蒼淵の独奏譚 ~どこか壊れた孤高で最強の魔法使いがその一生を終えるまでの独奏物語~

蔵之介

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二. ニーナの章

29. くまちゃん

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 ガシャン!!


 ガラスが砕け散った音が脳の奥で聞こえた。


 これは、昔の記憶か。
 ぼやけた頭の映像が、はっきりと見える。

 今私が見ているのは、プールに浮いているおばあちゃんが作ったクッキーの欠片だ。

 あの時、この館に忍び込んでテルマと一緒に遊んで。
 私は7歳の特別な誕生日で、テルマは父が《王都》で買ってきた黒いドレスを着ていた。7歳の儀式の最後に花束を渡す大役を仰せつかったから、父も母もテルマも張り切っていたあの日。


 このクッキーは、誰がこのプールに落とした?

 そうだ。が…落とした。

 だってせっかくお祖母ちゃんが焼いてくれたクッキーなのに、テルマったらプールで泳いで遊んでばかりで食べなかったんですもの。


「悪い、嬢ちゃん。あんたがあまりにも必死だったから切り出せなくてよ。あんたが紹介してくれた先に、あの写真の子はいなかった」

 遠慮がちにアッシュの声が聞こえてくる。

 必死だった、私?
 どうして私が必死になる必要があるの。
 いや、そうでもしなければ、テルマはすぐにいなくなってしまうからだ。

 大事な大事な私の妹。
 私の命の次に大事なテルマ。

 少しでも目を離すと、少しでも彼女を忘れると、テルマは天邪鬼だから隠れて私を困らせるのだ。
 だから必死に彼女を思っていなければならなかった。

 私さえ彼女の存在を認識していれば、彼女はいつまでも私の傍にいてくれたからだ。
 少しでもヘソを曲げると大変だ。彼女はすでに、輪廻の輪の中にいるのだから、こっちに呼び寄せるのが不可能になる。



 輪廻の輪。

 テルマは。

 私にしか見えない――。




「なんつーか、その、クマ?それがあっただけっつうか…」
「な…、じゃあ、なに、わたしは今までなに、を…」


 クマ、くま…。

 私は何を見てきた。何をこの目で見て、何を信じてきた。
 ―――何を信じなければならなかった…?


 ふわふわの髪に顔を埋めて眠るのが私の日課だった。つぶらな瞳と、小さなお口。短い手足はとても愛くるしくて、大好きだったのだ。
 いつもいつも傍にいた。どんなに疲れても辛くても、部屋に帰ればいつものひょうきんな顔で出迎えてくれた。

 小さな頃から一緒にいる、私の大事な大事な――。


「きゃあ!」

 テルマが悲鳴を上げる。
 ギチギチと見えない縄が彼女を締め上げている。

 腕なんか、ほら、もう取れそう。

 リュシアの私を抱く手はとても優しいのに、テルマを拘束する手はとても冷たくて容赦がない。


「テルマ…」

 彼の胸の中で、テルマの名を呼ぶ。
 私はいつもあの子の名前を呼ぶけれど、その声に一度だって返事が返ってくることはなかったのだ。


 そうだった。
 テルマは喋らない。テルマは口を開かない。

 だって、テルマは…。


「やだ、いたいいたいいたい!やだよおねえちゃん、この人止めて…」

 テルマの泣き叫ぶ声に、私は彼の胸を押してテルマを見上げた。
 ギクリと強張る。

「あ、嘘…」



 もはや私の目にテルマの姿は無い。


 代わりに見たのは、みすぼらしいクマのぬいぐるみであった。


「祖母のぬいぐるみ…?」

 私が物心つく前に、祖母から貰った大きなクマのぬいぐるみ。

 ふわふわと抱き心地が良かったから、幼い私はいつもこのぬいぐるみを抱えていた。ぬいぐるみの足の所にすべすべのタグが付いていて、その感触を触りながら眠るのが私の常だった。
 ベッドには必ずこのクマがいて、テルマが産まれるまでずっと私はこの子と一緒だった。

 20数年。あのふわふわだった毛並みは大分擦れてしまって、あちこちに剥げがある。そこから綿が飛び出していて、今、リュシアの魔法によって手足は捥がれる寸前の痛々しい姿であった。


、わたしをころすの?」

 クマのぬいぐるみは真っ赤な目で私を睨みつけた。

 この子はテルマじゃない。ただの、ぬいぐるみだ。

 ついに足が一本もげた。そこからボトボトと綿が階下の赤い臓物へと落ちていく。白い綿が赤に染まり、水分を経てへしゃりと臓物に埋もれていく。

「ひ…」

 ぬいぐるみは怒っていた。
 身動きが取れないのに無理に拘束を解こうとしてどんどん身体が千切れていく。
 わなわなと怒りに震える愛くるしいクマの顔は、もう原型さえ残っていない。


 また、殺すのかとクマは言う。
 私はぼんやりと、ああ、また殺してしまうのだと思った。


 私は自分勝手でいつも自分本位だ。結局の所、私は私のままなのだ。
 小さい頃の自分とまるで成長していない。私は私が可愛いばかりに、また大事なモノを失っていくのだ。


 一度目も、そして二度目も。


「やだよ、わたしたわたしは、おねえちゃんのためにいるんだから!!」

 健気なテルマ。私はもう、全部思い出してしまった。

 リュシアの額に触れた箇所から霧が晴れて、長年の矛盾が一気に解けたのだ。

 私がテルマを認識しなくなったら、私が望んだテルマはもう消えてしまうだろう。
 そう、あなたは私の為に在った。私がそう望み、私がいつまでも生きながらせさせたからあなたは在ったの。


 あなたを必要としたのは私。壊れた私が、テルマを作った。
 あなたを利用して、自分がより壊れるのを防いだの。


「せっかくお外に出られたのに、おねえちゃんのジャマをする人みんな殺したのに…」

 でもこれは望んでなんかいない。

 私が私でいられるように想像から作ったあなたは、本来は部屋から出ることすら無理だったの。
 言葉も喋れず、バッテンのお口は永遠に開かず、つぶらな瞳はボタンのままだった。小さい頃の私のリボンを頭に巻いて、あなたはただそこでベッドに寝転がっているだけで良かった。あとは私の妄想の中で、あなたはテルマとして生きていれば良かったのだ。

 私の言葉はただの愚痴だ。たかが愚痴を本気にして、誰が殺してくれなんて頼んだの。


 ああ、ごめんなさい。

 あなたにあの透明な石コロを上げなければ良かったのね。
 私が余計な真似をしたから、矛盾が現実となり、現実は破綻した。

 これも何もかも、7歳の誕生日に私が本当のテルマを此処で殺してしまった所為。
 私はテルマが死んだのを認めたくなくて、ぬいぐるみのあなたをテルマに見立てて何とか精神を保っていただけなのに…。


 本当に、ごめんなさい。


 私はあなたのおねえちゃんじゃない。
 そしてあなたも、



 クマのぬいぐるみは、絶望したように見えた。

 突然足掻いていたカラダがビクンと痙攣したかと思うと、ダラリと全ての力を抜いたのだ。
 たくさんもがいて、辺りは綿だらけであった。

 ぬいぐるみはピクリともしない。リュシアの拘束が解かれ、ダン!と飛び込み台の上に落ちた。
 一度リバウンドしてから、真っ逆さまにプールの底へ落ちていく。

 自らが出した臓物の上にドサリと落ち、辛うじてくっ付いていただけのもう片方の足が取れた。


 私はなんて残酷な女なのだろうと思った。ぬいぐるみが落ちた時、私はようやく解放されたと思ったのだ。

 自分勝手にテルマを生み出しておいて、実はその存在を疎ましく思っていた事を、今更ながら思い知った。

 テルマだったぬいぐるみとの会話は、私にしか聞こえていない。
 そのテルマの言葉もまた、私が深層心理で生み出したものなのだ。


 リュシアが私を離す。
 その温もりが離れていく名残惜しさを感じるものの、私の心は妙な清々しさを味わっていたのだ。

 ぬいぐるみが動かなくなって、プールはまた静かになってしまった。


 これからどうすればよいのか。
 どうしてだか分からないが、想像だけの存在であるテルマが、実際に動いて大勢の人を殺した。
 死んだ彼らは死人となって、私達を襲ってきた。

 私はテルマを失っただけではなく、第二の家族も両方同時に無くしたのだ。

 明日団長が戻ってきて、この惨状をどう説明すればよいのか。
 団員100数名が突然皆殺しに遭って、それは私の家のクマのぬいぐるみがやったんだと、そんなお伽噺を誰が信じる。

 残り50名弱の団員を、誰が引っ張っていくの。
 どう町に説明するの。
 彼らの扱いはどうすれば。

 問題は山積みどころか、四面楚歌であった。

 私も彼らと一緒に死んでいれば、こんな目には遭わなかったのに。
 どこまでも自分本位で自虐的な私に、反吐が出そうだ。


 プールの底に落ちたぬいぐるみを食い入るように見つめているリュシアに、私がどうしますかと声を掛けようとしたその時、忘れたくとも忘れられない悍ましき慟哭が響いたのである。



 グモモモモモオモモォォォォッォオオ!!!


 耳を劈く声は、すぐ傍から聞こえた。
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