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颯は前に進めない
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♤
このままクビになるのかもな。颯は痺れたように動きの鈍い頭でそんなことを考えた。
不思議なもので、長年身に沁みた日常は感情を置き去りにしてもそれなりにこなせるものだ。朝起きて、電車に乗り、会社に行き、仕事をし、電車に乗り、帰宅する。食事もとるし、風呂にだって入る。職場で陽気に話しかけられれば笑みだって軽口だって返すことができる。
だが、ふとした瞬間、全身の細胞の連なりが一斉に切断されてしまうかのような衝撃に襲われることがある。それは、咲だったらこう言うだろうと思ってしまった瞬間だったり、咲と同じシャンプーの匂いが鼻先をかすめた瞬間だったり。
咲と何度も歩いた駅からマンションまでの道。咲が撫でたことのある野良猫。咲とつないだ左手。なにもかもが、何の前触れもなく咲を甦らせた。そしてそれは日を重ねるほどに増していくのだった。
初めのうちはそつなくこなせていた日常も、次第に齟齬が出てきた。仕事では細かいながらもミスが続き、遅刻が増え、しまいには社外打ち合わせを失念した。その日のうちに、上司からしばらく休めと言われた。颯に反論する気力はなかった。
咲の気配が満ちている部屋の中で、颯は終日微睡む。眠りの中なのか目覚めているのか判然としない曖昧な時の流れに身を任せる。そうして過ごすうちに、思考することを手放す術を会得した。その世界はとても穏やかで、静かだった。ただ、時おりふいに以前の颯がどこからともなく立ち現われて、心が強く咲を求めることがあった。そんな時は逆らわずに滂沱の涙にくれた。
バリーン!
派手な音で目を覚ました時、颯は床の上で横向きに丸まっていた。
緩みきった頭をどうにか巡らせて、今の音はガラスの割れた音ではないかと思い至る。
冷たい夜風が吹き込んでいる。
部屋の中央に設置されたローテーブルに手をつき、上体を起こす。ベランダのガラスが大きく割れていて、月明かりを背に人が立っていた。
……え?
寝起きの緩慢さとは異なる、処理能力の破綻を感じた。
侵入者への警戒心と、五階のベランダに到達した身体能力への畏怖がない交ぜになって、颯は理解することを手放した。
人影がひと飛びにローテーブルを越えてきた。獣のように四つ這いに圧し掛かられて、颯は仰向けに倒れた。「それ」は、颯の腹上に片膝を乗せ、胸には両腕をついた。
目をやるまでもなく、細い指先を感じる。その指の感触に甦った思いをすぐさま否定する。今はそれどころではない。完全に抑え込まれた。
颯がもがいても、細い腕はびくともせず、華奢な体はさらに低く覆い被さってきた。
バサリと髪の束が落ち、颯の顔にかかった。一度は否定した思いが再度甦る。
颯の肩に「それ」が齧りついてきた。
「うおっ!」
容赦ない咬合力に呻き声が漏れた。「それ」は頭部を振って、颯の肩の肉を噛み切ろうとしているようだった。
「うああああーっ! やめろーっ!」
必死に体を捩じっていると、「それ」は肩から口を離した。颯が安堵の息をつくよりも早く、「それ」の口は颯の首筋へと移動した。
「ぐわああああっ!」
痛みという感覚すら認知できない強い衝撃が全身を貫く。
肉がえぐられたのがわかった。引きちぎられた。噛み切られた。齧り取られた。
なにが起きたのかを理解した瞬間、もっとも強く自覚した感情は恐怖だった。
ボタリと眉間に液体が落ちてきた。鼻の脇を流れ、口角を掠めて耳の中へと流れていく。唇から口腔内に入り込んだ液体はチリリと舌先を刺激し、血の味であることを脳へ伝えた。
グッチャ。グッチャ……。
唇を閉じないままの咀嚼音が暗闇に響く。
肉を、食ってやがる……俺の肉を……。
ゴ、クッ。
再び「それ」の頭部が迫ってきた。颯は唇を引き結び、息を詰めた。
いざ噛みつこうというその時、颯は満身の力で首を上げた。傷口の痛みよりも頭突きの衝突部の方が痛かった。
不意打ちを食らった「それ」は、颯の上から転げ落ちた。獣のような四つ這いの姿勢で呼吸を整えているかに見える。
颯は素早くいざって距離を取り、壁に背を付けた。「それ」が緩慢な動作で顔を上げ、ジリジリと颯に迫りくる。「それ」の輪郭が月明かりに縁どられている。
またしても颯の脳裏に甦る。まだ新しい記憶を呼び覚ます。「それ」は髪を掻き上げる。見慣れたしぐさだった。「それ」の顔が顕わになる。
颯の顔が苦しげに歪んだ。
「咲……」
「それ」は静止する。目に光が宿る。血塗られた唇がぎこちなく蠢く。
「ソ……ウ……?」
「咲。咲なんだろう?」
首からダラダラと血を垂れ流しながら、颯は咲に手を伸ばす。
咲は颯の傷口をじっと見つめ、それから自らの口元を両手で拭った。手のひらを椀の形に構え、あっ、あっ、と声の粒を吐き出していく。
「咲――」
颯の手が咲によく似た「それ」の髪に触れようとした瞬間、彼女は絶叫と共に大きく飛び退いた。
そしてそのままベランダへ飛び出し、手すりに飛び乗ると夜の闇にダイブした。
「待てよ……咲……」
颯はその場にくずおれた。
最期に目に映ったのは、ガラスの失われた窓の外に煌々と浮かぶ大きな満月だった。
このままクビになるのかもな。颯は痺れたように動きの鈍い頭でそんなことを考えた。
不思議なもので、長年身に沁みた日常は感情を置き去りにしてもそれなりにこなせるものだ。朝起きて、電車に乗り、会社に行き、仕事をし、電車に乗り、帰宅する。食事もとるし、風呂にだって入る。職場で陽気に話しかけられれば笑みだって軽口だって返すことができる。
だが、ふとした瞬間、全身の細胞の連なりが一斉に切断されてしまうかのような衝撃に襲われることがある。それは、咲だったらこう言うだろうと思ってしまった瞬間だったり、咲と同じシャンプーの匂いが鼻先をかすめた瞬間だったり。
咲と何度も歩いた駅からマンションまでの道。咲が撫でたことのある野良猫。咲とつないだ左手。なにもかもが、何の前触れもなく咲を甦らせた。そしてそれは日を重ねるほどに増していくのだった。
初めのうちはそつなくこなせていた日常も、次第に齟齬が出てきた。仕事では細かいながらもミスが続き、遅刻が増え、しまいには社外打ち合わせを失念した。その日のうちに、上司からしばらく休めと言われた。颯に反論する気力はなかった。
咲の気配が満ちている部屋の中で、颯は終日微睡む。眠りの中なのか目覚めているのか判然としない曖昧な時の流れに身を任せる。そうして過ごすうちに、思考することを手放す術を会得した。その世界はとても穏やかで、静かだった。ただ、時おりふいに以前の颯がどこからともなく立ち現われて、心が強く咲を求めることがあった。そんな時は逆らわずに滂沱の涙にくれた。
バリーン!
派手な音で目を覚ました時、颯は床の上で横向きに丸まっていた。
緩みきった頭をどうにか巡らせて、今の音はガラスの割れた音ではないかと思い至る。
冷たい夜風が吹き込んでいる。
部屋の中央に設置されたローテーブルに手をつき、上体を起こす。ベランダのガラスが大きく割れていて、月明かりを背に人が立っていた。
……え?
寝起きの緩慢さとは異なる、処理能力の破綻を感じた。
侵入者への警戒心と、五階のベランダに到達した身体能力への畏怖がない交ぜになって、颯は理解することを手放した。
人影がひと飛びにローテーブルを越えてきた。獣のように四つ這いに圧し掛かられて、颯は仰向けに倒れた。「それ」は、颯の腹上に片膝を乗せ、胸には両腕をついた。
目をやるまでもなく、細い指先を感じる。その指の感触に甦った思いをすぐさま否定する。今はそれどころではない。完全に抑え込まれた。
颯がもがいても、細い腕はびくともせず、華奢な体はさらに低く覆い被さってきた。
バサリと髪の束が落ち、颯の顔にかかった。一度は否定した思いが再度甦る。
颯の肩に「それ」が齧りついてきた。
「うおっ!」
容赦ない咬合力に呻き声が漏れた。「それ」は頭部を振って、颯の肩の肉を噛み切ろうとしているようだった。
「うああああーっ! やめろーっ!」
必死に体を捩じっていると、「それ」は肩から口を離した。颯が安堵の息をつくよりも早く、「それ」の口は颯の首筋へと移動した。
「ぐわああああっ!」
痛みという感覚すら認知できない強い衝撃が全身を貫く。
肉がえぐられたのがわかった。引きちぎられた。噛み切られた。齧り取られた。
なにが起きたのかを理解した瞬間、もっとも強く自覚した感情は恐怖だった。
ボタリと眉間に液体が落ちてきた。鼻の脇を流れ、口角を掠めて耳の中へと流れていく。唇から口腔内に入り込んだ液体はチリリと舌先を刺激し、血の味であることを脳へ伝えた。
グッチャ。グッチャ……。
唇を閉じないままの咀嚼音が暗闇に響く。
肉を、食ってやがる……俺の肉を……。
ゴ、クッ。
再び「それ」の頭部が迫ってきた。颯は唇を引き結び、息を詰めた。
いざ噛みつこうというその時、颯は満身の力で首を上げた。傷口の痛みよりも頭突きの衝突部の方が痛かった。
不意打ちを食らった「それ」は、颯の上から転げ落ちた。獣のような四つ這いの姿勢で呼吸を整えているかに見える。
颯は素早くいざって距離を取り、壁に背を付けた。「それ」が緩慢な動作で顔を上げ、ジリジリと颯に迫りくる。「それ」の輪郭が月明かりに縁どられている。
またしても颯の脳裏に甦る。まだ新しい記憶を呼び覚ます。「それ」は髪を掻き上げる。見慣れたしぐさだった。「それ」の顔が顕わになる。
颯の顔が苦しげに歪んだ。
「咲……」
「それ」は静止する。目に光が宿る。血塗られた唇がぎこちなく蠢く。
「ソ……ウ……?」
「咲。咲なんだろう?」
首からダラダラと血を垂れ流しながら、颯は咲に手を伸ばす。
咲は颯の傷口をじっと見つめ、それから自らの口元を両手で拭った。手のひらを椀の形に構え、あっ、あっ、と声の粒を吐き出していく。
「咲――」
颯の手が咲によく似た「それ」の髪に触れようとした瞬間、彼女は絶叫と共に大きく飛び退いた。
そしてそのままベランダへ飛び出し、手すりに飛び乗ると夜の闇にダイブした。
「待てよ……咲……」
颯はその場にくずおれた。
最期に目に映ったのは、ガラスの失われた窓の外に煌々と浮かぶ大きな満月だった。
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