きみにふれたい

広茂実理

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儚さの12月

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 三年生の冬。進学先は、既に推薦で決まっていた。成績を大幅に落としたり、問題を起こしたりしなければ、後は卒業するだけという安泰の日々を過ごしていた。
 友達も部活を引退してしまったし、私も最近は通院する頻度が増えていたこともあって、学校が終われば家へ直帰するという生活を送っていた。
 そんな日々の中、今日もまた正門を通れば、俯きながらランドセルを背負って歩いて行く小学生がいた。
 この子は、毎日私と擦れ違うのだ。
 一年生か、二年生くらいだろうか――はしゃぎながら駆けていく子たちと同じように見えるのに、その姿は一緒とは思えなかった。
 幼いながらも整った顔で、明るめの茶髪は地毛なのだろうか。黒いランドセルが、あまり似合わなかった。
 毎日毎日そんな暗い顔をされれば、こちらとしても気になるというもので。その辺の無邪気な子どもたちなんて、昨日は泣いていたかと思えば、今日はけらけら笑って走っていく。それなのにその子は、毎日同じ顔で私の目の前を通り過ぎていくのだ。
 学校がつまらないのだろうか。いじめられているのだろうか――勝手な憶測が、頭の中を巡る。まあ、どれだけ考えたところで、話したこともないから正直何もわからないのだけれど。
 今日もそうやって、前を歩く子のことを何げなく見ていた。
「ん?」
 彼が何かに気付いたかのように、ある一点を見つめて足を止めた。この歩道はさほど広くはないので、そうやって立ち止まられると困るのだけれど……。
 車道に下りるか? いや、結構な交通量だ。あまり気が乗らない。
 私はもう少し端に寄ってもらうべく、声を掛けようとする。そこで、彼が見ていたものに気付いた。
「仔猫?」
 私の独り言に驚いたのか――彼は肩を跳ねさせ、こちらを見上げて固まってしまった。
「え……」
 怖がらせてしまったのだろうか。確かに私が小学校低学年の時、高校生なんて大きく見えたものだ。
「あ、ごめんね。突然、驚かすつもりはなくて……」
 ああ、どうしよう。どんどん涙が溜まっているように見えるのは、気のせいではないだろう。なんてことだ。小学生男子を泣かせてしまうなんて。
 私が困り果てて弱っていると、横を同級生らしき数人の男の子が駆けていった。
「あいつ、また泣いてるぜ」
「やーい、泣き虫ライオン!」
「ライオンのくせに、泣き虫ー!」
 言うだけ言って、彼らは走り去っていく。ライオンとか言っていたけれど、きっとこの子のことだよね……。と、目の前の子は我慢していたのに、とうとう砦が壊れてしまったようだった。
「マジか……」
 これでは、どこからどう見ても私が泣かせたように見えるだろう。いや、実際私も要因の一部なのだろうが、しかし、私だけのせいでもなさそうなので、そう思われるのも困る。私は迷った挙句、そのまま置いていくわけにもいかなかったので、近くの公園へとその子を連れていった。
 これが、私と彼の出会いだった。

「お茶、飲む?」
 ベンチに座って、きょろきょろと辺りを見渡す。あまり人の姿が見えない公園だ。私もあるのは知っていたが、足を踏み入れたのは初めてだった。とりあえず、そばに自販機があったので気を紛らわすつもりで聞いてみたのだが、無言でふるふると首を横に振られた。
「そっか……」
 どうしたものか。つい連れてきてしまったが、これって犯罪だったりするのかな……。
 誘拐という単語が頭を掠めたその時、茂みから先程の仔猫が現れた。どうやら、ついてきたようだ。その姿に、彼の涙が止まる。
「Here kitty! Here kitty!」
「え――」
 彼の口から出てきたのは、流暢な英語。
 まさか。え、マジで? どうしよう。私、英語できない。
 今のは、おそらく仔猫に呼び掛けていたのだろう。「こっちおいで」ってところだろうか。
 泣き止んでくれたのはいいのだが、うまくコミュニケーションをとれる自信がない。急に不安になった私は、この場を立ち去ることにした。
 とりあえず、お茶のくだりで反応をしていたから、日本語がわからないことはない、よね……。
「あー、えっと、さっきは驚かせてごめんね。じゃあ、私はこれで……」
 そう言って立ち上がりかけたのだが、スカートが私の一歩を阻んだ。
「え……」
 もちろん、スカートが主人の意に反しているなんてことはなく。力の加わった一点――そちらをついと見やれば、制服が掴まれていた。その手の持ち主は、泣いていた子どもだ。
 無垢な瞳にじっと見つめられ、無碍にできない高校生。
「Please don't……あ……えっと、行く、ない……行く……?」
 彼は英語で言いかけて、すぐさま言い直すように言葉を探していた。
 何が言いたいのだろう。禁止語と、行くという言葉――
「もしかして、行かないで?」
「行かないで! 行かないで!」
 どうやら、当たっていたようだ。それにしても、行かないでとはどういうことだろうか。離してもらえそうもなかったので、とりあえず私は再びベンチに腰を下ろしたのだった。
「わかった。行かないから、手を放して。服が皺になっちゃう」
「Sorry……あ、えっと、ごめんなさい」
「いいよ。気にしないで」
 パッと手を放してくれた姿に、くすりと笑みが零れた。素直な可愛らしい子だ。
 どうやら、日本語は理解できるようだ。そういえば、あの男の子たちの言葉もわかっていたようだった。理解はできるが、話すのには慣れていないというところか。咄嗟に出るのは英語らしい。
「ごめんね。英語、話せなくて」
「え……」
「だって、私が話せたらもっと気楽に喋れるでしょ。あ、意味のわからない言葉があったら、言ってね」
「……! ……ありが……? ありが、とう」
「どういたしまして。でも、どうして私を引き留めたの?」
「あ! えっと……泣いた、ごめん、なさい。あなた、悪い、違う」
「それを伝えるために?」
 こくりと頷くその姿が、どうしようもなく可愛かった。
「そんなの、わざわざいいのに。気にしなくていいよ」
「許す、くれる?」
「うん」
 そう頷けば、パッと花が咲いたような笑顔になった。嬉しいを表すに相応しいその表情に、コミュニケーションは言葉だけではないと知った。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか。遅くなると、家族の人が心配しちゃうよ」
「……また、会う、できる?」
「私と?」
 こくりと頷く子どもとの奇妙な関係が、この日から始まった。

 それから約束したわけでもないのに、正門を出るとちょうど通りかかる小学生がいた。前からそうだったのだ。突然変わることもない。
 違うことといえば、彼の表情が少し明るくなったという点だろうか。
 私たちはあの日から、少し公園へ寄り道をしてから帰るという日々を過ごしていた。公園でしていたことを簡単に言うならば、私は彼の日本語の先生をしていた。
 秋頃、数年ぶりに帰国した彼の家族。彼にとっては物心ついた頃には海の向こうにいたので、なかなか馴染めずにいるようだった。家族とも日本語で会話はするようなのだが、どうしても英語ばかり使っていたので、咄嗟に日本語で伝えたいことが出てこない。それが原因で、同級生からは仲間外れにされてしまったようだった。
 しかし、彼は物覚えの早い、賢い子。会話を重ねていくことでどんどんと吸収し、英語ほどではないものの、スラスラと日本語での会話ができるようになっていったのだ。
 それでも、子どもの世界は残酷で。既にできあがった教室内の関係が簡単に変わることはなく、彼は学校で楽しいと感じたことは一度もないと言うのだった。
「お姉さん、春が来たらもう会えないの?」
 ある日そう問われて、初めて認識した。卒業まで、あと少しの頃。
 進学先の大学は、まったく違う方向だ。となると、この関係にも終わりが来る。
「そうだね……卒業したら、もうこの辺りには滅多に来なくなっちゃうね」
「そうなんだ……」
 見るからに肩を落とす彼。しかし、こればっかりは仕方がない。
「嫌だな……お姉さんに会えなくなるなんて」
 すっかり懐かれてしまったなと思いつつ、寂しさを感じている自分がいることも、確かだった。
「学校……行きたくないな」
 ぼそりと呟かれた声に、言葉を失った。
 こんな年で行きたくないと思うなんて、すごいことだと思う。それはその環境にではなくて、その考えに至ることがだ。
 もちろん、そう思わせる周りの状況もあるのだろう。だけれど、一年生の子どもが辿り着く考えなのだろうか。
 それほどの苦痛が、彼の生活にあるのだろう。
 しかし、彼は実際にはそうしない。家族に心配をかけたくないと言うのだ。
 一度、家族の人に相談してみてはどうかと言ったことがある。しかし、彼は黙り込んでしまった。だから、その時はまだ言えないのだと思った。そういうこともある。私もそうだったから、それ以上は何も言わなかった。
「十二年か……大きいね」
「え?」
「せめて同じ小学生ならさ、その場にいたら、守ってあげられるのに……」
「お姉さん……」
「なんてね。日本語もすごく上手になっているし、きっといい友達ができるよ」
「……」
 私は、この時に気付くべきだった。彼の無言に秘められた、本当の気持ちに。
 そして、その日はやってきた。
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