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二. ニーナの章
28. Larus
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「お、おいあんた。さっきから何言ってやがんだ」
血の気が引いて慄いているだけの私に、アッシュが肩を叩いてきた。
力が強い。思い切り叩かれ、初めてテルマから目を逸らしてアッシュを見る。
彼は冷汗掻きながらも、ひどく真面目な顔をしていた。訝しげに険しい目を湛えており、私を責めるような口調だった。
「そっちこそ何を言っているの!そこにテルマが、妹が…」
「悪い、マジで分かんねえ。俺にはそこにぬいぐるみしか見えねえんだけど」
「はあ?」
急に何を言い出すのかと思ったら、テルマがぬいぐるみだと素っ頓狂な事を抜かしてくる。
そこにいるじゃないか。
いつもの黒いドレスを着て、ふわふわとシルバーブロンドをなびかせ宙に浮いている。
屈託ない笑顔でクスクスと笑っている姿が分からないのか。
あれのどこがぬいぐるみだ。確かに宙を浮くなど人間には出来ない芸当だが、今問題なのはそれではなく、テルマが此処にいて、こんな危険な場所にいて、団員達を皆殺しにしたという事実だろうに。
そう文句を言い掛けたが、アッシュの顔はとにかく真剣で、彼も嘘を言っている様には見えなくて混乱する。
「旦那、俺がおかしいのか?嬢ちゃん一人で喋ってて、俺には何も見えねえんだけど」
「……」
とうとうリュシアに助け船を求めたが、彼は上を見上げたままだ。
「テルマが、妹が分からないっていうの!家でも挨拶したでしょ!テルマが…え、見えない!?」
錯乱してしまいそうだ。
テルマは此処にいる。いるのだ。
見えない?在り得ない。こんなにはっきり見えているのに。
でもアッシュは嘘を言っているようには感じない。頼みの綱のリュシアは黙ったままだ。
え、本当に見えないのか。
うそ、本当に、私がおかしいのか。
「ぐは!!」
突然アッシュが蹲った。
腹を抑え、テルマを憎らし気に睨みつける。
「このくま、攻撃してきやがった!」
見るとテルマが血の滴る臓物を、思い切りアッシュに投げつけている。
彼女の小さな腕では放るだけで精一杯だろうに、臓物は意思を持ったかのように凄いスピードでアッシュに飛んでいき、容赦なくその腹を打ち付けているのだ。
柔らかい臓物も、それなりのスピードがあれば武器になる。
視覚的にもダメージは大きい。臓物は身体に当たると血を弾き飛ばし、腐った体液を撒き散らす。
アッシュはすっかり血に汚れてしまっている。これはたまらないと逃げ回るも、テルマはもはや手を使ってはいない。
彼女を中心に臓物が幾つも空に浮いて、アッシュのみならずリュシアにまで攻撃し出した。
「テルマやめて!!」
リュシアはそれでも動かない。
思う存分テルマの攻撃を食らって、少し身体がよろける程度で血にお気に入りのサメのローブが濡れるのも気にしていない。
彼は何を考えている。
彼は何を見ている。
彼の眼には、何が映っている。
「え…あ…」
頭が痛い。
ガンガンと凄まじい痛みが私を襲う。
両手で痛む頭を押さえ、テルマを見上げる。
彼女をやめさせなければ。彼らは敵じゃない。
むしろ、今後の私の未来の可能性を与えてくれる人なのだ。
だから、やめてテルマ。
テルマの姿がちらつく。消えたり現れたりぼやけたりと定まらない。
「だめだよ、この人の話を聞いちゃ。ちゃんとテルマを見ないと、消えちゃうよ」
「何を言っているの、テルマ…。お願いだからやめて…」
頭が痛い。
もはや立っている事すら辛い。
テルマの言っている意味が分からない。消えるとはどういう意味だ。
私はちゃんとテルマを見ている。
テルマこそ、はっきり姿が保てていないではないか。
ちらつく姿は、ぼやけ具合が酷い。いきなり近眼にでもなったかのように視界がぼやける。
私はリュシアに縋りついた。
情けなくも彼に助けを求めた。
彼ならば、この状況をどうにか打破してくれるであろう妙な確信に縋ったのだ。
「あなたにもテルマが見えていないの?」
「……」
しかしリュシアは答えない。
「何か言ってよ!!」
彼の臓物で汚れたローブを両手で掴んで揺すった。
リュシアが小さく息を吐くのが分かった。
「!!」
凛とした空気が、一瞬で張り詰めた。
その時何をされても動かなかったリュシアが、彼に縋りつく私の肩を抱いたのだ。
優しくそっと、震える肩を温めるように。
リュシアの体温を感じた途端、無邪気に笑っていただけのテルマの様子が一変した。
「だめ、この人は怖い人」
急に怯えたような顔をして、宙に浮いた臓物を全てプールに落とす。
ふるふると顔を振り、小さな身体を目一杯抱きしめている。
「おねえちゃん、この人はわたしを殺す」
「え…?」
ついにはガクガク震え出して、赤い大きな瞳から大粒の涙が零れ出した。
「おねえちゃんはわたしを見てればいい。この人を見ちゃだめ」
居たたまれなくなってテルマの元へ向かおうとする私を、リュシアは許さなかった。
私を抱いた手に力が籠る。
あまりの力に痛さを感じるが、不思議と不快感は無い。
「ニーナ」
とても落ち着いた声が、私の名を呼んだ。
「リュシアさん…?」
私が彼の名を呼び返したのと、テルマが見えない力で拘束されたのはほぼ同時であった。
「ぎゃ!」
テルマは短い悲鳴を上げて、宙にだらりと身体を浮かせている。
一生懸命もがくも、全く自由が利かない。涙をボロボロと流し、首を懸命に伸ばして辛うじて呼吸だけは確保できているような、悪魔の呪縛に囚われているようであった。
リュシアのほんの近くにいる私に、彼の詠唱は聞こえなかった。
彼が魔法を発動した仕草さえ無かったのだ。
だが、テルマを捕えた見えない力は、まさに魔法であった。
6大元素の何の精霊を使役したかすら判別できない。
テルマはもがき苦しむが、拘束は緩むどころか益々きつくその小さな身体を絞めつけている。
「ま、待って、待って!!」
彼以外に他は無い。彼しかこんな異次元の魔法を発動できる人間は此処には存在しないのだ。
私はリュシアにしがみ付く。
彼はテルマをもう見てはいない。私をじいと見つめている。
かあと顔が熱くなる。とても近い位置に私達はいる。
でもテルマの方が優先だ。テルマがとても苦しそう。
「やめて、テルマを殺さないで…」
自然に涙が流れ落ちる。
死人になってしまったエーベルの頭を軽く吹き飛ばしたように。
あの晩、廃墟で無慈悲に大量の死人をグレフともども押しつぶしたように。
彼は何の戸惑いもなく、人を殺せる類の人間なのだ。
「くっ…おねえ、ちゃ…」
テルマの顔は苦痛に歪んでいる。ひゅうひゅうと小さな掠れた息が聴こえる。
もうテルマは無抵抗だ。これ以上締め付けたらテルマが本当に死んでしまう。
テルマの云う通り、この人はテルマを殺す。
それはダメだ。なにがあろうと許されない。
やめてくれ、お願いだから、やめて。
「落ち着くんだ、ニーナ」
あくまでリュシアの声は一定だ。
彼は私を離さない。私はリュシアとテルマを交互に見て、泣いて、叫んで、呻く。
「でもテルマが、わたしの妹が!!」
「いいから、こっちを見ろ」
「え…」
リュシアは一度だけ大きく息を吐いたかと思うと、徐に首を左右に振った。
流れるような仕草であった。
今まで頑なに頭を覆っていたフードがフサリと揺れた。
揺れた隙間から、美しい金色の髪が見える。
彼は右手を私の肩に、そして左手でフードを掴んで、音もなく自らの肩に落とした。
「あ……」
フードの中で乱れた髪をいなすように、軽く一振り。
サラサラと絹糸のような綺麗なプラチナブロンドが、私の目の前を通り過ぎていく。
そんな美しい髪を無造作に掻き上げ、彼はその手を再び私の肩に置いた。
彼の顔を見る。
フードを取った顔を初めて見た。
その不遜で高飛車な御本尊を一度拝んでやりたかった。どんな面構えをして、偉そうに物を言っていたのだろうと思っていた。
用事がなければむっつりと黙ったままの顔は、どんな唐変木をしているのかと仲間内で笑っていた。
そしてそんな風に陰口を叩いていた私は、なんて愚かだったのだろう。
彼は、リュシアはそのどれにも該当しない。
そんな言葉で彼を表現するのはひどく烏滸がましいとさえ思える。
彼は、一言でいえばとても美しかった。
テルマに読んであげた絵本のどの王子様よりも、綺麗な顔だと思った。
その繊細なプラチナブロンドといい、陶器のような白い肌といい、ふるりと儚げな薄いピンク色の唇といい、筋の通った高い鼻といい。
二重の瞳は大きくて、やや男性らしくキリリとしているものの、髪と同じ色の金の長い睫毛が中性的な雰囲気を醸し出している。中でも特に瞳の中の深い海の底のような蒼い慟哭が、彼という存在をより美しく見せていた。
深淵の瞳。吸い込まれそうなほどに深い蒼。
その蒼が、私の顔を映している。
何の取り柄も無い平凡な私を、その綺麗な瞳が捕えている。
とても恥ずかしくて、とても心地よく、そしてとても気持ちが良かった。
私はリュシアから目を離せなかった。
「旦那…」
後ろでアッシュの声がする。
彼はリュシアのこの姿を知っているのだろうか。
こんな美しい人を、私はいままで見た事がない。
ずるいとさえ思った。
神はどうして天賦を二才も三才も与えるのだと。
魔法に長け、状況判断に長け、権力もあり、人望もある。
その上、容姿端麗な絶世の美人とはなんということだ。
神に特別扱いでもされているのか、この人は。
だから敢えてローブで顔を隠していたのか。
この顔はとても目立つ。誰もが振り返る。ざわざわと噂され、必要以上に騒がれる。
それほどまでに美しいのだ。
「おねえちゃ…だめ、その人を見ちゃだめ…」
テルマの縋る声がする。
テルマの声はとても苦しそう。聞いていられない程に、可哀相な声だ。
出来る事ならば助けに行きたい。
でも、この人から目を離せないのだ。
「ニーナ、聞くんだ」
リュシアの綺麗な声。ローブを通さない声は、透き通るようだ。
薄い唇がゆっくりと開き、私を落ち着かせるように弧を描く。
そして、リュシアの顔がどんどん迫って来て。
私はびっくりして慌てて目を瞑った。
ひたりと、額が合わさった。
それは少しひんやりとしていて、色んな意味で熱くなった私の火照った顔にはとても気持ちが良かった。
彼の体温を感じ、私の心は次第に解き解される。
遠くにテルマの声が聞こえるが、もはや何を言っているのか分からない。
もやもやと線がこんがらがった頭が、スウと一本一本解かれていく。
涙は何時の間にか止まっていた。
彼のあの顔が近づいているというだけでも心臓はバクバク言っているのに、頭と心は不思議と心地よいのだ。
「後にも先にも、君に妹はいない」
「え?」
そして、とても衝撃的な台詞を吐いたのだ。
「やだ、きえる…」
テルマの鳴き声が聞こえる。
しかし目を瞑っている私には、テルマの姿は見えていない。
「君が大事だという妹は、もういない」
揺蕩う海のように穏やかな声色だった。
「なにを…」
彼は額を合わせたまま、私を抱きしめる。
ぎゅうと力が籠って、私は流されるままにリュシアの言葉を聞いた。
言っている意味は分からない。疑問はあるが、逆らう気も無い。
それよりもこの体温をいつまでも感じていたいと思ったのだ。男性に免疫の無い私が、こんなにも素直に、それも出会って2日しか経っていない見知らぬ男性の胸に抱かれ心地よさを感じているなんて、誰が想像しただろう。
「俺やアッシュ、君の母親も。あの家で何も見ていないし、何も聞いてない。君の部屋には空っぽのベッドがあるだけだ」
私の家に、何もいない…?
彼らだけでなく、母もそうだというの?
「っ…」
ズキンと頭が痛む。
こめかみに力を入れる私に、リュシアの力がさらに籠る。
冷える。
見える。
冷える。
彼にくっ付きすぎて、彼の心臓の音が聴こえるようだ。
トクントクンと、彼は鼓動すら綺麗な音を立てる。
その音を聴くと、何かぼやけた映像が頭に浮かんでくるのだ。
見える。
あれは、母?
いまよりも随分と若い。とても急いでいるような、後ろに父と元気だったころの祖母もいる。
私は何処にいる。
赤い靴。水の上に浮いている。もう片方の靴は、水の底に沈んでいる。
テルマは無邪気に笑っている。
「いいか、もう一度言うよ」
リュシアの声は、ちっとも不快ではない。むしろずっと耳元で囁いてほしい。
リュシアの胸に頭を埋め、私は頭のヴィジョンを鮮明化してゆく。
「君に妹は、いないんだ」
頭の奥でガラスの割れる音が聞こえた。
血の気が引いて慄いているだけの私に、アッシュが肩を叩いてきた。
力が強い。思い切り叩かれ、初めてテルマから目を逸らしてアッシュを見る。
彼は冷汗掻きながらも、ひどく真面目な顔をしていた。訝しげに険しい目を湛えており、私を責めるような口調だった。
「そっちこそ何を言っているの!そこにテルマが、妹が…」
「悪い、マジで分かんねえ。俺にはそこにぬいぐるみしか見えねえんだけど」
「はあ?」
急に何を言い出すのかと思ったら、テルマがぬいぐるみだと素っ頓狂な事を抜かしてくる。
そこにいるじゃないか。
いつもの黒いドレスを着て、ふわふわとシルバーブロンドをなびかせ宙に浮いている。
屈託ない笑顔でクスクスと笑っている姿が分からないのか。
あれのどこがぬいぐるみだ。確かに宙を浮くなど人間には出来ない芸当だが、今問題なのはそれではなく、テルマが此処にいて、こんな危険な場所にいて、団員達を皆殺しにしたという事実だろうに。
そう文句を言い掛けたが、アッシュの顔はとにかく真剣で、彼も嘘を言っている様には見えなくて混乱する。
「旦那、俺がおかしいのか?嬢ちゃん一人で喋ってて、俺には何も見えねえんだけど」
「……」
とうとうリュシアに助け船を求めたが、彼は上を見上げたままだ。
「テルマが、妹が分からないっていうの!家でも挨拶したでしょ!テルマが…え、見えない!?」
錯乱してしまいそうだ。
テルマは此処にいる。いるのだ。
見えない?在り得ない。こんなにはっきり見えているのに。
でもアッシュは嘘を言っているようには感じない。頼みの綱のリュシアは黙ったままだ。
え、本当に見えないのか。
うそ、本当に、私がおかしいのか。
「ぐは!!」
突然アッシュが蹲った。
腹を抑え、テルマを憎らし気に睨みつける。
「このくま、攻撃してきやがった!」
見るとテルマが血の滴る臓物を、思い切りアッシュに投げつけている。
彼女の小さな腕では放るだけで精一杯だろうに、臓物は意思を持ったかのように凄いスピードでアッシュに飛んでいき、容赦なくその腹を打ち付けているのだ。
柔らかい臓物も、それなりのスピードがあれば武器になる。
視覚的にもダメージは大きい。臓物は身体に当たると血を弾き飛ばし、腐った体液を撒き散らす。
アッシュはすっかり血に汚れてしまっている。これはたまらないと逃げ回るも、テルマはもはや手を使ってはいない。
彼女を中心に臓物が幾つも空に浮いて、アッシュのみならずリュシアにまで攻撃し出した。
「テルマやめて!!」
リュシアはそれでも動かない。
思う存分テルマの攻撃を食らって、少し身体がよろける程度で血にお気に入りのサメのローブが濡れるのも気にしていない。
彼は何を考えている。
彼は何を見ている。
彼の眼には、何が映っている。
「え…あ…」
頭が痛い。
ガンガンと凄まじい痛みが私を襲う。
両手で痛む頭を押さえ、テルマを見上げる。
彼女をやめさせなければ。彼らは敵じゃない。
むしろ、今後の私の未来の可能性を与えてくれる人なのだ。
だから、やめてテルマ。
テルマの姿がちらつく。消えたり現れたりぼやけたりと定まらない。
「だめだよ、この人の話を聞いちゃ。ちゃんとテルマを見ないと、消えちゃうよ」
「何を言っているの、テルマ…。お願いだからやめて…」
頭が痛い。
もはや立っている事すら辛い。
テルマの言っている意味が分からない。消えるとはどういう意味だ。
私はちゃんとテルマを見ている。
テルマこそ、はっきり姿が保てていないではないか。
ちらつく姿は、ぼやけ具合が酷い。いきなり近眼にでもなったかのように視界がぼやける。
私はリュシアに縋りついた。
情けなくも彼に助けを求めた。
彼ならば、この状況をどうにか打破してくれるであろう妙な確信に縋ったのだ。
「あなたにもテルマが見えていないの?」
「……」
しかしリュシアは答えない。
「何か言ってよ!!」
彼の臓物で汚れたローブを両手で掴んで揺すった。
リュシアが小さく息を吐くのが分かった。
「!!」
凛とした空気が、一瞬で張り詰めた。
その時何をされても動かなかったリュシアが、彼に縋りつく私の肩を抱いたのだ。
優しくそっと、震える肩を温めるように。
リュシアの体温を感じた途端、無邪気に笑っていただけのテルマの様子が一変した。
「だめ、この人は怖い人」
急に怯えたような顔をして、宙に浮いた臓物を全てプールに落とす。
ふるふると顔を振り、小さな身体を目一杯抱きしめている。
「おねえちゃん、この人はわたしを殺す」
「え…?」
ついにはガクガク震え出して、赤い大きな瞳から大粒の涙が零れ出した。
「おねえちゃんはわたしを見てればいい。この人を見ちゃだめ」
居たたまれなくなってテルマの元へ向かおうとする私を、リュシアは許さなかった。
私を抱いた手に力が籠る。
あまりの力に痛さを感じるが、不思議と不快感は無い。
「ニーナ」
とても落ち着いた声が、私の名を呼んだ。
「リュシアさん…?」
私が彼の名を呼び返したのと、テルマが見えない力で拘束されたのはほぼ同時であった。
「ぎゃ!」
テルマは短い悲鳴を上げて、宙にだらりと身体を浮かせている。
一生懸命もがくも、全く自由が利かない。涙をボロボロと流し、首を懸命に伸ばして辛うじて呼吸だけは確保できているような、悪魔の呪縛に囚われているようであった。
リュシアのほんの近くにいる私に、彼の詠唱は聞こえなかった。
彼が魔法を発動した仕草さえ無かったのだ。
だが、テルマを捕えた見えない力は、まさに魔法であった。
6大元素の何の精霊を使役したかすら判別できない。
テルマはもがき苦しむが、拘束は緩むどころか益々きつくその小さな身体を絞めつけている。
「ま、待って、待って!!」
彼以外に他は無い。彼しかこんな異次元の魔法を発動できる人間は此処には存在しないのだ。
私はリュシアにしがみ付く。
彼はテルマをもう見てはいない。私をじいと見つめている。
かあと顔が熱くなる。とても近い位置に私達はいる。
でもテルマの方が優先だ。テルマがとても苦しそう。
「やめて、テルマを殺さないで…」
自然に涙が流れ落ちる。
死人になってしまったエーベルの頭を軽く吹き飛ばしたように。
あの晩、廃墟で無慈悲に大量の死人をグレフともども押しつぶしたように。
彼は何の戸惑いもなく、人を殺せる類の人間なのだ。
「くっ…おねえ、ちゃ…」
テルマの顔は苦痛に歪んでいる。ひゅうひゅうと小さな掠れた息が聴こえる。
もうテルマは無抵抗だ。これ以上締め付けたらテルマが本当に死んでしまう。
テルマの云う通り、この人はテルマを殺す。
それはダメだ。なにがあろうと許されない。
やめてくれ、お願いだから、やめて。
「落ち着くんだ、ニーナ」
あくまでリュシアの声は一定だ。
彼は私を離さない。私はリュシアとテルマを交互に見て、泣いて、叫んで、呻く。
「でもテルマが、わたしの妹が!!」
「いいから、こっちを見ろ」
「え…」
リュシアは一度だけ大きく息を吐いたかと思うと、徐に首を左右に振った。
流れるような仕草であった。
今まで頑なに頭を覆っていたフードがフサリと揺れた。
揺れた隙間から、美しい金色の髪が見える。
彼は右手を私の肩に、そして左手でフードを掴んで、音もなく自らの肩に落とした。
「あ……」
フードの中で乱れた髪をいなすように、軽く一振り。
サラサラと絹糸のような綺麗なプラチナブロンドが、私の目の前を通り過ぎていく。
そんな美しい髪を無造作に掻き上げ、彼はその手を再び私の肩に置いた。
彼の顔を見る。
フードを取った顔を初めて見た。
その不遜で高飛車な御本尊を一度拝んでやりたかった。どんな面構えをして、偉そうに物を言っていたのだろうと思っていた。
用事がなければむっつりと黙ったままの顔は、どんな唐変木をしているのかと仲間内で笑っていた。
そしてそんな風に陰口を叩いていた私は、なんて愚かだったのだろう。
彼は、リュシアはそのどれにも該当しない。
そんな言葉で彼を表現するのはひどく烏滸がましいとさえ思える。
彼は、一言でいえばとても美しかった。
テルマに読んであげた絵本のどの王子様よりも、綺麗な顔だと思った。
その繊細なプラチナブロンドといい、陶器のような白い肌といい、ふるりと儚げな薄いピンク色の唇といい、筋の通った高い鼻といい。
二重の瞳は大きくて、やや男性らしくキリリとしているものの、髪と同じ色の金の長い睫毛が中性的な雰囲気を醸し出している。中でも特に瞳の中の深い海の底のような蒼い慟哭が、彼という存在をより美しく見せていた。
深淵の瞳。吸い込まれそうなほどに深い蒼。
その蒼が、私の顔を映している。
何の取り柄も無い平凡な私を、その綺麗な瞳が捕えている。
とても恥ずかしくて、とても心地よく、そしてとても気持ちが良かった。
私はリュシアから目を離せなかった。
「旦那…」
後ろでアッシュの声がする。
彼はリュシアのこの姿を知っているのだろうか。
こんな美しい人を、私はいままで見た事がない。
ずるいとさえ思った。
神はどうして天賦を二才も三才も与えるのだと。
魔法に長け、状況判断に長け、権力もあり、人望もある。
その上、容姿端麗な絶世の美人とはなんということだ。
神に特別扱いでもされているのか、この人は。
だから敢えてローブで顔を隠していたのか。
この顔はとても目立つ。誰もが振り返る。ざわざわと噂され、必要以上に騒がれる。
それほどまでに美しいのだ。
「おねえちゃ…だめ、その人を見ちゃだめ…」
テルマの縋る声がする。
テルマの声はとても苦しそう。聞いていられない程に、可哀相な声だ。
出来る事ならば助けに行きたい。
でも、この人から目を離せないのだ。
「ニーナ、聞くんだ」
リュシアの綺麗な声。ローブを通さない声は、透き通るようだ。
薄い唇がゆっくりと開き、私を落ち着かせるように弧を描く。
そして、リュシアの顔がどんどん迫って来て。
私はびっくりして慌てて目を瞑った。
ひたりと、額が合わさった。
それは少しひんやりとしていて、色んな意味で熱くなった私の火照った顔にはとても気持ちが良かった。
彼の体温を感じ、私の心は次第に解き解される。
遠くにテルマの声が聞こえるが、もはや何を言っているのか分からない。
もやもやと線がこんがらがった頭が、スウと一本一本解かれていく。
涙は何時の間にか止まっていた。
彼のあの顔が近づいているというだけでも心臓はバクバク言っているのに、頭と心は不思議と心地よいのだ。
「後にも先にも、君に妹はいない」
「え?」
そして、とても衝撃的な台詞を吐いたのだ。
「やだ、きえる…」
テルマの鳴き声が聞こえる。
しかし目を瞑っている私には、テルマの姿は見えていない。
「君が大事だという妹は、もういない」
揺蕩う海のように穏やかな声色だった。
「なにを…」
彼は額を合わせたまま、私を抱きしめる。
ぎゅうと力が籠って、私は流されるままにリュシアの言葉を聞いた。
言っている意味は分からない。疑問はあるが、逆らう気も無い。
それよりもこの体温をいつまでも感じていたいと思ったのだ。男性に免疫の無い私が、こんなにも素直に、それも出会って2日しか経っていない見知らぬ男性の胸に抱かれ心地よさを感じているなんて、誰が想像しただろう。
「俺やアッシュ、君の母親も。あの家で何も見ていないし、何も聞いてない。君の部屋には空っぽのベッドがあるだけだ」
私の家に、何もいない…?
彼らだけでなく、母もそうだというの?
「っ…」
ズキンと頭が痛む。
こめかみに力を入れる私に、リュシアの力がさらに籠る。
冷える。
見える。
冷える。
彼にくっ付きすぎて、彼の心臓の音が聴こえるようだ。
トクントクンと、彼は鼓動すら綺麗な音を立てる。
その音を聴くと、何かぼやけた映像が頭に浮かんでくるのだ。
見える。
あれは、母?
いまよりも随分と若い。とても急いでいるような、後ろに父と元気だったころの祖母もいる。
私は何処にいる。
赤い靴。水の上に浮いている。もう片方の靴は、水の底に沈んでいる。
テルマは無邪気に笑っている。
「いいか、もう一度言うよ」
リュシアの声は、ちっとも不快ではない。むしろずっと耳元で囁いてほしい。
リュシアの胸に頭を埋め、私は頭のヴィジョンを鮮明化してゆく。
「君に妹は、いないんだ」
頭の奥でガラスの割れる音が聞こえた。
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色々と試行錯誤をしたものの、強くなれる見込みがないため、探索者になるという目標を諦め一般人として生きる道を歩んでいた。
しかしある日、5つしか獲得できないはずのスキルをいくらでも獲得できることに気づく。
ここで如月飛鳥は考えた。いくらスキルの一つ一つが大したことが無くても、100個、200個と大量に集めたのならレベルを上げるのと同様に強くなれるのではないかと。
一つの光明を見出した主人公は、最強への道を一直線に突き進む。
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