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第五章 彼の想い
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第11話【怒りの理由】
重く装飾された扉が閉まり、令嬢の馬車が遠ざかる音が聞こえなくなった頃。
応接室に、ようやく安堵の空気が戻る。
「……はぁ、疲れた」
フィリップは椅子にもたれ、額に手をあてた。紅茶はすっかり冷めている。
「先ほどは出過ぎた真似をして申し訳ございませんでした」
「え?ああ、さっきの噛みつくとか言ってたやつか……別に気にしてないよ」
フィリップはまるで番犬のようだった我が執事を思い出して笑みを溢した。
「どうしたんです?」
「ううん、何でもないよ」
とは言うもののクスクスと鼻を鳴らすフィリップ。
ノアはそれ以上は何も聞かず、淡々と食器を片づけ始めた。
フィリップはそんな彼をじぃっと見上げる。いつも通りの無表情の奥に、何かが見えるような気がしてならなかった。
「……さっきちょっとだけ怖かったよ、キミ」
「坊っちゃんを守るのも、私の務めですので」
「うん……でも、あんなふうに睨まなくてもよかったんじゃない?」
「睨んだ覚えはありませんが……もしも彼女が、坊っちゃんの大切な温室に足を踏み入れようものなら遠慮なく叩き出すところでした」
「温室?」
「ええ」
「怒ってた理由ってそれなの……?ははっ、面白いね、ノア。君の怒りの沸点が分からないよ」
フィリップは肩をすくめて笑った。
「あ……バイオリン、練習しないといけないんだった」
「ご用意は整えてあります。音合わせもお手伝いしましょうか」
「ううん、大丈夫。ノアは自分の仕事をして」
「かしこまりました」
そして、穏やかな日常が静かに戻ってくる。
まるで何事もなかったかのように、それぞれの役目を果たす二人の間には、今日も変わらぬ空気が流れていた。
第12話【夜会の花】
古い石造りの大広間に、燭台の炎がゆらめく。
アルセイン家の当主代行として、フィリップは今宵、ロンドンから訪れた伯爵夫人主催の晩餐会に出席していた。
「坊っちゃん、お支度を」
ノアが持ってきたのは、濃紺の正装用の燕尾服。金のカフリンクスに、家紋入りのブローチ。
「……こんな格好、まだ慣れないよ」
「けれど、本日はアルセイン家の名を背負っての夜会です。お気をつけて」
ノアは手袋越しにフィリップの袖を整え、胸元のブローチを軽く指先で整えた。
その仕草にフィリップの心臓が少し跳ねる。
「……ノアも緊張してる?」
「坊っちゃんほどでは。ですが、何かあればすぐそばにおりますので、ご安心を」
「ありがとう」
*
晩餐会には十数名の貴族子息たちと、その家族が顔をそろえていた。
フィリップは幾度か形式ばった挨拶を交わしながら、目の前の銀のフォークに集中しようと努めていた。
「まぁ、あなたがアルセイン家の坊ちゃま?噂よりずっと可愛らしいわね」
声をかけてきたのは、伯爵夫人の姪という美しい金髪の令嬢。スカーレット・フォークナー。彼女は涼やかに微笑んで、フィリップに手を差し出した。
「フィリップ・アルセインです。ご招待ありがとうございます」
練習通りに完璧な挨拶をするフィリップ。けれど令嬢の指が自分の手に絡んだ瞬間、フィリップは一瞬だけビクッと肩を震わせた。
「……あら、可愛い」
くすくすと笑う声に、フィリップは慌てて手を引っ込めた
その様子を、会場の隅で控える執事たちの中から、ひとりの男が無表情のまま見つめていた。──ノア・グレイス。その瞳の奥は嫉妬の炎で揺れていた。
*
夜会が終わり、馬車の中で二人きりになったとき。
「彼女……伯爵夫人の姪という女性の事ですが」
「うん?ああ、あの人ね……」
フィリップは思い出して触れられた自分の手を擦る。
「坊っちゃんにご興味があるようでした」
「そう?少し揶揄われただけだよ、悔しいけどね」
そう言うと、フィリップは何も言わないノアを不思議がって見つめた。
「……もしかして怒ってる?」
その問いにノアは「いいえ」と即答して続けた。
「ただあまりに軽々しく手を取られるのも、問題かと思いましたので」
「問題?何が、どう問題なの?」
フィリップは少し意地悪をしたくなってわざと尋ねた。案の定、ノアは少しの間口を閉ざし、そうして絞り出した答えが……
「失礼しました、今の言葉は忘れてください」
だった。
馬車の中に沈黙がやってくる。
フィリップはそれ以上問い詰めようとはしなかった。ノアの葛藤が伝わってきたからだ。
「意地悪してごめん」
「…………」
「ノア、僕は君をただの執事だなんて思ってないよ」
ノアはその言葉に答えなかった。
夜道を走る馬車。淡い明かりを灯した小さな空間は、静けさの中に二人の想いが交差する。
しばらくしてノアがそっと口を開いた。
「坊っちゃん」
「うん?」
「……ありがとうございます。先ほどのお言葉だけで、私は十分です」
それは穏やかで、けれどどこか切なさを滲ませた声だった。
フィリップはその顔をじっと見つめ、それから問いかける。
「いつか、ただの執事じゃなくなる日がくるのかな」
ノアはこれにもすぐには答えなかった。けれどほんの少しだけ、唇の端が揺れたように見えた。
「その日が来ることを、願ってもよろしいでしょうか」
馬車が屋敷の門をくぐり、やがて止まる。敷地に降りたフィリップは振り返って笑った。
「いいに決まってるじゃないか」
重く装飾された扉が閉まり、令嬢の馬車が遠ざかる音が聞こえなくなった頃。
応接室に、ようやく安堵の空気が戻る。
「……はぁ、疲れた」
フィリップは椅子にもたれ、額に手をあてた。紅茶はすっかり冷めている。
「先ほどは出過ぎた真似をして申し訳ございませんでした」
「え?ああ、さっきの噛みつくとか言ってたやつか……別に気にしてないよ」
フィリップはまるで番犬のようだった我が執事を思い出して笑みを溢した。
「どうしたんです?」
「ううん、何でもないよ」
とは言うもののクスクスと鼻を鳴らすフィリップ。
ノアはそれ以上は何も聞かず、淡々と食器を片づけ始めた。
フィリップはそんな彼をじぃっと見上げる。いつも通りの無表情の奥に、何かが見えるような気がしてならなかった。
「……さっきちょっとだけ怖かったよ、キミ」
「坊っちゃんを守るのも、私の務めですので」
「うん……でも、あんなふうに睨まなくてもよかったんじゃない?」
「睨んだ覚えはありませんが……もしも彼女が、坊っちゃんの大切な温室に足を踏み入れようものなら遠慮なく叩き出すところでした」
「温室?」
「ええ」
「怒ってた理由ってそれなの……?ははっ、面白いね、ノア。君の怒りの沸点が分からないよ」
フィリップは肩をすくめて笑った。
「あ……バイオリン、練習しないといけないんだった」
「ご用意は整えてあります。音合わせもお手伝いしましょうか」
「ううん、大丈夫。ノアは自分の仕事をして」
「かしこまりました」
そして、穏やかな日常が静かに戻ってくる。
まるで何事もなかったかのように、それぞれの役目を果たす二人の間には、今日も変わらぬ空気が流れていた。
第12話【夜会の花】
古い石造りの大広間に、燭台の炎がゆらめく。
アルセイン家の当主代行として、フィリップは今宵、ロンドンから訪れた伯爵夫人主催の晩餐会に出席していた。
「坊っちゃん、お支度を」
ノアが持ってきたのは、濃紺の正装用の燕尾服。金のカフリンクスに、家紋入りのブローチ。
「……こんな格好、まだ慣れないよ」
「けれど、本日はアルセイン家の名を背負っての夜会です。お気をつけて」
ノアは手袋越しにフィリップの袖を整え、胸元のブローチを軽く指先で整えた。
その仕草にフィリップの心臓が少し跳ねる。
「……ノアも緊張してる?」
「坊っちゃんほどでは。ですが、何かあればすぐそばにおりますので、ご安心を」
「ありがとう」
*
晩餐会には十数名の貴族子息たちと、その家族が顔をそろえていた。
フィリップは幾度か形式ばった挨拶を交わしながら、目の前の銀のフォークに集中しようと努めていた。
「まぁ、あなたがアルセイン家の坊ちゃま?噂よりずっと可愛らしいわね」
声をかけてきたのは、伯爵夫人の姪という美しい金髪の令嬢。スカーレット・フォークナー。彼女は涼やかに微笑んで、フィリップに手を差し出した。
「フィリップ・アルセインです。ご招待ありがとうございます」
練習通りに完璧な挨拶をするフィリップ。けれど令嬢の指が自分の手に絡んだ瞬間、フィリップは一瞬だけビクッと肩を震わせた。
「……あら、可愛い」
くすくすと笑う声に、フィリップは慌てて手を引っ込めた
その様子を、会場の隅で控える執事たちの中から、ひとりの男が無表情のまま見つめていた。──ノア・グレイス。その瞳の奥は嫉妬の炎で揺れていた。
*
夜会が終わり、馬車の中で二人きりになったとき。
「彼女……伯爵夫人の姪という女性の事ですが」
「うん?ああ、あの人ね……」
フィリップは思い出して触れられた自分の手を擦る。
「坊っちゃんにご興味があるようでした」
「そう?少し揶揄われただけだよ、悔しいけどね」
そう言うと、フィリップは何も言わないノアを不思議がって見つめた。
「……もしかして怒ってる?」
その問いにノアは「いいえ」と即答して続けた。
「ただあまりに軽々しく手を取られるのも、問題かと思いましたので」
「問題?何が、どう問題なの?」
フィリップは少し意地悪をしたくなってわざと尋ねた。案の定、ノアは少しの間口を閉ざし、そうして絞り出した答えが……
「失礼しました、今の言葉は忘れてください」
だった。
馬車の中に沈黙がやってくる。
フィリップはそれ以上問い詰めようとはしなかった。ノアの葛藤が伝わってきたからだ。
「意地悪してごめん」
「…………」
「ノア、僕は君をただの執事だなんて思ってないよ」
ノアはその言葉に答えなかった。
夜道を走る馬車。淡い明かりを灯した小さな空間は、静けさの中に二人の想いが交差する。
しばらくしてノアがそっと口を開いた。
「坊っちゃん」
「うん?」
「……ありがとうございます。先ほどのお言葉だけで、私は十分です」
それは穏やかで、けれどどこか切なさを滲ませた声だった。
フィリップはその顔をじっと見つめ、それから問いかける。
「いつか、ただの執事じゃなくなる日がくるのかな」
ノアはこれにもすぐには答えなかった。けれどほんの少しだけ、唇の端が揺れたように見えた。
「その日が来ることを、願ってもよろしいでしょうか」
馬車が屋敷の門をくぐり、やがて止まる。敷地に降りたフィリップは振り返って笑った。
「いいに決まってるじゃないか」
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