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しおりを挟む私には、それはそれはかっこいい龍神の旦那様がいらっしゃる。
腰より長い真っ黒な髪。目の虹彩は金色。でも開きっぱなしの瞳孔は髪と同じ真っ黒。お月様の中に夜がいるような不思議な目。鼻筋はスッと通っていて、唇は薄くって、口の中にはぎらりと光る牙がある。背も高くて、旦那様の胸あたりに、ちょうど私の頭がくるような身長差。
総じて――この世のものとは思えない美しさとかっこよさ。
それが私の夫であり龍神でもある、『旦那様』だった。
婚姻のきっかけは、よくある生贄がどうたら、というやつだ。
神様といっても結構いろんな神様がいるらしくて――たとえば雨を司る神様、とか、豊穣の神様とか。そのときの国の状況によって、供物を捧げる神様は違うとかどうとか。そんな感じ。
なぜこんなに曖昧なのかは、この捧げる行事が『200年に一度』だからだ。だからみんな文献でしか知らないし、もちろん、生き証人だっていない。
でも残された記録を読む限り、この国は神様に供物を捧げたからここまで発展した、との記述が確かにあった。
確かに――うちの国は大きな災害にも恵まれず、水にも土にも恵まれ、伝染病も特に流行ることなく、それはとっても豊かな国だった。
そうして200年に一度の重要なこの機会。
なんと選ばれたのはこの私だったというわけだ。
結婚して一年。最初はとっても戸惑った。
だって供物だなんていうものだから、ぱくっと食べられるのを覚悟して旦那様の元に来たというのに――扱いだけでいえば、花嫁とかが近いような待遇で迎え入れられたからだ。
そして実際、旦那様はこう仰られたらしい。『レティシアは私の花嫁として扱え』と。
それはそれは驚いた。だって人間の国での私の待遇は本当に酷いもので、だからまさか神様のお嫁さんになる日がくるなんて思ってもなかったからだ。
そして旦那様はとっても優しくて、かっこよくて、――それに夜はすっごく情熱的で――私はすぐに大好きになった。
そんな素敵な旦那様。けれどたったひとつ不満があった。
それは――旦那様と会話ができないこと。これが、私が抱えるただひとつの不満点だった。
*
私お付きの龍人――イヴリンは、鏡の前で黙々と私の髪を梳かし続けている。
真っ赤な髪に金の瞳。旦那様と同じで開きっぱなしの瞳孔は真っ黒だ。
そんなイヴリン――人間の外見年齢に当て嵌めていえば30代もかくやという彼女。龍ではあるけれど、神様というわけではなかった。
イヴリンは龍「神」ではない。龍「人」の女性。
私も供物として捧げられるまで知らなかったのだが、――なんと、龍「人」もそこそこいるらしいのだ。
らしい、というのは、嫁いでこの一年、龍神様と私の住む、恐ろしく広いこのお城から出たことがなかったから。顔を合わせるのは旦那様とイヴリン。それに城で働く数名の龍人だけ。
外に出るとしてもお城の庭だけ。それ以上の外出は許されなかった。でもその庭だって、見たことのない綺麗なお花がたくさん咲いていたし、とっても広いし、特に問題はなかったのだけれど。
お城の外には龍人がいっぱいいるらしい。そして私の旦那様は、人間にとっては神様で、そして同時にこの龍の国を統べる龍王でもあるらしい。
……話が逸れてしまった。
とにかく、イヴリンは龍人だった。神様ではない。でも龍。旦那様と同じで、びっくりするほど美しい顔をしている。
ちなみに見たことはないけれど、旦那様もイヴリンも、本来の姿はちゃんと龍らしい。けれどあれはにょろにょろしていて生活し辛い。鱗や長い長い髭の手入れも面倒。だから姿形は人間の模倣をすることにした、とのことだった。
「……レティシア様。できましたよ」
「ありがとう、イヴリン」
髪を梳かしおえたイヴリンは、疲れたように肩を回す。その様子に思わず笑いが漏れた。
「……まったく、骨が折れますよ。奥様の髪に枝毛があったからもっと手入れをちゃんとしろ、だなんて」
「ふふ、そんなものあって当然なのに。旦那様ったら本当に神経質ね」
「神経質どころの騒ぎじゃありませんよ。……いえ、決して奥様を悪く言っているわけじゃありませんからね? 奥様に不満があるわけじゃないですからね? 私のこの不満は、全て、旦那様に向けられているものですから」
「わかってるわ。ありがとうイヴリン」
さぁて今夜のお召し物はどれにしましょうかね。と、鏡台を降りて、イヴリンとドレッサーの前に並ぶ。
私の容姿――銀髪に銀の瞳ではなかなか似合う夜着はない。黒いものだとそれなりに映えるが、清純さの象徴であるような白いものを着れば、『髪も服も真っ白で部屋の隅に溜まった埃みたいね』と罵られるだけで――、
――昔のことを思い出しかけたとき。コンコン、と扉を叩く音が響いた。
「……もう来やがりましたよ」
舌打ちをしたイヴリンは、渋々といった具合で扉を開ける。その先にいたのは――私の大好きな旦那様だ。
「旦那様!」
まだ服も整ってない。湯上がりの後に着ける簡素な服。とても旦那様にお見せできるものではなかったが、嬉しさのあまり旦那様に飛びついてしまう。
旦那様はその金の目をまん丸にしてから、ふっと優しく笑った。私の大好きな、旦那様の笑い方だった。
大きな手がゆるく私の頭を撫でて、旦那様の視線はイヴリンへ向けられた。それから二人は――私の知らない言葉で流暢に会話を始めた。
1年も経てばもう慣れたものだったが――私と旦那様は、今に至るまで言葉らしい言葉を交わしたことがなかった。
理由は至極単純で、『人間と龍では扱う言語が違うから』だ。
だから旦那様と会話をしたことがなかった。
イヴリンとの会話だって、イヴリンが人間の言葉を扱えるから成り立っているのだ。イヴリン曰く「奥様の付き人に据えるから人間の言葉を覚えろと命令された」らしい。
もちろん私だって最初はごねた。
意思疎通が図れないのは単純に面倒だし困り事が多い。だからイヴリンを介して、龍の言葉を教えてほしいと頼んだのに、
『『君の母語である人間の言葉を奪い、こちらの言葉を話させるのは、これまで君が培ってきたものに対する侮辱に等しい行為だろう』だそうです』
『なぁにそれ……』
『さあ? 私にもよくわかりませんね』
『人間の言葉を話しながら龍の言葉も覚えればいいだけじゃないのかしら……』
『一応私もそれは提案したんですけどね。きっぱり断られました』
『ええ……』
『あのクソ龍……ああいえ、つい口が滑ってしまいましたね』
言葉こそ棘があるが、イヴリンも本当に困ってる様子だった。
それでもごねにごねて、せめて挨拶ぐらいは教えてと頼み込んだ結果――
『奥様。3つだけ言葉を教えていいと旦那様から許可が降りました』
『本当!? どんなものなの!?』
しかしイヴリンはどこか顔色が悪かった。
金の目を気まずそうに泳がせて、
『……好き。愛しています。もっと。です』
その言葉に――顔と体が一気に熱くなった。
だってそのときにはもう、私はとっくに旦那様に抱かれていて、毎夜毎夜たくさんたくん愛されていたからだ。
そこにきてこの3つの言葉。それは、寝所でこの言葉を囁け、と暗に言われているのと同じだった。
『……それで……発音ですけどね……』
心底嫌そうな顔をしながらも、イヴリンは丁寧に発音を教えてくれた。
好き、愛してる、もっと。どの言葉も、人間の言葉の発音とは全然違った。何十回も練習して、どうにか習得できたのが懐かしい。
『『好き』、『愛しています』、『もっと』……どう、かしら?』
『うーん、完璧です。なにも言うことはありません』
『よかった! ありがとうイヴリン! これで旦那様と少しお話しできるわ!』
けれどやっぱりイヴリンは嫌そうな顔をしていた。仕方ない。私たちの惚気というか、そういうものに振り回されているのだ。嫌な顔をしないほうがおかしいだろう。
そしてその夜。さっそく旦那様に披露してみせたのだ。
『旦那様、旦那様。『好き』『愛しています』『もっと』……どうですか……?』
私の言葉を聞いた旦那様は驚いたような顔をした。それからすぐに、金色の目が少しだけ潤みだしたではないか。
『だ、旦那様……!?』
発音がおかしかっただろうか? 慌てる私をよそに、しかし旦那様にそのまま押し倒された。
月のように美しい目から、涙が一粒だけ溢れ落ちた。頬に当たったそれは冷たい。
しばらく考えこむようにじっとしていた旦那様が身を屈めて、私の唇を指でなぞった。親指が口の中に入ってきて、ぐにぐにと舌を捏ねる。
『はの……』
言え、と言われているのだろうか?
舌を掴まれたまま、覚束ない舌使いで一度囁く。龍の言葉で『好き』というのを。そしたら旦那様は満足したのか口から指を引き抜き、そのまま甘い口づけが降ってきた。
それからだ。旦那様に抱かれるたびに、その3つの言葉を使うようになったのは。
――でも私は気づいていた。
好き。愛しています。もっと。
この3つの言葉。旦那様は、一度たりとも私に囁いてくれたことがないことに。
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