死ねない死者は夜に生きる

霜月透子

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咲は仲直りを試みる

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 またしても物思いにふけっていたら、知らず知らずに磯の岩場を歩いていた。月には薄雲がかかり、闇の濃い夜だ。車道を照らす街灯や流れる車のヘッドライトの明かりが、防風林越しに漏れてくる。そのおかげで磯は完全な闇ではないものの、音ばかりで見ることの叶わない波が、今にも咲を飲み込むのではないかという錯覚に陥る。

 夜の海はどこか粗暴な感じがする。闇に取り込まれそうな。波音は深く大きく響き、潮の香りも強い。日が沈むと湿度や気温などによって起こる変化なのか、日中と比べると視覚が制限されるからそう感じるだけなのか、咲には判断がつかない。
 夜の波音は海の咆哮のようだ。飲み込まれそうな恐ろしさがある。恐怖なのか寒さなのか、肌の表面が縮み上がる。咲は自らを抱き締めるようにして腕をさすった。

 戻ろう。颯のもとへ。

 不安定な足元を照らすためにスマートフォンをバッグから取り出した。
 風が吹く。髪が頬にかかり、反射的に掻き上げた。その拍子にスマートフォンが手から滑り落ちる。
 ひやりと冷たいものが胸の奥を掬ったが、幸い海には落下せず、岩の上で拾われるのを待っていた。安堵して腰をかがめる。

 指先がスマートフォンに触れようかという時、また風が吹いた。うつむいた顔に髪がまとわりつく。髪は頬を叩き、唇に挟まり、目元を覆った。刹那、視界を奪われ、咲の体は均衡を崩す。体勢を立て直そうとした拍子に右足首を捻り、痛みに耐えきれず再び体が傾く。
 次の瞬間には粗い岩肌に体が打ち付けられた。うっと短く呻いたあとは、歯を食いしばって息をとめた。そうでもしないと痛みに耐えられなかった。いくつもの硬く鋭い凹凸が強く当たり、全身の痛みに感情が支配されていた。
 痛みは治まらないが、多少なりとも慣れてきて、ようやく自分の状態について考えを巡らせることができた。派手に転倒したが医者にかかるほどではなさそうだ。とはいえ、お転婆な幼い子でもあるまいし、三十五の大人の女性としては怪我の痛みより羞恥心の方が勝る。人目の多い昼間でなくてよかった、などと考える。さらには、明日の映画には行けないな、いや、なんとか傷を隠せばいいか、いやいや、見た目を誤魔化せても痛みはあるしな、などと考えつつ体を起こす。

 とりあえず、颯に迎えに来てもらおう。痛みのせいでほかのことの重要度が下がっているのが、我ながら少しおかしかった。感情的になったことを謝って、この状況を説明すれば、颯は心配して飛んできてくれるに違いない。私がちょっと靴擦れができた程度でもひどく心配してくれるのだから。

 あれは初めてのデートだった。美術館の展示を見終わって、ミュージアムショップに寄った時のことだ。おろしたての靴だったせいで踵が靴擦れをしてしまったのは気づいていたが、言い出せずに痛みをこらえていたのだった。けれど颯に気付かれてしまった。私の靴の縁から血がにじんでいたらしい。

「咲、血が出てるよ!」
「ああ、靴擦れしちゃって」
「もう、なんで早く言わないの! 痛い? 痛いよね? 救護室とかあるのかな?」
「そんな大袈裟な。あとで絆創膏を貼るよ」
「いや、でも痛そうだよ。あ、そうだ、どこかベンチのあるところまでおんぶしようか」

 店員やほかの客にもくすくす笑われ、靴擦れの痛みよりもそちらの恥ずかしさから慌てて店を出たっけ。

 咲は、いたた、と呟きながら、岩の上に投げ出されたスマートフォンに手を伸ばした。が、取り損ね、指先に弾かれたスマートフォンは海に向かって滑っていく。
 間に合うはずはないのに、とっさに体が動いていた。伸ばした右手は空を掴み、傷ついた体の痛みもあって両膝と左手は全身を支えられなかった。

 頭から海に落ちる。落ちる瞬間、まずいと焦ると同時に、頭部って本当に重いんだなとどうでもいいことが浮かんだりもした。けれどもすぐに水の冷たさに感覚のすべてが集中した。次に感じたのは、傷口にひどくしみる海水の塩分だった。同時に様々な刺激にさらされ、咲の頭の中は痛みの恐怖で満たされた。

 だが、息が苦しくなり始めると、ほかのことはどうでもよくなった。
 揺れる水に方向感覚が失われた。上も下もわからないまま、無我夢中で手足を動かす。
 苦しい。水中に空気などあるわけもないのに、息継ぎを求めて口を開いた。

 かつて一度も感じたことのない恐怖を吸い込み、咲の心を満たす。それは、もう二度と颯に会えないという恐怖だった。

 咲は黒い海に沈む。そして、闇に吸い込まれていった。
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