蒼淵の独奏譚 ~どこか壊れた孤高で最強の魔法使いがその一生を終えるまでの独奏物語~

蔵之介

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一. アッシュの章

17. 地下牢からの脱出

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 豚の頭が吹っ飛んだ方とは逆に俺は走る。

 グレフとかいうあの恐ろしい化け物が急に現れた事も、旦那がそいつを一瞬で殺しちまったのも驚いたし、正直頭がついていけてないのが正直なところではあるが、この際世界は何でもありなんだと思い込まないとコッチがヤラれてしまうと考えて、俺はもう疑問を持たない事にした。

 疑問は後回し。

 今自分の目の前で起こっている事こそ現実なのだ。受け入れざるを得ない。


 それに時間がない。

 村人の姿は見えないが、化け物はいた。

 何故か動物の豚そっくりの恰好をしていたが、あの白いモヤのような塊を擬態化させていたみたいで、そいつは旦那に一発で仕留められた時に絶命の悲鳴すら出させてもらえず消滅しちまった。

 旦那曰く、一匹だけではないとの事なので、そいつが援軍を呼ぶ前に、それに地下室で暴れている俺たちを察して村人たちが戻ってくる前にと、急いでいるのである。


 グレフは旦那に任せて、俺は隣の小部屋へ向かう。

 俺と一緒に捕まった、満身創痍の夫婦達が囚われているはずの牢屋。

 彼らは無事であろうか。
 俺たちが囚われて以降、彼らのほうからは何の音も聞こえてこなかった。

 俺達と同様の行為を村人達に強いられている可能性は高かったが、親父もアマラばあさんも残された望みは俺と女装した旦那だけだとの言葉が気になる。


 土を踏みこんで止まる。

 赤茶色に錆びた鉄格子を掴む。

 ああ、くそ。

 灯りがないから中が見えない。
 俺たちの部屋の前に刺さったままの松明を持ってこようか頭を振る。すると真横に俺が欲した灯りがあらわれた。

「旦那!」

 見ると旦那がその松明を手に俺の傍へとやってくる。

 俺は旦那から火を受け取り、薄暗い部屋を照らした。


 俺達と同じ、狭く汚い室内。

 布団が置いてあった場所、格子から最も離れた位置に、こんもりとした黒い影が見える。

 光はそこまでは届かない。


 途端に、ツンとした吐き気を催す苦みを感じた。

 なんだ、この臭いは。

 腐った魚のような、ヘドロのような、とてつもない臭い。

 隣の旦那を見たが、相変わらずローブで顔が隠れていて表情がまるで分らない。

 旦那は黙ってその黒い影を見つめたままだ。


「おい、無事か」

 口元を抑えながら声をかける。
 こんもりとした影が少し動く。

「俺だよ、アッシュ…って名前を言っても分かんねえか。一緒に捕まった隣の部屋の男だよ!」

 声を掛けながら、先程脱出した際に使った魔法を構築していく。
 旦那が周囲を警戒しだす。

 輪違いの紋章が青白く光る。
 まるでホタルの瞬きのような、淡く脆い光。
 しかし間違いなく俺の声に応えた精霊の合図。

「そうか、さきほどの音はそれか。脱出に成功したのか」

 影が喋った。
 随分と掠れた声。

 鉄格子の入り口に視線を落とす。乾いた土がこびり付いただけの柄杓が転がっている。まさかこの人も、俺達と同じで食べ物を与えられていない?

「旦那、水を!!」

 隣に佇む旦那に向かって叫ぶ。

 まだ俺たちの部屋に水は残っているはずだ。
 怪我人相手になんて仕打ちだと憤慨する。

 しかし旦那は動かない。

 まっすぐにその黒い塊を見つめ、臭いに閉口する俺を余所に、旦那は顔を逸らしもしない。

か」

 端的に、旦那は言った。


 いった?


 その言葉を受け、塊が大きく動く。

 塊だと思っていたものは汚れた布団であり、彼らはそれを二人で被っていたようだった。

 男がその布団をまくり上げた時、一層臭いがキツくなった。


 まさかまさか。
 考えたくもないがこの臭いはまさか。


「…妻はよ。一度も目覚める事なく、な」

 あれから何日経ったか正確な日時は分からない。
 この地下牢は狭く、蒸し暑く、息苦しい。

 男は感情の無い声で、すでに死に絶え、腐り始めたその肢体を抱きしめた。


「そうか。残念だったな」

 ちっとも残念そうな声色ではなかったが、男に気にする素振りはなく、ただ俺達を見上げている。

「噂を信じないで、大人しく《中央》に引き籠ってりゃ、こんな目に遭わさずに済んだのに。妻には俺に散々付き合わせといて悪い事したな」

 そしてゴトリとその肢体を落とした。

「噂って、俺たちの村の話か?」
「そうだよ」

 力なく男が言う。
 妻の変わり果てた亡骸を、じいと見つめたままで。

 それに旦那が付随して答えた。

「噂があったんだ。場所の特定までは至ってなかったが、災厄の不幸を遥かに凌駕したこの世の《桃源郷》が存在すると」

 その地は豊穣に恵まれ、木々は青く生い茂り、草木はたくましく根付く。

 水は透き通り、果実は甘く、そこに住む人々も皆優しく歓迎してくれる、まさにこの世の天国。

「ただの噂に過ぎないと思われていたが、そのエデンを探して帰ってこない者達もいてな。そいつらを心配した親や家族が教会に捜索願を出した。《中央》のギルドが情報収集して、ようやくこの村にたどり着いた。三か月前、村にやってきた聖職者の二人は、その時に遣わされた調査隊のメンバーだ」

 これで辻褄が合う。

 村を訪れる旅人は、一様に『探していた』と言っていた。

 俺は何でも揃ってとても住みやすい村を探しているのだとばかり思っていたのだが、真意はそうだったのだろう。

 旅人たちはみな、災厄から逃避したくて、噂で囁かれていた桃源郷に、誘われるかの如く渓谷を越えてきた。


 はてと疑問が沸く。

 その噂は誰が流していたのかという事だ。

 そして、そんな誰もが行きたがる場所に、何故大量に人がやってこないか。

 恐らく、前者はあの村に出入りする黒い行商人か、出産の為に一時村を降りている若者達。
 後者はちょっと分からない。

「あくまで推測だが、調整されていたのではないかと思う。村が欲しがっていたのは男と女で、子どもを産ませるのが最大の目的と考えるなら、子を産めるある一定の年齢層を選んで敢えてその者らに情報を渡していたならば、大人数で押しかけられる危険もない」

 村人は対処できなかっただろう。

 彼らは非戦闘民族である。
 俺も含めて、剣など持った試しもない。

 狙うは少人数。

 力の弱い女さえ先に無力化したら、男は敢え無く降参する。


「あんたは大丈夫なのか、ほら傷とか」

 あの夜、グレフに放り出され、高い位置から地面に叩き付けられた男。
 口から血を吐いていたはず。

「ああ、薬師の女が塗った薬が効いて、俺は大丈夫だ。妻は間に合わなかったがな」

 男は嘲笑う。

「奴ら、動かない妻と性交しろと抜かしやがった。意識は無くとも子は成せるなどとどこまでも愚弄する」

 唾を吐き捨てる。

「妻はもう、ここに連れられた時から息をしていなかったというのに。あいつらが、あの化け物が妻をゴミのように扱って殺したというのに。奴らが見張る中、冷たくて、硬くて、ただの亡骸を俺は抱いて、奴らはようやく気付いた。俺と妻が、奴らにとって役立たずだって事をな」


 それから捨て置かれたのだという。

 水も食料もなく、腐っていく妻の死体もそのままに、男は放置された。


「いずれ贄にするとだけ言われたかな。お前らのあとに」
「そうか」

 旦那はもう一度だけ女の亡骸を見た後、颯爽と俺達に背を向けた。


「俺は行く。鉄格子はアッシュが壊すからあとは好きにすればいい」
「旦那?」

 魔法を構築途中なのをすっかり忘れていた。

 俺の呪文をまだかまだかと精霊が待ち望んでいるかもしれない。この男を一緒に連れて行かないのか聞くと、旦那は好きにしろと一言。


霧放水アクエ・スプラッシュ!!”


 二度目となると、手際も良くなる。

 俺の手から放たれた水流の渦が、格子の隙間に入って腐食を始める。

 先程と同様、激しい土埃を舞い上がらせ倒れる鉄格子に、男はホウと目を細める。


 男に手を差し伸べる。

 俺の手は魔法で生み出した水に濡れている。

 男はその手をじいと見て、死んだ妻を見て、もう一度俺を見た。

「お前には悪いが、妻を放っていくわけにはいかない」
「だって奥さんは、もう…」
「それにお前は、俺達をハメた村人の一人だ」

 ギクリと背が撓った。息が詰まる。

「また騙されるかもしれない。お前が俺の味方だと一体誰が証明する。あのローブの男も、俺は知らない。この部屋を出たが最後、俺は殺されるかもしれない。そんな危険は冒せない」
「でも…ここにずっといるわけにもいかねえだろ!!」
「ここには妻がいる。お前たちにとってはただの死体だが、俺にとっては愛する妻だ」

 男は妻の亡骸をその胸に抱く。

 彼にとっては、その妻から発する腐敗臭も、甘美な愛の香りなのだろう。

 それに俺は、男の言う通り、村の人間だ。
 信用なんてできないよな。


「アッシュ」

 遠くで旦那が俺を呼ぶ声。

 俺は顔を上げ、また魔法を発動して乾いた柄杓に水を浸した。

 流石、森羅万象の理。
 旦那の言う通り、大抵の事は魔法でできる。

「あんた随分飲んでないだろ。敵かもしれない奴の言葉は信用できねえかもしれないけど、毒は入ってねえ。あんたは生きてこの村から逃げ出してほしいと思ってる。奥さんには、本当に申し訳ないことをした。俺もまだ何も知らないガキだけど、この村があんたらを脅かしてたなら謝る。ごめんなさい、あんたの奥さんを殺してしまって、あんたを閉じ込めてごめんなさい」

「………」
「でも俺は知りたいから。村がどうしてこんな事をするのか、どうして人を殺すのか。どうしても知りたいから旦那と行くよ。あんたはすべて終わってから此処を出ればいい」
「お前…」

「じゃあな!」


 俺は立ち上がる。

 そして振り返る事なく、男の部屋を後にした。

 姿の見えなくなった旦那を追いかけ、駆ける。



 男の掠れた啜り泣きが、聞こえた気がした。
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