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二. ニーナの章
53. ニーナ
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ほんの10年前。
両手の指を一本一本数えて、ちょうど10本目。
死ぬまで変わらないと思った世界の条理が覆された。
この世界では人間と魔族がいつもどこかで小競り合いをしていて、精霊と魔物が覇権を争っていた。
でもそれは何千年も前から繰り返してきた歴史で、この世界に於いてはごく普通の当たり前の事。
この日常的な争いがマナを巡らせ、世界を潤し、輪廻を潜ってまた還ってくるのだから。
でもその当たり前の世界は失われてしまい、世界を支配しようとする第三者の介入に恐れ慄いている人間は、今こそ抗わなければならない。
この不条理な参入を阻止すべく、力あるものから立ち上がり世界を救うために正義を貫き戦う人達がいる。
私はその激震を起こす中心の傍に身を寄せて、世界の成り行きに微力を尽くしている。
ほんの両手で数えられる数年前まであった世界と私は。
あの人の元で――――再び返り咲く。
■■■
今日も今日とて、書類仕事の山をこなす日々である。
一向に減らず、机に積み重なっていく紙の束を見て資源の使い過ぎのような気がしないでもないが、リサイクルは私の仕事じゃないので知った事じゃない。
資源の大切さは全員の意識の共有が必要だからであって云々と、“塔”のエコ担当を担っている神経質な同僚は今ここにいないので、少し気分が優れている。
事務仕事を一緒くたの部屋に放り込んでいるから、部署違いの同僚と軋轢が生まれるのだ。せめてパーテンションで仕切るなどの配慮は取って欲しいと思う。
「あ、コルト。そっちの書類はこっちに綴じてね。そうそう、ロロ?これを纏めておいてくれるかしら」
書類と人とでごった返して狭い事務所の上を、カラフルなぬいぐるみが飛び交う。
「ギャバン、もう終わったの?いい子ね。じゃあ、アドリアンを手伝ってもらえる?急ぎの書類を仕上げて、今日中にマスターの検印を頂かないと」
ただでさえ、神経質な彼女は頭上をぬいぐるみが飛んでいるのを好ましく思っていないのだから。
「アインとエーベルはこっちに来て?テルマがサボっていなくなっちゃったから、みんなのところに飛んで行って、営業許可証を預かってきてほしいの」
緑とピンクのクマが窓からふわりと飛び立つのを、私に付けられた二人の部下がポカンといった表情で見上げている。
この子達は今週から入った新人さん。
未だ”人形遣い”に慣れてないみたいで、その初々しさが微笑ましい。
まあ、正直、不思議な絵面なのは否定しない。
小さなクマがちょこちょこと動き回って書類整理をしている此処は、ちょっとした童話の世界だ。おとぎ話の主人公になった心地も味わえるオマケ付き。
でも流石に手狭となってきた。
これからどんどん忙しくなるだろうし、人手不足は深刻だ。
だからクマのぬいぐるみが手伝ってくれているのだけど。
そろそろ苦言を呈してもいいかな。
あの人の多忙さはこれとは比にならない極まったものだけど、職場環境を良くするのもギルドマスターとしての務めだもの。
これから彼と約束があるから、ついでに進言してみよう。
《中央》が4大ギルドは結成して3年目にして、本格的に治世に乗り出した。
災厄から11年目の春だった。
今までは漠然と役割が与えられ、各ギルドがそれぞれ得意分野を担っていたが、《中央》の統治の目途が立ったのを機に完全独立したのだ。
私が魔法使いを中心とするギルド“紡ぎの塔”に半ば世話焼き女房よろしくくっ付いて来たのが去年の夏の終わり。
あの事件より半年が過ぎていた。
治世といっても“塔”には余り関係はない。
治安を司るのは“騎士団”。そして司法を担うのが“盗賊ギルド”だからだ。
我がギルドマスター・リュシア率いる“紡ぎの塔”は、市場の管理に留まった。
だからといって権力が無い訳ではない。
文字通り、《中央》全ての『店』が対象となるのだ。
店を構え、何かを売って利益を得るものなら何でもである。
武器屋、道具屋、食料品店のみならず、宿屋、飲食店、土産屋や荷馬車宅配のサービス業、その上、色事を売るいかがわしい娼店、いわゆる風俗店も該当する。
各商業施設は、“塔”に完全管理される。
一番の目的は治安維持だ。災厄から野放しにされていた悪徳業者の排除。つまり不正に偏った利益を得ていた金持ちや、発言力だけは無駄にある貴族達の力を削いだのだ。
商業施設の住民は、全て“塔”の所属となる。
戸籍を作り住居や仕事の斡旋を行い、市場や相場も見る。
店はギルドに税金を納めねばならないが、最低限の生活は保証される。
そして集められた資金は、ギルドの運営と《中央》の統治に使われるのだ。
意を唱えるものは、例外なく《中央》に居場所がない。
また、《中央》は災厄を生き延びた周りの町村を併呑しているから、必然的に従わざるを得ないのだ。
全ては、のちの怒れる神との全面戦争に備える為である。
ギルドの本質は《王都》の解放であり、グレフの全滅だ。
それ以上でもそれ以下でもなく、全人類が共に協力し合い、個々の利益を追求する場合ではない事を知らしめる為に必要な手段を嵩じたに過ぎない。
そういうワケで、今この“塔”には、数百は軽く超える商業施設の書類で溢れ返っている。
春から始まった管理に追われているのが現状なのである。
如何せん、人が足りない。
それはマスターも分かってくれていて、定期的に人を寄越してくれるのだが、管理が《中央》に留まらずに遠方の町や村にも発生しているし、その間にもグレフとの絡みや魔物討伐依頼などで人を出さねばならないしで、使えるものから去って行く。
事務も立派な仕事だが、命を脅かされる事だけはない。
だから新人の登竜門的な意味合いで、まずはここに配属されるのだ。
二人の新人も、数週間ですっかり慣れてまた違う部署に行くだろう。
その時は前線かもしれない。
いくらギルドが後ろ盾にいるからといって、必ずしも安全とは言い難いのだ。
自分の身は自分で守らねばならない。
これが災厄を生き延びた人間すべてに共通で与えられた試練だ。
「室長、受付が呼んでますよ」
「あ、ほんとだ」
“塔”からほど近い市場の商品目録を綴ったファイルを漁っていた時だった。
私の机の上で、小さな石ころがチカチカと白い光を点滅させている。
「ありがとう。そろそろお昼だし、休憩していいよ」
「わあ!やった!」
「お腹ペコペコ~!!」
今は亡き大切な友人たちの名前を付けられた私の傀儡は年中無休の24時間営業だ。
この子達は私のマナで動いている。それぞれ別個の動きをしているが、根っこは私に繋がっていて、私が操っている。
“塔”はリュシアのお膝元。彼のマナで満ち溢れている。
複数の傀儡を行使しても本体の私がなんともないのは、彼のマナのお陰に他ならない。
それに私自身もこの半年で成長した。
強く、なった。
彼とマナの同化を経た私が手っ取り早く力を手に入れるには、彼のマナを体内に取り入れればいい。
私は“塔”に来て一週間もしない内に、本当の意味で彼と褥を共にした。
彼は自分を好きにしていいと言ったので、好きにさせてもらったのだ。
だからと言って、彼と私が特別な関係になったわけではない。
彼はどれだけ私と一緒にいても心は明け渡さないし、頼まれれば誰とでも簡単に寝る。
アッシュや騎士団長とて例外ではなかったのだ。
男や女といった「性別」も、彼にとっては些末な事だった。
彼は異様なほどまでに、貞操観念が低いのだ。
アッシュがマスターを何処か壊れていると半年前に言った科白が今になって理解できる。
やはり彼を見極めるのは尋常じゃない。
それでも私が彼の傍を離れないのは、彼が好きだからである。
それに力を得た私の能力はマスターも買っている。私の彼の開拓者として力を得るのは嬉しい。
私が強くなればなるほど行使できる傀儡は増えるし、何より精霊テルマ自身の底値を上げられる。
私にはもう攻撃魔法は使えないが、その代わりを担ってくれるのがテルマだ。
私が力を得るたびにテルマも強くなる。
外見3歳でしか身体を保てなかったテルマは、今では何歳の姿にでもなれる。
一度老婆の姿で“塔”をうろつき、宙を浮遊して人を驚かせて遊んでいたところをマスターに見つかってこっぴどく叱られたのを最後に、10歳前後の姿を維持するようにしているらしい。
そんな彼女は最近アッシュのいる食堂に入り浸っていて、早く味覚を覚えてくれとうるさい。
精霊が味を感じるにはまだ少し私のマナが足りないようで、それをマスターに相談したら忙しい最中にも時間を作ってくれた。
今夜はマスターと一晩中共に過ごす。
検印ついでに朝まで時間を赦してくれたから、運が良ければ明日にでもテルマはアッシュの料理に舌鼓を打てるかもしれない。
「これ、便利ですよね~。遠くにいても呼び出しが分かるなんて」
「少し前までは、伝達するのに走んないといけなかったなんて、ほんと、便利な世の中になったもんだ~」
のほほんと新人たちが事務所を後にする。
「ふふ、そうね」
私も立ち上がった。
ギルドが治世に乗り出した大きなきっかけこそが、この石である事を知る人間は少ない。
あの廃墟から持ち出した大量の透明な石――グレフの卵は騎士団が運び、《中央》の科学者を名乗る盗賊ギルドマスターとリュシアとの合同開発が功を成して、離れた位置にいる相手との伝達に成功した。
まだまだ色を伝えるだけに過ぎないが、これは大きな一歩だったのだ。
石は各ギルドと主だった市町村、教会に配られ、それぞれがそれぞれの活用をしている。
時々死んだ友人たちを思い出して泣く私を、彼は抱いて慰めてくれる。
彼らの死は人類発展の布石であって、無駄死にではないと。
そう思いたいのになかなかケリを付けられないのは私の弱さなのか。
でも彼らの死を忘れた私は、もう私じゃない。だからそれでいいんだろうと思った。
「わ!本物のギャバンだ!久しぶりね!!」
「……?」
「ごめん。ぬいぐるみの話」
細い目を更に細めて首を傾げるギャバンとは、実に半年ぶりの再会である。
あの日全てが終わって廃墟で彼と別れて以来だ。
「元気そうで良かった、ニーナ」
彼は何も変わっていなかった。懐かしい再会に顔が綻ぶ。
「…今日は頼まれてた書類を持ってきたよ。町の飲食店と物販店の資料」
肩にかけた鞄から、ドサリと紙の束が出てきた。
「あ、ありがとう」
また仕事が増えた。
いやいや、これは喜ぶべき案件なんだ。
町がギルドの方針に従う意思表明なのだから。
鞄ごと書類を預かる。クマの方のギャバンに運んでもらおうと紫の傀儡を読んだら、ちょっとオレにしては可愛すぎない?と呆れられた。
私こう見えて、可愛いものが大好きなの!
このままとんぼ返りだと言うギャバンを捕まえて、無理やり食堂に連れて行った。
昼時で食堂は凄く混んでいて、アッシュの腕を目的に他ギルドからもわざわざ足を運んでくるくらいだから、此処の料理は本当に美味しい。
ギャバンに食べて貰いたいと思ったのだ。
喧騒にざわつく食堂で大きな鍋を掻き回す汗だくのアッシュの真上テルマが浮かんでいて、じいと食い入るように覗き込んでいる。
湯気が直接顔に掛かっているのに熱くないのか。
テルマの涎が今にも鍋に入りそうだ。
「お、久々じゃん」
「おねえちゃんとバンダナくん!」
アッシュが目ざとく私達を見つけてくれて、幹部用の個室に席を取ってくれた。
一番忙しい時間帯なのにアッシュ自らが配膳して、今日のランチをテーブルに並べていく。
「悪いね、あんま話せなくてよ」
「…こっちこそごめん。料理長、板についてるね」
「けっ!あのじーさんが自分の店に戻るから、仕方なくやってるだけっつーの」
春までこの食堂を切り盛りしていた豪快な料理長のおじいさんは、前々からアッシュに座を譲りたがっていて、事あるごとに脱走を繰り返していたとボヤいていたのだが。
今回の市井管理を機に、市場の自分の店に舞い戻ったという。
この食堂を一手に引き受け、腹を空かしたギルドメンバーの胃袋をがっちり掴んだアッシュの評判は上々で、彼の忙しさは増して拍車をかけて自由な時間が無くなったと毎日文句を言っている。
だが根っからの料理人なのか、美味しいと言ってくれる客を無下に出来ないのがアッシュの人と成りだ。
彼は寝る間も惜しんで新しいレシピの考案に勤しんでいる日々を過ごしているようだ。
「ザワついてっからゆっくりも出来ないだろうけど、まあ、是非食ってくれよな」
「うん、ありがとう」
今日のランチはチキン南蛮定食。
鳥の胸肉を衣をつけて油で揚げた上に、甘酸っぱいソースとタルタルをかけて食す何とも魅惑的な料理である。
大きな鍋にはランチに合うコンソメスープが煮込まれている。
テルマは先程からそのスープに頭を突っ込んでは、何とか味を感じられないかチャレンジしているようだ。
「嬢ちゃん、これから旦那のとこに行くんだろ?」
「ええ。夕方過ぎになると思うけど。どうしたの?」
アッシュと私は同士であり、色んな意味でマスターを通じて供用する間柄になった。
彼は私とマスターが肉体関係にあるのを知っているし、マスター本人も隠していない。
そして私はアッシュとマスターの成り行きも知っている。
彼が性別男性という垣根を越えて、マスターの傍に侍り共に在るのも。
「今夜はじいさんの送別会と新人の歓迎会を兼ねて食堂メンバー全員で外に行くからさ、夕飯がねえんだ」
そんなアッシュは忙しさにかまけて食事を忘れるマスターの為に、朝昼晩の三食を欠かさず持って行っている。
「一応作って戸棚に入れておくからさ、あんたが旦那に食わせてやってくんない?」
それに私の分も用意してくれるという。
「わあ、嬉しい。有難くいただくね。マスターの事は任せておいて、あなたは是非楽しんで」
「サンキューな。じゃ、任せたぜ。ギャバンも気を付けて帰れよ!」
「…いただきます」
足早にアッシュが去って行くと、私達は無言で鶏肉に被り付いた。
鼻を抜けるあまじょっぱいソースとふわふわのタルタルソースが絡んで、ほんわりしっかりガッツリの三段階で旨さが襲ってくる。
「ずるい、おねえちゃんばっかりずるいずるい!!!テルマも食べたい~!!!!」
「ごめんねテルマ。でもこれ、めちゃくちゃ美味しいんですけど!」
「…やばいね」
「ずるいよ、おねえちゃあああああ!!!!」
テルマが纏わりついてゆっくりだなんて到底無理な話だ。
それでも私とギャバンはしっかりとアッシュの自信作を味わった。
そして久方ぶりの再会を、心行くまで楽しんだのである。
「そう。ロルフ団長も元気なのね」
「…うん。少しだけ痩せた」
食後のコーヒーと茶菓子を摘まみつつ、半年前から一度も帰らなかったグレンヴィルの町のその後をギャバンは語ってくれた。
「色々大変だったけど、団長は頑張ってくれているよ」
「そっか」
あれから町は、大混乱を期したらしい。
騎士団が介入し、犠牲者を悼んで町の復興に勤しもうとした時、町民はようやく事の重大さに気付いたという。
300人近くが一度に死に、その死体さえもない。死んだのは町の若者が中心だったカモメ団の団員達の家族は、町の中にいるのだ。
町民はカモメ団の壊滅と夥しい死者、そして突然の騎士団に驚き止まったと同時に、彼らは怒り狂ったのだという。
とにかく死者が消し炭になったのがいけなかった。
一晩で家族と二度と会えなくなった町民は心を拠り所として頼りにしていたカモメ団も失って、茫然自失で目も当てられない状態だったらしい。
騎士団は死者から感染する危険を説いて町民たちを説得しようとしたのだが、理解は薄かった。
そして怒りの矛先を、騎士団と団長、そして生き残った私に向けたらしい。
騎士団と団長は罵声を浴びせられながらも、それでも多くの人を失った町民たちを励まして尽くした。騎士団は配慮してくれて、強制的に従うようにはせず、あくまでカモメ団と同じ活動を日々熟していくうちに、徐々に町民の怒りも絆されていったのだという。
「だけどニーナは説明なくいなくなっちゃったから」
幾ら団長が私を庇っても、責任転嫁の矛先は私に向いたままだった。
だったら悪人にしてしまえば今度の扱いが楽だとあの騎士団長が出張った為に、私は完全にあの事件の首謀者と見られているらしい。
「ニーナは《中央》で罪に服している設定だからね」
まさか町民も、私がここで自由にしているとは露も思うまい。
「私の故郷…なくなっちゃったね」
「……ごめんね、ニーナ」
人は弱い。でもたった一人の犠牲で町が立ち直って前を向いて歩いていくのなら、それが私が故郷に返す事のできる最大限の恩返しなのだと思った。
もう覚悟は出来ている。
あの生まれ育った海の町に、二度と足を踏み入れないと誓ったのだ。
それが彼らを助けられなかった私の贖罪だとも思っている。
「そうだ、ロルフ団長から言付かってきたよ」
ギャバンがごそごそと鞄を漁る。
細長い白い箱を手にして、食堂の机に静かに置いた。
「これは?」
「ニーナがあの日忘れたものだよ」
パカリと開ける。
「あ…これ…」
中に入っていたのは眼鏡だった。
赤いフレームの、女の子らしく可愛いデザインの伊達メガネ。
私が20歳の誕生日に、団のメンバーから贈られた大事なものだった。
「なくしてたと思ってた」
あの騒ぎで眼鏡を見失っていたのだが。どうやらロルフ団長があの晩にマスターに連れられて館を後にする際、廊下で拾っていたという。
「これは、アドリアン達の形見だね」
「……」
両手で握りしめ、眼を閉じる。
未だ浮かんでくる彼らの笑顔。団で過ごした時間は余りにも長く、楽しく、心地好かったのだ。
忘れるはずがない。
だからいじらしく傀儡に彼らの名を付けて、何とか心の平穏を保っているのだ。
「ありがとう、ギャバン。届けてくれて。大事に、するよ」
「うん」
ギャバンはマスターに一度顔を出してから帰るというので食堂で別れた。
馬で来たというギャバンの長い旅路に必要だろうと、厨房からたくさんの料理や携帯食をアッシュから持たされまくって苦笑いをしている彼らの様子を横目にしながら、私は事務所へ戻る。
人は弱い。
それに万事うまくいきすぎる人生すらもない。
順風満帆に見えがちな私の充実した日々は、故郷を悪人として永遠に失う犠牲の元で得られたものだ。
人は手と手を取り合い、協力し合って共に立ち上がらなければならないこの時にも、疑心暗鬼に悩まなければならない。
それを解消する為にギルドは在るのに、人の心は何時まで経っても変わらない。
災厄から命を脅かされて11年経っても、人間の本質は浅ましいままだ。
その陰で血反吐を吐きながら努力している人だっているのに。
この世を救う価値なんてあるのだろうか。
それは分からない。
答えの無い、永久に堂々巡りする疑問なのだろう。
私はそれでも――――彼の傍に在りたいと思うのだ。
■■■
「…で、どうなんでしょうね」
散々喘がされて、掠れた喉を水を飲み干して潤す。
いつまでもベッドの上で微睡んでいたかったが、欲しい温もりはさっさといなくなってしまい、彼の残り香のするシーツに頭を埋めて答えを待つ。
開け放たれた窓から入る冷たい風が気持ち良い。
彼は今、ローブを羽織っただけの薄手の恰好をして、執務室に併設された私室のバルコニーで煙草を燻らせている。
紫煙がゆっくりと吐き出され、彼は私の言葉なんかちっとも聞いていない様子である。
その目は暗い空を見つめている。
とても綺麗な蒼淵の瞳には、何が映し出されているのだろう。
「タバコ、吸いすぎですよ」
ここにきて新たに分かった事といえば、マスターが喫煙者だったという事実だ。
それも相当なヘビースモーカー。
執務中や食事やベッドの上以外は、彼は殆ど煙草を咥えている。
口寂しいのだという彼はいうが、それにしても吸う量が半端ない。
激しく絡み合った後の睦言にしては色気のない内容ではあるが、どうしても気になったのだ。
彼もギャバンからあの町の様子を聞いているはず。私が理不尽な悪人役を演じているからこそのまとまりを得ている事も知っただろう。
慰めて欲しい訳じゃなかったが、寂しかったのは事実だ。
生まれ育った故郷に帰れない悲しみは、当の本人しか分かるまい。
私に合わせるかのように《中央》に連れてこられた母や祖母も同じだ。
「この世を救う価値、か」
一応私に配慮しているつもりのようで、煙は外に吐き出されている。
禁煙するつもりは毛頭無さそうだが。
半年前のあの出来事の間中、彼は一切の煙草を口にしていなかったのだ。その気になれば禁煙も出来るだろう。
まあ、他人の嗜好にあれこれと口を出すほど、私は愚かではない。
彼は私を受け入れてはくれるが、女房の立ち位置に立って欲しいわけではないのだ。
「人間はどうしても『損得』で物事を考える癖があるな」
「え…?」
彼は私の方を見ない。
初めて出会った時に比べると、ずいぶんと砕けた感はあるし喋ってもくれるようになったが、根底は彼なのだ。
相変わらずの無表情で、逆にこっちが笑ってしまう。
「世界の一部である『人間』が、あるべき姿に戻ろうとしているだけなのに、何を価値づける必要がある」
「でもそう考える人は少ないですよ。あなたのように、達観して物事を見ている人はごくわずか。だから人は弱いんだと思います」
「……」
彼の言葉は至極最もである。
我々人間も、元を辿れば世界そのものなのだ。
世界を形成する一部に過ぎないのに、面倒な「意思」があるもんだから、こうやって悩む。
全部が全部、この人のような考えを持っていれば、もう世界はとっくに取り戻しているはずだ。
私の町が依存に生きていくことも、私を悪人に仕立てあげなくてもいい。
だがそれが出来ないからこその『人間』だとも思う。
このもどかしさが辛い。やはり彼にも答えはないのだ。
「零か壱かで言うならば、この世を救う価値は無いよ」
「え?」
「質問の答えだ。この世界を救う価値も意味も、無いと言っている」
「そんな!だったら何故私達は…」
こんなギルドを作ってまで、神に抗っているのか。
自分を騙し騙しに正義を貫き、辛く苦しくてもひたすら前を向いて闘い続けるというの。
意味がないのなら、私達の存在だって――必要ないじゃないか。
「こんな簡単に条理が覆される”世界”を創った神が早々に退場し、無責任に放置されているこの状態の『世界』は…もう普通じゃない。本来は抗う理由なんてないんだよ」
根底を覆される発言に言葉をなくす。
「放置された時点で人間は不必要な存在となった。神にとって『世界』は不要。そんなものを救うなんて、ゴミを拾うようなものだ」
だけど。
随分と短くなった煙草の吸い口を指ではじき灰を落とす。
「だけど俺が抗う理由は、そんなゴミを踏みにじる余所者が当たり前のような顔してのさばっているのが我慢ならないだけだ」
「マスター…」
彼がベッドに戻ってくる。
紫煙の匂いが鼻をくすぐる。
煙草の煙は苦手だけど、彼から匂ってくる分は構わない。むしろ、それだけ私に気を許してくれているのだと感じて、愛おしい匂いにもなっている。
こんなに苦い煙は、彼だとどうしてこんなに甘く感じるのだろう。
その答えはもう分かり切っている。
マスターはベッドの端に腰を掛け、目をくしくしと擦っている。
ギルドが本格的に稼働を始めてからマスターは昼も夜も無く働き詰めだ。“塔”にいない日も多い。他のギルドマスターたちとよく会っているようだし、教会からの呼び出しも頻発している。
その上、時間が僅かでも空けば市場に視察に出向くし、総括者として“塔”の運営も忘れない。
要は忙しすぎるのだ。こんな人を捕まえて、寝かせない私も私なのだが可哀相なぐらい働き通しだ。
私は充分満足したし、仕事も進んだ。事務所移転の進言をして早々に工事を入れる約束も取り付けて解決済み。たくさんの便宜を頂いて、私の仕事は捗った。
多少は周りの人達よりも贔屓されていると自負している部分もある。
彼の特別な存在ではないが、ギルド内の特別なメンバーとしてかなり待遇が良いのも自覚している。
そんな私が彼にあげられるものは数少ない。
せめて彼がゆっくり眠れるように、ひと時の安らぎを。これ以上この部屋に仕事を持ち込ませないのが、今日の私の最後の仕事だ。
「人が戦う理由は人それぞれさ」
あの話は彼の中では終わっていなかったようだ。
「世界を救う理由を損得で決めるのも自由、王への忠誠心だけで戦うのも自由。俺のように、あいつらの存在が腹が立って仕様が無いから滅ぼそうとするのも自由」
「私があなたに従うのも自由って事ですね」
「……そうだ」
「俺は、こんな未熟な世界を変えてしまった元凶が憎い。…俺を、変えてしまったものが。《王都》に囚われた知人に会って、その無事が知れればいい。俺が戦う理由はそれだけだよ。ギルドはそんな俺のわがままに付き従わせている組織に過ぎん。勿論、彼らの命の責任は果たすつもりだけどね」
怒れる神はこの人に何をしたのだろう。
犠牲を払ってでも、自分自身を壊してさえも尚、憎まれるような最悪な事を奴らは彼に仕出かしてしまったのだろう。
その理由は分からない。彼は多くを語らない。特に自分のプライベートな事になるとだんまりを貫く。
私は彼の年齢すらも分かってない。ローブの下の素顔が随分と幼いのに、落ち着いた言動とちっとも釣り合っていない事由も不明なままだ。
でもいつか暴いてみせてやろうと思う。
その身が白日に曝された時こそ、私が彼を本当に手に入れた証拠の瞬間なのだから。
「もう、いいのか?」
シーツにくるまって眠る準備に入った私を不思議そうな顔で彼が見ている。
約束を取り付けた際に私が凄く意気込んでいたから、朝までコースを予想していたのだろう。
「寝ます。そして、マスターも今日は寝ます。私と一緒に朝までぐっすり眠るのが、マスターの今日の最後のお仕事ですよ」
「……」
とにかく休ませないと、いつか倒れてしまう。
そんなヘマをやらかしそうにはないが、彼だって人間なのだ。疲れない人なんていない。
彼は何も言わなかったけれど、それでも私の隣にその身を滑らしてきたのだから納得してくれたに違いない。
その素直さが嬉しくてたまらない。
初めて出会った時とは大違いである。
彼は基本的に受け身の人だ。アッシュがあれこれと世話を焼いていたり、ずいずいと出しゃばっていたのはこの所為だ。
彼は察してチャンを察しない。その者の心情を完璧に理解しているけれど、自ら行動を起こさない限り放置する。
あの時廃墟でデモデモダッテと動かなかった私を死人ごと排除しようとしたのは、そういう事だったのだ。
だから私は彼の傍に在るためには変らなければならなかった。
兎にも角にも、積極的になった。
グダグダと悩む癖は変ってないが、やって欲しい事、してほしい事、やりたい事を我慢せずに告げる。それだけでマスターはだんまりの口をすぐに解除して饒舌に喋ってくれるのだ。
分かりづらくて分かり易い。
この半年で、彼との過ごし方を粗方つかめたのは、私が恥ずかしさを全部取っ払って明け透けなく曝け出したからである。
それをマスターも受け入れてくれた。
だから、今この時間がある。
「しばらく“塔”を留守にする」
微睡みに落ちる頃、二人並んだベッドの上で彼が言った。
「グレフ絡みで、本当に救う価値の無い町から依頼があった」
「え…?」
あくまで平坦。彼の声に感慨深さはない。
「人がどこまで愚かで、神が如何に狡猾かを知りたければ着いてくるといい」
「あなたの行くところ、私は何処までもついて行きますよ」
にっこり笑ったつもりだったけれど、部屋は暗くて彼はシーツを頭から被っているものだからその表情は分からないし、私の顔も見えてない。
そして彼はたっぷり黙り込んだ後、
「…そうか」
とだけ、言った。
それきり彼は一言も喋らなかった。
眠ってしまったのか。そういえば彼の寝顔はこんなにベッド共にしているのに見た事が無かった。
疲れ果てている今夜こそ、その無防備な寝顔を拝めるかもしれないと頑張って起きていたが、何時の間にか私は微睡みの最奥に引きずられてしまったようである。
―――――夢を、見た。
とても幸せな、夢だった。
大勢の友人に囲まれた中央に、白いドレスを身に纏った私がいる。
白いブーケを投げて、きゃあきゃあと取り合う友人達に目を細め笑う。
大きくなったお腹を抱え、なんとか馬車に乗り込んで、ハネムーンへ出発。
左の薬指にはシンプルな指輪。
一生私を離さないと、お腹に子どもが宿った時に彼がくれた大切なもの。
とても、とても幸せな夢だった。
これから生まれてくる子とあわせて三人で、手と手を取り合って懸命に生きていこう。
そう女神の前で誓った言葉を忘れない。
私の伴侶。大事な人。
彼はこんな私をいっぱいに愛してくれて、私もそんな彼を愛していて。
幸せに包まれた家で、何不自由ない生活で、隣には素敵な旦那様と、愛しい胎の我が子を抱いて。
でも、それは。
あの人ではなかった。
夢を見た。
とても、幸せな夢。
私の夢見た世界には―――宿り木の彼は存在しなかった
ニーナの章 完
両手の指を一本一本数えて、ちょうど10本目。
死ぬまで変わらないと思った世界の条理が覆された。
この世界では人間と魔族がいつもどこかで小競り合いをしていて、精霊と魔物が覇権を争っていた。
でもそれは何千年も前から繰り返してきた歴史で、この世界に於いてはごく普通の当たり前の事。
この日常的な争いがマナを巡らせ、世界を潤し、輪廻を潜ってまた還ってくるのだから。
でもその当たり前の世界は失われてしまい、世界を支配しようとする第三者の介入に恐れ慄いている人間は、今こそ抗わなければならない。
この不条理な参入を阻止すべく、力あるものから立ち上がり世界を救うために正義を貫き戦う人達がいる。
私はその激震を起こす中心の傍に身を寄せて、世界の成り行きに微力を尽くしている。
ほんの両手で数えられる数年前まであった世界と私は。
あの人の元で――――再び返り咲く。
■■■
今日も今日とて、書類仕事の山をこなす日々である。
一向に減らず、机に積み重なっていく紙の束を見て資源の使い過ぎのような気がしないでもないが、リサイクルは私の仕事じゃないので知った事じゃない。
資源の大切さは全員の意識の共有が必要だからであって云々と、“塔”のエコ担当を担っている神経質な同僚は今ここにいないので、少し気分が優れている。
事務仕事を一緒くたの部屋に放り込んでいるから、部署違いの同僚と軋轢が生まれるのだ。せめてパーテンションで仕切るなどの配慮は取って欲しいと思う。
「あ、コルト。そっちの書類はこっちに綴じてね。そうそう、ロロ?これを纏めておいてくれるかしら」
書類と人とでごった返して狭い事務所の上を、カラフルなぬいぐるみが飛び交う。
「ギャバン、もう終わったの?いい子ね。じゃあ、アドリアンを手伝ってもらえる?急ぎの書類を仕上げて、今日中にマスターの検印を頂かないと」
ただでさえ、神経質な彼女は頭上をぬいぐるみが飛んでいるのを好ましく思っていないのだから。
「アインとエーベルはこっちに来て?テルマがサボっていなくなっちゃったから、みんなのところに飛んで行って、営業許可証を預かってきてほしいの」
緑とピンクのクマが窓からふわりと飛び立つのを、私に付けられた二人の部下がポカンといった表情で見上げている。
この子達は今週から入った新人さん。
未だ”人形遣い”に慣れてないみたいで、その初々しさが微笑ましい。
まあ、正直、不思議な絵面なのは否定しない。
小さなクマがちょこちょこと動き回って書類整理をしている此処は、ちょっとした童話の世界だ。おとぎ話の主人公になった心地も味わえるオマケ付き。
でも流石に手狭となってきた。
これからどんどん忙しくなるだろうし、人手不足は深刻だ。
だからクマのぬいぐるみが手伝ってくれているのだけど。
そろそろ苦言を呈してもいいかな。
あの人の多忙さはこれとは比にならない極まったものだけど、職場環境を良くするのもギルドマスターとしての務めだもの。
これから彼と約束があるから、ついでに進言してみよう。
《中央》が4大ギルドは結成して3年目にして、本格的に治世に乗り出した。
災厄から11年目の春だった。
今までは漠然と役割が与えられ、各ギルドがそれぞれ得意分野を担っていたが、《中央》の統治の目途が立ったのを機に完全独立したのだ。
私が魔法使いを中心とするギルド“紡ぎの塔”に半ば世話焼き女房よろしくくっ付いて来たのが去年の夏の終わり。
あの事件より半年が過ぎていた。
治世といっても“塔”には余り関係はない。
治安を司るのは“騎士団”。そして司法を担うのが“盗賊ギルド”だからだ。
我がギルドマスター・リュシア率いる“紡ぎの塔”は、市場の管理に留まった。
だからといって権力が無い訳ではない。
文字通り、《中央》全ての『店』が対象となるのだ。
店を構え、何かを売って利益を得るものなら何でもである。
武器屋、道具屋、食料品店のみならず、宿屋、飲食店、土産屋や荷馬車宅配のサービス業、その上、色事を売るいかがわしい娼店、いわゆる風俗店も該当する。
各商業施設は、“塔”に完全管理される。
一番の目的は治安維持だ。災厄から野放しにされていた悪徳業者の排除。つまり不正に偏った利益を得ていた金持ちや、発言力だけは無駄にある貴族達の力を削いだのだ。
商業施設の住民は、全て“塔”の所属となる。
戸籍を作り住居や仕事の斡旋を行い、市場や相場も見る。
店はギルドに税金を納めねばならないが、最低限の生活は保証される。
そして集められた資金は、ギルドの運営と《中央》の統治に使われるのだ。
意を唱えるものは、例外なく《中央》に居場所がない。
また、《中央》は災厄を生き延びた周りの町村を併呑しているから、必然的に従わざるを得ないのだ。
全ては、のちの怒れる神との全面戦争に備える為である。
ギルドの本質は《王都》の解放であり、グレフの全滅だ。
それ以上でもそれ以下でもなく、全人類が共に協力し合い、個々の利益を追求する場合ではない事を知らしめる為に必要な手段を嵩じたに過ぎない。
そういうワケで、今この“塔”には、数百は軽く超える商業施設の書類で溢れ返っている。
春から始まった管理に追われているのが現状なのである。
如何せん、人が足りない。
それはマスターも分かってくれていて、定期的に人を寄越してくれるのだが、管理が《中央》に留まらずに遠方の町や村にも発生しているし、その間にもグレフとの絡みや魔物討伐依頼などで人を出さねばならないしで、使えるものから去って行く。
事務も立派な仕事だが、命を脅かされる事だけはない。
だから新人の登竜門的な意味合いで、まずはここに配属されるのだ。
二人の新人も、数週間ですっかり慣れてまた違う部署に行くだろう。
その時は前線かもしれない。
いくらギルドが後ろ盾にいるからといって、必ずしも安全とは言い難いのだ。
自分の身は自分で守らねばならない。
これが災厄を生き延びた人間すべてに共通で与えられた試練だ。
「室長、受付が呼んでますよ」
「あ、ほんとだ」
“塔”からほど近い市場の商品目録を綴ったファイルを漁っていた時だった。
私の机の上で、小さな石ころがチカチカと白い光を点滅させている。
「ありがとう。そろそろお昼だし、休憩していいよ」
「わあ!やった!」
「お腹ペコペコ~!!」
今は亡き大切な友人たちの名前を付けられた私の傀儡は年中無休の24時間営業だ。
この子達は私のマナで動いている。それぞれ別個の動きをしているが、根っこは私に繋がっていて、私が操っている。
“塔”はリュシアのお膝元。彼のマナで満ち溢れている。
複数の傀儡を行使しても本体の私がなんともないのは、彼のマナのお陰に他ならない。
それに私自身もこの半年で成長した。
強く、なった。
彼とマナの同化を経た私が手っ取り早く力を手に入れるには、彼のマナを体内に取り入れればいい。
私は“塔”に来て一週間もしない内に、本当の意味で彼と褥を共にした。
彼は自分を好きにしていいと言ったので、好きにさせてもらったのだ。
だからと言って、彼と私が特別な関係になったわけではない。
彼はどれだけ私と一緒にいても心は明け渡さないし、頼まれれば誰とでも簡単に寝る。
アッシュや騎士団長とて例外ではなかったのだ。
男や女といった「性別」も、彼にとっては些末な事だった。
彼は異様なほどまでに、貞操観念が低いのだ。
アッシュがマスターを何処か壊れていると半年前に言った科白が今になって理解できる。
やはり彼を見極めるのは尋常じゃない。
それでも私が彼の傍を離れないのは、彼が好きだからである。
それに力を得た私の能力はマスターも買っている。私の彼の開拓者として力を得るのは嬉しい。
私が強くなればなるほど行使できる傀儡は増えるし、何より精霊テルマ自身の底値を上げられる。
私にはもう攻撃魔法は使えないが、その代わりを担ってくれるのがテルマだ。
私が力を得るたびにテルマも強くなる。
外見3歳でしか身体を保てなかったテルマは、今では何歳の姿にでもなれる。
一度老婆の姿で“塔”をうろつき、宙を浮遊して人を驚かせて遊んでいたところをマスターに見つかってこっぴどく叱られたのを最後に、10歳前後の姿を維持するようにしているらしい。
そんな彼女は最近アッシュのいる食堂に入り浸っていて、早く味覚を覚えてくれとうるさい。
精霊が味を感じるにはまだ少し私のマナが足りないようで、それをマスターに相談したら忙しい最中にも時間を作ってくれた。
今夜はマスターと一晩中共に過ごす。
検印ついでに朝まで時間を赦してくれたから、運が良ければ明日にでもテルマはアッシュの料理に舌鼓を打てるかもしれない。
「これ、便利ですよね~。遠くにいても呼び出しが分かるなんて」
「少し前までは、伝達するのに走んないといけなかったなんて、ほんと、便利な世の中になったもんだ~」
のほほんと新人たちが事務所を後にする。
「ふふ、そうね」
私も立ち上がった。
ギルドが治世に乗り出した大きなきっかけこそが、この石である事を知る人間は少ない。
あの廃墟から持ち出した大量の透明な石――グレフの卵は騎士団が運び、《中央》の科学者を名乗る盗賊ギルドマスターとリュシアとの合同開発が功を成して、離れた位置にいる相手との伝達に成功した。
まだまだ色を伝えるだけに過ぎないが、これは大きな一歩だったのだ。
石は各ギルドと主だった市町村、教会に配られ、それぞれがそれぞれの活用をしている。
時々死んだ友人たちを思い出して泣く私を、彼は抱いて慰めてくれる。
彼らの死は人類発展の布石であって、無駄死にではないと。
そう思いたいのになかなかケリを付けられないのは私の弱さなのか。
でも彼らの死を忘れた私は、もう私じゃない。だからそれでいいんだろうと思った。
「わ!本物のギャバンだ!久しぶりね!!」
「……?」
「ごめん。ぬいぐるみの話」
細い目を更に細めて首を傾げるギャバンとは、実に半年ぶりの再会である。
あの日全てが終わって廃墟で彼と別れて以来だ。
「元気そうで良かった、ニーナ」
彼は何も変わっていなかった。懐かしい再会に顔が綻ぶ。
「…今日は頼まれてた書類を持ってきたよ。町の飲食店と物販店の資料」
肩にかけた鞄から、ドサリと紙の束が出てきた。
「あ、ありがとう」
また仕事が増えた。
いやいや、これは喜ぶべき案件なんだ。
町がギルドの方針に従う意思表明なのだから。
鞄ごと書類を預かる。クマの方のギャバンに運んでもらおうと紫の傀儡を読んだら、ちょっとオレにしては可愛すぎない?と呆れられた。
私こう見えて、可愛いものが大好きなの!
このままとんぼ返りだと言うギャバンを捕まえて、無理やり食堂に連れて行った。
昼時で食堂は凄く混んでいて、アッシュの腕を目的に他ギルドからもわざわざ足を運んでくるくらいだから、此処の料理は本当に美味しい。
ギャバンに食べて貰いたいと思ったのだ。
喧騒にざわつく食堂で大きな鍋を掻き回す汗だくのアッシュの真上テルマが浮かんでいて、じいと食い入るように覗き込んでいる。
湯気が直接顔に掛かっているのに熱くないのか。
テルマの涎が今にも鍋に入りそうだ。
「お、久々じゃん」
「おねえちゃんとバンダナくん!」
アッシュが目ざとく私達を見つけてくれて、幹部用の個室に席を取ってくれた。
一番忙しい時間帯なのにアッシュ自らが配膳して、今日のランチをテーブルに並べていく。
「悪いね、あんま話せなくてよ」
「…こっちこそごめん。料理長、板についてるね」
「けっ!あのじーさんが自分の店に戻るから、仕方なくやってるだけっつーの」
春までこの食堂を切り盛りしていた豪快な料理長のおじいさんは、前々からアッシュに座を譲りたがっていて、事あるごとに脱走を繰り返していたとボヤいていたのだが。
今回の市井管理を機に、市場の自分の店に舞い戻ったという。
この食堂を一手に引き受け、腹を空かしたギルドメンバーの胃袋をがっちり掴んだアッシュの評判は上々で、彼の忙しさは増して拍車をかけて自由な時間が無くなったと毎日文句を言っている。
だが根っからの料理人なのか、美味しいと言ってくれる客を無下に出来ないのがアッシュの人と成りだ。
彼は寝る間も惜しんで新しいレシピの考案に勤しんでいる日々を過ごしているようだ。
「ザワついてっからゆっくりも出来ないだろうけど、まあ、是非食ってくれよな」
「うん、ありがとう」
今日のランチはチキン南蛮定食。
鳥の胸肉を衣をつけて油で揚げた上に、甘酸っぱいソースとタルタルをかけて食す何とも魅惑的な料理である。
大きな鍋にはランチに合うコンソメスープが煮込まれている。
テルマは先程からそのスープに頭を突っ込んでは、何とか味を感じられないかチャレンジしているようだ。
「嬢ちゃん、これから旦那のとこに行くんだろ?」
「ええ。夕方過ぎになると思うけど。どうしたの?」
アッシュと私は同士であり、色んな意味でマスターを通じて供用する間柄になった。
彼は私とマスターが肉体関係にあるのを知っているし、マスター本人も隠していない。
そして私はアッシュとマスターの成り行きも知っている。
彼が性別男性という垣根を越えて、マスターの傍に侍り共に在るのも。
「今夜はじいさんの送別会と新人の歓迎会を兼ねて食堂メンバー全員で外に行くからさ、夕飯がねえんだ」
そんなアッシュは忙しさにかまけて食事を忘れるマスターの為に、朝昼晩の三食を欠かさず持って行っている。
「一応作って戸棚に入れておくからさ、あんたが旦那に食わせてやってくんない?」
それに私の分も用意してくれるという。
「わあ、嬉しい。有難くいただくね。マスターの事は任せておいて、あなたは是非楽しんで」
「サンキューな。じゃ、任せたぜ。ギャバンも気を付けて帰れよ!」
「…いただきます」
足早にアッシュが去って行くと、私達は無言で鶏肉に被り付いた。
鼻を抜けるあまじょっぱいソースとふわふわのタルタルソースが絡んで、ほんわりしっかりガッツリの三段階で旨さが襲ってくる。
「ずるい、おねえちゃんばっかりずるいずるい!!!テルマも食べたい~!!!!」
「ごめんねテルマ。でもこれ、めちゃくちゃ美味しいんですけど!」
「…やばいね」
「ずるいよ、おねえちゃあああああ!!!!」
テルマが纏わりついてゆっくりだなんて到底無理な話だ。
それでも私とギャバンはしっかりとアッシュの自信作を味わった。
そして久方ぶりの再会を、心行くまで楽しんだのである。
「そう。ロルフ団長も元気なのね」
「…うん。少しだけ痩せた」
食後のコーヒーと茶菓子を摘まみつつ、半年前から一度も帰らなかったグレンヴィルの町のその後をギャバンは語ってくれた。
「色々大変だったけど、団長は頑張ってくれているよ」
「そっか」
あれから町は、大混乱を期したらしい。
騎士団が介入し、犠牲者を悼んで町の復興に勤しもうとした時、町民はようやく事の重大さに気付いたという。
300人近くが一度に死に、その死体さえもない。死んだのは町の若者が中心だったカモメ団の団員達の家族は、町の中にいるのだ。
町民はカモメ団の壊滅と夥しい死者、そして突然の騎士団に驚き止まったと同時に、彼らは怒り狂ったのだという。
とにかく死者が消し炭になったのがいけなかった。
一晩で家族と二度と会えなくなった町民は心を拠り所として頼りにしていたカモメ団も失って、茫然自失で目も当てられない状態だったらしい。
騎士団は死者から感染する危険を説いて町民たちを説得しようとしたのだが、理解は薄かった。
そして怒りの矛先を、騎士団と団長、そして生き残った私に向けたらしい。
騎士団と団長は罵声を浴びせられながらも、それでも多くの人を失った町民たちを励まして尽くした。騎士団は配慮してくれて、強制的に従うようにはせず、あくまでカモメ団と同じ活動を日々熟していくうちに、徐々に町民の怒りも絆されていったのだという。
「だけどニーナは説明なくいなくなっちゃったから」
幾ら団長が私を庇っても、責任転嫁の矛先は私に向いたままだった。
だったら悪人にしてしまえば今度の扱いが楽だとあの騎士団長が出張った為に、私は完全にあの事件の首謀者と見られているらしい。
「ニーナは《中央》で罪に服している設定だからね」
まさか町民も、私がここで自由にしているとは露も思うまい。
「私の故郷…なくなっちゃったね」
「……ごめんね、ニーナ」
人は弱い。でもたった一人の犠牲で町が立ち直って前を向いて歩いていくのなら、それが私が故郷に返す事のできる最大限の恩返しなのだと思った。
もう覚悟は出来ている。
あの生まれ育った海の町に、二度と足を踏み入れないと誓ったのだ。
それが彼らを助けられなかった私の贖罪だとも思っている。
「そうだ、ロルフ団長から言付かってきたよ」
ギャバンがごそごそと鞄を漁る。
細長い白い箱を手にして、食堂の机に静かに置いた。
「これは?」
「ニーナがあの日忘れたものだよ」
パカリと開ける。
「あ…これ…」
中に入っていたのは眼鏡だった。
赤いフレームの、女の子らしく可愛いデザインの伊達メガネ。
私が20歳の誕生日に、団のメンバーから贈られた大事なものだった。
「なくしてたと思ってた」
あの騒ぎで眼鏡を見失っていたのだが。どうやらロルフ団長があの晩にマスターに連れられて館を後にする際、廊下で拾っていたという。
「これは、アドリアン達の形見だね」
「……」
両手で握りしめ、眼を閉じる。
未だ浮かんでくる彼らの笑顔。団で過ごした時間は余りにも長く、楽しく、心地好かったのだ。
忘れるはずがない。
だからいじらしく傀儡に彼らの名を付けて、何とか心の平穏を保っているのだ。
「ありがとう、ギャバン。届けてくれて。大事に、するよ」
「うん」
ギャバンはマスターに一度顔を出してから帰るというので食堂で別れた。
馬で来たというギャバンの長い旅路に必要だろうと、厨房からたくさんの料理や携帯食をアッシュから持たされまくって苦笑いをしている彼らの様子を横目にしながら、私は事務所へ戻る。
人は弱い。
それに万事うまくいきすぎる人生すらもない。
順風満帆に見えがちな私の充実した日々は、故郷を悪人として永遠に失う犠牲の元で得られたものだ。
人は手と手を取り合い、協力し合って共に立ち上がらなければならないこの時にも、疑心暗鬼に悩まなければならない。
それを解消する為にギルドは在るのに、人の心は何時まで経っても変わらない。
災厄から命を脅かされて11年経っても、人間の本質は浅ましいままだ。
その陰で血反吐を吐きながら努力している人だっているのに。
この世を救う価値なんてあるのだろうか。
それは分からない。
答えの無い、永久に堂々巡りする疑問なのだろう。
私はそれでも――――彼の傍に在りたいと思うのだ。
■■■
「…で、どうなんでしょうね」
散々喘がされて、掠れた喉を水を飲み干して潤す。
いつまでもベッドの上で微睡んでいたかったが、欲しい温もりはさっさといなくなってしまい、彼の残り香のするシーツに頭を埋めて答えを待つ。
開け放たれた窓から入る冷たい風が気持ち良い。
彼は今、ローブを羽織っただけの薄手の恰好をして、執務室に併設された私室のバルコニーで煙草を燻らせている。
紫煙がゆっくりと吐き出され、彼は私の言葉なんかちっとも聞いていない様子である。
その目は暗い空を見つめている。
とても綺麗な蒼淵の瞳には、何が映し出されているのだろう。
「タバコ、吸いすぎですよ」
ここにきて新たに分かった事といえば、マスターが喫煙者だったという事実だ。
それも相当なヘビースモーカー。
執務中や食事やベッドの上以外は、彼は殆ど煙草を咥えている。
口寂しいのだという彼はいうが、それにしても吸う量が半端ない。
激しく絡み合った後の睦言にしては色気のない内容ではあるが、どうしても気になったのだ。
彼もギャバンからあの町の様子を聞いているはず。私が理不尽な悪人役を演じているからこそのまとまりを得ている事も知っただろう。
慰めて欲しい訳じゃなかったが、寂しかったのは事実だ。
生まれ育った故郷に帰れない悲しみは、当の本人しか分かるまい。
私に合わせるかのように《中央》に連れてこられた母や祖母も同じだ。
「この世を救う価値、か」
一応私に配慮しているつもりのようで、煙は外に吐き出されている。
禁煙するつもりは毛頭無さそうだが。
半年前のあの出来事の間中、彼は一切の煙草を口にしていなかったのだ。その気になれば禁煙も出来るだろう。
まあ、他人の嗜好にあれこれと口を出すほど、私は愚かではない。
彼は私を受け入れてはくれるが、女房の立ち位置に立って欲しいわけではないのだ。
「人間はどうしても『損得』で物事を考える癖があるな」
「え…?」
彼は私の方を見ない。
初めて出会った時に比べると、ずいぶんと砕けた感はあるし喋ってもくれるようになったが、根底は彼なのだ。
相変わらずの無表情で、逆にこっちが笑ってしまう。
「世界の一部である『人間』が、あるべき姿に戻ろうとしているだけなのに、何を価値づける必要がある」
「でもそう考える人は少ないですよ。あなたのように、達観して物事を見ている人はごくわずか。だから人は弱いんだと思います」
「……」
彼の言葉は至極最もである。
我々人間も、元を辿れば世界そのものなのだ。
世界を形成する一部に過ぎないのに、面倒な「意思」があるもんだから、こうやって悩む。
全部が全部、この人のような考えを持っていれば、もう世界はとっくに取り戻しているはずだ。
私の町が依存に生きていくことも、私を悪人に仕立てあげなくてもいい。
だがそれが出来ないからこその『人間』だとも思う。
このもどかしさが辛い。やはり彼にも答えはないのだ。
「零か壱かで言うならば、この世を救う価値は無いよ」
「え?」
「質問の答えだ。この世界を救う価値も意味も、無いと言っている」
「そんな!だったら何故私達は…」
こんなギルドを作ってまで、神に抗っているのか。
自分を騙し騙しに正義を貫き、辛く苦しくてもひたすら前を向いて闘い続けるというの。
意味がないのなら、私達の存在だって――必要ないじゃないか。
「こんな簡単に条理が覆される”世界”を創った神が早々に退場し、無責任に放置されているこの状態の『世界』は…もう普通じゃない。本来は抗う理由なんてないんだよ」
根底を覆される発言に言葉をなくす。
「放置された時点で人間は不必要な存在となった。神にとって『世界』は不要。そんなものを救うなんて、ゴミを拾うようなものだ」
だけど。
随分と短くなった煙草の吸い口を指ではじき灰を落とす。
「だけど俺が抗う理由は、そんなゴミを踏みにじる余所者が当たり前のような顔してのさばっているのが我慢ならないだけだ」
「マスター…」
彼がベッドに戻ってくる。
紫煙の匂いが鼻をくすぐる。
煙草の煙は苦手だけど、彼から匂ってくる分は構わない。むしろ、それだけ私に気を許してくれているのだと感じて、愛おしい匂いにもなっている。
こんなに苦い煙は、彼だとどうしてこんなに甘く感じるのだろう。
その答えはもう分かり切っている。
マスターはベッドの端に腰を掛け、目をくしくしと擦っている。
ギルドが本格的に稼働を始めてからマスターは昼も夜も無く働き詰めだ。“塔”にいない日も多い。他のギルドマスターたちとよく会っているようだし、教会からの呼び出しも頻発している。
その上、時間が僅かでも空けば市場に視察に出向くし、総括者として“塔”の運営も忘れない。
要は忙しすぎるのだ。こんな人を捕まえて、寝かせない私も私なのだが可哀相なぐらい働き通しだ。
私は充分満足したし、仕事も進んだ。事務所移転の進言をして早々に工事を入れる約束も取り付けて解決済み。たくさんの便宜を頂いて、私の仕事は捗った。
多少は周りの人達よりも贔屓されていると自負している部分もある。
彼の特別な存在ではないが、ギルド内の特別なメンバーとしてかなり待遇が良いのも自覚している。
そんな私が彼にあげられるものは数少ない。
せめて彼がゆっくり眠れるように、ひと時の安らぎを。これ以上この部屋に仕事を持ち込ませないのが、今日の私の最後の仕事だ。
「人が戦う理由は人それぞれさ」
あの話は彼の中では終わっていなかったようだ。
「世界を救う理由を損得で決めるのも自由、王への忠誠心だけで戦うのも自由。俺のように、あいつらの存在が腹が立って仕様が無いから滅ぼそうとするのも自由」
「私があなたに従うのも自由って事ですね」
「……そうだ」
「俺は、こんな未熟な世界を変えてしまった元凶が憎い。…俺を、変えてしまったものが。《王都》に囚われた知人に会って、その無事が知れればいい。俺が戦う理由はそれだけだよ。ギルドはそんな俺のわがままに付き従わせている組織に過ぎん。勿論、彼らの命の責任は果たすつもりだけどね」
怒れる神はこの人に何をしたのだろう。
犠牲を払ってでも、自分自身を壊してさえも尚、憎まれるような最悪な事を奴らは彼に仕出かしてしまったのだろう。
その理由は分からない。彼は多くを語らない。特に自分のプライベートな事になるとだんまりを貫く。
私は彼の年齢すらも分かってない。ローブの下の素顔が随分と幼いのに、落ち着いた言動とちっとも釣り合っていない事由も不明なままだ。
でもいつか暴いてみせてやろうと思う。
その身が白日に曝された時こそ、私が彼を本当に手に入れた証拠の瞬間なのだから。
「もう、いいのか?」
シーツにくるまって眠る準備に入った私を不思議そうな顔で彼が見ている。
約束を取り付けた際に私が凄く意気込んでいたから、朝までコースを予想していたのだろう。
「寝ます。そして、マスターも今日は寝ます。私と一緒に朝までぐっすり眠るのが、マスターの今日の最後のお仕事ですよ」
「……」
とにかく休ませないと、いつか倒れてしまう。
そんなヘマをやらかしそうにはないが、彼だって人間なのだ。疲れない人なんていない。
彼は何も言わなかったけれど、それでも私の隣にその身を滑らしてきたのだから納得してくれたに違いない。
その素直さが嬉しくてたまらない。
初めて出会った時とは大違いである。
彼は基本的に受け身の人だ。アッシュがあれこれと世話を焼いていたり、ずいずいと出しゃばっていたのはこの所為だ。
彼は察してチャンを察しない。その者の心情を完璧に理解しているけれど、自ら行動を起こさない限り放置する。
あの時廃墟でデモデモダッテと動かなかった私を死人ごと排除しようとしたのは、そういう事だったのだ。
だから私は彼の傍に在るためには変らなければならなかった。
兎にも角にも、積極的になった。
グダグダと悩む癖は変ってないが、やって欲しい事、してほしい事、やりたい事を我慢せずに告げる。それだけでマスターはだんまりの口をすぐに解除して饒舌に喋ってくれるのだ。
分かりづらくて分かり易い。
この半年で、彼との過ごし方を粗方つかめたのは、私が恥ずかしさを全部取っ払って明け透けなく曝け出したからである。
それをマスターも受け入れてくれた。
だから、今この時間がある。
「しばらく“塔”を留守にする」
微睡みに落ちる頃、二人並んだベッドの上で彼が言った。
「グレフ絡みで、本当に救う価値の無い町から依頼があった」
「え…?」
あくまで平坦。彼の声に感慨深さはない。
「人がどこまで愚かで、神が如何に狡猾かを知りたければ着いてくるといい」
「あなたの行くところ、私は何処までもついて行きますよ」
にっこり笑ったつもりだったけれど、部屋は暗くて彼はシーツを頭から被っているものだからその表情は分からないし、私の顔も見えてない。
そして彼はたっぷり黙り込んだ後、
「…そうか」
とだけ、言った。
それきり彼は一言も喋らなかった。
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そして体は宙に浮き、見知らぬ方陣へと消え去っていく…かに思えたその瞬間、空間内をとてつもない警報音が鳴り響く。周りにいた羽の生えた天使さんが騒ぎたて、なんだかポカーンとしている自称女神、その中で突然と身体がグチャグチャになりながらゆっくり方陣に吸い込まれていく主人公…そして女神は確信し、呟いた。
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