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一章 異世界
1 僕の仕事場
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陸の孤島と言われる中洲に僕の勤める製薬会社がある。高い鉄塔から見える蕩々とした川は教科書の物語『走れメロス』の中の川のようで、きっと勇者でない僕には泳ぎきれないだろう。
原因不明の成長不全で毎月地元の大学病院に通院していた僕は、母親と通院途中、トラックに追突される交通事故に巻き込まれた。
「明、あきらは無……事?」
それが母の最後の言葉だった。
母は車の中で挟まれたまま死に、僕は瀕死の重体を負って救急車で運ばれていく最中に、事は起こった。救急車の中で自己治癒が始まったらしい。
僕は大学病院が提携している製薬会社の研究室に移された。より高い生体検査の結果、人の二分の一の速度で成長する成長不全障害と傷の治りを含めたミトコンドリア代謝異常向上性を持ち合わせていることが判明して、製薬会社の上の人が父に治療を含めた治験者として製薬会社と契約を持ち掛けた。
当時父は残された妹の世話をしながら生活をしていた。十歳の僕は二つ下の妹にとっくに背丈を抜かされ、小学校でも幼稚園児みたいな身長だから、なんとなく居辛い感じがしていて学校より治験者として会社に留まることを選択した。それから十年、治験料は会社員の父に全て送金され、通信制高校まで卒業した僕は製薬会社の社員として正式採用され、泊まり込み生活をしている。
僕の職場はもっぱら陰圧室で、ウィルスを注射され抗体を作り、血清にするのが僕の仕事だ。ウィルスによっては全身から血が噴き出したり、呼吸器がおかしくなるものもあって命懸けだけれど、こんな僕が誰かの役に立っているならと思い、製薬会社の棟からは出られない少しばかり退屈な日々を過ごしている。
「明くん、血液検査をしますね」
もう何年も僕の生体管理をしている安藤さんが、器用に血を抜いていく。何本か真空採血管を変えて止血する。
「明日からまた治験だってね。投薬治験だから楽だと思うわよ」
「あはは、そうだといいんですが」
僕は曖昧に笑って見せた。今年赴任して来た酒井所長から言われているのは、寄生虫投薬治験だ。忘れもしない。四月のある日、食事に混ぜられた寄生虫数匹に身体中を移動され食い荒らされた。ギリギリになるまで投薬をされず、僕は陰圧室の寝台で苦しみもがいていた。結局喉が腫れて窒息寸前で投薬されたんだけど、僕の治癒力が見たかっただけのようだ。そんな痩せぎすの酒井所長の冷たい笑みを浮かべた目が、
「世界で一番危険な寄生虫投薬治験だよ」
と僕を見下ろして話したんだ。ガッコウチュウだったか、死の恐怖と身体中を喰われる苦痛。すぐには出ない薬を望んで泣きながら懇願する僕の姿が想像出来る。
怖い……怖くてたまらない。
「大丈夫?」
僕は安藤さんを見上げて、
「平気です。投薬実験は楽ですし」
と笑った。
「そうそう、もうじき二十歳よね。成人式、スーツにする?羽織袴にする?」
製薬会社でささやかな成人式を有志でしてくれるという話が出ていて、安藤さんが息子さんが小学校の卒業式で来たスーツか、羽織袴を貸してくれるというんだ。
「羽織袴なんて七五三みたいで……スーツを貸してください」
「写真をお父さんに送りましょうね。しばらく帰ってないでしょ」
「ありがとうございます」
安藤さんが出て行って、僕は一人になった。陰圧室ではない僕のパーソナルスペースも管理が行き届いている。適温による体温調節、食事や水の一定の温度、乱れることのない規則正しい生活。
それなのに、酒井所長が来てから、僕の成長はぴたりと止まってしまった。四月の寄生虫投薬治験は僕の精神を痛めつけた。成人年齢十八を超えた辺りから辛い治験は増えたけれど、酒井所長の寄生虫投薬治験が一番辛い。ギリギリまで投薬されないのは、僕の治癒力を見ているからかと思うんだけど、酒井所長の笑っている目が怖かった。
長い髪もおかっぱに切るように命じたのも酒井所長だった。髪は有名な毛髪会社に売られて植毛実験に使われたそうだ。僕の髪や危険な寄生虫投薬治験はかなり高めに設定されて、追加治験料として父に入金されたらしい。そんな手紙がやって来た。妹は高校を卒業したら就職するらしい。僕の生体管理において面会は謝絶されていて、少ない手紙だけが家族と繋がりだった。
手紙は酒井所長の検閲にあい、
「君のお父さんは金の成る木を得たようだねえ」
なんて貼り付いた笑い顔で話して来た。それを思い出す。一日一万円、必ず治験薬成功を生む僕の価値だ。新薬承認時にはボーナスが出るらしいけれど、その全てを父の銀行口座に入るようにお願いしてある。僕の衣食住は保証されているし、治験体には必要経費が存在している。僕が生きている分には、お金が必要ないんだ。
「少し外を歩いてこようかな」
昼ご飯を食べた後、僕は許可を貰い、研究室施設の庭に出た。中庭にも監視カメラがある。ベンチに座り遠い水面を眺めていた。九月の川は渇水気味だ。もう少しすると秋の長雨で増水する。今なら泳いで渡れるのかな。でも、僕は泳げないや。
明日がこなればいい。
誰か助けて下さい。
殺人寄生虫でも、僕は絶対に死ぬことはない。でも、死ぬほど苦しいことになる。
僕が僕の血肉でいる限り、治験は続く。ウィルスや寄生虫を体内に取り込み、時には血清を作り、新薬を試される。いつも疑問が残る。僕はどうやって死ぬのかな。死にたい時、僕はどう死ぬのだろう。死にたくはないけれど、死にたいほど辛い治験でいつも思う。明日はきっと思う。
「誰か助けてくれないかな、なんてね」
そう思いながら呟き部屋に戻っていった。
原因不明の成長不全で毎月地元の大学病院に通院していた僕は、母親と通院途中、トラックに追突される交通事故に巻き込まれた。
「明、あきらは無……事?」
それが母の最後の言葉だった。
母は車の中で挟まれたまま死に、僕は瀕死の重体を負って救急車で運ばれていく最中に、事は起こった。救急車の中で自己治癒が始まったらしい。
僕は大学病院が提携している製薬会社の研究室に移された。より高い生体検査の結果、人の二分の一の速度で成長する成長不全障害と傷の治りを含めたミトコンドリア代謝異常向上性を持ち合わせていることが判明して、製薬会社の上の人が父に治療を含めた治験者として製薬会社と契約を持ち掛けた。
当時父は残された妹の世話をしながら生活をしていた。十歳の僕は二つ下の妹にとっくに背丈を抜かされ、小学校でも幼稚園児みたいな身長だから、なんとなく居辛い感じがしていて学校より治験者として会社に留まることを選択した。それから十年、治験料は会社員の父に全て送金され、通信制高校まで卒業した僕は製薬会社の社員として正式採用され、泊まり込み生活をしている。
僕の職場はもっぱら陰圧室で、ウィルスを注射され抗体を作り、血清にするのが僕の仕事だ。ウィルスによっては全身から血が噴き出したり、呼吸器がおかしくなるものもあって命懸けだけれど、こんな僕が誰かの役に立っているならと思い、製薬会社の棟からは出られない少しばかり退屈な日々を過ごしている。
「明くん、血液検査をしますね」
もう何年も僕の生体管理をしている安藤さんが、器用に血を抜いていく。何本か真空採血管を変えて止血する。
「明日からまた治験だってね。投薬治験だから楽だと思うわよ」
「あはは、そうだといいんですが」
僕は曖昧に笑って見せた。今年赴任して来た酒井所長から言われているのは、寄生虫投薬治験だ。忘れもしない。四月のある日、食事に混ぜられた寄生虫数匹に身体中を移動され食い荒らされた。ギリギリになるまで投薬をされず、僕は陰圧室の寝台で苦しみもがいていた。結局喉が腫れて窒息寸前で投薬されたんだけど、僕の治癒力が見たかっただけのようだ。そんな痩せぎすの酒井所長の冷たい笑みを浮かべた目が、
「世界で一番危険な寄生虫投薬治験だよ」
と僕を見下ろして話したんだ。ガッコウチュウだったか、死の恐怖と身体中を喰われる苦痛。すぐには出ない薬を望んで泣きながら懇願する僕の姿が想像出来る。
怖い……怖くてたまらない。
「大丈夫?」
僕は安藤さんを見上げて、
「平気です。投薬実験は楽ですし」
と笑った。
「そうそう、もうじき二十歳よね。成人式、スーツにする?羽織袴にする?」
製薬会社でささやかな成人式を有志でしてくれるという話が出ていて、安藤さんが息子さんが小学校の卒業式で来たスーツか、羽織袴を貸してくれるというんだ。
「羽織袴なんて七五三みたいで……スーツを貸してください」
「写真をお父さんに送りましょうね。しばらく帰ってないでしょ」
「ありがとうございます」
安藤さんが出て行って、僕は一人になった。陰圧室ではない僕のパーソナルスペースも管理が行き届いている。適温による体温調節、食事や水の一定の温度、乱れることのない規則正しい生活。
それなのに、酒井所長が来てから、僕の成長はぴたりと止まってしまった。四月の寄生虫投薬治験は僕の精神を痛めつけた。成人年齢十八を超えた辺りから辛い治験は増えたけれど、酒井所長の寄生虫投薬治験が一番辛い。ギリギリまで投薬されないのは、僕の治癒力を見ているからかと思うんだけど、酒井所長の笑っている目が怖かった。
長い髪もおかっぱに切るように命じたのも酒井所長だった。髪は有名な毛髪会社に売られて植毛実験に使われたそうだ。僕の髪や危険な寄生虫投薬治験はかなり高めに設定されて、追加治験料として父に入金されたらしい。そんな手紙がやって来た。妹は高校を卒業したら就職するらしい。僕の生体管理において面会は謝絶されていて、少ない手紙だけが家族と繋がりだった。
手紙は酒井所長の検閲にあい、
「君のお父さんは金の成る木を得たようだねえ」
なんて貼り付いた笑い顔で話して来た。それを思い出す。一日一万円、必ず治験薬成功を生む僕の価値だ。新薬承認時にはボーナスが出るらしいけれど、その全てを父の銀行口座に入るようにお願いしてある。僕の衣食住は保証されているし、治験体には必要経費が存在している。僕が生きている分には、お金が必要ないんだ。
「少し外を歩いてこようかな」
昼ご飯を食べた後、僕は許可を貰い、研究室施設の庭に出た。中庭にも監視カメラがある。ベンチに座り遠い水面を眺めていた。九月の川は渇水気味だ。もう少しすると秋の長雨で増水する。今なら泳いで渡れるのかな。でも、僕は泳げないや。
明日がこなればいい。
誰か助けて下さい。
殺人寄生虫でも、僕は絶対に死ぬことはない。でも、死ぬほど苦しいことになる。
僕が僕の血肉でいる限り、治験は続く。ウィルスや寄生虫を体内に取り込み、時には血清を作り、新薬を試される。いつも疑問が残る。僕はどうやって死ぬのかな。死にたい時、僕はどう死ぬのだろう。死にたくはないけれど、死にたいほど辛い治験でいつも思う。明日はきっと思う。
「誰か助けてくれないかな、なんてね」
そう思いながら呟き部屋に戻っていった。
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