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二. ニーナの章
24. 不穏な夜、いなくなる妹
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高台の家へ帰り着いた時には、既に息は完全に上がってしまっていて、喉の奥から乾いて鉄臭い唾液を絞りだすのが精一杯に疲れてしまったが、玄関の扉を開ける短い間だけ、膝に手をつき背を丸めて激しい呼吸を繰り返した。
まずは少し落ち着いて。
頭ではそう思うのに、急く気持ちが抑えられない。
先頭を走っていたリュシアは、坂の途中で私の方が追いついてしまって、家に辿り着く前に彼はもう走れないのか足早に歩いている。
「はあはあはあ…」
錆びついた金の取っ手に手をかけ、静かに引く。
何もなければいい。取り越し苦労だといいのに。
母も祖母も、そしてテルマも何事もなく寝ていて、こんな夜中に汗だくになって港から全速力で走った私を、甘いのだからと笑ってほしい。
リュシアが私の隣に並ぶ。
肩で息はしているが、呼吸そのものは普通だ。彼の平常心には恐れ入る。
ゆっくり階段を上がり、アッシュが寝ているであろう祖母の部屋を通り越し、私の部屋の前へ。
私が家を出た時と寸分変わらない、ただ時間だけが過ぎた我が家。
何も起こってない。そう、大丈夫。
ガチャリ
どれだけ気を付けていても、メッキの剥がれたドアノブはどうしても音が鳴る。
これでテルマを起こした事はないけれど、静かな夜には大きすぎる音だ。心の中で舌打ちをして、ベッドを覗き込んだ。
「あ!」
そこには愛くるしいふわふわのシルバーブロンドが枕に散らばっているはずで。
無垢で純粋な天使の寝顔があるはずで。
小さな身体がふかふかの布団に包まれているはずなのに。
「どうした」
リュシアは部屋には入らず、廊下に立っている。
「妹が…」
私は彼を振り向き、ツンと鼻が痛くなるのを感じた。
「テルマがいない!」
なぜ、なぜあの子がいない。
私が出掛ける前は、テルマはここで、すやすやと安らかな顔で眠っていたのだ。
「え、なぜ、一人で外に出れないはずなのに!テルマ、テルマァ!!どこ、どこなの!」
涙腺がぼやけてくる。
決して広くない部屋。家具はベッドが二つ。机とクローゼットが一つずつ。
私のベッドは当然空だ。触るとひんやり冷たくなっている。机はそもそも隠れる場所が無い。
クローゼットを開ける。服をバサバサと掻き分け、あのふわふわを探す。
服を引っ張り出して、ベッドに投げつける。
いない、いない。
テルマがいない。
「……」
錯乱する私を、リュシアは黙って見ている。
私はそんな彼に見向きもせず、ベッドの下を覗き込む。いない。
「て、テルマは病気なんです!こんな夜に、もしかして外にでも出ていたら!」
テルマの小さな背丈では、この部屋どころか玄関すらも開けられない。
万が一、外に出ていたとしたら。
冷やされた空気は彼女には毒だ。病気が悪化してしまうかもしれない。
「石はどこだ」
キョロキョロと忙しなく動く私に、リュシアが言う。
まるでテルマの事なんか気にしていない。
彼は、初めで出会った時のような、そんな冷たさを感じる。
目的を遂行するのに、感情を爆発させている私の存在を疎ましいとさえ思っている口調だ。
そうだ、石。
私達は何をしゃべっていたのだ。
彼は何を私に語ってくれたと思っている。
彼は自分の正義を成そうとしているだけ。今彼の脳裏にあるのは、行商人のおじさんが売っていたあの透明な石の行方しかないのだろう。
「え?あ…」
落ち着け、落ち着け。
まだすべての部屋を探した訳じゃない。
「ごめんなさい、石もありません。多分テルマが持っていったんだわ。あの子、私からのプレゼントを喜んでいたから…」
無邪気にはしゃぎながら石を空に掲げていたテルマを思い出す。
「テルマ、どこに…。母なら何か知っているかも。あの子を嫌っているから、もしかして…」
在り得ない話ではない。
母は異様にテルマに冷たくあたる。その存在そのものを否定するかのように、彼女に目を合わせない。
いつもこの部屋のベッドを憎らし気に見ていた。
母がテルマを部屋から出したのであれば、辻褄が合う。
ぼうっと考えていた私を置いて、リュシアが祖母の部屋に入る。
遠慮なく部屋のドアを開き、ソファに埋もれるように寝入っている赤頭の髪を引っ張った。
「アッシュ、起きろ」
「んあ?だん、な?そんな血相変えてどうしたんスか。ふわあ…」
大きな欠伸をしながら、アッシュがのそりと身を起こす。
服は着たままだ。母が用意した布団に絡まっている。
リュシアはそのまま出窓に近づき、外を見た。
外は変らず真っ暗闇である。寒かろうに窓が全開だ。来た時からずっと開いていたのか。だからアッシュは布団を被っていたのだろう。
「あれが現れたぞ」
「あれ?」
目をくしくしと擦っている。
リュシアは外を見つめたままだ。
「黒の行商人だ」
その言葉を聞いた途端、アッシュの目がくわっと見開いた。
「なんだって!?」
一気に覚醒したのか、ソファから飛び降りる。そこで辺りを見回し、部屋の入り口で私を見て、リュシアを見て、ブルブルと頭を振った。
「あ、嬢ちゃんもいたのか。嬢ちゃんはどうしたんだ?」
そこに私の姿があった事に驚いたのだろう。
夜中にリュシアと二人で何をしていたんだとでも言いたげな視線を送りながら、私を見据える。
「テルマ!」
「あ?」
そんな事はどうでも良かった。
とにかく私の優先順位は妹だ。彼が妹の行方を知っているとは思えないが、物音ぐらいは聞いたかもしれない。
「テルマを、妹を見なかった!?何か音は聞こえなかった?」
矢継ぎ早に捲し立てる私に気圧されながらも、アッシュは刮目している。
「あの子がいないの!部屋で寝ていたはずなのに!アッシュ、知らない!?あの子が、あの子が何処にいるのか!!」
「だ、旦那…訳分かんないんスけど…」
とうとうリュシアに助けを求めた。
その様子から、アッシュは何も知らないのだと落胆する。
だとするならば、やはり母か?
「行商人がこの町で石を売っていたらしい」
「石?」
「奴が現れたのは3か月前。ちょうどグレフの噂が廃墟に流れ出して頃と合致する」
「はあ?まさか、またよからぬ事を仕出かしてるって訳かよ!」
彼らは私を置き去りにして、勝手に話を進めている。
行商人という言葉に驚いたのは、アッシュも同じだった。
そんなに有名な人なのだろうか。この辺を縄張りにするなら《中央》にも卸しに行っているだろうし、不良品でも掴まされて騙された類いか。
「なんの話なの?それがテルマがいなくなったのと関係あるの?」
イライラしながらアッシュに詰め寄る。
どうして誰も病気の妹の心配をしないのだ。
「いや、嬢ちゃん落ち着けって」
「これが落ち着いていられるものですか!こんな夜中に、あの子が一人きりで泣いてるかもしれないのに!」
「お、おい。そのあんたの言う妹っつーやつさ…」
あの子は泣き虫なのだ。
今頃私を求めて泣いているはず。
アッシュの上着を掴んでいた私に、アッシュが何か言いかけたその時だった。
「待て」
「へ?」
リュシアの身体が、思い切り窓枠から身を乗り出していた。
端的なストップの合図に、アッシュがほっとした表情を見せる。
しかしリュシアはアッシュを助けたつもりはなさそうで、落ちそうなまでに身を乗り出したまま、私に聞いてきた。
「あの先…。あれには何がある」
彼の見ている先、真っ直ぐ向こうは町の入り口である。
この家は裏通りに面していて、すぐ横は林だ。その通りの坂を少し登れば、私達の使っている貴族の屋敷…今は団のアジトに辿り着く。
「え?その方向なら、屋敷ですよ。自警団のアジト、私達が昼間にいた場所ですが…」
「旦那?」
リュシアの只ならぬ雰囲気に恐る恐るといった具合でアッシュが声を掛けた時には、リュシアは窓から飛び降りていた。
何の躊躇もなく、此処は二階で下は石畳だ。
「あ!」
私とアッシュは二人して窓辺に縋りついてリュシアを探す。
それはすぐ真下。
リュシアの身体は地面に叩き付けられる訳でもなく、まるで風がそこだけ靡いているかのように、ふわりと地面に足を付けた。
特徴のあるローブのサメの尾びれがゆっくりと地面を撫でた時、私もアッシュも慌てて部屋を飛び出し、階段をドタドタを駆け下りて彼の元へ走った。
もはや、家族が寝ているだなんて、気を遣う余裕さえなかった。
「旦那、どうしちまったんだ!」
いきなりのリュシアの行動に、アッシュが焦っている。
「分からない!あそこにテルマがいるの?」
しかしリュシアは私達を待ってさえくれない。
玄関の扉を開けた時には、既に彼は屋敷に向かって走っている。
「旦那!待てよ!何か感じるのか!?」
足の速さだけで言えば、アッシュの方に軍配が上がっている。瞬く間に追いつかれ、リュシアに並走しながらアッシュの顔は真剣だ。
私はその後ろを必死になってついていく。
「マナの淀みだ」
「え?」
屋敷はとても大きい。
ぐるりと屋敷を白い壁と柵が取り囲んでいる。
真夜中の裏路地。私と彼らの息遣いしか聞こえない、とても静かな夜だ。
星の瞬きも、月の輝きすらもない。
「何を…」
「あ、ああ。旦那はマナの流れっつーか、マナの軌跡を辿れるみてえで…」
どういう事だ。
マナを感じる?
リュシアほどの大魔法使いであれば、他人の持つマナを感じてもさもありなんだろう。
剣の達人が、構えただけで太刀筋が見えるように。
同じ魔法を使う私には、到底真似などできない芸当だと、それをすんなりやってのけてみせる彼のギルドマスターという立場を、改めて認識する。
ただの魔法使いならば、数は少ないとはいえゴロゴロしているのだろう。私程度の者は。
どれだけ勉強して、どんな人に師事すれば、リュシアのような魔法を使えるのか。
ローブの隙間からチラリとも見せない素顔は、今どんな表情をしているのだろう。
テルマを探さなければという強い思いもあるのに、彼の向かう先にテルマの足跡が探れるという気がしてやまなかった。
「旦那…」
リュシアが碌な説明もせず、まず自らが突発的な行動を起こす彼のやり方を、アッシュは充分に承知しているのだろう。説明不足に文句を言う訳でもなく、彼から話すのを待っていたのだが。
「くそ!また消えた!」
リュシアにしては俗物的な物言いであった。
「消えた?」
すでに館の絢爛豪華な扉は目の前だ。
冷たい風に、カモメ団の手作りの旗がバタバタと空を泳いでいる。
屋敷の入り口は、今は開けっ放しの外門から一定の間隔で松明が燃えている。相当金を掛けたであろうこの屋敷は、豪華なだけではなく、生活するのに不便すら感じない造りだ。
金に物を言わせて各所の技術者を集めて、魔法に頼らない永久機関的な光の発生装置を館に置いているお陰で、外も中も光には不自由しない。
館は夜の闇に逆らうように、煌々と光を灯し続けている。
外から見える多くの窓も、カーテンで仕切られた向こう側は光が点いたままである。
一階部分ならともかく、二階は殆どが宿泊用に利用している。皆が寝静まると、エネルギーが勿体ないからと光は消すのだ。それがこの時間であっても構わず点きっぱなしだ。
「マナの反応が…消えた」
「え?」
無駄に豪華な扉の前に、私達は立った。
物音一つしない。寝静まっているから当たり前だとは思うが、それにしては静かすぎる。
それにリュシアは先程から不穏な台詞ばかり吐いているのだ。
不安にならないほうがおかしい。
「大量に…もうほとんどが消えた」
「どういう…」
意味なのか。
ひゅと息を呑む。私の言葉は最後まで出せなかった。
鼻に。
感じたのだ。
感じてはならないものを。臭ってはならないものを。
アッシュはキョロキョロと落ち着きがない。
私はその臭いを以前嗅いだ事がある。
「覚悟しておいた方がいい…」
リュシアの声は小さかった。
冷たさは無く、平坦でもなく、横柄でもなかった。
私達にそう言いながら、自らを律していたのだろうか。
ゴクリと唾を呑み込んで、私が扉に手を掛けた。
ゴトン
物重苦しく、錠前が落ちる。
光の筋を作りながらゆっくりと扉が開く。
ムワンと鼻を突きさすその嗅ぎ慣れた臭いに目を顰めた。
10年前。忘れもしない、あの災厄。
大地震に町は壊れ、数多の命が無情にも瓦礫に押しつぶされた。
復興に勤しむ私達は、否が応でもその変わり果てた姿と対面しなければならなかった。
乾ききれない血が、たくさんの水たまりをつくって。避けても避けた先に血だまりは幾つもあって。ついに靴を真っ赤に汚しながら、避けることすらなくなった。
あの靴は、冒険に行く前に父が折角だからと、《中央》で高い金を出して買ってきてくれたものだった。それは何処へ行っただろう。屍と一緒に燃やしたのか。記憶があいまいだ。
目に映る“深紅”に、もはやそれが想像通りだったという事実に、私は呆然と立ち尽くした。
扉を開いた先は、一面の赤だった。
床を汚す紅蓮の滴りが、一つの大きな大きな、とても大きな池となって、私達の行く手を阻んでいた。
血。
血。
血。
館は血みどろであった。
まずは少し落ち着いて。
頭ではそう思うのに、急く気持ちが抑えられない。
先頭を走っていたリュシアは、坂の途中で私の方が追いついてしまって、家に辿り着く前に彼はもう走れないのか足早に歩いている。
「はあはあはあ…」
錆びついた金の取っ手に手をかけ、静かに引く。
何もなければいい。取り越し苦労だといいのに。
母も祖母も、そしてテルマも何事もなく寝ていて、こんな夜中に汗だくになって港から全速力で走った私を、甘いのだからと笑ってほしい。
リュシアが私の隣に並ぶ。
肩で息はしているが、呼吸そのものは普通だ。彼の平常心には恐れ入る。
ゆっくり階段を上がり、アッシュが寝ているであろう祖母の部屋を通り越し、私の部屋の前へ。
私が家を出た時と寸分変わらない、ただ時間だけが過ぎた我が家。
何も起こってない。そう、大丈夫。
ガチャリ
どれだけ気を付けていても、メッキの剥がれたドアノブはどうしても音が鳴る。
これでテルマを起こした事はないけれど、静かな夜には大きすぎる音だ。心の中で舌打ちをして、ベッドを覗き込んだ。
「あ!」
そこには愛くるしいふわふわのシルバーブロンドが枕に散らばっているはずで。
無垢で純粋な天使の寝顔があるはずで。
小さな身体がふかふかの布団に包まれているはずなのに。
「どうした」
リュシアは部屋には入らず、廊下に立っている。
「妹が…」
私は彼を振り向き、ツンと鼻が痛くなるのを感じた。
「テルマがいない!」
なぜ、なぜあの子がいない。
私が出掛ける前は、テルマはここで、すやすやと安らかな顔で眠っていたのだ。
「え、なぜ、一人で外に出れないはずなのに!テルマ、テルマァ!!どこ、どこなの!」
涙腺がぼやけてくる。
決して広くない部屋。家具はベッドが二つ。机とクローゼットが一つずつ。
私のベッドは当然空だ。触るとひんやり冷たくなっている。机はそもそも隠れる場所が無い。
クローゼットを開ける。服をバサバサと掻き分け、あのふわふわを探す。
服を引っ張り出して、ベッドに投げつける。
いない、いない。
テルマがいない。
「……」
錯乱する私を、リュシアは黙って見ている。
私はそんな彼に見向きもせず、ベッドの下を覗き込む。いない。
「て、テルマは病気なんです!こんな夜に、もしかして外にでも出ていたら!」
テルマの小さな背丈では、この部屋どころか玄関すらも開けられない。
万が一、外に出ていたとしたら。
冷やされた空気は彼女には毒だ。病気が悪化してしまうかもしれない。
「石はどこだ」
キョロキョロと忙しなく動く私に、リュシアが言う。
まるでテルマの事なんか気にしていない。
彼は、初めで出会った時のような、そんな冷たさを感じる。
目的を遂行するのに、感情を爆発させている私の存在を疎ましいとさえ思っている口調だ。
そうだ、石。
私達は何をしゃべっていたのだ。
彼は何を私に語ってくれたと思っている。
彼は自分の正義を成そうとしているだけ。今彼の脳裏にあるのは、行商人のおじさんが売っていたあの透明な石の行方しかないのだろう。
「え?あ…」
落ち着け、落ち着け。
まだすべての部屋を探した訳じゃない。
「ごめんなさい、石もありません。多分テルマが持っていったんだわ。あの子、私からのプレゼントを喜んでいたから…」
無邪気にはしゃぎながら石を空に掲げていたテルマを思い出す。
「テルマ、どこに…。母なら何か知っているかも。あの子を嫌っているから、もしかして…」
在り得ない話ではない。
母は異様にテルマに冷たくあたる。その存在そのものを否定するかのように、彼女に目を合わせない。
いつもこの部屋のベッドを憎らし気に見ていた。
母がテルマを部屋から出したのであれば、辻褄が合う。
ぼうっと考えていた私を置いて、リュシアが祖母の部屋に入る。
遠慮なく部屋のドアを開き、ソファに埋もれるように寝入っている赤頭の髪を引っ張った。
「アッシュ、起きろ」
「んあ?だん、な?そんな血相変えてどうしたんスか。ふわあ…」
大きな欠伸をしながら、アッシュがのそりと身を起こす。
服は着たままだ。母が用意した布団に絡まっている。
リュシアはそのまま出窓に近づき、外を見た。
外は変らず真っ暗闇である。寒かろうに窓が全開だ。来た時からずっと開いていたのか。だからアッシュは布団を被っていたのだろう。
「あれが現れたぞ」
「あれ?」
目をくしくしと擦っている。
リュシアは外を見つめたままだ。
「黒の行商人だ」
その言葉を聞いた途端、アッシュの目がくわっと見開いた。
「なんだって!?」
一気に覚醒したのか、ソファから飛び降りる。そこで辺りを見回し、部屋の入り口で私を見て、リュシアを見て、ブルブルと頭を振った。
「あ、嬢ちゃんもいたのか。嬢ちゃんはどうしたんだ?」
そこに私の姿があった事に驚いたのだろう。
夜中にリュシアと二人で何をしていたんだとでも言いたげな視線を送りながら、私を見据える。
「テルマ!」
「あ?」
そんな事はどうでも良かった。
とにかく私の優先順位は妹だ。彼が妹の行方を知っているとは思えないが、物音ぐらいは聞いたかもしれない。
「テルマを、妹を見なかった!?何か音は聞こえなかった?」
矢継ぎ早に捲し立てる私に気圧されながらも、アッシュは刮目している。
「あの子がいないの!部屋で寝ていたはずなのに!アッシュ、知らない!?あの子が、あの子が何処にいるのか!!」
「だ、旦那…訳分かんないんスけど…」
とうとうリュシアに助けを求めた。
その様子から、アッシュは何も知らないのだと落胆する。
だとするならば、やはり母か?
「行商人がこの町で石を売っていたらしい」
「石?」
「奴が現れたのは3か月前。ちょうどグレフの噂が廃墟に流れ出して頃と合致する」
「はあ?まさか、またよからぬ事を仕出かしてるって訳かよ!」
彼らは私を置き去りにして、勝手に話を進めている。
行商人という言葉に驚いたのは、アッシュも同じだった。
そんなに有名な人なのだろうか。この辺を縄張りにするなら《中央》にも卸しに行っているだろうし、不良品でも掴まされて騙された類いか。
「なんの話なの?それがテルマがいなくなったのと関係あるの?」
イライラしながらアッシュに詰め寄る。
どうして誰も病気の妹の心配をしないのだ。
「いや、嬢ちゃん落ち着けって」
「これが落ち着いていられるものですか!こんな夜中に、あの子が一人きりで泣いてるかもしれないのに!」
「お、おい。そのあんたの言う妹っつーやつさ…」
あの子は泣き虫なのだ。
今頃私を求めて泣いているはず。
アッシュの上着を掴んでいた私に、アッシュが何か言いかけたその時だった。
「待て」
「へ?」
リュシアの身体が、思い切り窓枠から身を乗り出していた。
端的なストップの合図に、アッシュがほっとした表情を見せる。
しかしリュシアはアッシュを助けたつもりはなさそうで、落ちそうなまでに身を乗り出したまま、私に聞いてきた。
「あの先…。あれには何がある」
彼の見ている先、真っ直ぐ向こうは町の入り口である。
この家は裏通りに面していて、すぐ横は林だ。その通りの坂を少し登れば、私達の使っている貴族の屋敷…今は団のアジトに辿り着く。
「え?その方向なら、屋敷ですよ。自警団のアジト、私達が昼間にいた場所ですが…」
「旦那?」
リュシアの只ならぬ雰囲気に恐る恐るといった具合でアッシュが声を掛けた時には、リュシアは窓から飛び降りていた。
何の躊躇もなく、此処は二階で下は石畳だ。
「あ!」
私とアッシュは二人して窓辺に縋りついてリュシアを探す。
それはすぐ真下。
リュシアの身体は地面に叩き付けられる訳でもなく、まるで風がそこだけ靡いているかのように、ふわりと地面に足を付けた。
特徴のあるローブのサメの尾びれがゆっくりと地面を撫でた時、私もアッシュも慌てて部屋を飛び出し、階段をドタドタを駆け下りて彼の元へ走った。
もはや、家族が寝ているだなんて、気を遣う余裕さえなかった。
「旦那、どうしちまったんだ!」
いきなりのリュシアの行動に、アッシュが焦っている。
「分からない!あそこにテルマがいるの?」
しかしリュシアは私達を待ってさえくれない。
玄関の扉を開けた時には、既に彼は屋敷に向かって走っている。
「旦那!待てよ!何か感じるのか!?」
足の速さだけで言えば、アッシュの方に軍配が上がっている。瞬く間に追いつかれ、リュシアに並走しながらアッシュの顔は真剣だ。
私はその後ろを必死になってついていく。
「マナの淀みだ」
「え?」
屋敷はとても大きい。
ぐるりと屋敷を白い壁と柵が取り囲んでいる。
真夜中の裏路地。私と彼らの息遣いしか聞こえない、とても静かな夜だ。
星の瞬きも、月の輝きすらもない。
「何を…」
「あ、ああ。旦那はマナの流れっつーか、マナの軌跡を辿れるみてえで…」
どういう事だ。
マナを感じる?
リュシアほどの大魔法使いであれば、他人の持つマナを感じてもさもありなんだろう。
剣の達人が、構えただけで太刀筋が見えるように。
同じ魔法を使う私には、到底真似などできない芸当だと、それをすんなりやってのけてみせる彼のギルドマスターという立場を、改めて認識する。
ただの魔法使いならば、数は少ないとはいえゴロゴロしているのだろう。私程度の者は。
どれだけ勉強して、どんな人に師事すれば、リュシアのような魔法を使えるのか。
ローブの隙間からチラリとも見せない素顔は、今どんな表情をしているのだろう。
テルマを探さなければという強い思いもあるのに、彼の向かう先にテルマの足跡が探れるという気がしてやまなかった。
「旦那…」
リュシアが碌な説明もせず、まず自らが突発的な行動を起こす彼のやり方を、アッシュは充分に承知しているのだろう。説明不足に文句を言う訳でもなく、彼から話すのを待っていたのだが。
「くそ!また消えた!」
リュシアにしては俗物的な物言いであった。
「消えた?」
すでに館の絢爛豪華な扉は目の前だ。
冷たい風に、カモメ団の手作りの旗がバタバタと空を泳いでいる。
屋敷の入り口は、今は開けっ放しの外門から一定の間隔で松明が燃えている。相当金を掛けたであろうこの屋敷は、豪華なだけではなく、生活するのに不便すら感じない造りだ。
金に物を言わせて各所の技術者を集めて、魔法に頼らない永久機関的な光の発生装置を館に置いているお陰で、外も中も光には不自由しない。
館は夜の闇に逆らうように、煌々と光を灯し続けている。
外から見える多くの窓も、カーテンで仕切られた向こう側は光が点いたままである。
一階部分ならともかく、二階は殆どが宿泊用に利用している。皆が寝静まると、エネルギーが勿体ないからと光は消すのだ。それがこの時間であっても構わず点きっぱなしだ。
「マナの反応が…消えた」
「え?」
無駄に豪華な扉の前に、私達は立った。
物音一つしない。寝静まっているから当たり前だとは思うが、それにしては静かすぎる。
それにリュシアは先程から不穏な台詞ばかり吐いているのだ。
不安にならないほうがおかしい。
「大量に…もうほとんどが消えた」
「どういう…」
意味なのか。
ひゅと息を呑む。私の言葉は最後まで出せなかった。
鼻に。
感じたのだ。
感じてはならないものを。臭ってはならないものを。
アッシュはキョロキョロと落ち着きがない。
私はその臭いを以前嗅いだ事がある。
「覚悟しておいた方がいい…」
リュシアの声は小さかった。
冷たさは無く、平坦でもなく、横柄でもなかった。
私達にそう言いながら、自らを律していたのだろうか。
ゴクリと唾を呑み込んで、私が扉に手を掛けた。
ゴトン
物重苦しく、錠前が落ちる。
光の筋を作りながらゆっくりと扉が開く。
ムワンと鼻を突きさすその嗅ぎ慣れた臭いに目を顰めた。
10年前。忘れもしない、あの災厄。
大地震に町は壊れ、数多の命が無情にも瓦礫に押しつぶされた。
復興に勤しむ私達は、否が応でもその変わり果てた姿と対面しなければならなかった。
乾ききれない血が、たくさんの水たまりをつくって。避けても避けた先に血だまりは幾つもあって。ついに靴を真っ赤に汚しながら、避けることすらなくなった。
あの靴は、冒険に行く前に父が折角だからと、《中央》で高い金を出して買ってきてくれたものだった。それは何処へ行っただろう。屍と一緒に燃やしたのか。記憶があいまいだ。
目に映る“深紅”に、もはやそれが想像通りだったという事実に、私は呆然と立ち尽くした。
扉を開いた先は、一面の赤だった。
床を汚す紅蓮の滴りが、一つの大きな大きな、とても大きな池となって、私達の行く手を阻んでいた。
血。
血。
血。
館は血みどろであった。
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本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
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