蒼淵の独奏譚 ~どこか壊れた孤高で最強の魔法使いがその一生を終えるまでの独奏物語~

蔵之介

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二. ニーナの章

30. やるべき事

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 私達三人は弾かれるように顔を上げた。

「!!」

 あれは、怒れる神グレフの聲…?

 声はほんのすぐ近くで聞こえた。声は反響し、建物全体に響き渡る。
 耳を劈く音に、思わず両手で塞いでしまう。


 ボコぉ!!


「な!」

 コンクリートの固くて厚い石床が凹凸したかと思うと、それはひび割れ中からあの死人の腐った肢体が現れたのだ。
 硬い地盤を諸共せず、次々に出現しては声なき音で啼いている。

 その数、50以上。

 プールの建物は、瞬く間に死人の集団で埋め尽くされた。

 私達を取り囲むように死人が距離を徐々に詰めてくる先頭に、アドリアンがギャバンのバンダナを咥えたまま立っている。その横にはコルト。関節が伸び切った身体でズリズリと身を捩っている。


 グモオオオオオオオ!!!


「グレフの声!?」

 聲が響くと、死人が湧く。
 死人は達は明らかにその声に呼応している。

「きゃあ!」

 私の足元の石が砕けたかと思うと、そこから筋だけの手が伸びてきて、私の足を掴んだ。
 とても強い力。引き千切られそうに爪が食い込む。痛いというよりも怖い。
 彼らの体液が私の身体に少しでも入れば、私はこれらの仲間となってしまう。

 ついさっきまで死を考えたのに、いざとなると死にたくはない。
 本当に私は嫌な女だ。

 必死になって足を振る。上からアッシュも手をガンガンに蹴りまくってくれた。

 私もアッシュも、突如現れた死人に気を取られていた時、いままで全く動かなかったあのクマのぬいぐるみが突然プールの底から飛び出した。
 足は両方もげている。短い手も身体も尻尾も綿がはみ出ている。

 しかしそんな無残な恰好を気にする余裕はないのか、またふわりと浮かんだかと思うと、凄いスピードで二階の窓ガラスに体当たりして逃げて行ったのである。

 まさに一瞬の出来事で、私もアッシュも、そしてリュシアですら対応できなかった。

「……」

 リュシアに至っては、沈静化したと思ったテルマが再び動くとは予想していなかったのだろう。
 悔しそうに唇を噛み、テルマが出て行って割れたガラスを見上げている。




 アッシュが魔法を構築した。

  

 胸元から取り出した聖職者の印を掲げて、短い詠唱を唱える。

#____#

 ゴオオウっ!!

 火炎放射のように炎が噴き出し、私達の周りを囲った。
 昨夜廃墟でアッシュが放った火の魔法だ。

「ま、待って!ここは火薬の保管庫なのよ!!!燃え移ったら大惨事になるわ!!!」

 幸いにも、私達はプールの外側にいる。

 武器や火器はプールの中に陳列しているのだ。だが全く安全ではない。
 万が一、この炎に焼かれた死人がプールに転がり落ちてみろ、私達は死人もろとも木っ端微塵だ。

「ったく、んな事言ってもよお、ヤベエ事には変わらねえだろうが!!」

 アッシュの魔法の炎に阻まれ、死人はこれ以上は近づけないでいる。
 しかしその数はどんどん増え続けており、私達はすっかり囲まれてしまっている。

 この建物外にもいるかもしれない。
 あの館にいた全ての死人が此処に集まっているとしたら、数が多すぎて入りきれないのだ。


 グモオオオオオオオオ!!!


 相変わらずグレフの聲は響いている。

 だが、先程とは少し違う。
 音はとても近いが、なんだか複数聞こえている気がするのだ。
 アッシュもそれは気付いたようで、蒼白な顔をリュシアに向けて唾を飛ばして叫んだ。

「旦那、どうすりゃいい!なんか外からすげえ聞こえるんだけど!!」
「このままにはしておけんだろ」

 リュシアが片手を上げた。
 すると、私達の後方、鉄の扉側ににいた死人達が弾け飛んだ。

 それは僅かな扉への通り道を作る。

 すかさずアッシュが魔法を操って、通り道に炎を這わす。幾分か小さな炎が紅蓮の道を模った。
 しかし炎の高さが足りていない。死人は首を傾げながら、その火を越えようとしている。

 魔法は威力は高いが、万能ではないのだ。
 複数の魔法を一度に行使することはできない。一度発動したものを消した上で、再度構築し直さなければならないのだ。
 アッシュは先に炎の壁を作っている。新たに炎を流用する離れ業を見せてくれたのだが、これが精一杯なのだろう。

「とりあえずこれを消して、一度外に出ろ」

 アッシュの発動した炎を指している。

「お、おうよ!」

 アッシュが私の腕を掴んだ。
 こんな危機的状況なのに、どこかぼんやりしていた私を力一杯揺する。
 私がアッシュに視線を合わせると、ホっとした顔をした。

「嬢ちゃん、しっかりしろ!話は後だ、さっき言ってた抜け道っつうとこに案内してくれ!!」

 アッシュはせっかく編み出した炎を消した。
 ここぞとばかりに歩みを進める死人に、今度はリュシアの魔法が行く手を阻んだ。

 此処に火薬がある危険を彼は避けたのだろう。生み出した壁は炎ではなく、氷だった。

 とても厚い氷の塊は死人如きの力では砕けはしない。ドカンドカンと頭突きを繰り返す死人にもビクともしない強固な氷の壁が、私達の前と出口に沿って聳え立っている。
 高さはこの建物の二階にまで届いている。

 冷たい空気が、この建物を占領した。

 簡単には破れない氷は、リュシアの前にだけない。
 彼は無防備に、その身を死人の前に曝け出している。

 私達を守るように立ち塞がるリュシアの姿に、私は手を伸ばす。
 氷の壁が、邪魔をする。
 死人達はけん制するかのようにリュシアを取り囲んでいる。


「リュシアさんは…」
「旦那なら大丈夫だって。あんな雑魚なんか、チョチョイのチョイだ」

 どこからどう見ても、私達を逃がすために囮になっているようなものじゃないか。
 こんな人数に、たった一人で対抗できっこない。

 なぜアッシュはこんなに笑っていられるのだ。リュシアが心配じゃないのか。

「アッシュ、お前は援軍を呼びに行け。俺一人ではどうにもならん」

 リュシアは振り返らない。

 氷の冷たい風が、リュシアの美しい金髪を靡かせている。
 いま、彼はどんな顔をしているのだろう。

 強がりか、虚勢か、それとも自信たっぷりか。

「俺が!?」

 白羽の矢を立てられたアッシュが驚愕に目をまん丸くしている。

 そうだ。団は壊滅したのだった。
 死人の処理、町民への対応、グレフの脅威、今後の対策。どれもたった三人では手に余る。

 団がなくなれば、町は戦闘の経験すらないただの人間しか残らないのだ。
 それに町は団に依存して生きている。団が壊滅したと分かってもただ狼狽えるだけで具体策などでないし行動すらもしないだろう。

 だから、外部の助けが必要なのだ。


 グモオオオオオオオオォォォォッォオオオオ!!!!!
 ぐっがあああああああぁぁぁ!!
 グモオオオオオオ!!!
 ボオオオオオォォォ!!


 突然、グレフの嘶きが至る所から聞こえた。
 聲は遠かったり近かったり、東だったり北だったりあちこちから咆哮がした後、

「ぎゃあああ!」
「うわあああ」

 なんと、外の人間の悲鳴までしたのである。

「町にグレフが…!!!」

 まさかと思ったが、最悪な状況下に陥っている事は間違いないだろう。

 団は壊滅、団員は死人化。
 町には複数のグレフに、襲われる町民。

 中も外も地獄である。

「いけない、戦えるものがいない!…そうだわ、緊急放送!!」
「なんだそりゃ」
「災厄から緊急時に備えられた合図のようなものよ。この辺りは台風もひどいからそれも兼ねて設置してるの」

 今はまだ夜中。外を出歩く人はとても少ないだろう。
 だが、この悲鳴に何事かと出てくる人はいるかもしれない。
 被害を最小限にするには、家の中で隠れているしかあるまい。

「せめて外に誰も出なければ…」
「奴らが家に入ってこないとも限らんがな」

 すかさず揚げ足を取るリュシアに、私は言い返す。

「でもパニックを起こして無駄に外を逃げ回るよりいいわ。まだ夜は明けていないのだし、アッシュがその援軍とやらを呼んできてくれるまでもてば…なんとか…」

 緊急放送には三種類ある。鐘を鳴らすだけの代物であるが、この町では台風被害の際によく使っている。

 避難か、集合か。そして待機か。

 緊急の避難先はまさに此処だ。この屋敷は広くて備蓄庫もあって作りも強固だ。
 町民全員を受け入れる事は出来ないが、数日ならば食料に困る事は無い。

 集合先は、町の入り口だ。
 こんな夜中に、グレフが闊歩する町内を歩かせるわけにはいかない。これは論外である。

 最後の待機は、その名の通り、自分の家で大人しくじっとしている事である。
 次の合図が鳴るまでは、許可が無い限り町の外に出る事は許されていない。その権限は町長か、団長のみだ。

 そう説明すると、リュシアは私達を振り返らないまま、あの人差し指を口元に、親指を顎に沿える仕草をしている。
 これは彼の考える時の癖なのかもしれないと思った。

「それは何処にある?」
「港です!漁業組合のあった建物です。今は団が管理していますが」

 災厄が訪れるまでは、両親の働いていた場所であった。
 当時は養殖の他に漁も積極的にしていたから、海上の船に合図するのに利用していた鐘だったという。
 その旧組合邸は、日中以外は誰もいない。あれだけ活気のあった港も、災厄からさっぱりと廃れてしまった。


「ロン」

 リュシアが急に何かを喋ったかと思うと、今まで何もなかった私の横の空間が突然歪みだし、ぐにゃりと湾曲したかと思うと、何と中から唐突に人間が現れたのである。

「え!」

 目を見開いて、氷の壁の中、つまり私とアッシュの間に割り込むように現れた謎の人間を見る。

 それは全身ピッチリとしたタイツのような衣に身を包み、頭も口元も布でぐるぐるに巻いて目元だけを出した怪しすぎる容姿だった。

「は、ここに」

 目元はとても細く釣り上がっていて、眉毛が太くて濃かった。
 それは短い返事をしてからリュシアに向き直り、流れるような動作で片膝をついた。

 何もない所から急に人間が現れたのにも驚いたが、それよりもアッシュがその得体の知れない何者かに手を上げて、「よ!」と声を掛けたのにも驚いた。

 しかしロンという輩はアッシュを一瞥しただけで何の返事も返さず素っ気ない態度であったが、アッシュは舌を出しただけで咎めようとはしなかった。

 知り合いなのか?

 訝し気にその男を睨みつけるが、やはり男は無視である。
 男はただ頭をリュシアに垂れ、彼の指示を待っているようであった。

「アッシュはすぐに出ろ。を作ってやるから、まずは騎士団の駐屯地へ向かえ」

 そう言うと、アッシュの周りに風が熾った。
 彼の赤茶の後ろで一つ結びをしている髪が、風に吹かれて重力に逆らって上を向く。
 彼を中心に、小さな竜巻を纏っているような、鋭い風だった。

 同時に二つの魔法をリュシアは発動したのだ。常識から考えて在り得ない。性質が違うと使役する精霊も違う。精霊同士は決して交わらなので、改めて魔法を構築し直さねばならないのだ。
 どんなに高尚な魔法使いでも、間髪入れずに発動する事は出来ても、同時進行は不可能なのだ。

 しかしリュシアは簡単にそれをやってのけている。

 さらにだ。

 これはもう前々から思っていた事なのだが、今回で確信した。
 彼は、魔法を発動するのに、

 またこれも在り得ないのである。どんな難しい魔法書を読んでも、そんな事は書いていない。

 人はマナというエネルギーを必ず保持しているが、マナそのものを使う事はできない。
 よく分からないが自己防衛が働く所為なのだと魔導書には記されてあった。マナに干渉するには精霊の力が必要で、精霊を行使するには精霊の言葉、即ち詠唱が必要なのだ。

 彼の場合、無詠唱である。
 小さく呟いているのかと思ったが、詠唱どころか触媒すら持っていない。

 魔法使いの常識を、リュシアは完全に凌駕しているのである。
 彼は精霊を利用せず、マナに直接干渉しているとでもいうのか。

 触媒もなく、人間にそんな事が可能なのか。神ならば、創造神ならば在り得る。
 だが、彼は人間だ。女神とまごうごとなき美しい顔をしているが、彼は人間なのだ。

 自らの正義を突き通すリュシアを、もっと知りたいと思った。
 彼の成す未来、彼の意地、そして、彼の行く末を。
 私もアッシュと同じく隣で見てみたいと強く思ったのだ。


「アッシュ、俺の名を出して、総帥に話を通せ。中央に戻ってるかもしれんが、仕方ない」

 他に意識を向けている中、リュシア達は話を進めていた。
 頭を振って、集中する。いけない、まだ何も解決してないのに、現を抜かすなど。

「ロン、お前はこの娘を護衛しろ」
「え?」

 まさかここで私の事が出てくるとは思わなかった。

「これは味方だ。信じてくれていい」

 目の前に死人が迫っているのに、リュシアの声は冷静だった。
 だから私も安心する。彼がいるから間違いないと。

 それに、こんな私の事を気にかけてくれて、正直嬉しかったのだ。

「鐘とやらを鳴らしたら家で大人しくしてるんだ。お前はその後、アッシュに合流しろ。途中でグレフに遭うと厄介だからな」
「御意」

 ロンと呼ばれた男が頭を下げて深く礼をした後、私達に向き直る。
 リュシアとは別の意味で異様な姿である。その顔には何の感情も見えてこない。

「理解したら行け」

 そして、私達の前の氷も閉じた。

 リュシアの様子は、分厚い氷を通してからしか見えない。
 その姿は氷に歪んでいて、輪郭すら明白でない。

「あ、あなたは!」

 こんなたった一人でどうするのか。
 私と一緒に、来てくれないの?

 そう喉まで出掛かるが、アッシュの手によって止められた。
 彼は首を横に振る。彼を信じた瞳をしている。
 彼もリュシアと出会った時、こんな経験をした事があるのだろうか。

「俺はグレフを殺す」

 リュシアの言葉に、強い意志を感じた。

「それに確かめたい事もあるしな…」


 ごおおおおおおお!!!


 氷の壁が割れていく。
 それは殺傷力のある鋭い氷柱となって、二階の高さから下の死人目掛けて突き刺さる。

 ぐがああ!!

 死人達の悲鳴が耳に届いた時、私達は駆けだした。

「嬢ちゃん、行くぞ!旦那が作った時間を無駄にするな!!」

 まさにその通りである。
 ぐずぐずしている暇はない。
 まだ何も終わっていないのだ。

「ええ!お気をつけて、リュシアさん!!!」
「……」

 リュシアからの返事は無かった。
 何か言ったのかもしれないけれど、落ちた氷柱が砕ける音で掻き消えて聞こえなかった。

 転がるように扉から外に出て、案の定、中庭をうろつくグレフの姿に息を潜めて、それでも足早に隠された抜け道へと進む。

 グレフは建物の方に意識を向けている。続々と集まる大蛇を模したグレフが建物自体に纏わりついている。
 私達が獣道を抜け、隠してあった幼き頃の悪戯の名残の足枠を昇って柵まで辿り着いた時、


 どがああああああああ!!!!!


 凄まじい音が建物から聞こえた。


 どうか無事でいて、リュシアさん。
 もし願うのならば、どうかわたしを傍に置いてほしい。

 テルマを二度も失った私を、こんな可哀相で情けなくて、とても浅ましい私を慰めて欲しい。
 私は新しい未来を見たいのだ。町に依存して、団に依存して、死んだテルマにすら依存して生きていた私に、あなたは可能性を見せてくれた。

 私はあなたの事が知りたいのだ。

 できるなら、あなたの助けになりたいとも思う。
 もし、この残酷で絶望しかない夜を明けられたなら、私はあなたに縋ってしまうだろう。


 どうか、私も連れて行ってほしいと。


 彼は何と答えるだろうか。
 案外、何も云わずに惰性でついて行く私を許してくれるのかもしれない。




 柵を越え、館を振り返る。

 アッシュはもう、リュシアがくれた風を追い風にして行ってしまった。

 ロンは黙って私の後ろに控えている。

 館内はあんなに凄い音がしたのに、外から見る館は静かに佇んでいる。



 彼だけが、いなかった。
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