死ねない死者は夜に生きる

霜月透子

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サキは水底から浮上する

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 浮上していく。全身が脱力したまま浮上していく。

 どういうわけだか、どれほど「動け」と念じても指一本どころか瞼さえ微動だにしない。力の入れ方を忘れたのか、拘束されて動きを封じられているのかもしれない。それとも、繭か卵膜に包まれているのかも。きっとそうだ。安心感がある。動きを制限されているのに、守られているかのようだ。

 頭上から吸い上げられるような感覚があり、浮上しているのだとわかる。空気の詰まったボールか風船のように浮力を得た頭部が、水面を目指している。
 耳元を過ぎていく水がぷるぷる鳴る。
 瞼は閉じたままだが、薄い肉と皮の向こうが透けて見える。
 波打ち揺らめく天井は、水中と水上の境界だ。海中は暗く、死の世界を思わせた。

 この世界を抜け出さなければ。あの境界を越えなければ。帰るんだ。
 どこへ? 待っているに違いないんだから。
 誰が? わからない。

 求めるイメージは浮かぶのに焦点が合わなくてもどかしい。それはまるで、風に舞う綿毛だった。すぐ目の前にある綿毛に手を伸ばしても、指先が巻き起こすささやかな風に煽られて、触れるどころか遠のいていく様に似ていた。

 近くにあるのに届かない記憶。とても大切なものだという感情だけははっきりしているにもかかわらず、それがなんなのかわからない。
 わからないけど、ともかくここにいてはいけない。このままでは終わってしまう。
 だから私は浮上する。

 あと少し。あと少し。

 強く願うと、卵膜に亀裂が入った。と思った瞬間には、ぱっと裂け目が広がり、卵膜は花開くように弾け、体が自由になった。
 急いで頭上に手を伸ばし、大きく水をかく。境界の膜を破る。頭部が境界を越える。顔が出る。大きく口を開けて息を吸い込み、目を開けた。
 助かった! そう思った。

 しかし、視界に飛び込んできたのは思い描いていた風景ではなかった。
 まず目に入ったのは、薄暗い部屋の見慣れない天井だった。ベッドに横たわっているらしい。水だと思っていたのは掛布団で、頭まで潜り込んで寝ていたのだろう。手で掻いたのも水ではなく掛布団だったというわけだ。そこから顔を出したのを水面に上がったと勘違いしたようだ。

 夢を見ていたのか? いや、どちらかといえば、この状況の方が夢と呼ぶのにふさわしい。だが、夢にしては輪郭が鮮やかだ。

 頭蓋の中で粉々に砕け散っている細胞をかき集め、パズルのピースをつなぎ合わせる要領で思考を組み立てていく。今はまだ、居眠りをしてはっと目覚めた時の寝ぼけた思考に似ている。実際に眠っていたのだから当然なのかもしれない。

 上体を起こす。つるりとしたベッドカバーに触れるとひんやりした。落ち着いた色合いの花の柄が散りばめられている上品なデザインだ。部屋そのものもアールヌーボー風の優雅で重厚なインテリアになっている。窓には艶のある織の厚手のカーテンがかけられていて、室内は薄暗い。ただカーテンの裾から光が漏れているから日中なのだろう。見慣れた部屋とは言い難いが、初めて見る部屋ではない。

 徐々に記憶が整ってくる。頭の中で、パズルのピースが磁石に引き付けられるように次々と飛んできて、ぱちりぱちりとはまっていく。絵が現れる。

 そうだ、私は海に落ちたのだ。

 享年三十五。
 そんな言葉がふいに頭をよぎった。誕生日が命日になったから、ぴったり三十五年だ。そんな補足までつく。
 そこからは早かった。瞬く間に記憶のピースが繋がっていき、状況を把握した。
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