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再来
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季節は過ぎた。ジャケットを着ていた制服も、夏服に変わった。
だが、澄香の心は変わっていなかった。いや、危機感、焦燥感は募るばかりだ。痴漢に刻まれた傷跡が、澄香の安寧を奪っていた。それは以前にもまして澄香と学校、澄香と両親の溝を深めていった。澄香は孤独だった。
「紫藤さん、大丈夫?顔色悪いよ」
隣の席の女子生徒が心配そうに声をかけてきた。しかし、澄香にはそれさえ他人の戯言に感じてしまっていた。
「ううん、大丈夫。ちょっと、寝不足なだけだから」
そう答える声が、自分のものではないように震えていた。彼女の親切が、今は鋭い棘のように感じられた。この人は知らない。自分が昨日、人を撃ったことなど。この人は、自分がもう、彼女たちと同じ世界に住んでいないことを知らないのだ。それがさらに澄香と日常の溝を深くする。
それでも日々は過ぎていく。
7月のある日、澄香は夏期講習の手続きを済ませる。明日から夏休みだ。痴漢に狙われていた、通勤電車ともしばらくお別れだ。その思いが、すみかの心を幾分か軽くした。
電車が滑り込んでくる。その轟音の中で、ふと、澄香は強烈な視線を感じた。
それは、獲物を見つけた肉食獣の、粘りつくような執拗な視線。中学の剣道場で向けられたものと同じ種類であり、そしてここ数週間、彼女の日常を地獄に変えたものと全く同じ種類のものだった。
恐る恐る、澄香は視線の先へと顔を向けた。
人波の向こう。対向車のホームに立つ人々の群れの中に、その男はいた。
男は、澄香を真っ直ぐに見つめていた。右の耳があった場所には分厚い包帯が巻かれ、その端が血で赤黒く滲んでいる。昨日までの、獲物を嬲るような愉悦の色は彼の目から消え失せていた。代わりにそこにあったのは、どす黒く燃え盛る、純粋な憎悪と殺意の炎だった。
時間が止まった。周囲の喧騒が嘘のように遠ざかり、世界には澄香とあの男だけが存在していた。男は何も言わない。ただ、じっと澄香を見つめている。その視線が、無言のうちに全てを物語っていた。
「見つけたぞ」
「次はない」
「お前を、殺す」
電車のドアが開く。人々が乗り降りする。しかし澄香はその場から一歩も動けなかった。男の唇の端が、ゆっくりと歪んだ。それは嘲笑でも、欲望の笑みでもない。これから始まる、長い、長い復讐の儀式を予告する、冷酷な笑みだった。
やがて、男が立っていた側の電車のドアが閉まり、ゆっくりと動き出す。男の姿は遠ざかっていくが、その憎悪に満ちた視線だけは、いつまでも澄香の網膜に焼き付いて離れなかった。
澄香は、ようやく止まっていた呼吸を再開した。浅く、速い呼吸を繰り返しながら、全身がわななくのを止められない。バッグの中で、冷たい鉄の塊が、まるで生き物のようにその重みを増した気がした。
これで終わりではなかったのだ。
いいや、これは、始まりに過ぎなかった。
澄香が乗るべきだった電車が、耳をつんざくような警笛を鳴らし、ホームを滑り出ていく。人々が乗り込んだ車両の窓は、無数の顔、無数の人生を映しながら、闇の中へと吸い込まれていった。しかし、澄香の目には何も映らない。網膜に焼き付いているのは、対向のホームでゆっくりと遠ざかっていった、あの男の姿だけだった。憎悪に燃える目、血の滲んだ包帯、そして復讐を宣告する冷酷な笑み。その映像が、彼女の脳内で何度も、何度も繰り返し再生される。
「……う」
喉の奥から、意味をなさない呻きが漏れた。全身から急速に血の気が引いていく。立っているのがやっとだった。指先は氷のように冷え、心臓だけが肋骨を内側から激しく打ちつけている。世界がぐにゃりと歪み、ホームのアナウンスも、人々のざわめきも、全てが水中にいるかのようにくぐもって聞こえた。
殺される。
あの男は、本気で自分を殺しに来る。それは理屈ではなく、本能が告げる絶対的な事実だった。痴漢行為という一方的な凌辱の関係は、あの銃声と共に終わりを告げた。そして今、始まったのは、死を賭けた狩りだった。狩られるのは、自分。
「逃げなきゃ」
誰に言うでもなく、唇が震えながらその言葉を形作った。衝動的に、澄香は踵を返した。改札へと向かう人の流れに逆らい、無我夢中で階段を駆け下りる。背後で誰かが舌打ちをする音も、ぶつかった人の謝罪を求める声も、耳には届かない。全てが脅威だった。すれ違う男たちの誰もが、あの男の仲間ではないかという妄想に取り憑かれる。黒い服を着た男、鋭い目つきの男、自分を一瞥しただけの男。その全てが、自分を追ってくる刺客に見えた。
改札を飛び出すと、駅前の喧騒が濁流のように彼女を飲み込んだ。ネオンの洪水が視界を白く焼き、車のクラクションと雑踏のノイズが鼓膜を突き刺す。
どこへ?どこへ行けばいい?家はだめだ。あの男は、学校も、おそらく帰り道も把握している。家を知られるのも時間の問題だろう。警察?何を言えばいい?痴漢されていました、でも抵抗して拳銃で撃ってしまいました、なんて。言えるはずがない。言った瞬間、自分は被害者から加害者へと立場を変えることになるのだ。
「はっ…はぁっ…」
肺が酸素を求めて喘ぐ。澄香は人混みをかき分け、ただひたすらに走り続けた。目的の場所などない。ただ、あの男の視線が届かない、どこか遠い場所へ行かなければならないという強迫観念だけが、彼女を突き動かしていた。
大通りから脇道へ、さらに薄暗い路地へと迷い込む。コンクリートの壁に囲まれた狭い空間だけが、一時的に追跡者の視線を遮ってくれる気がした。壁に背中を預け、ずるずるとその場に座り込む。乱れたポニーテールからこぼれた髪が、汗で額に張り付いた。スクールバッグを胸に抱きしめる。その中に眠る、重く、冷たい鉄の塊。これが全ての元凶だ。しかし、皮肉なことに、今やこれが唯一の護身具でもあった。
震える手でバッグを開け、中を探る。指が、冷たい銃身に触れた。
その瞬間、不意に、別の記憶が閃光のように脳裏をよぎった。
あの雨の日、ゴミ捨て場でこの銃を見つけた時のこと。黒いビニール袋に、丁寧に包まれていた。そして、その包みの中には、銃だけではなかったはずだ。確か、もう一つ。何か、小さな紙片が。あの時は動転していて、気にも留めずにバッグの奥へと押し込んでしまった、一枚の名刺。
「……あった」
バッグの内ポケットの底で、それはくしゃくしゃになっていた。指先の感覚を頼りに、震える手でそれを取り出す。薄汚れた路地裏の、非常灯の頼りない明かりの下で、その白い長方形を広げた。シンプルで飾り気のないデザイン。そこには、一つの名前と、住所、そして電話番号だけが印刷されていた。
『城崎探偵事務所』城崎、という名前が記されている。
探偵。
その言葉が、暗闇の中で見つけた一筋の蜘蛛の糸のように思えた。
この銃の持ち主。なぜ、こんなものがゴミ捨て場にあったのかは分からない。しかし、この人は、少なくともこの銃の存在を知っているはずだ。警察ではない、法の外側にいるかもしれない人間。だからこそ、話せるかもしれない。自分の身に起きた、常軌を逸したこの出来事を。
もう、選択肢はなかった。澄香は最後の力を振り絞って立ち上がると、名刺に書かれた住所をスマートフォンの地図アプリに打ち込んだ。現在地から、電車で数駅の距離。彼女は再び人混みの中へと身を投じた。今度は、明確な目的地があった。
目的のビルは、大通りから一本入った、飲食店や雑居ビルがひしめく一角に、ひっそりと佇んでいた。古びたタイル張りの外壁。三階にあるその事務所へは、狭く薄暗い階段を上るしかなかった。一段、また一段と足を運ぶたびに、心臓が大きく脈打つ。本当にここでいいのか。もっと危険なことに巻き込まれるだけではないのか。不安が渦巻くが、もう引き返す道はなかった。階段の踊り場の窓から見える空は、既に夜の闇に染まっていた。『城崎探偵事務所』と書かれた、すりガラスの嵌まった木製のドアの前に立つ。澄香は数度、深く呼吸を繰り返した。そして、意を決して、冷たくなった指でドアノブを握り、ゆっくりと回した。
「……失礼します」
ドアを開けると、カラン、と来客を告げるベルの音が鳴った。
事務所の中は、外の喧騒が嘘のように静かだった。タバコの煙と、古い紙の匂いが混じり合った独特の空気が漂っている。整理されているとは言い難い、資料の山が積まれたスチールの事務机。
その奥で、一人の男が椅子に深く腰掛け、こちらを見ていた。どこか掴みどころのない、眠そうな目をしているが、その奥には剃刀のような鋭さが隠されているように見える。三十代半ばだろうか。着古したシャツの上に、よれたジャケットを羽織っている。
「何の用かな、お嬢さん。学校はもう終わった時間だろうけど、こんな場所は君みたいな子が来るところじゃない」
男――城崎が、気だるそうな声で言った。その視線は澄香の頭のてっぺんから爪先までを、値踏みするように、しかし瞬時に全てを見透かすかのように、一瞥した。城崎の言葉に、澄香が何かを答えるより早く、部屋の奥のパーテーションの向こうから、別の声が響いた。
「あら、お客様じゃない。珍しい。しかも、ずいぶん可愛いお客さんね」
ひょっこりと顔を出したのは、小柄な少女だった。
見た目は、どう見ても澄香より年下、小学生か、中学生になったばかりくらいにしか見えない。ツインテールにした髪が、動きに合わせて楽しそうに揺れている。しかし、その声と口調は、見た目にそぐわないほど落ち着き払い、大人びていた。
「ミサ、お前は黙ってろ」
城崎が少女を制したが、彼女は全く意に介していない様子で、興味深そうに澄香を見つめている。澄香は二人のやり取りを前に、完全に言葉を失っていた。この異質な空間と、異質な二人を前に、自分がここに足を踏み入れたことが正しかったのか、分からなくなっていた。
「それで、改めて聞くが、何の用だ?」
城崎が、吸っていたタバコを灰皿に押し付けながら、再び問いかける。その目が、もう逃がさないと告げていた。
澄香は唾を飲み込み、震える手でスクールバッグから、布に包んだそれを取り出した。そして、おそるおそる、机の上に置いた。布が解かれ、黒光りする拳銃が姿を現す。
事務所の蛍光灯の光を鈍く反射するそれを見て、今まで眠そうだった城崎の目が、カッと見開かれた。
彼の全身から放たれる空気が、一瞬で変わる。
隣で見ていたミサも、悪戯っぽい笑みを消し、静かにそれを見つめていた。
「これを、拾いました」
澄香は、絞り出すような声で言った。城崎は椅子から立ち上がることなく、ただじっと拳銃を見つめている。やがて、彼はゆっくりと顔を上げ、澄香の目を真っ直ぐに射抜いた。
「……どこでだ?」
「……なんで、それをあんたが持ってる」
彼の声には、それまでの気だるさは微塵もなかった。氷のように冷たく、鋭利な刃物のような響きが、澄香の鼓膜を直接切り裂く。それは単なる問いではなかった。答えを間違えれば、その場で命がないことを予感させる、絶対的な圧が込められていた。
だが、澄香の心は変わっていなかった。いや、危機感、焦燥感は募るばかりだ。痴漢に刻まれた傷跡が、澄香の安寧を奪っていた。それは以前にもまして澄香と学校、澄香と両親の溝を深めていった。澄香は孤独だった。
「紫藤さん、大丈夫?顔色悪いよ」
隣の席の女子生徒が心配そうに声をかけてきた。しかし、澄香にはそれさえ他人の戯言に感じてしまっていた。
「ううん、大丈夫。ちょっと、寝不足なだけだから」
そう答える声が、自分のものではないように震えていた。彼女の親切が、今は鋭い棘のように感じられた。この人は知らない。自分が昨日、人を撃ったことなど。この人は、自分がもう、彼女たちと同じ世界に住んでいないことを知らないのだ。それがさらに澄香と日常の溝を深くする。
それでも日々は過ぎていく。
7月のある日、澄香は夏期講習の手続きを済ませる。明日から夏休みだ。痴漢に狙われていた、通勤電車ともしばらくお別れだ。その思いが、すみかの心を幾分か軽くした。
電車が滑り込んでくる。その轟音の中で、ふと、澄香は強烈な視線を感じた。
それは、獲物を見つけた肉食獣の、粘りつくような執拗な視線。中学の剣道場で向けられたものと同じ種類であり、そしてここ数週間、彼女の日常を地獄に変えたものと全く同じ種類のものだった。
恐る恐る、澄香は視線の先へと顔を向けた。
人波の向こう。対向車のホームに立つ人々の群れの中に、その男はいた。
男は、澄香を真っ直ぐに見つめていた。右の耳があった場所には分厚い包帯が巻かれ、その端が血で赤黒く滲んでいる。昨日までの、獲物を嬲るような愉悦の色は彼の目から消え失せていた。代わりにそこにあったのは、どす黒く燃え盛る、純粋な憎悪と殺意の炎だった。
時間が止まった。周囲の喧騒が嘘のように遠ざかり、世界には澄香とあの男だけが存在していた。男は何も言わない。ただ、じっと澄香を見つめている。その視線が、無言のうちに全てを物語っていた。
「見つけたぞ」
「次はない」
「お前を、殺す」
電車のドアが開く。人々が乗り降りする。しかし澄香はその場から一歩も動けなかった。男の唇の端が、ゆっくりと歪んだ。それは嘲笑でも、欲望の笑みでもない。これから始まる、長い、長い復讐の儀式を予告する、冷酷な笑みだった。
やがて、男が立っていた側の電車のドアが閉まり、ゆっくりと動き出す。男の姿は遠ざかっていくが、その憎悪に満ちた視線だけは、いつまでも澄香の網膜に焼き付いて離れなかった。
澄香は、ようやく止まっていた呼吸を再開した。浅く、速い呼吸を繰り返しながら、全身がわななくのを止められない。バッグの中で、冷たい鉄の塊が、まるで生き物のようにその重みを増した気がした。
これで終わりではなかったのだ。
いいや、これは、始まりに過ぎなかった。
澄香が乗るべきだった電車が、耳をつんざくような警笛を鳴らし、ホームを滑り出ていく。人々が乗り込んだ車両の窓は、無数の顔、無数の人生を映しながら、闇の中へと吸い込まれていった。しかし、澄香の目には何も映らない。網膜に焼き付いているのは、対向のホームでゆっくりと遠ざかっていった、あの男の姿だけだった。憎悪に燃える目、血の滲んだ包帯、そして復讐を宣告する冷酷な笑み。その映像が、彼女の脳内で何度も、何度も繰り返し再生される。
「……う」
喉の奥から、意味をなさない呻きが漏れた。全身から急速に血の気が引いていく。立っているのがやっとだった。指先は氷のように冷え、心臓だけが肋骨を内側から激しく打ちつけている。世界がぐにゃりと歪み、ホームのアナウンスも、人々のざわめきも、全てが水中にいるかのようにくぐもって聞こえた。
殺される。
あの男は、本気で自分を殺しに来る。それは理屈ではなく、本能が告げる絶対的な事実だった。痴漢行為という一方的な凌辱の関係は、あの銃声と共に終わりを告げた。そして今、始まったのは、死を賭けた狩りだった。狩られるのは、自分。
「逃げなきゃ」
誰に言うでもなく、唇が震えながらその言葉を形作った。衝動的に、澄香は踵を返した。改札へと向かう人の流れに逆らい、無我夢中で階段を駆け下りる。背後で誰かが舌打ちをする音も、ぶつかった人の謝罪を求める声も、耳には届かない。全てが脅威だった。すれ違う男たちの誰もが、あの男の仲間ではないかという妄想に取り憑かれる。黒い服を着た男、鋭い目つきの男、自分を一瞥しただけの男。その全てが、自分を追ってくる刺客に見えた。
改札を飛び出すと、駅前の喧騒が濁流のように彼女を飲み込んだ。ネオンの洪水が視界を白く焼き、車のクラクションと雑踏のノイズが鼓膜を突き刺す。
どこへ?どこへ行けばいい?家はだめだ。あの男は、学校も、おそらく帰り道も把握している。家を知られるのも時間の問題だろう。警察?何を言えばいい?痴漢されていました、でも抵抗して拳銃で撃ってしまいました、なんて。言えるはずがない。言った瞬間、自分は被害者から加害者へと立場を変えることになるのだ。
「はっ…はぁっ…」
肺が酸素を求めて喘ぐ。澄香は人混みをかき分け、ただひたすらに走り続けた。目的の場所などない。ただ、あの男の視線が届かない、どこか遠い場所へ行かなければならないという強迫観念だけが、彼女を突き動かしていた。
大通りから脇道へ、さらに薄暗い路地へと迷い込む。コンクリートの壁に囲まれた狭い空間だけが、一時的に追跡者の視線を遮ってくれる気がした。壁に背中を預け、ずるずるとその場に座り込む。乱れたポニーテールからこぼれた髪が、汗で額に張り付いた。スクールバッグを胸に抱きしめる。その中に眠る、重く、冷たい鉄の塊。これが全ての元凶だ。しかし、皮肉なことに、今やこれが唯一の護身具でもあった。
震える手でバッグを開け、中を探る。指が、冷たい銃身に触れた。
その瞬間、不意に、別の記憶が閃光のように脳裏をよぎった。
あの雨の日、ゴミ捨て場でこの銃を見つけた時のこと。黒いビニール袋に、丁寧に包まれていた。そして、その包みの中には、銃だけではなかったはずだ。確か、もう一つ。何か、小さな紙片が。あの時は動転していて、気にも留めずにバッグの奥へと押し込んでしまった、一枚の名刺。
「……あった」
バッグの内ポケットの底で、それはくしゃくしゃになっていた。指先の感覚を頼りに、震える手でそれを取り出す。薄汚れた路地裏の、非常灯の頼りない明かりの下で、その白い長方形を広げた。シンプルで飾り気のないデザイン。そこには、一つの名前と、住所、そして電話番号だけが印刷されていた。
『城崎探偵事務所』城崎、という名前が記されている。
探偵。
その言葉が、暗闇の中で見つけた一筋の蜘蛛の糸のように思えた。
この銃の持ち主。なぜ、こんなものがゴミ捨て場にあったのかは分からない。しかし、この人は、少なくともこの銃の存在を知っているはずだ。警察ではない、法の外側にいるかもしれない人間。だからこそ、話せるかもしれない。自分の身に起きた、常軌を逸したこの出来事を。
もう、選択肢はなかった。澄香は最後の力を振り絞って立ち上がると、名刺に書かれた住所をスマートフォンの地図アプリに打ち込んだ。現在地から、電車で数駅の距離。彼女は再び人混みの中へと身を投じた。今度は、明確な目的地があった。
目的のビルは、大通りから一本入った、飲食店や雑居ビルがひしめく一角に、ひっそりと佇んでいた。古びたタイル張りの外壁。三階にあるその事務所へは、狭く薄暗い階段を上るしかなかった。一段、また一段と足を運ぶたびに、心臓が大きく脈打つ。本当にここでいいのか。もっと危険なことに巻き込まれるだけではないのか。不安が渦巻くが、もう引き返す道はなかった。階段の踊り場の窓から見える空は、既に夜の闇に染まっていた。『城崎探偵事務所』と書かれた、すりガラスの嵌まった木製のドアの前に立つ。澄香は数度、深く呼吸を繰り返した。そして、意を決して、冷たくなった指でドアノブを握り、ゆっくりと回した。
「……失礼します」
ドアを開けると、カラン、と来客を告げるベルの音が鳴った。
事務所の中は、外の喧騒が嘘のように静かだった。タバコの煙と、古い紙の匂いが混じり合った独特の空気が漂っている。整理されているとは言い難い、資料の山が積まれたスチールの事務机。
その奥で、一人の男が椅子に深く腰掛け、こちらを見ていた。どこか掴みどころのない、眠そうな目をしているが、その奥には剃刀のような鋭さが隠されているように見える。三十代半ばだろうか。着古したシャツの上に、よれたジャケットを羽織っている。
「何の用かな、お嬢さん。学校はもう終わった時間だろうけど、こんな場所は君みたいな子が来るところじゃない」
男――城崎が、気だるそうな声で言った。その視線は澄香の頭のてっぺんから爪先までを、値踏みするように、しかし瞬時に全てを見透かすかのように、一瞥した。城崎の言葉に、澄香が何かを答えるより早く、部屋の奥のパーテーションの向こうから、別の声が響いた。
「あら、お客様じゃない。珍しい。しかも、ずいぶん可愛いお客さんね」
ひょっこりと顔を出したのは、小柄な少女だった。
見た目は、どう見ても澄香より年下、小学生か、中学生になったばかりくらいにしか見えない。ツインテールにした髪が、動きに合わせて楽しそうに揺れている。しかし、その声と口調は、見た目にそぐわないほど落ち着き払い、大人びていた。
「ミサ、お前は黙ってろ」
城崎が少女を制したが、彼女は全く意に介していない様子で、興味深そうに澄香を見つめている。澄香は二人のやり取りを前に、完全に言葉を失っていた。この異質な空間と、異質な二人を前に、自分がここに足を踏み入れたことが正しかったのか、分からなくなっていた。
「それで、改めて聞くが、何の用だ?」
城崎が、吸っていたタバコを灰皿に押し付けながら、再び問いかける。その目が、もう逃がさないと告げていた。
澄香は唾を飲み込み、震える手でスクールバッグから、布に包んだそれを取り出した。そして、おそるおそる、机の上に置いた。布が解かれ、黒光りする拳銃が姿を現す。
事務所の蛍光灯の光を鈍く反射するそれを見て、今まで眠そうだった城崎の目が、カッと見開かれた。
彼の全身から放たれる空気が、一瞬で変わる。
隣で見ていたミサも、悪戯っぽい笑みを消し、静かにそれを見つめていた。
「これを、拾いました」
澄香は、絞り出すような声で言った。城崎は椅子から立ち上がることなく、ただじっと拳銃を見つめている。やがて、彼はゆっくりと顔を上げ、澄香の目を真っ直ぐに射抜いた。
「……どこでだ?」
「……なんで、それをあんたが持ってる」
彼の声には、それまでの気だるさは微塵もなかった。氷のように冷たく、鋭利な刃物のような響きが、澄香の鼓膜を直接切り裂く。それは単なる問いではなかった。答えを間違えれば、その場で命がないことを予感させる、絶対的な圧が込められていた。
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