蒼淵の独奏譚 ~どこか壊れた孤高で最強の魔法使いがその一生を終えるまでの独奏物語~

蔵之介

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二. ニーナの章

6. Chordata

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「ただいま」

 夕方。まだ日のある内に帰宅するのは久しぶりだ。
 潮風に錆びついた玄関を開け、中に入る。

「…」

 そう広くない家。
 一階は台所と食堂と両親の部屋。二階に子どもたちと祖母の部屋。
 この町の一般的な町民の家だ。

 台所から母が顔を出す。
 私の顔を少しだけみて、気まずそうに目を逸らす。

「ただいま」

 もう一度、言った。
 聞こえていないはずはない。だからこれは意地悪で言った。

 母がうろたえ、私にどう返すかその反応を見てみたい。そんな意地悪。

「あ、ニーナ…おか、」

 どちらが年上なのか分からない。それぐらい母は動揺して、持っていたオタマをぎゅうと握りしめている。まるで虐められてる女の子のような仕草。

 腹が立つ。
 なんてこの人はあざといのだ。
 だから、母が一生懸命言葉を絞り出している途中で、私は追い打ちをかける。

「ただいま」

 台所の前で、棒立ちする私と母の静かな攻防戦。
 ついに母が陥落する。

「……」

 もう二の句を告げないでいる。うつむいたまま、その表情は恐らく泣く寸前。

「おやおやニーナちゃん、こんなところにいたのかい」

 すると台所から別の声。
 しわがれ、おっとりした口調は祖母。
 ああ、この不毛な攻防戦も祖母の援軍でまた持ち越しだ。

 クッキーの粉を全身に浴びている祖母は、いそいそと私に近づく。
 両手いっぱいにクッキーの生地をこびり付かせたまま、私と母の間に入って私の手を取った。

 ホっとしたような母の顔。
 母は何も言わず、台所に消えていく。

「ニーナちゃん、いいこで待ってるね。いまお祖母ちゃんがクッキー焼いてるからあとで食べよう」
「うん、お祖母ちゃん」

 そして祖母も台所へ。

 祖母は10年間、一日も休まずクッキーを焼き続けている。
 母の普段の食事を作る台所スペースは、殆ど祖母に占領されている。お陰でこの家では手の込んだ手料理とやらは作れなくなった。
 野菜や果物を切るだけ、おかずを乗せるだけの簡単な作業しかここではできない。それでも母が毎日台所に立つのは、足元が覚束なくなってきた祖母を見守らなければならない為だ。

 10年前の災厄から、祖母はボケた。
 余りにショックな出来事だったのだろう。災厄を忘れるかの如く祖母の頭は時代を逆行して、彼女だけは平和で呑気だった時代を毎日繰り返している。

「ごはん、たべる?」

 おずおずと母が言ってきた。
 珍しい事もあるもんだ。普段の母なら私が二階の私室に引っ込むまで台所に噛り付いているだろうに。

「いらないわ。どうせ、そこら辺で買ってきた美味しくもない炒め物でしょ」
「あ…」

 また母の泣きそうな声。

 いらいらする。

「私は酒場で食べてきたから結構よ。それよりテルマにこんな不味くて栄養の無いものを食べさせているんじゃないでしょうね」
「……」
「テルマの身体が弱いのはお母さんが一番良く知ってる事でしょ?せっかく私が団で稼いできてるんだから、もっと考えてよ」
「でも…」

 母が俯く。

 私が大事な妹の話をするといつもこうだ。
 テルマも母の娘で間違いないのに、何故か母はテルマの事になると途端に無頓着となる。

 私は団の任務で普段は家にいないのだから、母がしっかりしないとテルマが可哀相だ。
 それでなくても身体が弱くて、家から外を眺める事しかできないというのに。

「今週のお医者様は呼んだの?」

 イライラ口調が隠し切れない。もごもご口だけを動かしている母に問いかけるも、母は曖昧な返事だけだ。

「お医者様は、変わりないとおっしゃっていたのだけど…」
「診せてくれたのね」
「え?ええ…そうね…」

 どうも歯切れの悪い言い方だ。

「どこのお医者様なの?先月までの医者はヤブだったでしょ?《中央》に依頼したの?」

 立て続けに聞くも、母はまたうろたえてしまう。

「お父さんが全部してくれたから…お母さんは分からなくって…」
「はあ!もういいわ。ほんとお母さんって、テルマには無関心なのね」
「え?いや、そうじゃないのよ。違うわ、ニーナちゃん」

 目つきも鋭く言い放つ。

 嘘をつけ。
 本当は医者にも見せてないくせに。

 私がどんなにお金を置いていっても、団のツテを頼ってどんなに良い医者を連れてきても、母は半狂乱になって医者を追い返す。
 あの子の具合が悪いのは、あの子の所為じゃないのになんて可哀相なのだろう。

 母はまるで壊れ物を扱うようにテルマと接する。テルマと決して目を合わさず、喋らず、触れる時も恐る恐るといった調子だ。
 我が娘なのに、私とテルマのこの差はなんだというのだ。
 腹を痛めて産んだ可愛い我が子ではないのか。

「テルマがいるの?」
「お祖母ちゃん」
「お部屋に戻るなら、テルマちゃんにクッキー持って行っておやり。二人とも好きだろう?」

 また祖母が間に入ってくる。
 祖母は何を仕出かすか分からないので、一人にする訳にはいかないのだが、如何せんこんな真面目な話にもいちいち横やりを入れてくるのだから堪らない。話は進まないし、祖母の後始末も一苦労だ。
 真っ黒に焦げたクッキーの残骸を、熱いまま私に握らせる。

 祖母の頭の中では、私もテルマもまだ幼い。
 昔は祖母の焼いたクッキーが大好きで、酒に漬けたチェリーが入っているのが一番好きだった。
 祖母は特別な時に、例えば誰かの誕生日だったりした時に、その美味しい美味しいクッキーを焼いてくれる。私もテルマも喜んで食べるから、祖母の記憶に鮮明に残っているのだろう。

「もういいわ、また話しましょう」

 はあ、とため息をつくと、また母がホっとした。

 本当にイライラさせられる。

 この暗い家も、狭い壁も、手入れもしてない汚い部屋も。
 テルマに異様に冷たい母も、すっかりボケて違う世界に行ってしまった祖母も、こんな壊れた家族に嫌気が差して勝手に出て行った父も!


 みんな、大嫌いだ。


 私は祖母から手渡された黒焦げのクッキーをその場で捨て、踵を返した。

 どうせ祖母はもう私にクッキーを渡したことすら忘れている。
 ほら見て見ろ、またクッキーを捏ねだした。

「ニーナちゃん、テルマの話はもう…あの、」
「また聞きたくないっていうの?本当にどうかしてるわ。あの子が何をしたというの」

 聞きたくないのはこっちだ。これ以上、母のテルマへの愚鈍さを見せないでほしい。

「ニーナ!」

 母の遠慮がちな、それでも少し張った声を背に受けるも、私は母の嘆きを無視して階段を昇った。

 砂の溜まった石の階段を昇る。
 昔はもう少し綺麗にしていたのだが、祖母があんな事になって手が回らないのか家は何処もかしこも汚い。
 せめて寝る場所だけでもと、私は自分の部屋だけは綺麗に掃除して使っていた。私と同室に、妹のテルマがいるからというのもある。

 階段を昇って右手は祖母の部屋。
 元々テルマの部屋だったそこは、いつからか祖母の部屋に取って代わられた。

 しかし今は祖母に階段を上がらせるのは危険なので、祖母は一階の両親の部屋で眠っている。この部屋が使われなくなって約10年。時々部屋の空気の入れ換えを母がしているが、一向にテルマに明け渡す様子はない。
 祖母の部屋の隣が私の部屋。
 もう一つ正面にドアがあるが、それは二階の屋上に直接繋がっている。



「テルマ、起きてる?」

 コンコンとノック。
 深夜遅く帰宅するのが多い私は、テルマを起こさないようにこっそり入る癖がついてしまっている。

「はあい!」

 思いのほか元気そうな声が返ってきた。

 極力音を立てないようにドアを開く。
 大きなベッドと子供用のベッドが一台ずつ、他に家具は小さなクローゼットが一つの殺風景な部屋の、その子供用のベッドの上で、胡坐を掻いてお絵かきしている最中のテルマがいた。

「ただいま、テルマ」
「おっかえりー」

 今にも私に飛びつきそうな勢いなのを慌てて制止させ、私が彼女のベッドまで出向いてぎゅうと小さな身体を抱きしめる。

 ふわっふわのシルバーブロンドが鼻をくすぐる。
 以前私がプレゼントした大きな黒いリボンが、兎の耳のようにぴょんぴょん跳ねててとても彼女に似合っている。

 可愛くて、ふわふわして、とっても柔らかい。

「ああああ…テルマ可愛い…癒されるう~」
「わあい、おねえちゃんひさびさ~?」
「そうよ、ごめんね。お仕事、長引いちゃって」
「えへへ。テルマ、いい子でお留守番してたよ。ずっとお眠りしてた!」
「そう!なんていい子なの~かわいいいいい!!!」

 おめめがパッチリで、睫毛もクルンと長くって。
 小さな上を向いたお鼻と、ピンク色のぷるぷるの唇。
 どのお人形さんよりも可愛い。《王都》のお姫様だって、テルマの前じゃ霞んでしまう。
 もう何もかも私と正反対で、とにかく可愛すぎて死んでしまいそう。

 あんまり私がぎゅうぎゅう抱きしめているからか、モガモガと少し苦しそう。
 ああいけない。また理性が飛んでしまった。テルマを目の前にすると、私はいつもこうなってしまう。

 幼いころ、どうしてもどうしても妹が欲しくて母におねだりして、ようやく私の元に来てくれた天使。生まれた時から私は一緒にいるのだ。目の中に入れても、絶対痛くない。
 うん、痛くないはず。テルマなら我慢できる!

 ふんわりと甘い香りのする彼女の身体を名残惜しく離して、ベッドに横たわらせた。
 あまり長い時間起き上がるとテルマの身体に良くない。

「こんなに可愛いのに、どうしてお母さんはああなんだろう」

 ぽんぽんとテルマの頭を撫でながら言う。

「またおかあさんとケンカしちゃったの?」
「んー、喧嘩というより、ダメ出しというか」
「おかあさん、おばあちゃんで疲れてるよ」
「だからといって、あなたは動けないんだし、家にはお母さんしかいないから頼るしかないでしょ。それなのに絶対お祖母ちゃんを優先するからイライラしちゃって」
「テルマは大丈夫だよ?」

 きょとんとしたまん丸い大きな目に、私がいっぱいに映っている。
 髪のシルバーを少し濃くした色の瞳が、パチパチと瞬く。

「テルマはおねえちゃんがいるから、大丈夫なんだよ」
「テルマ…」
「テルマ、お外に出られないけど、いつも窓からお外見てるんだよ。窓からあのおやしきが見えるの。あのなかにおねえちゃんいるんだって思ったら、元気がでてくるの」

 ああああああああああ!!
 なんていじらしくて可愛いの!

 どんなに疲れて帰ってきても、テルマの顔を見ればそんなのどうだってよくなる。
 どんなにキツくても、どんなにつらくても、テルマとほら、こうやってお喋りするだけで私は癒される。
 テルマは私の命だ。彼女がいるから、彼女がこの町に住んでるから、彼女を守るために私は団にいる。

 彼女の病気が治って元気になったら、自警団を辞めて何処かに家を建てて二人で暮らすのだ。
 細々とした暮らしだろうけど、テルマがいればそこは十分天国に成り得る。

「あああ、テルマの補給が足りない~…」

 ベッドの上からまたテルマを抱きしめる。
 スキンシップが大概なのは自覚してるつもりだ。でも仕方ないと思う。

 だってテルマはこんなにも可愛いのだから。




「おねえちゃん、だーいすき」



 ああ、もう世界なんて滅びてしまえ。
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