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公爵令嬢クラリス編
紫の霧
自室の分厚いカーテンを隙間なくきっちりと閉め切って、わたくしは立派な机の前に静かに座っていた。
机の上には、先日廊下で給仕から預かった、あの忌まわしい黒い薬湯の器が置かれている。聖女エマが父であるアーレント公爵を通じて、ライナスに強引に飲ませようとした毒だ。
わたくしは前世のヴェルナー王国で、侯爵令嬢としてつねに完璧であることを厳しく求められていた。誰の心も手に入らないと知りながらも、ただ愛されたくて、高度な教養と魔法の知識を必死に身につけたのだ。
あの雪山でわたくしを追放した王太子アルベルトや冷血公爵リカルドは、その血のにじむような努力を塵ほども評価してはくれなかったが。
しかし、あの地獄のような日々で得た知識が、皮肉にも今この異世界で小さな命を救うための、もっとも強力な武器となっている。
わたくしは右手を静かに薬湯の上に広げ、手のひらから微量の魔力をゆっくりと放出した。
前世の魔法体系である光と水の属性を細かく絡み合わせて、器の中の薬湯の成分を強制的に分離していく。レストン王国の魔法体系とは、まったく異なる緻密で高度な術式だ。
どろりとした黒い液体が淡い光を帯びて、ゆっくりと渦を巻き始める。やがて有益な薬草の成分が水のように透き通り、その底に重く沈殿した、どす黒い粉末だけがはっきりと残された。
これが、ライナスの命を徐々に削り取っていた恐ろしい毒の正体だ。
わたくしは前世の知識を総動員して、その成分を正確に鑑定していく。
ごく微量ずつ長期間にわたって摂取させることで、病死に見せかける、非常に巧妙で悪辣な遅効性の毒だった。聖女エマという女は、自分が表舞台で清らかな神の使いを演じる裏で、こんなおぞましいものを平然と調合していたのだ。
魅了魔法という安易な力で他人の心を操り、邪魔者をこうして少しずつ消していく。なんて底の浅い、浅ましい女だろう。
わたくしはそのどす黒い粉末だけを慎重に抽出し、微量の水で純粋な毒の濃縮液へと再構成した。空気に触れれば布や肌を侵す、不気味な漆の艶を持つ液体だ。前世で学んだ封印術を併用し、極めて薄い水の膜で液体の表面を覆いながら、用意しておいた透明な小さなガラスの薬瓶にすべて移し替える。コルクの栓と魔力の封で二重に閉じて、光にかざしてみる。これで瓶が破られない限り、毒は息を潜めたままだ。
この小さな薬瓶こそが、数日後の婚約発表会で聖女エマと第二王子レオンを、完全に公衆の面前でたたきつぶすための決定的な証拠となる。これでようやく、反撃のすべての準備が完璧に整った。
わたくしは薬瓶をドレスの隠しポケットに静かにしまい込み、小さく冷たい息を吐き出した。
机の上の片付けを終えたわたくしは、自室を出て屋敷の奥にあるライナスの部屋へと向かった。
分厚い木の扉をそっと開けると、ベッドの上で本を読んでいたライナスが、ぱっと顔を輝かせてこちらを見た。
「お姉様」
その明るい声を聞くだけで、わたくしの胸の奥に温かいものがじんわりと広がる。
毒を完全に断ってから数日が経ち、彼の青白かった頬には、ずいぶんと健康的な赤みが戻ってきていた。細くか弱かった呼吸も、今はしっかりと規則正しく力強い。
「気分はどうかしら」
わたくしはベッドのそばに静かに腰を下ろし、彼の柔らかい黒髪をそっとなでた。
「うん、すごくいいよ。なんだか毎日、少しずつ力が湧いてくるみたいなんだ」
ライナスは金の瞳を嬉しそうに細めて、わたくしの手に自分の小さな手を重ねてきた。かつて氷のように冷たかったその手は、今では確かな命の熱を帯びてとても温かい。
このぬくもりを守り抜くためなら、わたくしはどんな悪役にでもなってやる。
そう内心で強く決意を新たにしていると、ふいにライナスが不思議そうに目をしばたたかせた。
「お姉様」
「どうしたの」
「お姉様の頭の上に、紫の靄が見える」
ライナスのその唐突な言葉に、わたくしは思わず動きを止めた。
紫の靄。
それは、わたくしの前世であるオリヴィア・ヴェルナーの象徴とも言える、美しい紫の瞳の色と同じだ。この身体の持ち主であるクラリスは、黒髪に金の瞳であり、紫色などどこにも存在しないはずなのに。
(前世の魂の色が、見えているのか)
わたくしは内心で激しく驚きながらも、表面上は冷たい仮面を崩さずに静かに微笑んだ。
「何かの見間違いではないかしら。わたくしの頭の上には、何もありませんわよ」
しかしライナスは真剣な顔で、小さく首を横に振った。
「ううん、見間違いじゃないよ。僕には昔から、いろんな人の頭の上に色のついた靄が見えるんだ」
ライナスは少しだけためらうように、視線を落としてから言葉を続けた。
「お母様の靄は金色だった。でも、お姉様の今の靄は、お姉様じゃない人の色だ」
その言葉は、わたくしの心のもっとも深い部分を、鋭く正確に射抜いた。
この子は今のわたくしが、本来のクラリスではない別の誰かの魂であることに、直感的に気づいているのだ。ただの病弱な少年にすぎないと思っていた弟が、こんな恐ろしいほどに鋭い特殊な能力を秘めていたなんて。
(この子には、見えている)
わたくしは息を呑むのを、必死にこらえた。
もしこの能力が知られれば、聖女エマのような狡猾な者たちに必ず利用され、この子は本当に壊されてしまう。
わたくしはライナスの小さな両肩を、そっと優しくしかし力強く包み込んだ。
「ライナス。そのお話は、わたくし以外の誰かにしたことはあるの」
わたくしの真剣な声の響きに、ライナスは少しだけおびえたように肩をすくめた。
「お父様に昔話したことがあるけれど、熱のせいだって信じてもらえなかった。だから、誰にも言っていないよ」
「そう。なら、これからも絶対に誰にも言ってはいけませんわ」
わたくしは極めて静かで、落ち着いた声でそう言い聞かせた。
「その力は、あなたを守るための大切な秘密なの。だから、誰にも知られてはいけないのよ」
ライナスは金の瞳を大きく見開いてわたくしの顔をじっと見つめ、やがてこくりと力強くうなずいた。
「わかった。お姉様との秘密にするよ」
その無邪気な笑顔を見つめながら、わたくしは胸の奥で重く複雑なため息をついた。
この子は、わたくしが本当の姉ではないと無意識のうちに感じ取っている。それでも、わたくしを信頼しすがりついて、温かい手を伸ばしてくれているのだ。
なら、わたくしは明日何があろうとも、この子の姉として立派に振る舞い、彼を必ず守り抜いてみせる。
「少し休んでいなさい。また明日来るわ」
ライナスを優しく寝かしつけてから、わたくしは静かに部屋を後にした。
屋敷の廊下を歩きながら、わたくしは自分の頭の上をふと見上げた。当然だが、わたくしの目には紫の靄などまったく見えない。
しかし前世の魂の痕跡がこの身体に確かに刻まれているという事実は、わたくしを奇妙な不安にさせた。もしライナスに見えるのなら、あの男たちにも見えるのではないか。
あの空のゆがみ。あれを差し向けてくる何者かが、もし次元を越えてこちらへ追手を放っているのだとしたら。その者たちがこの世界に現れた時、わたくしがクラリスの姿をしていても、中身がオリヴィアだと直感的に見抜いてしまうのではないか。
ふと、窓の外の空を見上げる。
澄んだ青空の端に、またしてもあの不自然な黒い空間のゆがみがかすかに走った。まるで雷光のように縦に小さく裂けたそのゆがみから、得体の知れない強い執着の気配がじわじわと漏れ出している。
次元の裂け目。
そこからゆっくりとだが確実に、わたくしを追放した過去の亡霊たちがこちらへ向かって歩を進めているのだ。アルベルトの宣告と、リカルドの視線。あの凍えるような雪山の恐怖が、足元から静かに這い上がってくるような気がした。
しかしわたくしは、もう逃げも隠れもしない。証拠の入った薬瓶の重みを、ドレスのポケット越しにしっかりと確認する。
机の上には、先日廊下で給仕から預かった、あの忌まわしい黒い薬湯の器が置かれている。聖女エマが父であるアーレント公爵を通じて、ライナスに強引に飲ませようとした毒だ。
わたくしは前世のヴェルナー王国で、侯爵令嬢としてつねに完璧であることを厳しく求められていた。誰の心も手に入らないと知りながらも、ただ愛されたくて、高度な教養と魔法の知識を必死に身につけたのだ。
あの雪山でわたくしを追放した王太子アルベルトや冷血公爵リカルドは、その血のにじむような努力を塵ほども評価してはくれなかったが。
しかし、あの地獄のような日々で得た知識が、皮肉にも今この異世界で小さな命を救うための、もっとも強力な武器となっている。
わたくしは右手を静かに薬湯の上に広げ、手のひらから微量の魔力をゆっくりと放出した。
前世の魔法体系である光と水の属性を細かく絡み合わせて、器の中の薬湯の成分を強制的に分離していく。レストン王国の魔法体系とは、まったく異なる緻密で高度な術式だ。
どろりとした黒い液体が淡い光を帯びて、ゆっくりと渦を巻き始める。やがて有益な薬草の成分が水のように透き通り、その底に重く沈殿した、どす黒い粉末だけがはっきりと残された。
これが、ライナスの命を徐々に削り取っていた恐ろしい毒の正体だ。
わたくしは前世の知識を総動員して、その成分を正確に鑑定していく。
ごく微量ずつ長期間にわたって摂取させることで、病死に見せかける、非常に巧妙で悪辣な遅効性の毒だった。聖女エマという女は、自分が表舞台で清らかな神の使いを演じる裏で、こんなおぞましいものを平然と調合していたのだ。
魅了魔法という安易な力で他人の心を操り、邪魔者をこうして少しずつ消していく。なんて底の浅い、浅ましい女だろう。
わたくしはそのどす黒い粉末だけを慎重に抽出し、微量の水で純粋な毒の濃縮液へと再構成した。空気に触れれば布や肌を侵す、不気味な漆の艶を持つ液体だ。前世で学んだ封印術を併用し、極めて薄い水の膜で液体の表面を覆いながら、用意しておいた透明な小さなガラスの薬瓶にすべて移し替える。コルクの栓と魔力の封で二重に閉じて、光にかざしてみる。これで瓶が破られない限り、毒は息を潜めたままだ。
この小さな薬瓶こそが、数日後の婚約発表会で聖女エマと第二王子レオンを、完全に公衆の面前でたたきつぶすための決定的な証拠となる。これでようやく、反撃のすべての準備が完璧に整った。
わたくしは薬瓶をドレスの隠しポケットに静かにしまい込み、小さく冷たい息を吐き出した。
机の上の片付けを終えたわたくしは、自室を出て屋敷の奥にあるライナスの部屋へと向かった。
分厚い木の扉をそっと開けると、ベッドの上で本を読んでいたライナスが、ぱっと顔を輝かせてこちらを見た。
「お姉様」
その明るい声を聞くだけで、わたくしの胸の奥に温かいものがじんわりと広がる。
毒を完全に断ってから数日が経ち、彼の青白かった頬には、ずいぶんと健康的な赤みが戻ってきていた。細くか弱かった呼吸も、今はしっかりと規則正しく力強い。
「気分はどうかしら」
わたくしはベッドのそばに静かに腰を下ろし、彼の柔らかい黒髪をそっとなでた。
「うん、すごくいいよ。なんだか毎日、少しずつ力が湧いてくるみたいなんだ」
ライナスは金の瞳を嬉しそうに細めて、わたくしの手に自分の小さな手を重ねてきた。かつて氷のように冷たかったその手は、今では確かな命の熱を帯びてとても温かい。
このぬくもりを守り抜くためなら、わたくしはどんな悪役にでもなってやる。
そう内心で強く決意を新たにしていると、ふいにライナスが不思議そうに目をしばたたかせた。
「お姉様」
「どうしたの」
「お姉様の頭の上に、紫の靄が見える」
ライナスのその唐突な言葉に、わたくしは思わず動きを止めた。
紫の靄。
それは、わたくしの前世であるオリヴィア・ヴェルナーの象徴とも言える、美しい紫の瞳の色と同じだ。この身体の持ち主であるクラリスは、黒髪に金の瞳であり、紫色などどこにも存在しないはずなのに。
(前世の魂の色が、見えているのか)
わたくしは内心で激しく驚きながらも、表面上は冷たい仮面を崩さずに静かに微笑んだ。
「何かの見間違いではないかしら。わたくしの頭の上には、何もありませんわよ」
しかしライナスは真剣な顔で、小さく首を横に振った。
「ううん、見間違いじゃないよ。僕には昔から、いろんな人の頭の上に色のついた靄が見えるんだ」
ライナスは少しだけためらうように、視線を落としてから言葉を続けた。
「お母様の靄は金色だった。でも、お姉様の今の靄は、お姉様じゃない人の色だ」
その言葉は、わたくしの心のもっとも深い部分を、鋭く正確に射抜いた。
この子は今のわたくしが、本来のクラリスではない別の誰かの魂であることに、直感的に気づいているのだ。ただの病弱な少年にすぎないと思っていた弟が、こんな恐ろしいほどに鋭い特殊な能力を秘めていたなんて。
(この子には、見えている)
わたくしは息を呑むのを、必死にこらえた。
もしこの能力が知られれば、聖女エマのような狡猾な者たちに必ず利用され、この子は本当に壊されてしまう。
わたくしはライナスの小さな両肩を、そっと優しくしかし力強く包み込んだ。
「ライナス。そのお話は、わたくし以外の誰かにしたことはあるの」
わたくしの真剣な声の響きに、ライナスは少しだけおびえたように肩をすくめた。
「お父様に昔話したことがあるけれど、熱のせいだって信じてもらえなかった。だから、誰にも言っていないよ」
「そう。なら、これからも絶対に誰にも言ってはいけませんわ」
わたくしは極めて静かで、落ち着いた声でそう言い聞かせた。
「その力は、あなたを守るための大切な秘密なの。だから、誰にも知られてはいけないのよ」
ライナスは金の瞳を大きく見開いてわたくしの顔をじっと見つめ、やがてこくりと力強くうなずいた。
「わかった。お姉様との秘密にするよ」
その無邪気な笑顔を見つめながら、わたくしは胸の奥で重く複雑なため息をついた。
この子は、わたくしが本当の姉ではないと無意識のうちに感じ取っている。それでも、わたくしを信頼しすがりついて、温かい手を伸ばしてくれているのだ。
なら、わたくしは明日何があろうとも、この子の姉として立派に振る舞い、彼を必ず守り抜いてみせる。
「少し休んでいなさい。また明日来るわ」
ライナスを優しく寝かしつけてから、わたくしは静かに部屋を後にした。
屋敷の廊下を歩きながら、わたくしは自分の頭の上をふと見上げた。当然だが、わたくしの目には紫の靄などまったく見えない。
しかし前世の魂の痕跡がこの身体に確かに刻まれているという事実は、わたくしを奇妙な不安にさせた。もしライナスに見えるのなら、あの男たちにも見えるのではないか。
あの空のゆがみ。あれを差し向けてくる何者かが、もし次元を越えてこちらへ追手を放っているのだとしたら。その者たちがこの世界に現れた時、わたくしがクラリスの姿をしていても、中身がオリヴィアだと直感的に見抜いてしまうのではないか。
ふと、窓の外の空を見上げる。
澄んだ青空の端に、またしてもあの不自然な黒い空間のゆがみがかすかに走った。まるで雷光のように縦に小さく裂けたそのゆがみから、得体の知れない強い執着の気配がじわじわと漏れ出している。
次元の裂け目。
そこからゆっくりとだが確実に、わたくしを追放した過去の亡霊たちがこちらへ向かって歩を進めているのだ。アルベルトの宣告と、リカルドの視線。あの凍えるような雪山の恐怖が、足元から静かに這い上がってくるような気がした。
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