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三. セトの章
42. 溺れかけの方舟
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結論から言って、昨日僕たちが施した屋敷の強化は、殆どが無意味だったと思い知らされた。
広い応接間も、多くの人数が寄り添い集まると手狭に感じる。
人の呼吸音、吐く息、体温は締め切った窓では換気されず、ムンムンと蒸し暑くて不快なのも苛々感を募らせた。
陽の光の届かない室内はやはり暗く、蝋燭の炎だけでは事足りない。
ならば有りっ丈の蝋燭を燃やせばいいではないかと思ったが、予備は崩壊した側の備蓄庫に置いてあったんだと思い出して何も言えなくなる。
「とりあえず、一日持てばいいだろ」
そう軽口を叩きながら大皿に出されたアッシュ特製のサンドウィッチはとても美味しくて、占い師の事がなければこの男を友人にしてもいいぐらい絆され始めている自分に驚く。
「脱水症状が一番怖いですからね。しっかり水分を取らないと」
「すっごいねー、このネジ。ここを捻るとお水がじゃんじゃん出てくるね!」
人数分のコップはないからと、器用に紙でカップを折って皆に配るニーナ嬢の気遣いも、こんな時でもニコニコと無邪気に笑って場を何とか盛り上げようとするテルマ嬢の健気な想いも、僕には痛いほど伝わる。
「――――という訳だ。分かるか、セト。屋敷はここを残して消え失せてしまったのだ」
「……まあ、実際見たワケだしね。信じる信じないじゃなくて、これからどう対処すべきかを考えなくちゃね」
「そうだ。流石は我が息子。ここにいる皆々はワシらと同様囚われの身。今や家族も同然だ。互いに協力し合い、この場を乗り切ろうではないか!」
「…そうだね、父さん」
誰も、父の言葉に反応しなかった。
十数人もいるのに、誰一人父の言葉に耳を傾ける者はいなかった。
誰もが押し黙り、誰もが俯いて、誰か一人でも泣き出したら連鎖してカエルの合唱が始まってしまう脆さがあった。
要は誰もかれもが死への恐怖に圧し潰されていて、他人の話なんぞ聞いていられるか状態になっていたのだ。
その原因はただ一つ。
蟲の、襲来である。
僕が惰眠を貪っている間―――正確に言えばまだ明けてもいない真夜中、僕が懸命に息子を奮い立たせている間には既に、この屋敷は蟲に襲われていた。
誰も気づいていなかった。この屋敷には100人程度の民が避難していたが、誰もその襲来に気付かなかったのだ。
蟲は少しずつ、ほんの少しずつ、僕らが補強した木枠や隙間の石を、音を立てず静かに蝕んでいた。
僅かな力を込めたらすぐに朽ち果てる寸前まで、蟲はすぐ傍まで侵食を続けていた。
民達は安心しきっていた。僕の屋敷はこの町で最も広くて豪奢な建物だったし、何より食料がふんだんにあって飢える事もなく、領主たる父や僕が同じ屋根の下にいる安心感からか、すっかり油断していた。
加えて民は消耗していた。
家を失う恐怖、命を脅かされる戦慄、慣れない作業に共同避難。家の中にまで虫が入ってきたのはほんの2日前なのに、食料は食い尽くされ、水は塞き止められて、未知なる外敵に怯えて疲労困憊だった。
民らの立ち入りを禁じた僕らの居住区――今いるこの場は、外部には知られていないが実は秘密裏に作らせた特別仕様の建物である。名目上は野盗対策である。
人は眠っているとどうしても無防備となる。夜間も用心棒が毎晩寝ずの番をしてくれてはいるが、闇は人の動きを緩慢とさせ、見通しも悪く隙も生みやすい。
昼間に堂々と正門からやってくる野盗は相当の馬鹿か命知らずな猛者だろうが、大半は闇夜に紛れて現れる。突然の侵入者に初手を奪われると、運が悪ければそのまま餌食となるしかない。
かつて砂漠には、とんでもなく野蛮で残忍な蛮族の集団がいた。人の命など、そこら辺に飛んでいる蚊よりも軽く扱う危険な奴らだった。
他にも災厄で家や故郷を喪い、生きる為に賊に身を染める輩も少なからずいた。この世に絶望して荒み、自暴自棄で町を荒らす不届き者だっていた。
富に満ちたこの町は、そんな奴らによく狙われた。騎士団のような自警団がいなかったのも、《中央》から離れすぎていて直ぐに救援が来ないのも狙われる理由の一つだったろう。
そんな招かざる客から身を守るには、自衛するしかなかったのだ。
屋敷の改造は、その為に施された。
幸か不幸か、結果僕らは助かった。
賊よりももっと危険な虫の襲来を、阻む事が出来たのである。
この居住区は屋敷から独立して建っている。
一見、屋根も基礎土台も繋がっているように見えるが、そのようにカモフラージュしているだけだ。
屋敷の本館との結合部は絨毯などで隠され、15センチ以上もある重くて分厚い鉄の扉によって完全に隔離できる。扉は僕らが就寝すると毎日閉められ、出入り口はこの扉一箇所のみだ。
天井の梁は多く、屋根は急な角度で昇るのも留まるのも困難。壁は繋ぎ目の無い岩で容易く破れない。
窓は半分しか開かない仕様で、その全てに有刺鉄線が張り巡らせてある。地下も土台の周りを石で囲み、庭には花壇に見せかけたトラップが仕込まれた念入り具合だ。
並みの装備では侵入すら不可能だろう。
そして、外部からの攻撃にも耐え得る。
まさに難攻不落の砦なのだ。
敵が本館に侵入を果たしても、ここに篭れば数か月は籠城できる備えもあるから完璧だ。
後は屋根裏から伝書鳩を飛ばして助けを待っていればいいのだから。
しかし実際に賊が現れる頻度はそうそう無かった。不審者はすぐに知れ渡り、屋敷を取り囲む前に屈強な用心棒が排除してくれるお陰で、本来の使い方をせずとも済んでいたのだ。
それでも僕らは警戒を緩めはしなかった。ここまで備えを極めている理由は、前述した砂漠の蛮族の存在を最も憂いていたからである。
災厄の日、《王都》に助けを求めようと砂漠を越える僕らを襲った野盗集団は、冗談なく危険な連中だった。
僕らが派遣した斥候はことごとく奴らに惨殺されたし、その殺され方も異常だった。
奴らは砂漠に陣取り、流浪の砂漠の民を見つけては略奪して殺し、女は誘拐してボロ雑巾になるまで犯され続け、奴らによって流浪の民は絶滅させられるに至った。
愉しんで人を殺す。僕らも奴らと遭遇した時は、まさに命からがら逃げだしたのだ。
黒の行商人は、奴らとも接触したようだった。
人間の生態を知る為に、その知識を与えてくれるクズを探していた彼らは運良く僕に出会ったが、奴らにも同様の取引を持ち掛けていたらしい。
僕が全てをなかった事にしてもらったようにだ。
奴らとどんな会話が為されたかは分からない。
ただ、行商人は言っていた。奴らが砂漠を出る事はこの先一生叶わぬと。
砂漠は日々姿を変える。
砂丘は常に隆起を繰り返し、陥没し、砂嵐が舞っている。
目印も無く、磁石も狂う。天は砂で曇り、太陽や星の位置で方向を知る事も出来ない。
だから誰も砂漠を越えて《王都》に辿り着けないのだ。
出口のない迷路に閉じ込められたようなもの。奴らは余程の運が重ならない限り、自力で砂漠から抜け出す事はできないと行商人は僕を安心させる言葉を述べたのだ。
しかし父は納得しなかった。
元々奴らを捕まえたのは父と《王都》の兵士達だし、奴らには顔も割れている。
万が一の可能性もないのかもしれないが、億が一ならばどうだ。100パーセント出てこないとは、行商人は一言も言っていない。0コンマ以下の確率でも、奴らが無事砂漠から抜け出す可能性があるのならば、それ相応の対処はやるべきであると。
備えあれば憂いなし。
こうして造られたのが、この居住区なのである。
この場所がどうして蟲の襲来を免れたのか疑問を投げかけてきたニーナにそう説明した。
勿論、黒の行商人の下りはうまく隠してね。
ニーナもアッシュも、その場にいる誰もが神妙な顔つきをしている。
ただ一人、占い師だけの表情は分からなかったけれど。
「今朝方、メイドさん達が避難されていた人達に給仕している時に、突然顕れたそうです」
昨夜の内に補強個所は食い荒らされて、ただの薄っぺらい壁だけが辛うじて立っている状態だったのだろうとニーナは推測する。
「いきなり、襲われた。とても静かに、羽音すらもしなかったから誰も気付かなかった。皆は安心しきって、温かいスープに身も心も安堵した矢先だったわ」
たまたまニーナも屋敷側にいたそうだ。
彼女は昨晩は自室に戻らず、一晩中書庫に篭っていたらしい。
「他に手立てはないか調べていたんです。聖書の物語は漠然とし過ぎていて、幾通りの解釈もできる。7日目に本当に終わるのか、そのきっかけは何だったのか、グレフの本体を探るヒントがあればと思って」
凄まじい轟音が鳴り響いたかと思うと、その瞬間に壁という壁が崩れ去った。
人々が驚いているほんの僅かな一瞬で、大量に膨れ上がった蟲の大群が、朝日に照らされ襲い掛かってきた。
「多くの人はあっと悲鳴を上げる事すら出来なかった。口を開けた時には、もう人の形すらしていなかった。血肉すら残さず、ただ貪られるしかなかった。……とても酷い光景でした」
人々は逃げ惑った。壁がなくなって外が剥き出しとなり、そこから無限に蟲は湧いてくる。
何処にも行き場が無かった。
我先に逃げ出さんと人並みを押し退けて逃げた人は、むしろその身を曝け出し、死への順番が早くなるだけだった。
「私にはどうすることも出来ず、そこでリュシアさんにこの事態を知らせようと、ここを護る扉をくぐりました。メイドさんと、何人かの避難民も一緒にです。まさかそれが生死の分かれ道となるなんて…」
「ワシが駆け付けた時は、屋敷はほぼ崩壊していたのだ。絶望する間もなかった。ワシは咄嗟に扉を閉めた。賊の侵入を防ぐ為に堅固にしたここは、蟲の襲来を阻んでくれたよ」
思わぬ副効果だと父は言う。
「なるほど、それで屋敷が崩壊した…か。アッシュの言う通り、無駄な足掻きだったわけだ」
「何を言う、セトよ。ここにワシとお前が無事でいるのがなによりの吉報ではないか」
さっきまで財産が、宝がと嘆いていた老害が何を言うのだ。
黄金や宝石の一部は父の寝室の金庫に後生大事にしまってある。絢爛豪華な調度品が無くなったのは痛手だが、無一文になるよりマシだと思い直したらしい。
コーヒー片手に、僕はぐるりと応接間を見渡した。
父とメイドが4人。うち一人は虫の苦手なメイド長だ。
それから扉を護っていた用心棒が2人と、僕の妾が6人。本来彼女らの寝所は屋敷側だ。僕に呼ばれていなければ、僕を朝方まで慰めていなければ、ここに居る事なく死んでいただろう。
次にギルドの4人。ニーナはまだメイド服を着用したままだ。
そのニーナにくっ付いて難を逃れた民が6人。100人以上いて、たったの6人しか生き残らなかった。
これに僕を入れて総勢22人。
多いと言えば、この応接間に全員寄り集まるのならば多い。少ないといえば、たったこれっぽっちしか生存していないのだから少ない。
なんにせよ、この22人は運命共同体であるのは間違いない。
溺れかけの方舟に乗せられた、滓にも役に立たなさそうな人間ばかりというのが腹立たしいがね。
広い応接間も、多くの人数が寄り添い集まると手狭に感じる。
人の呼吸音、吐く息、体温は締め切った窓では換気されず、ムンムンと蒸し暑くて不快なのも苛々感を募らせた。
陽の光の届かない室内はやはり暗く、蝋燭の炎だけでは事足りない。
ならば有りっ丈の蝋燭を燃やせばいいではないかと思ったが、予備は崩壊した側の備蓄庫に置いてあったんだと思い出して何も言えなくなる。
「とりあえず、一日持てばいいだろ」
そう軽口を叩きながら大皿に出されたアッシュ特製のサンドウィッチはとても美味しくて、占い師の事がなければこの男を友人にしてもいいぐらい絆され始めている自分に驚く。
「脱水症状が一番怖いですからね。しっかり水分を取らないと」
「すっごいねー、このネジ。ここを捻るとお水がじゃんじゃん出てくるね!」
人数分のコップはないからと、器用に紙でカップを折って皆に配るニーナ嬢の気遣いも、こんな時でもニコニコと無邪気に笑って場を何とか盛り上げようとするテルマ嬢の健気な想いも、僕には痛いほど伝わる。
「――――という訳だ。分かるか、セト。屋敷はここを残して消え失せてしまったのだ」
「……まあ、実際見たワケだしね。信じる信じないじゃなくて、これからどう対処すべきかを考えなくちゃね」
「そうだ。流石は我が息子。ここにいる皆々はワシらと同様囚われの身。今や家族も同然だ。互いに協力し合い、この場を乗り切ろうではないか!」
「…そうだね、父さん」
誰も、父の言葉に反応しなかった。
十数人もいるのに、誰一人父の言葉に耳を傾ける者はいなかった。
誰もが押し黙り、誰もが俯いて、誰か一人でも泣き出したら連鎖してカエルの合唱が始まってしまう脆さがあった。
要は誰もかれもが死への恐怖に圧し潰されていて、他人の話なんぞ聞いていられるか状態になっていたのだ。
その原因はただ一つ。
蟲の、襲来である。
僕が惰眠を貪っている間―――正確に言えばまだ明けてもいない真夜中、僕が懸命に息子を奮い立たせている間には既に、この屋敷は蟲に襲われていた。
誰も気づいていなかった。この屋敷には100人程度の民が避難していたが、誰もその襲来に気付かなかったのだ。
蟲は少しずつ、ほんの少しずつ、僕らが補強した木枠や隙間の石を、音を立てず静かに蝕んでいた。
僅かな力を込めたらすぐに朽ち果てる寸前まで、蟲はすぐ傍まで侵食を続けていた。
民達は安心しきっていた。僕の屋敷はこの町で最も広くて豪奢な建物だったし、何より食料がふんだんにあって飢える事もなく、領主たる父や僕が同じ屋根の下にいる安心感からか、すっかり油断していた。
加えて民は消耗していた。
家を失う恐怖、命を脅かされる戦慄、慣れない作業に共同避難。家の中にまで虫が入ってきたのはほんの2日前なのに、食料は食い尽くされ、水は塞き止められて、未知なる外敵に怯えて疲労困憊だった。
民らの立ち入りを禁じた僕らの居住区――今いるこの場は、外部には知られていないが実は秘密裏に作らせた特別仕様の建物である。名目上は野盗対策である。
人は眠っているとどうしても無防備となる。夜間も用心棒が毎晩寝ずの番をしてくれてはいるが、闇は人の動きを緩慢とさせ、見通しも悪く隙も生みやすい。
昼間に堂々と正門からやってくる野盗は相当の馬鹿か命知らずな猛者だろうが、大半は闇夜に紛れて現れる。突然の侵入者に初手を奪われると、運が悪ければそのまま餌食となるしかない。
かつて砂漠には、とんでもなく野蛮で残忍な蛮族の集団がいた。人の命など、そこら辺に飛んでいる蚊よりも軽く扱う危険な奴らだった。
他にも災厄で家や故郷を喪い、生きる為に賊に身を染める輩も少なからずいた。この世に絶望して荒み、自暴自棄で町を荒らす不届き者だっていた。
富に満ちたこの町は、そんな奴らによく狙われた。騎士団のような自警団がいなかったのも、《中央》から離れすぎていて直ぐに救援が来ないのも狙われる理由の一つだったろう。
そんな招かざる客から身を守るには、自衛するしかなかったのだ。
屋敷の改造は、その為に施された。
幸か不幸か、結果僕らは助かった。
賊よりももっと危険な虫の襲来を、阻む事が出来たのである。
この居住区は屋敷から独立して建っている。
一見、屋根も基礎土台も繋がっているように見えるが、そのようにカモフラージュしているだけだ。
屋敷の本館との結合部は絨毯などで隠され、15センチ以上もある重くて分厚い鉄の扉によって完全に隔離できる。扉は僕らが就寝すると毎日閉められ、出入り口はこの扉一箇所のみだ。
天井の梁は多く、屋根は急な角度で昇るのも留まるのも困難。壁は繋ぎ目の無い岩で容易く破れない。
窓は半分しか開かない仕様で、その全てに有刺鉄線が張り巡らせてある。地下も土台の周りを石で囲み、庭には花壇に見せかけたトラップが仕込まれた念入り具合だ。
並みの装備では侵入すら不可能だろう。
そして、外部からの攻撃にも耐え得る。
まさに難攻不落の砦なのだ。
敵が本館に侵入を果たしても、ここに篭れば数か月は籠城できる備えもあるから完璧だ。
後は屋根裏から伝書鳩を飛ばして助けを待っていればいいのだから。
しかし実際に賊が現れる頻度はそうそう無かった。不審者はすぐに知れ渡り、屋敷を取り囲む前に屈強な用心棒が排除してくれるお陰で、本来の使い方をせずとも済んでいたのだ。
それでも僕らは警戒を緩めはしなかった。ここまで備えを極めている理由は、前述した砂漠の蛮族の存在を最も憂いていたからである。
災厄の日、《王都》に助けを求めようと砂漠を越える僕らを襲った野盗集団は、冗談なく危険な連中だった。
僕らが派遣した斥候はことごとく奴らに惨殺されたし、その殺され方も異常だった。
奴らは砂漠に陣取り、流浪の砂漠の民を見つけては略奪して殺し、女は誘拐してボロ雑巾になるまで犯され続け、奴らによって流浪の民は絶滅させられるに至った。
愉しんで人を殺す。僕らも奴らと遭遇した時は、まさに命からがら逃げだしたのだ。
黒の行商人は、奴らとも接触したようだった。
人間の生態を知る為に、その知識を与えてくれるクズを探していた彼らは運良く僕に出会ったが、奴らにも同様の取引を持ち掛けていたらしい。
僕が全てをなかった事にしてもらったようにだ。
奴らとどんな会話が為されたかは分からない。
ただ、行商人は言っていた。奴らが砂漠を出る事はこの先一生叶わぬと。
砂漠は日々姿を変える。
砂丘は常に隆起を繰り返し、陥没し、砂嵐が舞っている。
目印も無く、磁石も狂う。天は砂で曇り、太陽や星の位置で方向を知る事も出来ない。
だから誰も砂漠を越えて《王都》に辿り着けないのだ。
出口のない迷路に閉じ込められたようなもの。奴らは余程の運が重ならない限り、自力で砂漠から抜け出す事はできないと行商人は僕を安心させる言葉を述べたのだ。
しかし父は納得しなかった。
元々奴らを捕まえたのは父と《王都》の兵士達だし、奴らには顔も割れている。
万が一の可能性もないのかもしれないが、億が一ならばどうだ。100パーセント出てこないとは、行商人は一言も言っていない。0コンマ以下の確率でも、奴らが無事砂漠から抜け出す可能性があるのならば、それ相応の対処はやるべきであると。
備えあれば憂いなし。
こうして造られたのが、この居住区なのである。
この場所がどうして蟲の襲来を免れたのか疑問を投げかけてきたニーナにそう説明した。
勿論、黒の行商人の下りはうまく隠してね。
ニーナもアッシュも、その場にいる誰もが神妙な顔つきをしている。
ただ一人、占い師だけの表情は分からなかったけれど。
「今朝方、メイドさん達が避難されていた人達に給仕している時に、突然顕れたそうです」
昨夜の内に補強個所は食い荒らされて、ただの薄っぺらい壁だけが辛うじて立っている状態だったのだろうとニーナは推測する。
「いきなり、襲われた。とても静かに、羽音すらもしなかったから誰も気付かなかった。皆は安心しきって、温かいスープに身も心も安堵した矢先だったわ」
たまたまニーナも屋敷側にいたそうだ。
彼女は昨晩は自室に戻らず、一晩中書庫に篭っていたらしい。
「他に手立てはないか調べていたんです。聖書の物語は漠然とし過ぎていて、幾通りの解釈もできる。7日目に本当に終わるのか、そのきっかけは何だったのか、グレフの本体を探るヒントがあればと思って」
凄まじい轟音が鳴り響いたかと思うと、その瞬間に壁という壁が崩れ去った。
人々が驚いているほんの僅かな一瞬で、大量に膨れ上がった蟲の大群が、朝日に照らされ襲い掛かってきた。
「多くの人はあっと悲鳴を上げる事すら出来なかった。口を開けた時には、もう人の形すらしていなかった。血肉すら残さず、ただ貪られるしかなかった。……とても酷い光景でした」
人々は逃げ惑った。壁がなくなって外が剥き出しとなり、そこから無限に蟲は湧いてくる。
何処にも行き場が無かった。
我先に逃げ出さんと人並みを押し退けて逃げた人は、むしろその身を曝け出し、死への順番が早くなるだけだった。
「私にはどうすることも出来ず、そこでリュシアさんにこの事態を知らせようと、ここを護る扉をくぐりました。メイドさんと、何人かの避難民も一緒にです。まさかそれが生死の分かれ道となるなんて…」
「ワシが駆け付けた時は、屋敷はほぼ崩壊していたのだ。絶望する間もなかった。ワシは咄嗟に扉を閉めた。賊の侵入を防ぐ為に堅固にしたここは、蟲の襲来を阻んでくれたよ」
思わぬ副効果だと父は言う。
「なるほど、それで屋敷が崩壊した…か。アッシュの言う通り、無駄な足掻きだったわけだ」
「何を言う、セトよ。ここにワシとお前が無事でいるのがなによりの吉報ではないか」
さっきまで財産が、宝がと嘆いていた老害が何を言うのだ。
黄金や宝石の一部は父の寝室の金庫に後生大事にしまってある。絢爛豪華な調度品が無くなったのは痛手だが、無一文になるよりマシだと思い直したらしい。
コーヒー片手に、僕はぐるりと応接間を見渡した。
父とメイドが4人。うち一人は虫の苦手なメイド長だ。
それから扉を護っていた用心棒が2人と、僕の妾が6人。本来彼女らの寝所は屋敷側だ。僕に呼ばれていなければ、僕を朝方まで慰めていなければ、ここに居る事なく死んでいただろう。
次にギルドの4人。ニーナはまだメイド服を着用したままだ。
そのニーナにくっ付いて難を逃れた民が6人。100人以上いて、たったの6人しか生き残らなかった。
これに僕を入れて総勢22人。
多いと言えば、この応接間に全員寄り集まるのならば多い。少ないといえば、たったこれっぽっちしか生存していないのだから少ない。
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