つばめ

Yamato

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揺らぎ…復活

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元妻の暮らしぶりを見て、元夫の心に少しずつ変化が起きていた。
一番感じるのは距離感だ。
縮まっている気が消えずにいた。
元妻の考え方や行動は以前とも違うし、何より気遣いが溢れていた。

だが、心の奥底に下衆か、下品か、とも言うべき「体の関係」が太く刺さっている。
まるで棘のようだった。

部屋を訪れてから二週間後、メールが入った。
<この間はケーキをごちそうさまでした。とても嬉しく思います。もしザーサイが欲しいときは遠慮なく連絡ください>
今の元妻らしい内容だ。

ある晩。
会社の帰り道に、たまに繁華街に寄ろうと思い、フラフラしてたら小路にあるバーを見つけた。
タバコと人と、酒の混じった匂いがする。
いわゆるショットバーだ。
カウンターに座る。
白髪頭に白ヒゲのマスター。
「何になさいますか?」
「軽めのものを…」
「かしこまりました」
こんな雰囲気が心地よい年齢なんだ、と実感した。
そこへ2人のサラリーマン来訪。
カウンターに座る。
たぶん同僚と思われる。
「ところで離婚後どうなんよ?」
(おっ…)
「いや、もう大変よ!」
「何がだ?」
「嫁の浮気が原因だぜ、そのくせして復縁迫ってくる神経疑うわ!」
「なんで復縁なんだ?」
「分からん!話したくもないからシカトしてるけどさ、この間なんて不味い煮物をドッサリ送ってきてさ「貴方の為に作ったの」だってよ」
「そりゃあ、ドン引きだな」
「メシなんて不味くてさ、我慢して食ってたんだよ。それを勘違いして、こっちの胃袋掴んでると思ってやがる」
「まぁ、よく女はさ。男は女を理解してないって叫ぶけど女も同じだよな」
「そのとーり!復縁迫れば迫るほどドン引くってわかんないのかね?」
「必死なんだろう?」
「しかもさ、元嫁の親も「なんとかならないか?」とか言ってくんの。なるわけねーだろ!
その前にテメェんところの糞娘の教育しろって言いたいわー」
「おぉーっ、言うねぇ」
「言いたくなるよ。毎日メールとかlineとかでアピールだぜ」
「ブロックすればいいんじゃないのか?」
「それがさ、弁護士曰くこういうケースで連絡を完全に切るとストーカーになる恐れがあるから連絡手段は残した方がいいんだってさ…まぁ、返事はしないけどね」
「あぁっ…なるほどね。確かに…。ところで後学のために聞きたいんだけど、浮気した女抱ける?」
「んー…無理…かなぁ…お前は?」
「まぁ、俺は気にしない…かな?」
「えーっ!マジで?なんで?」
「男は女を美化しすぎなんだよ。江戸時代なんて女は夜這いされて、その中から男を決めたらしいよ。女だから浮気した体を抱けないというのは、男の勝手な理屈だよ。じゃあ、浮気嫁の体がナイスバディでもダメか?」
「うわーっ、キツイなその質問…」
「ほらな、良い所があれば抱けるんだよ。性欲なんてそんないい加減なものなんだよ」
「でもさ、いい加減だと浮気だらけだろ?」
「そりゃあ、モラルは必要ですよ。でも、性欲なんて大体が本能から来るものだからな。それを責めてもどうにもならんよ」
確かにそうかもしれない。元夫は耳がダンボになっていた。
聞いてて面白い。
「じゃあさ、性欲は理屈じゃないってことだよな」
「おっ、いいこと言うね。欲ってさ、厄介なものでルールとかモラルとか関係ないだろ?人間は欲に支配されてるんだから、他人と寝たい!と思えば寝ちゃうの」

(寝たいと思えば寝るか…)
フラッと入ったバーで、興味ある話題を触れた。
確かに、こだわりは視点や価値観を変えれば簡単に変わってしまう。
結婚していた時に浮気なんてしなかった。だが、見方を変えれば「まだしてなかった」なのかも知れない。
もし、心を打ち抜き元妻以上の女性が出たら、自分は制御できるのか?
自信はなかった。

マスターにおかわりを頼んだ。
持ってきたときに聞いた。
「マスター、彼らの話をどう思う?」
「そうですねぇ…私がこの商売始めて40年になりますが、見てて思うことは「人はそれほど強くない」ですかね」
「強くない?」
「はい、強ければこんな場末のバーも必要ない。ほとんどの方が弱さをここに吐いていきますから…ここはそういう場所でこれを必要としている方も意外に多い、ということでしょうか。でも、それでいと思いますよ」

なるほど。

確かに強ければ悩むことも無いだろうし、迷うことも無い…

バーを出て、帰ることにした。

元妻のアパートを見上げると電気が付いている。
(キミは強くなったのか? だからここに来たのか?)

元夫は元妻を抱けるのだろうか?と考えた。

浮気という棘を気にしないでいられるのか?

まだ愛している。その部分だけは色あせていない。
少しだけ前向きになれた気がした。
「した」側と「された」側。この間には亀裂があるが、ここに橋をかけるかどうかは「された」側の意思だけだ。
(かけるのもあり…なんだろうな)

そう思えるのが、今までと違う感情かもしれない。


元妻は営業エリア内の公園で弁当を開いていた。
仕事も慣れた。
飲み物を含んだとき、見慣れた顔が自分を見ていた。
(えっ?)
忘れるはずがない顔がこちらに近づいてきた。
「久しぶり…」
その声は、ウチダ マサヒコに他ならない。
「どうして?」
「いや、新しい職場がここの近くでね。偶然見かけたから…」
「ダメ!!忘れたの?私たちは近づいたらダメって決めたでしょう?」
マサヒコは「あぁっ」と思いだしたように笑った。
「いや、これは偶然だから仕方ないじゃん。もう旦那とは別れたんだろう?だったらバレないよ」
「そういう問題じゃない!! ルールはルールでしょ。もう行って下さい」
マサヒコはそれでも笑っていた。
時間の経過とともに薄れているようだ。
「そんなに重たく考えなくてもさ…」と隣に座る。
「まだ、元夫とは繋がっています。これ以上話しかけるなら連絡しますよ」
「そんなに固く考えるなよ。別に変な事するんじゃないしさぁ…」
キッっ睨み続けた。
その目に気圧されたマサヒコは観念した。
「いゃ…分かったよ…」
渋々とマサヒコは席を立ち、何度も振り返りながら去った。

かなり焦ったが、それでも帰る頃には落ち着いていた。
向かいのマンションを見上げる。
部屋は暗いままだ。

(今日もお疲れ様です…今は何していますか?)

風呂上りに、昨日図書館で借りてきた本を始末しようと食事しながら読みふけった。
読み終わった後に、窓を開けて一礼。
(申し訳ありませんでした)
不思議とこのルーチンに苦を感じない。
窓に明かりがついていた。
(明日も頑張って下さい)

まだ、元夫がこの部屋に来た時の感覚を覚えている。
(ここに座っていた…)だが、今はいない。
その幻に少し後悔した。

元夫は、会社帰りに上司に誘われ居酒屋にいた。
「どうだい?一人暮らしは快適か?」
「気楽なような、そうでないような…」
「オレからすりゃ羨ましいよ」
「で、話ってなんですか?」
「うん、実はな…ウチの海外事業部知ってるな?」
「はい」
「そこのヤマダ部長から話が合ってね。再来年だがマレーシアに支店を出すプランがあるんだと」
「へぇ…」
「まぁ、ウチのような食品の卸をしているとこはどこも苦しいが、国内ではなく海外に目を向けて向こうで販路を作る、というのが内容だ」
「まさか、私に…?」
油揚げのネギ添えを放り込む。
「まぁそういうことだ。決定ではないし辞退も出来る。だが、ちょうどキミぐらいの馬力があって、アブラも乗ってる中堅で独身はキミだけなんだ」
「……」
「イヤか?」
「なんとも言えません。正直面白そうではありますが、タイ語も知りませんし自信はありませんね」
「そうだよな…」
「まさか私だけですか?」
「いや、あと2名ばかり考えてる」
「期間はどのくらいですか?」
右手を広げた。
「5年も…」
「すぐに決めなくていいよ。まだ余裕もあるからさ。まぁ、3か月ぐらいじっくり考えてくれ」

人は考える生き物だ。大学の講師が言ってたっけ?
夜空を見上げた。
(みな、何かを考えさせられているのだろう)

環境を変えるのはいいことかも知れない。だが、そうなると元妻とは会えなくなる。
マンションとアパートの向かい合わせの微妙な距離が、自分たちの距離なのだろう。
何気に心地よくもある。

(3か月かぁ…)

ソファーに身を投げ出し携帯を放り投げた。
点滅している。
元妻からだった。
<お仕事お疲れ様です。用事という訳ではないのですが、やっぱり断捨離しすぎたようです(笑)体調は大丈夫ですか?あまり無理はなさらないで下さい。ちょっとだけメールしたくなって…ごめんなさい。おやすみなさい>
(迫らないから引かない…確かにだな)

ポチポチと返信する。
<せめて服だけでも明るくしろ。ザーサイ…また頼む。おやすみ>
我ながら愛想のない文面だ。
ベランダに出て、タバコを一本付けて送信する。

窓の影が微妙に動いた。
返信が来た。
<はい、今度明るめの服を買います。ザーサイは作ったら連絡します。お返事もらってすごく嬉しいです>

こんな他愛もないやりとりが妙に新鮮だ。
久しぶりにPCで動画配信を見てみようか…と思い色々検索していたら、かなりの数で<妻の浮気>について顛末が書かれているのを見つけた。
(これホントか?)
本当らしいものや嘘っぽいものもあるが、どれもキーワードは妻からの〈本当はあなたを愛してる><復縁したい>だった。
そしてほとんどの旦那がトドメの制裁で締めくくっていた。
バーでの話が蘇ってくる。
(迫るほどイヤになる)
元夫の場合は少々違う。
元妻からの復縁も愛しているも言わなかった。
あくまで贖罪に徹した。
そこで分かったこと、それは愛情が消えない理由だ。
確かに復縁はみっともないし説得力もない。
自分の評価を下げるだけだ。

同じ浮気離婚でも、自分は修羅場にはならなかった方だ。
それは妻が財産分与も放棄し、ひたすら謝罪を続ける姿を見ているからだろう。
見方を変えればレアかもしれない。

たぶん、体を求めたら素直に応じるだろう。
下品な言い方をするならセクフレでもイヤとは言わないだろう。
「あなたが望むならなんでもします。絶対にイヤとは言いません」
あの言葉に嘘は無い…

元夫は大きくため息をついてPCを消した。

火遊びで離婚したウチダ マサヒコは、なんとかして関係が戻せないものかと思案した。
<接近禁止>の誓約書にサインしたにも関わらず、遠い過去になりつつある。
偶然の出会いは人によっては都合よく必然と感じる。
2chならDQNの部類と言われるだろう。
あれから何度か公園で張っていたが、全て空振りに終わる。
声をかけず、黙って後つけた方が良かった、と少しの後悔。

だが、まだチャンスはあった。元夫とは繋がりがあると言っていた。
ならば、おそらくメールアドレスや携帯番号は変わっていないのではないか?
逆に自分の番号も登録のままだろうから、かけてしまったら証拠を残してしまう。
フッと思いついた。

実家にクラスメートのふりをして、住所を聞き出せないかトライした。
簡単に教えてくれた。
後は、会社のカーナビで探ればいい。

(このアパートは…)

見たことのある景色だった。忘れもしない元夫に呼び出されたマンションが向かいにある。
(繋がってるって…どういうことだ? )
だが、こんな傍に住んでいるとは予想外だ。
直帰にして帰りを待った。

(来た!!)

元妻が歩いてくる。アパートに入り、玄関を開けるところが踊り場の窓から見える。
部屋の電気が付いて、ほどなく窓が開いて一礼しているしぐさを見た。
(なんだ?何してんだ?)
方向には元夫のマンションがある。しばし考えてなんとなく理解した。
そしてニヤケながら一旦引き上げた。

車を出したところで元夫の車とすれ違った。お互いに夜のため気づかない。

会社でミーティングが終わって自席で考えていた。
(たぶん、あれは謝罪か…あの夫だったヤツが知っているかは分からんが。最初は実家に居た筈だから、その後越してきたのか…)

思考は至って短絡的だった。
あの体は失うには惜しかった。
もう家族もいない。
せまれば落ちると決めつけた。

まず当面は行動パターンを探ることに専念した。
休みはほとんど外に出ないが、ビデオ屋と図書館に行くのはわかった。
完全に1人になるのはアパートだけだ。
結論から言えば土日の夜しかない、と考えた。
なんとかしてアパートの部屋に入る方法は無いものか。
(調べてみるか…)
マサヒコは、とんでもない案を捻り出した。

1週間後。
〈ザーサイ作りました。お持ちしましょうか?〉
元妻のメールで目覚めた。
(ん?あぁ…そういえば言ってたな)
〈昼にそっちに行くよ〉と送信。
〈分かりました。良ければお昼用意しましょうか?あんまり凝った材料はありませんが〉
〈じゃあ頼む〉
〈はい。楽しみにしてます〉

ピンポーン。
「はい」
「あっ、オレだ」
またバタバタバタと走ってくる。
ガチャとドアが勢いよく開く。
「こんにちは!ちょうど出来たところです」
「子供じゃないんだから、そんな焦って来なくてもさ。下の階に響くぞ」
「あっ、ごめんなさい!そうですね」

部屋は変わらず殺風景だ。
「断捨離は?」
「あなたに言われて考えたんですけど、増やすものが無くて…あっ、でも明るい服は買ったんです」
「ふっ…そっか」
食事を運んできた。
白米、味噌汁に生姜焼きとザーサイだ。
「ごめんなさい。こんなモノしか無くて」 
「いや、変に凝って無くていいよ。メシが進みそうだ」
追加で冷たい麦茶を出してきた。
「これが無いとしゃっくり出ますよね?」
「ああっ、よく覚えてんなぁ」
どうも子供の頃からだが、最初の一口に水分で食事を流さないと、しゃっくりが出るクセがあった。食道が細いのか、咽頭反射かは分からない。
「ふふっ…」
「可笑しいか?」
「変わってないなぁ…って思っちゃいました」
「長年のクセだ、そうは変わらんよ。うん、美味い!」
2人で食べる食事を堪能した。
食べ終わると、お茶と灰皿を出してきた。
「吸ってもいいのか?」
「あなただけですから!」
久しぶりの胃袋を掴まれた、あの味だった。
気を使って換気扇の下で一服した。
「お仕事どうですか?」
海外転勤の話が蘇った。
何も話していない。
「ん、まぁまぁかな…お前はどうだ?」
「はい、お陰さまで慣れて順調です」
少し間が空いた。
「なぁ…」
「何ですか?」
「どうして復縁を言わなかった?」
元妻は黙った。
「言えるワケないです。そんな資格はありません」
表情が曇った。
「そうか…もし、オレがあのマンションから居なくなったらどうするんだ?」
顔を見上げた。
悲しい目だ。
「居なくなるんですか?」
強い口調だった。
「いや、もしもの話だよ」
少し考え込んだ。
「……」
「とても寂しいですけど、ここに居ます」
「そうだな、生活があるからな」
バカなことを聞いた、と後悔した。
元妻は正面に立った。
「もし、居なくなるならメールでもいいですから、教えてください。追いかける事はしませんから…」
「分かった…」

元夫はアパートを出て、自室に戻り外の景色を眺めた。

翌週。
仕事が忙しくなり、帰りが遅くなることもあり、元妻とは会っていなかった。
ベランダから見える元妻の部屋は、電気が消えている。
仕事がひと段落した夜に仕事を早めに切り上げ、あのバーに寄った。
目的があったわけではないが、何かの答えを求めていたのかも知れない。

「いらっしゃいませ」
「軽めのものを」
「かしこまりました」
他に客はいない。
「マスター…」
「はい?」
「浮気されたことありますか?」
「ありますよ」
「どうしました?」
「私が悪かったので、仕方のないことでした。今は別れた女房もどこで何をしてるのか分かりません」
「理由を聞いても?」
「簡単に言えば、彼女を見ていなかった。このバーを作るのに懸命でしたから…」
「私も同じでね…でも、妻だった人は私に毎日謝ってるんです。毎日2回もね、でもどうしてか浮気の棘が消えない…」
「そうでしたか…」
マスターは酒のアテを差し出した。
「そういえば、こんな話があります」
「どんな?」
「ある夫婦がいて夫が浮気をしましてね、それが妻にバレた。でも、妻は何も言わなかったそうです」
「どうして?」
「それがですね…愛が深くなるから、だそうです」
「えっ…それどういう意味です?」
「長い事、夫婦でいると日常が当たり前になる、つまり愛から情に変わるんです。その妻は夫の浮気で怒りがあった。つまり、まだ愛がある事を知った…だから許したんだそうですよ」
「…それって」
「愛があるから怒り、嘆き、悲しむ…それに耐えることが出来るなら、より強くなって深くなる…愛が無ければ、感情も沸かない。簡単に別れられる、そう考えたそうです」
「…深いですね、普通は考えないな」
「それを聞いた夫は泣いたそうです…」

その話は夫と妻を入れ替えれば、自分にあてはまる。
愛が深くなる…どこか納得出来てしまう。
別れても心にいるのは承知だ。
(しかし、何もかも許せるものなのか?)

代行で帰り、車を止めると元妻がアパートの前で立っていた。
「おかえりなさい」
柔らかく優しい口調だ。
明らかに変わった。
なんというか…以前は少し強めな感じだったが、今はそれに加えて大きな優しさに溢れていた。
「珍しく遅いな…」
「ちょっと得意先の医院で、急遽持ってきてくれって頼まれたので…」
「そうか…」
元夫は話すべきと思った。
「ちょっと散歩しないか?」

堤防は夜にもかかわらず、ランニングや犬の散歩で人がいた。
「どうしたんですか?」
「実は、転勤の話がきてるんだ」
元妻は口に手を当て、沈んだ顔をした。
「やっぱりそうだったんですね…この前のあなたの顔を見て想像はしてました」
「…そうか…問題は行き先だ」
「どこに?遠いんですか?」
「マレーシアだ…」
「えっ?海外?」
もっと沈んだ。しばらく沈黙が流れた。
突然、元妻の顔が笑顔になった。
「すごいじゃないですか!おめでとうございます」
「…ホントにそう思うか?」
「だって海外勤務ですよね?そんな話普通はないですよ!」
目は涙が溜まっていた。
「どのくらい行くんですか?」
「…5年だ」
「そんなに…」
「まだ決まっていないんだ、辞退も出来る」
「断るんですか?」
一呼吸置いた。
「まだ決めていない」
お互いに無言になった。
「…決まったら教えてください。今度はマンションじゃなくて、この広い空に向かって謝罪します!」
「あぁっ…そうだな」
元妻の目は、涙で溢れていた。精一杯の我慢が流れるのを止めていた。
「マレーシアって、どっちの方向でしょうね…」
「さぁて…どっちかな…」
「いつまでに決めるんですか?」
「まぁ、概ね2ヶ月以内ぐらいかな」
「来年ぐらいに行くんですか?」
「再来年の1月らしい…」
元妻は、夜空を見上げ大きな声を張った。
「頑張ってくださぁーい!」
クルッと振り向き、涙の笑顔を見せた。
「応援してます…」
そのまま、頭を下げて走って帰って行った。

それから1ヶ月。

2人は変わらずの距離だ。たまに食事をするが転勤の話はお互いに避けてた。
会話も何かが抜けたような気分だった。
元夫の心中にある棘は薄れてきている。
だが、どうしても一言が言えないでいた。

風呂上がりに携帯の音がした。元妻からだ。
〈またザーサイ作りました。あと、どのくらいこうして作れますか?〉
精一杯の声だろう。
〈ありがとう。取りに行くよ〉とだけ返した。

その週末。

いつものように洗濯をベランダに干してた時にシャツが1枚落ちてしまった。
駐車場に白シャツが目立つ。
(あーもう、洗濯し直しだ!)
シャツを取り上げた時、元妻のアパートに引っ越し業者がいた。
(ふーん…時期外れだな)
そのままシャツを持って戻った。

ピンポーン!
元妻はザーサイを取りに来た、と思いインターフォンを取らずに玄関に出た。
「‼︎」
「あれっ?」
ウチダ マサヒコがいた。
(なんで⁉︎)
「えっ?ここに住んでたの?」
マサヒコは白々しい演技をした。
「どうしてここに?」
「いや…下の階に越して来たんだよ。挨拶に来たら、まさかキミがいるなんて思わなかったんだ」
これがマサヒコの捻り出した案だった。
住処が分かり、アパートの空室を調べたら偶然にも空き予定がある事が判明した。
これなら完全に偶然を装えるし、接点も近くなる。
接触禁止も誤魔化せる。
「あっ…すいません。用があるので!」
玄関を閉めた。
バクバクと鼓動が鳴る。
それから1時間して、元夫が訪ねて来た。
マサヒコの事を言おうとしたが、踏みとどまった。
(余計な心配をかけるかも…)
転勤の件もある。自分の事で負担はかけたくなかった。
(ダメダメダメ!言っちゃダメ!)
「どうした?顔色良くないぞ」
「ううん、大丈夫です。どうぞ」
和食が用意されていた。
これも配慮だった。
今日のおかずは、ピーマンの肉詰めだ。
相変わらず美味しそうに食べてくれた。
これだけで幸せだった。
だがマサヒコのせいで、素直に喜べない。
「美味いよ、こういう飯をいつまで食えるかな…」
まだ決めかねていた。
「…まだ?」
「…うん」
元夫は顔色がおかしい事に疑問を持っていた。いつもと違う。心あらずのようだ。
「何かあったのか?」
ビクッとしたが気丈にふるまった。
「ううん、ちょっと疲れかも知れません」
「そうか」(それだけじゃない?)
早めに切り上げて部屋を出た。
再会して以来、初めて見る顔だ。
(疲れじゃないな…何があった?)

元妻は、片付けて座り込んだ。
誓約書を見せれば、すむかもしれない。
だが、転勤話で悩んでる姿を見て、自分で解決しなくてはならないと決めた。
(なぜ…ホントに偶然なの?)
携帯が鳴った。
母からだ。
「もしもし」
「あのね、あんた宛の手紙が何通か来てるけど、どうするの?」
「じゃあ、これから取りに行くね」
実家にはたまに訪れていた。
離婚でかなり叱られたが、今では平穏に戻っている。
「仕事は?」
「うん、大丈夫よ。何とかやってるわ」
「そう、ほらテーブルにあるから見てよ」
ほとんどがセールやカードのキャンペーン案内ばかりだ。
「全部いらないわ。捨ててくれる?」
「やっぱりね。そうしようと思ったけどあんたのだからさ。一応聞いておかないとね」
「今は携帯に来る時代だから、友達関係で郵便なんてないわよ」
「そうよね、あれっ?そう言えば…」
お茶を出してきた。
「クラス会の案内って届いてる?」
「えっ?来てないけど…なんで?」
「1ヶ月くらい前だったかしら…高校のクラス会するから住所教えてくれって連絡きたわよ」
「そんなの来てない!」
「そう…そのうち来るかしらね」
ピンときた。
「それって名乗ってた?」
「確かヤマオカ…だったかしら」
ヤマオカなんていなかった。
マサヒコだ。おそらく母に住所を聞いてから引っ越してきたのだ。
偶然、空きがあったから越してきたのだろう。
そう思った。
母にも一言言いたいが証拠がない。問い詰めてもマサヒコがトボけるのは分かってた。

アパートに戻った。玄関開けたら後ろから声をかけられた。マサヒコだ。
「こんばんは」
「…」
「そう怖い顔しないでよ。ご近所さんなんだからさ。これ、土産物だけど食べない?」
お菓子のようだ。
「失礼します!」
閉めようとしたら、手で塞がれた。
「ちょっとちょっと…そんなに警戒しないでよ。別にお菓子持ってきただけだよ。美味いやつらしいからさ。一緒にどう?」
「やめて下さい!誓約書あるんですよ。罰金払ってもらいますよ!」
「あんなダンナの事なんて忘れろよ…またさ、オレと楽しく過ごそうぜ」
キッと睨んだ。
「あの時はどうかしてたんです。今の私は違います。私に近寄らないで!」
思いっきり玄関を閉めた。
マサヒコは諦めて階段を降りた。
「はぁ…はぁ…」息も荒くなる。
憂鬱だった。
だがあの言葉で確信した。
マサヒコは偶然会ってから、住所を母に聞いて付けてた。
元夫の事も知ってる。下にいるから、もしかしたら会話を聞かれてるかも知れない。
(転勤したら…)
そう思うと身震いがする。
マサヒコがそれを知れば、調子に乗ってアプローチかけて来るだろう。
海外に行けば目も届かない。
その日は何もする気が起きなかったが、一礼だけは欠かさなかった。

日曜日。
元夫は恒例のベランダでタバコをふかしてた。
元妻が窓を開けて目があった。一礼した後、いつもなら小さく手を振るが何もしない。
ジッと見つめていた。
泣きそうな顔をしていた。
(ん?なんだ?どーした…)
明らかに様子がおかしかった。
体調とかではない。
元妻はそのまま窓を閉じた。
(らしくないな…)
気になったが、思い過ごしかも知れない。
だが、元夫の直感はイヤな気分にさせた。

月曜日。
社長に呼び出された。
「どうかね?マレーシア行きは決心した?」
「…すいません、まだ、ちょっと…」
「そうか、いやホントはさ、家族持ちの方がいいんだが揃って行けるやつがいなくてな」
「独身の方がいいのでは…?」
「海外はな、何かと精神的にくる事もあるからな。支えが必要なんだよ。だけど子供いたり、中には親と同居してるやつもいるからムリなんだよ」
「とにかく、もう少し時間をいただけませんか?」
「まぁ、じっくり考えてくれ!要望あればある程度は何とかするから!」

悩みつつ、いつもの出先に出かけた。
いつものルートが事故渋滞で進まない為、別ルートで走った。
交差点で止まると、横に公園があった。
なんとなく眺めてると、1人の男がキョロキョロしてるのが目に留まった。
(あれっ?アイツは…)
見たことのある顔だ。
(ウチダ マサヒコ!)
何かを探してる?いや、誰かか?
その時、元妻の顔がオーバーラップする。
(まさか?)
いや、まさか…だが、もし予想が当たってるなら、あの表情も納得できる。
マサヒコはしばらくして公園を出て行った。

その夜。

部屋に戻りソファーで考えていた。
(たぶん、会ったんだ…おそらく偶然に)
またヨリが戻った?いや、それは無いだろう。元妻の態度や言葉からは考えにくい。
マサヒコも離婚した。ならば、元妻に近づいても不思議はない。
だが、接近禁止にサインしている。
(どういうことだ?)
偶然に会ったとしても、そう何度も会うものでもないだろう。
なぜ、あんな暗い顔をするのだろうか…転勤話をしたから?
どちらにしても真意を確かめずにいられなくなった。

〈こんばんは。これから行っていいか?〉
すぐに返信がきた。
〈はい、でも、出来ればそちらに伺ってもいいですか?〉
〈分かった〉
5分で元妻はインターフォンを鳴らした。
ソファーに座らせ、ダージリンを出した。
「あ…これ…」
「好きだったろ?今日帰りに買ってきたんだ。まぁ、味の保証はなしだぞ」
一口すすって「美味しい…」とこぼした。
「ところで、何があった?」
動きが止まった。
「お前の顔を見てれば、何か起きた事は分かるよ。たぶん、オレも関わってるんじゃないか?」
黙ってる。
「話せ…」
「…言えません…」
「何故だ?」
「…私の問題ですから…」
「違うだろう?」
元妻は立ち上がって、頭を下げた。
「ごめんなさい!今日は失礼します…」
小走りに出て行った。
テーブルに残ったティーカップには、微かにリップの跡が残っていた。
ベランダから部屋を見下ろした。
しばらくして窓が開いた。
元妻が見ている。
一礼して後に口を抑えた。
泣いていた。

元夫はやり過ごす気持ちになれなかった。
「言えません」明らかに自分にも関係があるのだろう。ならば、このままには出来ない。
翌日の仕事帰りに興信所を訪れた。

「この女性の行動と接触した人物がいれば、そいつの全てを調べてほしい」

1週間後。
興信所で驚く事を聞かされた。
野暮ったい中年男だが、仕事は優秀だ。報告書も分かりやすい。
「彼女に接した男はコイツです」
(やっぱりか…)
隠し撮りにはウチダマサヒコが写っていた。
「ただ問題が1つ…」
「なんだ?」
「このウチダは、彼女の真下に住んでいます」
「なんだって?」
「経緯までは分かりませんが、今週だけで2回ほど彼女の部屋に訪れてますね。手には菓子のようなモノを持ってました」
「それで?」
「彼女は頑なに断ってました。こりゃストーカーかも知れませんよ」
かなり読めてきた。
なるほど、同じアパートならば接触しても不思議は無い。接触禁止も惚けられると踏んだのだろう。だが、こんな偶然があるものか?
不思議だった。
「失礼ですが、この男をご存知で…?」
「まぁ…知ってる」
「驚かれた、という事はコイツは此処には元から住んでいなかった?」
「あぁっ…」
「うーん…ならば後を付けたか、もしくは偶然に彼女の居場所を知ったのではないですか?そして…」
「越してきたってことか…」
そういえば、洗濯を落とした時に元妻のアパートに引っ越してきたのを思い出した。
「よくあるんですよ。浮気相手がストーカーになるのは…大抵は妻の浮気で間男がよくやるんですよね。意外と男の方が多い…」
「なんで男の方が多いんだ?」
「分かるでしょ?男の方が未練たらしいからですよ。ほとんどは間男側も離婚するから、失うものがなくなると、今度は浮気していた相手に依存していくんですよ」
(確かに…)
「ただ、同じアパートっていうのは初めてですがね…」

興信所の男はタバコに火をつけて「失礼しますよ」と言った。
「失礼を承知で…彼女は奥さんだった方ですか?」
「まぁ…ね」
「奥さんがこの間男と?」
「あぁっ…」
「なるほど。まだ愛していらっしゃる?」
「それは…」
「ハハッ…まぁいいですが、彼女が嫌がってるならアナタが行動するしかありませんな」
その通りだ。
「よく見てるな…」
「そりゃこんな商売してますからね。仕事のほとんどが浮気調査ですから。人の欲とか本音なんて腐る程見てますよ。ですがね…」
「なんだ?」
「アナタの元奥さんは少し違うんですよね」
「と言うと…?」
「現地に行って分かったんですけど、向かいがアナタのマンションだ。毎日、朝と晩に頭を下げてる…あんなのは見たことがない」
「元妻も仕事を変えて越してきたんだ」
「それだけでは無いでしょうね。自分の犯した罪を真面目に詫びてる…そんな目でしたね。ああいう方は見たことがないですよ…」
「……」
「まぁ、調査はどうしますか?継続しますか?」
「いや、これで充分だよ。あとはこちらでやるから」
「分かりました。あっ…1つだけアドバイスを…」
「あの手の男はストーカーになりやすい。ですから、早めに越した方がいいと思います」
「ありがとう」

元夫の心内は決まった。
元妻とやり直すことを。
どうしても捨てて置けない。
棘なんてどうでもいい。
失えば自分が後悔する。
皮肉な事に、別れたのもやり直すと決めたのも間男がキッカケだ。
この不思議な状況に戸惑いながらも、決意を強くした。
(週末が勝負だ)
転勤の決意まであと3週間。

〈今週の土曜日開けれるか?〉
〈はい、何かありましたか?〉
〈理由はその時に話す〉
〈分かりました。そちらに伺います〉
〈いや、そっちに行く。待っててくれ〉
しばらく返事がなかった。
〈分かりました。お待ちしています〉
(これでいい…)

夕方にマンションを出た。
そのままアパートの一階に向かった。
表札はない。
ピンポーン
「はい」
「お届けものです」
「ほーい」
(能天気な声だ)
ドアを開けたマサヒコは固まった。
「えっ…なんで?」
「久しぶりだな」
「いや…その、何か?」
「話がある」
「オレには無い!忙しいんだ!帰ってくれ」
「ほぉ…いいのか?これから降りかかる事を知っておいた方がいいんじゃないか…」
「な、何のことだ?」
「接触禁止を破ったな…」
「知らん!何のことか分からんよ!」
「これだ」
封筒から写真を見せた。
「これは…」
「オマエ、上に元妻がいる事を知って越してきたな…」
「知らん!知らんよ。偶然だ!偶然なんだよ」
「会ってるじゃないか」
「それは挨拶回りで、そしたら彼女が上にいて…オレがビックリしたんだ!」
「そうか偶然なんだな?」
「そうだよ、偶然だ!」
「接触禁止は守ってると?」
「あっ…あぁ、そうだ!分かってるさ」
「じゃあ、何度も会いに行ったんだ?少なくとも5回は会ってるな」
ここでハッタリをかました。
先週で2回の接触ということは、実質はそれ以上あるはずだからだ。
「そんな、1回だけだ!挨拶した時だけだ」
「全て話したぞ、上の人は!付きまとわれて困ってるとな…それでオレに連絡が来た」
「いや、嘘だ!そんなの嘘だよ。ホントだ!」
「調べれば分かることだ。だが、今ここで正直に話すなら水に流してもいいぞ」
「えっ?」
「だが嘘つくなら、オマエの会社にストーカー行為をしてる、と報告する。社長宛の封書でな。この中身は興信所の報告書でな。オマエの行動は調べ尽くしてる。また転職するか?」
マサヒコはガタガタ震えた。
更に追い討ちをかける。
「1回につき10万円だったよな。最低でも50万円を追加で払うか?おまけに失業しなくても社内で信用無くしたまま働けるか?なんなら、オマエの会社も巻き込んで訴訟するか?」
顔中に脂汗が滲んでた。
「だが、すぐにここを出て行って二度と接触しないと約束するなら、今回に限り許してもいいぞ」
悔しさと後悔のような苦い顔のまま黙った。
元夫は大声で恫喝した。
「どーなんだ‼︎」
「……分かった。もう近寄らない。すぐに出て行きます」
「5回は接触したな?」
「7回です…」
「認めるんだな?」
「はい、すいませんでした」
その後、公園で偶然に会ったことや、後を付けてここを知った事、そしてたまたま空き部屋があった事をペラペラ話し出した。
一通り話した後に、胸ポケットからレコーダーを取り出した。
「全て録音した。近日中に出ていかなければこれも纏めて社長に送りつけるからな」
「……はい」

そのまま上に上がった。
インターフォンを鳴らすと「はい」と元気のない声だった。
「オレだよ」
ドアが開く。
まだ暗い顔だ。
リビングに入る。
「あの、お話って…」
元夫は大声で叱った。
「バカヤロー!なんで黙ってた‼︎」
ビクッとした元妻。
「もう解決したよ」
穏やかな声で肩に手をかけた。
細くか弱い肩に力を込めて掴んだ。
目から涙がボロボロこぼれた。
「ごめんなさい…ごめんなさい」
頭のいい元妻は察した。
「あいつは近々引っ越すよ」
泣いた。泣きじゃくった。
元夫に抱きつき、涙も鼻水もたくさん出した。
抱きしめた元妻の体がこんなにも細かったのか、と内心で驚いた。
「ごめんなさい!ごめんなさい!本当にごめんなさい!」
「もういいよ…終わったんだ…」
しばらくして落ち着き、肩を寄せ合いながら経緯を説明した。
「…あなたには迷惑ばかりかけて、本当にごめんなさい…」
「迷惑か…不思議なもんだ…」
「えっ…」
「そんな風に思った事がない…」
「だってこんな…ことに…」
「ハハッ…そうだなぁ、でも、迷惑とは思えないんだよ」
元夫の体が、こんなにも暖かく力強いのを久しぶりに感じた。

テーブルの横に並んで座った。肩を抱き寄せ、元妻もそれに従っていた。
「…海外転勤は断ることにしたよ」
「…どうしてですか?」
「オレには、他にやらなきゃならん事があるからね。それを果たさない限り前には動けないんだ…」
「やること?」
「そう…」

元妻は飛び上がるほど嬉しかった。
だが…。

その晩は元夫のマンションに泊まった。
離婚以来、初めて理由無しで訪れた。
「あの…好意に甘えてしまってすいません」
「気にしないでくれ」
この場所には「全て」があった。幸せも平穏も、安心も。
その感覚が少しだけ蘇ってきた。

食事も風呂も済ませ寝室に入った。
ベッドは2つある。布団もそのままだ。
電気を消した。
暗い空間に元夫婦の時が流れた。
「なんだか戻ったみたいだな」
「…そうですね…」
「どんな気分だ?」
「…なんと言えば…平穏と息苦しさがあるような気がします…」
「嫌なのか…?」
「そうではありません…戸惑ってるのかも知れませんね…」

その晩は2人ともあまり寝れなかった。

元夫が目を覚ました。時計は朝の7時半を少し回っていた。
隣に元妻はいなかった。
リビングに行くと、テーブルにメモ書きが残されていた。
〈ありがとうございました。ご飯用意しておきましたので、温めてください。それから申し訳無いのですが、しばらくアパートには戻らず実家で過ごそうと思います。またご連絡致します〉
台所には作った食事があった。

(自分を責めるな…)

元妻は実家に戻った。
理由は話さず、しばらく厄介になりたい、とだけ話した。黙って受け入れてくれた。

元妻は簡単に荷物を整理してから、手紙を書き始めた。

〈あなたへ。
別れてから再び会った時間は私にとって、幸せなものでした。毎日、あなたのマンションに向かって続けた謝罪も、辛いと思った事は一度もありません。初めてあなたが部屋に来てくれた時、とても嬉しかった事を未だに忘れてません。あなたは別れてからも、いつも私を見守ってくれていました。改めて大きな愛に包まれていたのを、実感したように思います。
ウチダさんが接触して来て、途方に暮れてた私を救って解決していただいて、やはり私はあなたを愛しているのだ、と分かりました。
そして、あなたの気持ちも伝わってきました。
すごく嬉しかった。泣きたいほど嬉しかった。
でも、それは今の私には受け入れることは出来ません
いえ、受け入れてはいけないのです。
あなたの負担でしかない私は、まだまだ未熟です。
あなたにした仕打ち以上の試練が、私には必要なんです。
まだ、自分で一歩が踏み出せないでいます。
追い風のあなたに背中を押して貰わないと、歩けないのではこの先の試練を越えることは出来ません。

転勤の話はショックでした。でも、あなたには私のことなんかより、やはりご自分の未来を思って選択して欲しい、と思います。

これから、お会いしない方がお互いのためだと思います。
落ち着いたら、そのアパートから引っ越すつもりです。
どうか、どうかご理解ください。
あなたへの謝罪はこれからも続けます。
私のことは気にせず、どうか新たなパートナーになる方を見つけて幸せになってください。もし、またご縁があるなら…あなたの未来と私の未来が交差するなら、その時はあなたに寄り添って生きたいと思います。
お元気で。お体を大事にしてください。〉

丁寧に封筒に入れて置いた。

楽しかった。たぶん、この思いは不謹慎かも知れない。
反面で、この環境に浸かってはいけないとも思う。
(強くならなきゃ…)

それから、2週間後にアパートから引っ越した。ウチダ マサヒコはもう居ない。
最後にマンションのポストに封筒を入れてから、マンションに一礼した。
(さようなら、あなた…幸せでした)

元夫はポストの封筒をベランダで読んでいた。あの部屋は真っ暗のままだった。
(…たく、幸せ…なら来いよな)
だが、気持ちも理解できた。
おそらく、時期では無いのだろう。

(よしっ!行くかぁ!)

「マレーシアに行きます!」

社長に告げてから、益々忙しくなった。再来年と言っても、何度も行き来して現地での調査や市場把握など、山積みにする事があった。あっと言う間に旅立ち時がやってきた。

元夫はメールで旅立つ2日前に連絡した。
〈久しぶりだな。元気してるか?明後日に日本を離れる。このマンションともお別れだ。あまり無理はするなよ。〉
メールが飛んだ。まだアドレスは変えてないようだ。
だが、返事は無かった。
期待はしてなかった。

当日。
ガランとした部屋を見ながら、もう此処には戻れない、そんな気がしてた。
(ホントに色々あったな…)
離婚、再会、そして別れ…
その分だけ染み込んでいる。
ベランダにも出る。あのアパートの部屋には別の人が住んでいた。

管理人が内見にやってきてカギを渡して、空港に向かった。

空港は独特の雰囲気がある。
まさに旅立ちとか別れが、常に蔓延している感じを受けていた。
(ドラマチックだよなぁ…此処だけは)
しばらく戻れないから、寿司でも堪能しようとフードコーナーに向かった。
後ろからポンと肩を叩かれた。
「あっ!」
元妻がいた。
「何でいるんだ?」
「ふふっ」と笑う。
「何がおかしい…?」
「だって、アパートの時とおんなじリアクションですよ…」
「まさか見送りに?」
「メール貰って、考えてました。返事だけしようかな、とも思ったんですけど…でも顔を見たくなってきちゃいました…」
「でも、よく分かったな…」
「昨日、あなたの会社に電話して便を聞いたんです。驚かしてごめんなさい」
「いや…それはそれで嬉しいよ」
「会社の方は来てないんですか?」
「断ったんだ…」
「寿司食べるか?」
「はい」

2人は寿司ランチを摘んだ。

「変わらずか?」
「そうですね、また、あなたに地味と叱られるかもですね…」
「ふふっ…断捨離もほどほどにな」
「…ですね」
「だが、今日の服は明るくなったな…」
淡い水色のブラウスと、白のロングスカートはアパート時代とは違った。
「はい…不思議なもので、服の色を変えたぐらいで明るく考えられるものなんですね」
「お前はその方が似合うよ」

時間が迫っていた。

ゲートに向かう2人は、無言のまま歩いた。
「見送りありがとう。元気でな」
「はい、あなたも…何とかやっていきます」
「無理はするなよ。困ったら連絡して来い」
「…はい」
俯いた。
「どうした?」
「……やっぱり寂しいものですね…」
元夫は微笑んだ。
「お前なら大丈夫だ。もう砂上の小舟じゃないんだ。地に足つけて歩ける、信じろ!」
肩を掴んだ。
目が潤んでいた。
肩の手に元妻は手を重ねた。
「はい!」
「最後に貰って行くぞ」
「えっ」
元夫の顔が近くなり、唇が重なった。
抵抗せず受け入れた。長かった、お互いの温もりが混ざった。
ゆっくり離れた。
「…ズルイです。こんな事されたら、またあなたが大きくなってしまう…」
「フッ…今までお前には驚かされてばっかりだからな。たまにはやり返さないとな、許せよ!」
微笑み黙って頷いた。
「じゃ、行くよ」
「お元気で…」

元夫は背を向けて、ゲートに歩き出した。
元妻はずっと見送った。
ゲートの向こうで元夫が、振り返り手を振った。
それに応えるように大きく手を振った。

元夫が視界から消えた。
元妻の唇には元夫の感触が強く残っていた。
(やっぱりあなたには敵わないですね…)




それから5年が流れた。



ちょうど旅立つ日から数えて5年と7日目に日本に戻ってきた。

元妻とは年に一度のメールだけしていた。

到着ゲートを過ぎると、元妻が両手を前に握りながら立っていた。
髪が伸びて巻きがかかっていた。
化粧もかなり色っぽくなっていた。

「ただいま」
「お帰りなさい…」
「まだ再婚してないとはな…」
「あなた以上の男性がいないんです」
「そうか…」
元妻は微笑んだ。
「あなたは?」
「残念ながら、お前以外の女を考えられなかった。それだけだ」
「たくさんいたと思いますけど…」
「ザーサイを作れるのはお前だけだ。マレーシアで1番辛かったのは、アレを食えなかったことだ」
元妻が笑った。数年ぶりに見た笑顔だった。
「なぁ、その敬語は何とかならんか?」
「ふふっ、おかしなもので敬語で話した方がしっくりするようになりました。
ダメですか?」
「…まぁ、いいけど…」
グイッと腕組みしてきた。
胸が当たった。
「2つほど変わってないものがある…」
「何がですか?」
「メガネ…」
「アハッ…もうコンタクトはできなくて…あと一つは?」
「胸のカップだ…」
「ヤダ!もう…」
「今日は寝かさないからなぁ、覚悟しておけよ!」
顔が真っ赤になった。
「えっ…あっ…は…い」
元夫はギャハハと笑った。元妻も笑った。
「あの…ホントに私でいいのですか?」
元夫は肩を掴んで引き寄せた。
「俺たちは、これからが本当のスタートなんだ。だから、黙ってついて来い。
後悔はさせん」
涙ぐんだ。
「はい…よろしくお願いします」

冬の日差しが2人を照らした。
団体の旅行客らが向かってきた。

そして、2人は人の波に消えていった。





















































































































































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感想 2

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みんなの感想(2件)

どうなんでしょう

こういうの良いです。浮気されたのになにもせず許すとか、浮気しているのに気づかないふりするとか、そういう小説は後味悪いですし、間男の登場も、5年後っていうのも良いです。こういう復縁のハッピーエンドは納得します。今後もこのような小説期待します。

解除
ジャック
2018.12.27 ジャック

一回読み終わってお気に入り外しましたが、読み返したかったので、再度お気に入りに!

2018.12.27 Yamato

ありがとうございます。
拙いものですが、感謝します。

解除

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