蒼淵の独奏譚 ~どこか壊れた孤高で最強の魔法使いがその一生を終えるまでの独奏物語~

蔵之介

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三. セトの章

41. 残り、2日

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 むしが―――来る。

 壁に。
 天井に。
 床に。
 隙間に。

 夥しくびっしりと、ほんの僅かな空白もないほどに、蟲で埋め尽くされる。

 壁が食い荒らされ、壁土から何百も脚を持つ長い蟲が這い出した時、僕はただ呆けるしかなかった。

 天井が落ちて空が剥き出しになった眼前を、美しいはねを持つ蟲の鱗粉が空気を汚した時、僕は息さえ出来なくなった。

 床がでこぼこと隆起し、床下から力持ちで知られる立派な角を携えた蟲が顕れた時、僕はようやく我が身の命の危機を知った。

 あらゆる隙間からあらゆる蟲がその姿を曝け出した時、僕はあらゆる事象から目を背け、現実逃避するしか術が無かった。

 ――――抗う者達を、その場に置き去りにして。





 僕が叩き起こされたのは、明くる日の午後を少し過ぎた頃だった。

 血相を変えて僕の部屋に転がり込んできたのは父。鍵を閉めたはずなのにと、眠気の残る頭の端っこで考えたが、そういえば父はこの屋敷のマスターキーを持っていて、僕の部屋も関係なく開けられるんだったと思い立つ。

 部屋が暗い。
 真っ暗だった。
 陽の光はどうしたのかまた考える。今日は生憎の曇り模様なのかな、と呑気に思って昨日僕らがやった事を思い出した。

 窓という窓、壁という壁、隙間という隙間を塞いで補強したんだったね。
 虫が一匹でも入ってこないように、特に僕らの居住区は念入りに作業させたから光りすらも阻んでしまった。
 お陰で時間の感覚が狂って気怠さも倍増している。

「いつまで惰眠を貪っておるのだ、セト!姿が見えないからまさかと心配したらこれだ」

 父の呆れ声はいつも通りで飽き飽きする。ここからまた小言が始まるんだから本当に嫌になってくる。
 父も昨晩は女を部屋に連れ込んでしけこんでいた癖に、どうして僕ばかり注意をするんだろう。
 生憎と僕はあまり寝ていないんだ。
 ようやく夢うつつとなったと思ったら叩き起こされて、一体全体何のつもりなのか。

 昨夜は哀しいかな、悔しくて一睡もできなかった。
 何が悔しいって、目星をつけた女を寝取られたのが余程ショックだったのか、どれだけ頑張ってもついに一回も僕のムスコがいきり勃たなかったのが情けなくて情けなくて。
 最初は二人の女に慰めて貰っていたんだけど、全然僕が元気にならないから人数を三倍に増やしてハーレムに興じたワケなんだけどね。6人の女達が持てるテクニックを散々披露して一晩中頑張ってくれたけれど、残念ながらピクリともしなかった。

 こんなの初めてで狼狽えてしまったよ。
 精通が始まったばかりの少年でもあるまいし、僕はこれでもそういった事は玄人中の玄人だと自負していたのに、情けないったらありゃしない。

 その原因が、あのヒョロい男に負けたのが悔しかっただけじゃなく、ほんのちょっとだけ瞳に映った占い師の美しいブロンドがあまりに目に焼き付いて離れなかったからだったなんて、純粋すぎて泣きたくなるよ。

 彼女の後姿を見た時、あの手触りのよさそうなプラチナブロンドが掻き分けられる様子をこの目で見た時、僕の心臓は跳ね上がって動悸に圧し潰されそうだった。
 本能が叫ぶんだ。
 彼女が―――あの占い師が欲しいと。

 ニーナにもちょっとだけ邪な想いを抱いていたけど、それとはレベルが尋常なく違う。
 抗えない渇望が、欲望が、股間に集中する。
 それは血潮となって波打ち、何もしていないのにフル勃起していたのだから相当である。

 その猛りは別の女を呼んだ途端に萎れてしまった。
 恥ずかしいやら情けないやら。
 そんな僕を責めもせずに懸命に奉仕してくれた彼女らには特別ボーナスをやりたい気分だよ。

「どうしたの、父さん…。悪いけど、もう少し寝かせてくれるとありがたいんだけどね」

 父は従者を複数引き連れていた。
 僕と一緒にベッドで折り重なって眠っていた6人もの情婦は、メイドらにしっしとまるで虫みたいに追い立てられて既にいない。
 数日前と同様のシチュエーション。まだ覚醒しきっていないのに勝手にメイド達に服を身につけさせられた僕は、クラクラする頭を押さえながら、カフェインたっぷりの熱いコーヒーを所望した。

 傍らで父が喚いている。
 異様に早口で何を言っているか聞き取れない。父がこれほど取り乱すのは珍しいと思った。

「父さん、ちょっと落ち着いて?今起きたばかりで全く状況が見えないよ。何をそんなに慌てているの?」

 すぐに運ばれてきたコーヒーに口を付け、その苦みに少しだけ眠気が遠のく。
 ありがとう、とカップを返したその手が小刻みに揺れているのに、僕はようやく気が付いた。
 顔を上げ、僕の横に立つメイドを見る。
 俯いたその顔は沈み、冷静を装っているのに全く取り繕えず、額にしっかりと皺を刻んで震えている。

「……どう、したの?」

 さすがにどんなに鈍感なヤツだって、ここまできたら何かがあったと察する。よほどのボンクラじゃない限り。

「セト、落ち着いて聞きなさい」
「僕は最初から落ち着いているよ。どうしたの、あれから何か起こったのかい?」

 ズボンを穿いて、ベッドから立ち上がる。
 気怠さは残るが、僕よりも小さくなってしまった老父の背をポンポンと優しく撫で、父に目線を合わせてもう一度言った。

「父さん、僕はこの通り無事だよ。僕が眠っていた間、一体何が起こったの?」

 父は幾つも汗筋を顔に作り、ガッシリと僕の両腕を掴んで言った。

「屋敷が…ワシの屋敷が崩壊してしまった!」
「え!?」
「屋敷に避難していた人はみんな殺されてしまった。居住区にいる者達だけが、唯一の生き残りなんだ…セト」
「は、はあ!!??ちょ、ちょっと、どういう事!!」

 父は項垂れた。ガックリと肩を落とし、わなわなと震えている。
 ワシの財産、ワシの家、ワシの民とぶつぶつ繰り返し、僕の肩を痛いほど掴んでいる。

「父さんっ!そうだ、補強は?昨日僕らが施した補強はどうなっているの!?」
「―――どうもこうもねえさ」
「!!…き、君はっ」

 僕の自室の扉から、ひょっこりと赤毛が覗いている。
 その後ろには見慣れた青と白、そして――黒。

「セト君、おそよーーー!!」
「え?あ、そうか…君たちも居住区にいたんだったっけ…」
「真昼間だからでしょうか、攻撃の手が今は止んでいますね」
「攻撃って…、いったい何が」
「悪ぃな、昨日やった事、大して意味が無かったみてえだ。無駄足踏ませちまって悪い」
「…アッシュ」

 正直、今は赤毛の男の姿を見たくなかった。
 昨夜あれだけ啖呵を切って馬鹿にして、挙句の果て散々挑発して負けたのは結局こっち。
 あの時彼に勝負の意図は全くなかったにしろ、挑んだのは僕だ。だけど彼女が選んだのは僕じゃなかった。

 あの筋肉の欠片も無さそうなヒョロ長い身体で占い師を組み敷いたのだろうか。あの黒衣の下を暴いて上も下も思う存分堪能したのだろうか。流れるような美しい金髪に顔を埋め、あのかぐわしい雌の匂いに一晩中包まれていたのだろうかと思うだけで、嫉妬心で狂いそうになる。
 アッシュの態度が昨日と変わらないのもまた、悔しさに拍車をかけるのだ。

「ごめん、もう一杯コーヒーを貰えるかな。あと、何か食べるものも。頭がこんがらがって爆発しそうだ」

 当の占い師本人はどこ吹く風、僕をチラ見すらせず姿を消した。僕が無事な様子を確認しに来ただけなのか、その後を追ってニーナもバタバタと騒々しく駆けていく。

 いつもと同じ黒衣。頭からすっぽりと薄絹のベール。身体の線すら覆い隠す漆黒のローブ。
 古いお伽噺で語られる天の岩戸よりもこじ開けるのが難しいのではないかと思うくらいだ。
 そんな厚き衣の下は甘い闇が隠されているのだとフレデリク将軍は惚けた。ひとたび暴く事さえ出来れば、めくるめく甘美な夜に身も心も震えるのだと。

 ああ、将軍は嘘を言っていないんだろうね。
 ほんの少し、僕は彼女の内側を見た。ただ彼女の髪を見た。ただそれだけで他の女に興味をなくすくらいなんだから。

「とりあえず応接間に来るんだ、セトよ。食料は僅かしかないが、用意させよう。ほら、ぼさぼさしないで息子の着替えを終わらせろ、使えぬメイド達めが」
「は、はいっ、申し訳ございません!」
「坊ちゃま、失礼致します」

 よくよく見ればメイド達の服は汚れている。いつも清潔をモットーにと、古株のメイド長が口を酸っぱくして躾けているのに、髪はボサボサで土埃で汚い。酷い者だとエプロンに赤い染みを付けたまま僕に奉仕しようとするものだから、その手を露骨に振り払って睨みつけると土下座せんばかりの勢いで謝られる。

「も、申し訳ございません!坊ちゃま、お許しください!」
「おいおい坊々、その態度はいただけねえな。彼女ら、懸命に民を助けようとしたんだぜ?あんな怖い目に遭って汚れちまったんだから、むしろ褒めてやるべきだろ」
「怖い目?どうでもいいけど、僕のメイドにとやかく口を出す権利は君に無いと思うけど?君の大好きな占い師サン、向こうに行っちゃったのに、君はへこへこ着いて行かなくていいのかい?」

 昨夜はあんな事があったのだ。
 ついついアッシュに冷たく当たってしまうのは仕方ないと思う。

「…へいへい、大人しく向こう行っててやるからさ。とりあえず応接間に来な?俺が軽食用意してるし、あんた呑気に寝ててこの騒ぎに全く気付いてねえみたいだから、食いがてら説明してやるよ」
「セト君、早く来てね!テルマたち、お昼ご飯ずっと我慢してるんだから、早く来てね!」
「……なんなんだ、君たちは」

 どれだけ冷たく接しようとも、嫌味な言葉を投げかけようとも、邪険な瞳で見つめようとも、アッシュには殆ど効いていないどころか逆に心配される始末で歯がゆくてたまらない。
 よもや僕がまだ悶々と昨夜の夜這い失敗を引き摺っているとは思ってもいないだろう。

「セト、早くなさい。今は落ち着いているが、またいつ暴れ出すとも限らぬ」

 アッシュとテルマ嬢が連れ立っていなくなり、溜息交じりの父も退室する。汚れたメイド達は僕の服をベッドの脇に置くと、そそくさと出て行く。
 いきなり大人数で現れて、いきなり一人ぼっちにさせられた。なんなのだと文句を言う前に、もう誰もいない。
 開けっ放しの扉の外では、僕が朝まで放さなかった娼婦たちがしきりに騒いでいる。

「崩壊って…大袈裟な」

 欠伸を噛み殺し、のろのろと袖に腕を通して窓を見る。
 だけど硬く木の板で閉ざしてしまったから、映るのはガラスに反射した気怠い僕の姿見だけだ。

 レディの前へ出るのにこの格好はあんまりだね。
 寝ぐせのついた髪に、隈の残る瞼。ついついぼうっとしてしまう揺るんだ頬を叩いて無理やり眠気を覚ます。
 メイドが気を利かせて置いて行った水をがぶ飲みして、ついでに濡れた手で髪を撫でつける。

 父の剣幕から、相当な事が起きたであろうと思った。
 それからメイド達の異様なまでの怯えようも。
 この部屋を出れば、一人だけ時の止まった僕の時間は動き出すだろう。そして、否応なく現実を突きつけられるはず。
 そう考えるといつまでもこの部屋でゴロゴロと寝そべって現実逃避するのも有りかと思ったが、そうもいかないのが領主の息子としての哀しい運命さだめである。


「じゃあ、行きますか…」

 誰ともいわず独り言ち、もう一度自分の恰好を確認する為にガラス窓を見る。
 うん、さっきよりはかなりマシになった。この年齢になっても体毛が薄く、毎日ヒゲを剃らずとも凌げるのは面倒臭くなくて実にいい。
 そう思いながらようやく僕は部屋を出る。

 さっきまで僕が見ていた窓の木枠の端っこで、小さな塊が蠢いていた。
 豆粒程度の光がそこから漏れ始めている事に、僕は全く気付いていない。

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