蒼淵の独奏譚 ~どこか壊れた孤高で最強の魔法使いがその一生を終えるまでの独奏物語~

蔵之介

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三. セトの章

68. セト ①

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「海風ってさ、想像以上に生臭くて気持ち悪いものなんだね~」

 海を見守る女人像の噴水脇に腰を掛け、眼下に広がる真っ青な海を見ながら僕は言う。
 店が立ち並ぶ広場のど真ん中、待ち合わせにぴったりなこの場所には僕以外のたくさんの人がいて、僕の発言を聴いた人達からすごい目で睨まれてしまう。

「あなたそれ、港町で言う台詞じゃないわよ。海の人達は海をこよなく愛してるんだから、気の短い人に絡まれて何が起きても知らないよ?」
「ホントのことを言って何が悪いの。潮がベタつくったらありゃしない」

 初夏の太陽は、実は真夏よりもギラギラと照り付ける。
 潮を含んだ風は生暖かく、ベタつくばかりでちっとも爽快じゃない。
 暑さの質も砂漠とは全然違う。ここはむわりと湿気が多い分、不快指数だけが募るところだ。

「君もそろそろ任務に戻る頃じゃない?いつまでもサボってたら、身体のおっきな団長さんに怒られちゃうよ?」
「ロルフ師団長はそんなことくらいで怒ったりしない人よ。いっつも優しく目を掛けて下さるんだから」

 僕の隣には、軽装姿の女騎士がいる。
 ここに駐屯する騎士は誰も鎧を纏っていない。鉄が日光を吸って焼き肉ができるくらい熱くなるから、重装備は逆に危険なのだと、彼女から出発前に聴いた。

「あなたといると楽しいからずっと一緒にいたいんだけど、デート姿を見られて噂が立っちゃう方が怖いかな。騎士は清冽であるべきだぁ!って師団長がね」

 女騎士は名残惜しそうに立ち上がる。
 僕は彼女の潮で固まった硬い髪にキスをして、お別れの挨拶を送ってあげた。

「ありがとう。お陰で無事にグレンヴィルに着いたよ。僕、一度海を見てみたかったんだよ」
「帰還任務のついでだからいいのよ。あたしも楽しかったし。ねぇ、あたしはずっとここに駐屯してるからさ、休暇日にまた一緒に遊ぼうよ」
「それはいい考えだね。僕に泳ぎを教えてくれると嬉しいな」
「うふふ!じゃあ、グレンヴィルの港町を堪能してね、セトくん!」

 大きく手を振って、女騎士は坂道を駆け上がっていく。
 僕はその後ろ姿をちょっとだけ見て、また視線を広大な海の煌めきに戻した。


 ゴーン…ゴーン…ゴーン…


 午後の鐘が鳴る。
 特産の魚介ランチを目当てに、どの食堂も満員御礼だ。

 お腹は空いていたけれど、僕は観光目的でここを訪れた訳ではない。
 情報通りであれば、数刻もせず到着するはずである。
 港に出るには、必ずここを通るしか道はない。

「まだかな、リュシア」

 少女のように浮つく心を抑えきれない。
 この思いの丈を海に向かって思いっ切り叫んだら気持ち良いものなのかな。


 僕は今日、その海へと旅立つ。

 リュシアと、共に。





 あの日から、ひと月が経った。

 僕は退屈だと感じる暇もなく、日々を忙しく過ごしている。

 目まぐるしく変わる日常は、まず新たな生活に慣れるので必死で、お節介な友人たちがいなければ、僕は早々に潰れてしまっていたかもしれない。
 あれこれと世話を焼く友人は、時には食事を用意し、時には生活用品を揃えてくれたり、時には気晴らしに街中の案内を買って出たりと忙しない。
 騒がしいし、女の子とデートする時間もちょっとしか取れないけれど、悪くないと思っている自分がいる。

 あの惨劇で、僕は何もかもを失った。
 家も家族も財産も、帰る場所すら全て失ったのだ。

 だけど、そんな僕にも得るものがあった。
 生涯のパートナーとなるべく人と、かげがえのない友人を。
 馬車の中でなんだかんだと好き勝手言っていたギルドの連中は、《中央》に落ち着いても僕を見捨てる事はなく、あの気さくな態度で僕と接してくれたのだ。

 それは僕が怪我を負ってまともに生活できないからかなと思ったけれど、身体を自由に動かせるようになっても奇妙な友人関係は続いている。

 馬車に乗って《中央》へとやってきた僕は最初に向かわされた先は、僕を擁する騎士団でも、友人らが所属する“紡ぎの塔”でもなく、驚くべく場所だった。

 繁華街を過ぎて、湖の周りをぐるっと回った先の林の奥でようやく馬車は止まり、蔦が絡み着いた四角い建物から出てきた男に出迎えられた僕は、ここが何の施設だと説明された時は耳を疑ったものだ。

 僕をわざわざ出迎えに現われた男こそ、四大ギルドの一つ、盗賊ギルド“原初の簒奪者オリジンダラー”の筆頭者ギルドマスター、通称・研究者だったのである。
 そしてここは、盗賊ギルドが所有する拠点の一つ、『実験研究所』だったのだ。

「いけませんねぇ、こんな傷を負わせれば、本当に死んでしまいますよ」

 噂だけしか聞こえてこなかった盗賊ギルドを束ねるマスターは、胡散臭さ満点の笑顔を引っ付けた、線の細い壮年の男だった。

「“紡ぎさん”も乱暴なお人だ…クックック、いやはや、きちんと穴を塞いでおかないから、ほらほら、お腹のものが全部流れ出ていますよ」

 白衣という名の変わった上着を翻し、ゴムの薄手袋をパチンと鳴らしてニヤニヤと僕に近付いてくる様は、恐怖以上の何物でもなかった。

 そういやこの人、僕を解剖するとか言っていなかったか。
 手には先が鋭利な刃物を持っていて、これで細切れにされるのかと思うと、ただでさえ弱った身体なのに益々戦慄して震えてくる。

 リュシアとは違う意味でヤバい奴だと、直感で思う。
 だけど僕を助けてくれる人はなく、僕は抵抗する事すら敵わず実験台で朽ち果てるしかない。

 これでは騎士団に連れて行かれた方がマシだった。
 しかしこんなトコロに置いて行った騎士と魔法使いの当人らギルドマスターは、都に戻るなり踵を翻し、早々に仲良く連れ立ってまた何処かに行ってしまったのだ。
 ちなみにアッシュ達とは都の入り口で別れている。僕は完全に一人ぼっちだった。

「おやおやおや、そんなに怯えなくとも殺したりはしませんよ。私は“紡ぎさんリュシア”と違って、ちゃんと分別があるんです。ちょっと――ほら、あった♪生きている状態の核は珍しいですからねぇ、ほんの少し採取して、それから穴を塞いじゃいましょうね~」

 よく分からない内に変な匂いのする葉を嗅がされ、一気に前後不覚でヘロヘロになった僕の胸の傷跡に、これまた無遠慮に手を突っ込まれた時はもう終わったかと思った。
 リュシアに刺されたあの熱さを思い出して、僕は簡単に意識を飛ばしてしまう。

 《中央》に来たことを、これほど後悔した事はなかったね。
 到着したその日にこれなのだから、どれだけヤバいか分かったかな。

 まあ、今僕がこうして普通に立って喋って、怪我を負う前とちっとも変わらない生活が出来ているのは、悔しいけれどその研究者サンのお陰でもあるんだけどね。

「私の名はファウスト。君にはそう名乗っておきましょう。飽くなき究明のみちを追い求める科学の申し子―――異教徒ですよ。クックックッ、たくさんある忌み名の一つですから、どうぞお好きに呼んで下さいね」

 長身でスタイルも良く、男らしくて見目も悪くない。普通にしていればそれなりにモテそうなのに、如何せん挙動不審なところが一番怖い。
 余り関わり合いたくない部類の人間なのだけど、これでこの人は僕の命の恩人なのだから余計性質が悪い。

 ここに辿り着いた時、実は僕の命は風前の灯で、アッシュの治癒術などただの付け焼き刃に過ぎず、一刻も早く処置しなければ本当に死んでしまう所だったそうなのだ。

「グレフの核でなければ、心臓を握り潰された時に即死ですよ。ククク、惜しいですねぇ、面白いですねぇ」

 リュシアが僕を刺した時、本気で僕の命などどうでも良かったのだろう。
 死ぬか生きるかは運に任せた。
 だからリュシアは決して治癒しようとしなかったし、アッシュもとりあえず出血を止める治癒魔法を施しただけだった。

 血を失い過ぎた事も危なかった原因だけど、心臓がぐちゃぐちゃで原型を留めていなかった事と、空いた胸元から臓器が何個か流れ落ちていた事が最も危険だった。
 むしろ息を吹き返しただけでも奇跡の範疇なのだと、ファウストは再建のし甲斐があると飛び跳ねて悦ぶ。

「グレフにはグレフを使います。きっと再生するでしょうね!ああ、万が一死んでしまったらすみませんねぇ。後で“紡ぎさん”と一緒に、ユリウス閣下の元へ謝りに参りますから」

 後に聴いた話だけれど、僕が意識を手放している間、それはそれは長い時間を掛けて、実験を兼ねての大手術が行われた。
 心臓再建手術である。
 助手やらなんやらがワラワラと湧いてきて、どいつもこいつも大掛かりな実験手術で楽しかったと言われた時の正しい模範回答って、一体なんだろうね。僕は曖昧に笑うしか出来なかったのだけれど。

 気付けば僕は清潔な病室の中にいて、そこで手厚い看病を受ける。
 3日もすれば立ち上がる事ができ、5日目には複数の看護師に手を出して修羅場を体験し、1週間後に歩けるようになって晴れて退院したのはいいけれど、次は騎士団に拉致されてしまった。

 僕の入院中にリュシアとフレデリク将軍は《中央》に戻っていた。
 退院後に騎士団長執務室に召集された僕は、ようやく彼と再会したのである。

 フレデリク将軍との会話は割愛しよう。どうせくだらない説教ばかりでつまらないだろうからね。
 リュシアはファウストにこってり絞られた。核の解明は人類の未来に繋がるのに、やり過ぎにも程があると叱られたけれど、ならば別の手を模索すればいいのだと一切の反省の色を見せなかったのが実に彼らしい。

 そしてリュシアと将軍と、ファウストの茶々入れによって僕の今後の処遇が決められる。
 もう一つのエルフギルドが参加していないのは、そもそも本拠地を《中央》に据えていないからだ。いちいち呼び出すのも手間だろうと、今回の一件に絡みはない。

「セト・ルシエンテス。貴公の身柄は我ら騎士団が預かるとする。存分に尽くすがよい、ぞ」

 フレデリク将軍の宣言の元、僕の身元は騎士団に引き取られ、寝所も騎士団宿舎に用意された。
 狭くて小汚い部屋だったけれど、相部屋が主流の騎士団にとって、異例の待遇なのだそうだ。

 制限は設けられてしまったが、基本的に僕は自由を認められた。
 無断で都の外に出る事は禁止され、朝と就寝前の点呼は必須。また、ファウストや将軍らの呼び出しには必ず応じる事が定められている。
 さらに僕はどこのギルドにも所属していないので、ギルドの支給金や待遇は無しだ。
 着の身着のままやってきた僕は当然無一文で、一気に生活困窮者となってしまった。

 でも、自由であれば何でもできる。
 お金がないのなら作ればいいし、物がないのなら貰えばいいのだ。

 早速僕は街中へと繰り出し、女の子をナンパしてはその日の飯にあり付く毎日を送りだす。
 アッシュが食事を安くしてくれたり、ニーナが不用品をたくさんくれたのも有難かった。
 時には研究室で訳の分からない実験に付き合わされたり、再生能力が秀でているからだって騎士団の当て身の練習に使われたりと、結構忙しい日々を送っていた僕は、毎日がとても充実していた。

 それでも暇を見つけては、僕は“紡ぎの塔”に顔を出していた。

 騎士団も研究室も、街中で女の子とデートするのも楽しい。
 でも、妙に居心地がいいのはここだった。

 なにより塔に行けば、高確率でリュシアに逢える。
 彼はギルドの雑務処理に追われて、このひと月は殆ど塔の中にいたからね。




 《中央》に来て3週間。
 もはや勝手知ったる我が城のように毎日塔に出向くものだから、近衛兵と世間話をするくらいには仲良くなった。

 お金がないから財布代わりの女の子を連れて、アッシュの食堂にご飯を食べに行く。
 彼の料理はとても人気で、昼時にもなると行列ができる評判っぷりだ。

「アンタ、大概暇なんだな。よくもまあ、毎日違う女を見つけてくるもんだ」
「暇じゃないよ。今日は朝から“研究者”に血を採られてきついんだ」
「わぁ!塔の食堂うれしぃー!!一度ここに来て見たかったんだぁ!いっつも満員で、なかなか入れないのよぉ」
「それは良かった。僕とアッシュは友達だからね、特別に席を用意してくれるんだよ。そのかわり、奢ってね」
「なんだそりゃ。忙しいから適当に食って帰れよ。保存食の仕上げやんないといけねぇんだから」

 アッシュは両足をメタルスコーピオンに砕かれた。土の秘術を使いながらだったから、集中力がもたなかったそうなのだ。鋼鉄の毒尾を避けきれず、まともに当たって吹っ飛ばされ、それで瀕死の重傷を負った
 自分で毎日治癒術を掛けているようなのだが、免疫力を高めるだけで治癒魔法に即効性はない。
 今も痛々しく折れた両足に添え木をして、ぐるぐるに包帯を巻いている。

 重症の具合は僕と左程変わらなかったのにアッシュの治癒が遅いのは、彼が人間だからだ。
 僕はグレフの核に侵略された元人間。根本的に身体の造りが違う。
 それが良いのか悪いのかは、別の問題になるけれど。

「保存食?」

 今日のランチメニューは香辛料たっぷりのチキンカレーだ。
 ヴァレリの郷土料理である。
 ヴァレリの民が慣れ親しんだお袋の味を見事再現しているカレーは、あの時アッシュと占い師に扮したリュシアと一緒に行った、汚い路地裏の食堂のシェフに教えて貰ったものだった。

 グレフの襲来によりヴァレリが壊滅状態に陥る未来を、彼らは出発前に既に予測していた。
 敢え無く全滅する街の文化を、何かたった一つでも残せるものがあればいいと、アッシュは郷土料理を受け継いだ。
 シェフと料理対決してレシピを学んだのはその為である。グレフの一存で料理までも廃れさせる理由はないと、その一心であの食堂を選んだのだ。

 まさに料理人の鏡、いや、食に対するアッシュの意識度の高さには脱帽ものである。

「もうすぐ旦那は出掛けちまう。ホントは一緒に行きたかったけどよ、長旅になるし、船に長く乗るっつーから辞退したんだ。怪我が治ってねえのもあるけどよ、俺、めっちゃくちゃ船酔いするんだわ」

 船の上では食料確保が第一である。
 常温でも腐らず、保存が効いてエネルギーも満腹度も養える食料を作っているのだとアッシュは言う。

「騎士団が港を開通したって…その為だったの?」
「そうなんじゃねえの?嬢ちゃんの故郷の…グレンヴィルだってか、そこに旦那の船が用意されてるんだとよ」
「あの町は騎士団が後継人になってるからな。嬢ちゃんは訳あって顔を見せれねえし、旦那も知名度が低い。騎士団長が頼めば、あそこの住人はほいほい動いてくれるってのもあってな」
「へえ、是非可愛い女の子と海辺でデートをしてみたいね!」
「ああ、そうかよ、ご勝手に」

 旦那に惚れてるんじゃねえのかよ、という呟きを残し、アッシュは手をひらひらとさせて厨房に戻ってしまった。

「セトォ、食べたらデート行こうよぉ。海じゃないけど、湖の方もキレイだよ!」

 口の周りをカレーでべったりにした今日の財布チャンにハンカチを差し出しながら、僕はもう違う事を考えている。

「ごめんね、午後は用事があるんだ。ここのギルドマスターに逢うんだよ。なんなら君もご一緒する?」
「はぁ?わたわたわたわたし如きが、ギルドマスター様に逢えるわけないじゃないのよぉ!畏れ多くてちびっちゃいそう」
「だよね~。じゃあさ、デート出来なくなっちゃった代わりに、もう少しここにいようか。のんびり紅茶とケーキを食べながら、ね」
「うん、いいよぉ!」

 どうせ支払いは僕ではないのだ。いくら食べても、僕の懐は痛まない。
 財布は大事に扱うに限る。デートのお誘いを断るのも、無下にしちゃうと次から財布になってくれないからね。

 女の子のことなら、僕の右に出るものはいない。
 僕は変わらず僕のままでいられることが、この上ない幸せだと思っている。




 財布チャンに別れを告げ、お小遣いまで貰っちゃったから特別にキスしてあげたらそれをアッシュに見られていて、うへぇという顔で舌を出されたけれど、僕のとってのキスは挨拶代わりみたいなものだから別に心は痛まない。
 るんるん気分で帰る彼女を見送った後、僕は塔の上を登る。

 “紡ぎの塔”の主、リュシアに逢う為である。

 リュシアが普段いるらしい執務室は、塔本拠地のてっぺんにある。
 下から見上げても見えない造りになっていて、僕は一度もそこに行った事がないから、どんな風になっているかは分からない。
 ニーナ曰く、リュシアの私室が併設されていて、そこのバルコニーから見える景色は圧巻の一言で、歓楽都市アルムマハを一望できる壮観が得られるらしいのだ。
 当然ながら、ギルド外の人間は入れない。
 塔を守護する近衛兵と特段仲良くなって便宜を図って貰おうとしたんだけれど、流石にマスターの私室となるとセキュリティは硬くて、どう頑張ってもお許しが得られなかった。
 そこのところは一応組織として、ちゃんとやってるんだなとは思う。馬鹿にした意味ではなくてね。

 謎に包まれたリュシアのプライベートを垣間見たいという気持ちは、その人をもっと知りたい心の現れなのだから仕方ない。

 僕は上階を守る魔法兵士に挨拶を交わし、別の階段を登った。塔の中間部で階段が途切れるそこは、守秘地ではないので咎められる事はない。
 階段を登り切る前、塔の中腹部に差し掛かる辺りにある、階段と階段の踊り場の境目に出来た、たんこぶみたいな中途半端な通路の更に一番奥の部屋、鍵の掛かっていない蝶番を開けて中へと滑り込む。

 ここは誰からも死角の位置にある部屋だ。塔のギルド員ですら、ここに小部屋がある事を知る者は少ないだろう。
 忘れられたようにひっそりとたたずむ部屋が、現在進行形で使われているとは誰も思わないだろうね。
 その部屋の中身は、乱雑に書類が散らばっている。

「相変わらず煙たいんだから」

 床一面に散らばる書類はゴミではない。
 この部屋の主人なりの法則があって、勝手に動かすと怒られる。

 僕はあっちこっちに積まれた書類のトラップを踏まないように気を付けながら、一つだけある出窓を僅かに開けた。
 換気が必要なくらい、ここの空気はジメっとして埃っぽい。おまけに臭い白煙が充満しているから、ずっと居ると頭が痛くなるほどだ。

 出窓の直ぐ脇にはおざなり程度の灰皿があって、吸い殻がこんもりと山を築いている。

 ジメっとしているのはここがいつも締め切られていて、埃っぽいのはここが元々備品倉庫だったからだろう。
 そして煙たいのは、この吸い殻の山が物語っている。

 僕はもう慣れたもので、持参した袋に吸い殻を詰めてヤニで汚れた窓を拭き、飲んでそのまま放置されているカップ類を集めて入り口付近に置く。
 空気を入れ換えて簡単に掃除するだけで、すっきりするものだ。
 そうして僕専用のソファに放り投げられた目新しい書類を手に取って、寝転びながらそれを読み、主人が現れるのを待っている。

「なんだかんだで頼られてるんじゃない?」

 新規の案件が増えていると、こんな僕も必要とされていると思って嬉しくなってくるものだ。
 我ながらいじらしい。

 甲斐甲斐しく尽くす女のように部屋の掃除をするのは、彼に喜んで貰うというよりは、自分の居場所を居心地好くする為だ。
 この部屋は、つい先日までは主人の物しか置いていなかった。なのに今では端っこの方に僕専用のソファがあり、書類脇には机やファイリングの棚まである。
 勝手に持ち込んだブレイク用の紅茶一式セットや昼寝用のタオルケット類なんかも狭い部屋に置いているのに、主人は文句を言うどころか、僕がいない間に勝手に使っている。
 使うだけ使って片付けないのがネックなんだけど。

 主人とは、もう分かるよね。
 この塔の主たる、リュシアの事だ。

 セキュリティを無理に突破して最上階の彼の部屋に行かずとも、実はこんな辺鄙な場所で彼に逢えるのだ。
 秘密の逢瀬のように、僕とリュシアが頻繁にこの部屋で顔を合わせている事を、アッシュはおろか、誰一人して知らない。

 この部屋は、リュシアが業務に煮詰まった時に訪れる、彼だけの秘密の小部屋である。

 元々備品倉庫として使われていたこの場所は、塔の敷地内に新たな倉庫が建設された時にお役御免となり、代わりに使用用途が良く分からないけど、捨てるには惜しくて長年埃を被っていた品々を保管する倉庫として再利用された。
 普段のギルド業務に於いて、そんなものが必要になることはなく、必然的にすっかり忘れられた部屋になってしまった。
 階段踊り場の更に奥だから天井も低く、行き交いも狭くて暗いから、好き好んで使おうとする人はいない。この階にある部屋は全部そうだ。

 僕がここを見つけたのは、本当に偶然だった。

 ある日、塔所属の魔法少女とデートしていて、ちょっとエッチな気分になったから、塔の裏手側の雑草が生い茂る暗がりに連れ込んで、白昼堂々と青姦に勤しもうとした時である。
 少し煙草臭がする場所だったけど、陽が当たらないからそんなものかと思っただけで。

 不意に、僕の頭上に水が降ってきた。

 その水はあまりに臭くて汚くて、まともにそれを頭から被った僕は一気に萎えてしまった。女の子に謝ってすぐに別れた後で頭上を見上げたら、食い入るように僕らを見つめていたリュシアと目が合った。
 これが、きっかけだったのだ。

 落ちてきた水は、煙草の吸殻を大量に含んだヤニ汁だった。
 よくよく見てみれば、雑草の至る所に吸い殻が落ちている。ここら辺一帯が煙草臭に汚染されていたのは、全部あの男の所為だった。

 ヤニ汁塗れでぽかんと上を見上げる僕に、リュシアは少し溜息を吐いた。それから火の点いた煙草を持った指が窓からにょきっと出て来て、クイとリュシアが手首を回した途端に僕の身体は宙に浮き、そのヤニ臭い部屋に連れ込まれてしまったのである。

 それから僕と彼の奇妙な逢瀬は続いている。

 リュシアは喫煙者だった。
 可愛い顔に似合わず、相当なヘビースモーカーで、塔にいる間は片時も煙草を手放せないニコチン中毒者でもあった。

 奇しくも最近《中央》の界隈では、健康志向から有機物栽培の野菜がグルメの間で流行って以来、こぞって禁煙ブーム一徹となっている。
 咥え煙草による外出はご法度。喫煙ルーム以外の煙草は禁止され、ポイ捨ては罰金だ。
 飲食店や公共施設の中も禁煙となり、愛煙家は随分と肩身が狭い思いをしているようである。

 そんな中、“紡ぎの塔”も例外なくその流行りに乗っていて、当主たるリュシアにとっては面白くない動きになっているらしい。

 ギルド施設は公共の場。ニーナを筆頭に、ギルドメンバーからいちいち注意喚起を受けるのが心底嫌で、逃げ込んだ先がこの使われない部屋だった。
 一番偉いはずのギルドマスターですらこの調子なのだから、世論の声というのは恐ろしい。

 それともう一つ。
 ギルドの元には様々な案件が持ち込まれる。大抵は幹部連中が精査し、人員配置や対処を行うのだけど、それだけでは手に負えずにマスターまで挙がってくる依頼も数多くある。
 この部屋に散らばる書類の多くが、幹部だけでは解決できない類いの依頼案件で、リュシアは誰にも邪魔されずに掛かりっきりになりたい時に、煙草を咥えてこの静かな部屋で仕事をするのだ。
 執務室は入れ替わり立ち代わり、人がやってきてうるさいのだと彼は言う。

 僕はその仕事の一部を、成り行きで手伝っている。

 主に女の子関係で顔の広い僕は、ギルドの枠組みを超えた人間関係を構築している。
 《中央》に来てまだ3週間。うち1週間は入院していたのに、この成果は相変わらず誇らしい。

 “紡ぎの塔”は市井管理を請け負っているから、庶民トラブルが一番多い。そこで僕の顔の広さが役に立つのだ。
 ヤニ汁塗れで初めてここを訪れた時、たまたま足元にあった書類に記されていたトラブルが、僕が懇意にする女の子の店だった。僕は女の子からその話を愚痴として聴いていて、内情とトラブルの本質をリュシアに教えてあげたら、すんなり解決の糸口に繋がった経緯があった。
 僕が進んでリュシアの仕事を手伝うようになったのは、それからである。

 今までは人を派遣して状況確認や情報収集を行い、時にはリュシア本人が出向く事もあった。
 でも僕が間に入れば、そんな事をわざわざせずとも、多くの女の子がそれを担ってくれるのだ。
 女の子は交友関係も広くて、噂話や流行物が大好きだ。店の内情も、人とのつながりも、その過去すら何故か詳しく知っているものである。
 僕が一声かけるだけで、ご褒美にキスをしてあげるだけで、女の子は僕の為に何でもしてくれる。

 それをリュシアは重宝してくれた。

 だから、リュシアだけの秘密の部屋に、僕は立ち入る事を許されたのである。
 それに僕は彼の喫煙を一切咎めないし、ギルドの方針に出しゃばりもしない。彼がここで過ごしやすい環境も作っている。
 彼がこの部屋で仕事をしている間、僕は仕入れてきた情報を伝える以外は黙っているし、彼が許可しなければ世間話もしないし、当然口説きもしない。
 僕だって四六時中エッチな事を考えているわけではない。節操無しと思われたくないから、ちゃんと時と場合を読んでいるつもりだ。

 出窓を開けても塔の裏側だから静かで、僕以外は誰もここには入ってこない。
 逢えない日もあるし、僕が行けない時もあるけれど、仕事を頼まれているからにはちゃんとやり遂げるのが筋だと思って頑張っている。

 リュシアにとって僕は有能なのかどうか知らないが、こうして新規の案件が僕の用意されていると、暗に頼られているようで嬉しく感じる。
 外出禁止のとがも、もっと仕事がやり易いようにとリュシアの特別許可による解禁を得られたくらいだしね。

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