぐもって聞こえた。
殺される。
あの男は、本気で自分を殺しに来る。それは理屈ではなく、本能が告げる絶対的な事実だった。痴漢行為という一方的な凌辱の関係は、あの銃声と共に終わりを告げた。そして今、始まったのは、死を賭けた狩りだった。狩られるのは、自分。

「逃げなきゃ」

誰に言うでもなく、唇が震えながらその言葉を形作った。衝動的に、澄香は踵を返した。改札へと向かう人の流れに逆らい、無我夢中で階段を駆け下りる。背後で誰かが舌打ちをする音も、ぶつかった人の謝罪を求める声も、耳には届かない。全てが脅威だった。すれ違う男たちの誰もが、あの男の仲間ではないかという妄想に取り憑かれる。黒い服を着た男、鋭い目つきの男、自分を一瞥しただけの男。その全てが、自分を追ってくる刺客に見えた。

改札を飛び出すと、駅前の喧騒が濁流のように彼女を飲み込んだ。ネオンの洪水が視界を白く焼き、車のクラクションと雑踏のノイズが鼓膜を突き刺す。
どこへ?どこへ行けばいい?家はだめだ。あの男は、学校も、おそらく帰り道も把握している。家を知られるのも時間の問題だろう。警察?何を言えばいい?痴漢されていました、でも抵抗して拳銃で撃ってしまいました、なんて。言えるはずがない。言った瞬間、自分は被害者から加害者へと立場を変えることになるのだ。

「はっ…はぁっ…」

肺が酸素を求めて喘ぐ。澄香は人混みをかき分け、ただひたすらに走り続けた。目的の場所などない。ただ、あの男の視線が届かない、どこか遠い場所へ行かなければならないという強迫観念だけが、彼女を突き動かしていた。
大通りから脇道へ、さらに薄暗い路地へと迷い込む。コンクリートの壁に囲まれた狭い空間だけが、一時的に追跡者の視線を遮ってくれる気がした。壁に背中を預け、ずるずるとその場に座り込む。乱れたポニーテールからこぼれた髪が、汗で額に張り付いた。スクールバッグを胸に抱きしめる。その中に眠る、重く、冷たい鉄の塊。これが全ての元凶だ。しかし、皮肉なことに、今やこれが唯一の護身具でもあった。
震える手でバッグを開け、中を探る。指が、冷たい銃身に触れた。
その瞬間、不意に、別の記憶が閃光のように脳裏をよぎった。
あの雨の日、ゴミ捨て場でこの銃を見つけた時のこと。黒いビニール袋に、丁寧に包まれていた。そして、その包みの中には、銃だけではなかったはずだ。確か、もう一つ。何か、小さな紙片が。あの時は動転していて、気にも留めずにバッグの奥へと押し込んでしまった、一枚の名刺。

「……あった」

バッグの内ポケットの底で、それはくしゃくしゃになっていた。指先の感覚を頼りに、震える手でそれを取り出す。薄汚れた路地裏の、非常灯の頼りない明かりの下で、その白い長方形を広げた。シンプルで飾り気のないデザイン。そこには、一つの名前と、住所、そして電話番号だけが印刷されていた。
『城崎探偵事務所』城崎、という名前が記されている。

探偵。

その言葉が、暗闇の中で見つけた一筋の蜘蛛の糸のように思えた。
この銃の持ち主。なぜ、こんなものがゴミ捨て場にあったのかは分からない。しかし、この人は、少なくともこの銃の存在を知っているはずだ。警察ではない、法の外側にいるかもしれない人間。だからこそ、話せるかもしれない。自分の身に起きた、常軌を逸したこの出来事を。

もう、選択肢はなかった。澄香は最後の力を振り絞って立ち上がると、名刺に書かれた住所をスマートフォンの地図アプリに打ち込んだ。現在地から、電車で数駅の距離。彼女は再び人混みの中へと身を投じた。今度は、明確な目的地があった。
目的のビルは、大通りから一本入った、飲食店や雑居ビルがひしめく一角に、ひっそりと佇んでいた。古びたタイル張りの外壁。三階にあるその事務所へは、狭く薄暗い階段を上るしかなかった。一段、また一段と足を運ぶたびに、心臓が大きく脈打つ。本当にここでいいのか。もっと危険なことに巻き込まれるだけではないのか。不安が渦巻くが、もう引き返す道はなかった。階段の踊り場の窓から見える空は、既に夜の闇に染まっていた。『城崎探偵事務所』と書かれた、すりガラスの嵌まった木製のドアの前に立つ。澄香は数度、深く呼吸を繰り返した。そして、意を決して、冷たくなった指でドアノブを握り、ゆっくりと回した。

「……失礼します」

ドアを開けると、カラン、と来客を告げるベルの音が鳴った。
事務所の中は、外の喧騒が嘘のように静かだった。タバコの煙と、古い紙の匂いが混じり合った独特の空気が漂っている。整理されているとは言い難い、資料の山が積まれたスチールの事務机。
その奥で、一人の男が椅子に深く腰掛け、こちらを見ていた。どこか掴みどころのない、眠そうな目をしているが、その奥には剃刀のような鋭さが隠されているように見える。三十代半ばだろうか。着古したシャツの上に、よれたジャケットを羽織っている。

「何の用かな、お嬢さん。学校はもう終わった時間だろうけど、こんな場所は君みたいな子が来るところじゃない」

男――城崎が、気だるそうな声で言った。その視線は澄香の頭のてっぺんから爪先までを、値踏みするように、しかし瞬時に全てを見透かすかのように、一瞥した。城崎の言葉に、澄香が何かを答えるより早く、部屋の奥のパーテーションの向こうから、別の声が響いた。

「あら、お客様じゃない。珍しい。しかも、ずいぶん可愛いお客さんね」

ひょっこりと顔を出したのは、小柄な少女だった。
見た目は、どう見ても澄香より年下、小学生か、中学生になったばかりくらいにしか見えない。ツインテールにした髪が、動きに合わせて楽しそうに揺れている。しかし、その声と口調は、見た目にそぐわないほど落ち着き払い、大人びていた。

「ミサ、お前は黙ってろ」

城崎が少女を制したが、彼女は全く意に介していない様子で、興味深そうに澄香を見つめている。澄香は二人のやり取りを前に、完全に言葉を失っていた。この異質な空間と、異質な二人を前に、自分がここに足を踏み入れたことが正しかったのか、分からなくなっていた。

「それで、改めて聞くが、何の用だ?」

城崎が、吸っていたタバコを灰皿に押し付けながら、再び問いかける。その目が、もう逃がさないと告げていた。
澄香は唾を飲み込み、震える手でスクールバッグから、布に包んだそれを取り出した。そして、おそるおそる、机の上に置いた。布が解かれ、黒光りする拳銃が姿を現す。
事務所の蛍光灯の光を鈍く反射するそれを見て、今まで眠そうだった城崎の目が、カッと見開かれた。
彼の全身から放たれる空気が、一瞬で変わる。
隣で見ていたミサも、悪戯っぽい笑みを消し、静かにそれを見つめていた。

「これを、拾いました」

澄香は、絞り出すような声で言った。城崎は椅子から立ち上がることなく、ただじっと拳銃を見つめている。やがて、彼はゆっくりと顔を上げ、澄香の目を真っ直ぐに射抜いた。

「……どこでだ?」
「……なんで、それをあんたが持ってる」

彼の声には、それまでの気だるさは微塵もなかった。氷のように冷たく、鋭利な刃物のような響きが、澄香の鼓膜を直接切り裂く。それは単なる問いではなかった。答えを間違えれば、その場で命がないことを予感させる、絶対的な圧が込められていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

セクスカリバーをヌキました!

ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。 国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。 ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

憧れの先輩とイケナイ状況に!?

暗黒神ゼブラ
恋愛
今日私は憧れの先輩とご飯を食べに行くことになっちゃった!?

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

【魔法少女の性事情・1】恥ずかしがり屋の魔法少女16歳が肉欲に溺れる話

TEKKON
恋愛
きっとルンルンに怒られちゃうけど、頑張って大幹部を倒したんだもん。今日は変身したままHしても、良いよね?

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

処理中です...