蒼淵の独奏譚 ~どこか壊れた孤高で最強の魔法使いがその一生を終えるまでの独奏物語~

蔵之介

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三. セトの章

69. セト ②

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 長くなったけど、今日僕がここに来たのは、仕事の報告の他に別途で用事が出来たからだ。

 ここ数日、煙草の量も桁違いに増えている。外にも出ずにずっと塔に缶詰状態なのは、アッシュが口にした旅の準備に他ならないだろう。
 長く留守をするからこそリュシアは一層仕事に打ち込んで、彼が不在でも潤滑にギルド運営が出来るようにする為にと。

 そんなの、僕は聴いていない。
 旅に出るだなんて、初耳もいいところだ。
 それも船に乗り、危険な海を越えて何処へ行こうというのか。
 それを、どうしても彼に問いたかった。彼の特別ではないけれど、除け者扱いがとても嫌だった。

 暫く時が過ぎて夕刻前。残念ながら今日は逢えないのかと思って帰り支度を始めた時に、ようやく待ち望んでいた人物が現れた。

 ソファで寛ぐ僕に一瞥して、僕の手掛けた仕事の報告書に目を通しながら、出窓で早速煙草の紫煙を燻らせる。

 僕とリュシアの間に挨拶なんて野暮なものはない。この間も、ずっと無言である。
 僕は彼の唯一の居場所に入り込んでいるお邪魔虫に過ぎないのだから、彼の聖域を侵す事はルールに反する。
 所構わず話しかけて彼の居場所を取ってしまうと、彼はまた別の静かな場所を探してそこへ移り、もうここには二度と立ち入る事はあるまい。その際、僕もこうして同じ空気を共有する事もなくなるだろう。

 ギルドメンバーの誰もが知らないこの場所で、僕が惚れた相手と二人きりで過ごせる機会を、みすみす僕が見過ごすわけはないし、僕自身が壊すつもりもない。
 僕は彼と過ごすこの静かで穏やかな時間がとても気に入っている。一度は嫌われたこの身の存在を受け入れてくれる事が、この上なく嬉しいのだ。

 僕は無言で紅茶を入れ、いつもの定位置にそれを置く。
 リュシアは出窓に寄りかかって足を組み、いつもの姿勢で書類に視線を落としている。
 彼はもう外にヤニ汁を捨てたりしない。僕が片付けてくれるのを期待しているからだ。

 僕は彼を見て、思わず吹き出しそうになった。
 目の前の愛しい人が、めちゃくちゃド派手なローブを頭から羽織っていたからである。
 酔ったデザイナーがヤケクソで作ったような奇抜な色使いと模様はセンスの欠片も無くって、これを着こなせる人は世界中探しても見つからないくらいコンセプトが分からない。
 上から下までてんでバラバラの紋様は、よくよく見ると見知ったもので―――って、これは僕の町でリュシアが買った、あの変なローブではないか。

 あれを町のブディック店でリュシアが衝動買いした時、まさか売れるだなんてと、それを置いていた店員が腰を抜かすほどだったのだが、後に町が滅亡する前に稀少なローブを救えて良かったと、ほくほく顔でアッシュらに言ったそうだ。
「大地の粛清」前々日に、リュシアがラクダにローブの入った荷物を括りつけて逃がしていたのは、蟲の被害からローブを守る為だった。彼の行動には必ず意味がある。それに早く気付いていれば、もう少し対処の仕様があったかもしれないけれど、終わった事今更あれこれ言っても仕方がない。

 しばらくその存在を忘れていたのだが、実際に着ている姿を見ると、その破壊力は抜群である。
 よくもまあ、恥ずかしげもなく平気な顔でそんな派手なローブを着ていられるものだ。

 アッシュ曰く、リュシアは無類のローブコレクターで、私室にはわんさかと奇妙なローブが保管してあるのだそうだ。
 オーソドックスなローブも嫌いではないが、珍しいタイプ…特に着ぐるみ系らしいのだが、それを見つけると飛びついてしまう。
 アッシュと初めて出会った時、リュシアは耳がぴこぴこ動くアルパカローブを着て現れて度肝を抜いたとの事だ。ちなみにニーナの時はピンクの牛からの、全身サメの着ぐるみだったそうである。
 ご当地のお土産グッズが穴場なのだと、彼は任務で外に出掛ける時は、必ずそういった類いの店を覗くのだとか。

 平静だの無表情だの、心が無いのだの散々云われる彼だけど、こんなにも可愛いところがある。
 彼とて、人間なのだ。
 人並みに趣味もあれば、嗜好だって持ち合わせている。
 それを周りが勝手に超人化するから、リュシアは本当の自分を隠さざるを得なくなるのかもしれない。

「アッシュに聴いたのか?」

 唐突に、リュシアが口を開いた。
 彼から話しかけられると、それは会話が解禁になった合図だ。無駄話が許される。
 出窓の外に見える陽は落ちかけている。暗くなった部屋は、リュシアの光魔法で明るく灯される。

「…長旅に出るんだってね。船を使うとか。アッシュ、凄く行きたそうだったけど」
「船で大陸を渡る。何が起こるか分からんからな。骨もまだくっ付いていないのに、足手まといだと困る」

 骨折の完治に要する時間は長い。
 骨が引っ付くまでに3ヶ月、それからリハビリして半年も掛かる。
 毎日治癒魔法を施して、それで半分の期間で済むのが関の山である。
 可哀想に、彼の配下となってずっと付き従ってきたアッシュは間に合わない。けれど置いて行かれるのが分かっていて尚、彼の為になればと陰ながら尽くす姿は、まさに家臣の鏡だとも思う。

「どこに行くの?長旅って、どれくらい留守にするつもりなのかな」
「ひと月以上だ。海を渡って、魔族の地に至る」
「ええ!?ま、魔族の地だって!!??」

 これには驚いた。
 海を渡って向かう行先の選択肢に、よりによって魔族の地を選ぶとは。

 11年前の災厄は、世界に様々な影響をもたらした。人間の生活が変わっただけではなく、自然界にもその影響は及んだのだ。
 ヴァレリの近くで云えば、砂漠だ。常に流砂が蠢き、砂丘が隆起を繰り返して砂嵐が止まないのはグレフだけの所為ではない。
 海で云うならば、時化だろう。潮の流れが変わり、あちこちで渦が生じて船を出せなくなった。魚は採れなくなり、嵐は予想不能となって、季節外れの台風にも襲われる。

 かつて貿易で賑わった三大都市の一つ、リンドグレンの貿易都市は災厄によって沈没した。
 人類に於いて船出を復活させるのは、商業的な意味でも希望的な観点からも悲願だったのだ。
 まだまだ世界には、災厄で地形が変わって徒歩では行けなくなってしまった孤立した町村がある。多くの人と物資と食料が未開の地に残されている。
 港の再開により、人類はまた一歩グレフからの脅威を脱するだろう。

 それに、創世の時代から因縁の仲にある魔族とは、マナの優劣を争う間柄ではあるものの、貿易に至っては全くの別物とみていい。
 魔族と人間は、いがみ合いながらも互いの文化を交易し合う、良い取引相手なのである。
 今も昔も、こうして文化を築き上げてきたのだ。
 しかし11年前に魔族が絶滅してからは、その貴重な交流も途絶えたはずなのだが。

「だ、大丈夫なの?上級クラスの冒険者でも近付かない場所だよ」
「さあ、大丈夫とは言い難いんじゃないか?俺も行った事ないからな」
「なんだよ、それ。危険だと分かって何をしに行くんだい?そもそも魔族がいなくなって、あそこの地には何もないんじゃないの?」

 魔族の絶滅理由は、運悪く大陸のど真ん中にグレフが堕ちてきた衝撃波で半分以上が消滅し、弱ったところを追い打ちをかけるかのように魔王が殺されて、連鎖反応で残りも死んでいった事によるものだ。
 だからあの地は無人のはずで、大陸に足を踏み入れたとしても途中までしか北上できない。大陸を横断するほどのクレーターが出来て、北側は物理的に通行不可能と噂されている。

「魔族は絶滅していない。僅かだが、災厄を生き延びている者もいる」
「そうなの!?…って、それが本当なら、人間の敵は滅びていない事になるよね。グレフと魔族の両方を相手しなくちゃいけない。むしろ危険が増しただけだと思うんだけど」
「その怒れる神グレフだ。もはやマナを獲り合って双方がいがみ合う時代は終わったんだよ」

 《中央》のギルドと魔族の生き残りは、なんと数年前から連絡を取り合っているのだという。
 海を越えれないから伝書鳩を使っての手紙のやり取りに過ぎないが、数年かけて情報交換し合い、親密に交流しているらしいのだ。

「お前との一件で気になる事が出来たからな。どうしても現地に行って確かめてみたい」
「……気になる、こと?」
「それに魔族から正式にギルドに依頼が入った」
「だから君がわざわざ出向くんだね…」
「腐っても魔族だ。歓迎してくれる輩ばかりではないからな。危険を見越してギルドのトップが今回は動く」

 僕が魔族との交流を知らなかったように、あっちも人間に協力的とは限らない。
 遺伝子にいがみ合うように組み込まれた永遠の敵なのだ。何が起こるか分からないというのは、そういう事なんだろう。

「つれないね。ひと月以上もいなくなるなんて」
「だから仕事が山積みなんだよ。正直、お前を当てにしている」
「それはどうも。でも僕はギルドメンバーじゃないし、働いた分は駄賃をくれないと割に合わないんだけど?」
「……が欲しいのか。仕方ない、ひと月以上も淫魔を放置することになるのは、俺としても気に掛かる。よからん副作用が現れても困るしな」

 リュシアは煙草の火を消して、ケバさだけが取り柄の悪目立ちしかしないローブをパサリと脱いだ。

「え?ここでしてくれるの?」
「しないのならそれで構わんぞ。お前にとって、この行為は最大級の褒美なんじゃないのか?」

 据え膳食わぬは男の恥。思わぬところに訪れたセックスのチャンスに僕は飛びつく。本人がその気であるなら、有難く頂戴するのみである。
 ヤニ臭くて書類が散らかり放題の、ムードもへったくれもない殺風景な部屋だけど、僕はいつどんな時でもサカれるのが自慢だし、相手がリュシアならば尚更興奮するってものさ。

「ファウストには感謝しなくちゃね」
「いいから早くしろ。仕事が立て込んでるんだ。なんなら俺がタチ役でも構わないが?」
「いやいや!それは謹んで辞退します!!」

 男と交わるだけでアレなのだ。掘られるなんて、末代までの恥である。

 朗報があるんだ。
 リュシアは二度と僕に身体を明け渡さないと宣言したけれど、あの狂究者ファウストはその仲さえも取り持ってくれたんだよ。

 僕の淫魔の核は、リュシアのマナによって保護されている。
 蟲の還る場所を撹乱させると同時に、淫魔の能力を抑え込む為だ。

 だけのその効果は永久ではない。
 少しずつではあるが、核は保護するマナを餌として喰っている。全て喰らい尽くされる前にまた術を施さないと、僕は蟲に殺されるし、淫魔に魅了された人が面倒な事件を起こしたり、僕から体液を通じて核が感染したりと、色々と厄介な事になるのだ。
 その効果は持って一か月。僕はひと月ごとに、リュシアの術を受けねばならなくなったという事になる。

 先も述べたが、僕の核に干渉するには、術者と身体の一部を繋げなければならない。
 だからリュシアは僕の心臓に直接手を突っ込んできたのだけど、その行為を絶対にするなと、ファウストに言い含められているのである。

 僕の心臓の再生に、保管していた稀少なグレフの核を全部使ってしまったそうなのだ。
 大掛かりな大手術はファウストと科学者一派の自己満足を十分に満たしてくれたが、その分、資金も材料もかなり使った。
 またあれをやられると、僕は今度こそ生き返らない。

 僕はこの3週間で三つのギルドを渡り歩き、そこそこ便利に立ち回ってきた。
 僕がいて助かるようにと、これまで文句も言わずにギルドに従っていたのは、僕自身が不用と思われない為の画策だ。
 リュシアとて、それは例外ではないはずだ。一番僕が尽くしていたのは、紛れもなく“紡ぎの塔”なのだから。

 どうせセックスする事に他意を感じないのならば、どうしてセトだけ嫌だと固執する。手っ取り早く済ませれば時間も金も無駄にはならんし、なによりセトのやる気に繋がるのならそれでいいではないか。

 そう諭され、ファウストとフレデリク将軍の二人掛かりで説得を受けたリュシアだったが、なにやら双方からギルドに利なる事と交換条件で渋々了承の意が取れたのが、つい先週の事である。

 僕は嬉しかったよ。
 その朗報を聴いた時は、いないはずの女神様に跪いて感謝したくらいさ。
 もうあの身体を堪能できないと思っていたから、本当に嬉しかった。

 まだ核に猶予があったけど、ひと月も不在ならば話は別だ。
 リュシアが旅に出ている間に効果が切れてしまうだろうけど、少しでも長く持たせるように、今ここで致そうとしているのである。

「いちいち女装しなくても、その様子じゃ問題ないな」
「悔しいけど、そうみたいだね。男とか女とかじゃなくて、君自身に欲求してるんだよ」

 ちょっと魔法で錯覚を生じさせればいつでも女性の姿に成れるのに、面倒だからとリュシアは男の身体を僕に見せる。
 幾らなんでも男と寝るのは興奮するか懸念したけれど、全く持って要らぬ心配だった。
 胸がなかろうが、僕と同じものが股間にくっ付いていようが、びっくりするくらいどうでも良かった。
 硬い肢体もリュシアのだと思えば愛しく思うし、穴が一つしかないのも、リュシアの内部なかだと思えば興奮しきりである。

 あんなに煙草を吸っているのに、煙草の匂いはあの変なローブにしか付いていない。
 交わしたキスはリュシアの味がして、そこから先は夢中になってしまったからよく覚えていない。

 興奮するに決まっている。
 僕しか許されていない秘密の部屋で、アッシュもニーナも、他のメンバーも普通に生活している塔の中で、その最高指導者をこの腕に掻き抱き、支配しているのだから。

 彼から与えられる快感は、占い師だった時と変わらない。
 むしろ、リュシアという人間が知れたからこそ、興奮は高まる一方で。

 僕の核は、僕が興奮して初めて顔を覗かせる。
 その性質をよく知っている彼は、もう僕と二度としないと言っていた癖に、僕を快感の渦に溺れさせるのがとても巧い。
 本当に嫌になるよ。これが、僕だけのものじゃないなんて事実が。

「ひと月経って俺が帰らなくても、外に出るなよ。蟲に喰われるぞ。お前の事は“研究者”に任せてあるから、あんまり手を煩わせてやるなよ」

 いない時まで僕を案じてくれるなんて、誰が君を人格破綻者だと野次るんだろうね。
 これほど優しい人がいるかい?

「それと、この部屋は鍵を掛けておくぞ。お前に女を連れ込まれるのは嫌だからな」

 僕がそんな下品な事を仕出かす奴と思うかい?
 ここはリュシアと僕だけの聖域。誰にも侵されたくないのは、僕だって同じ気持ちさ。

「誰を、連れて行くの?」
「……ニーナとテルマ、あとロンもだな。少ない方が動きやすい」

 ロンとは、リュシアの影だ。
 いつもリュシアの影に潜んでいて、彼だけを護る隠密人の事である。
 僕の町の一件では、他に用命を下されていて不在だったようだけれど。

「そっか…魔族の地、か。遠いな…」

 一月も離れ離れになるのか。下手するともっと、最悪帰ってこれないかもしれない。
 そう思ったら、居ても立っても居られなくなる。
 リュシアとひと時も離れたくなかった。そんなに長い時間お預けを食らってしまったら、僕はすっかり枯れ果てておじいさんになってるよ。
 女から尽くされる事に慣れている僕自身が、こんなに一途な性格をしているとは想像すらしていなかった。

「だから大人しく待ってろよ。俺の仕事も当分ないし、町から出なければ好きにやっていればいい。女でも男でも好きなだけ腰を振ってろ」
「それ、傍から聞けば、嫉妬心丸出しの台詞に聴こえるよ」
「……じゃあ、黙る」
「ふふ」

 僕はもう、心に決めていた。
 こんなに相性のいい肢体を、こんなに僕のハートを擽る顔を、こんなにいけずで危うい人を、みすみす手放して《中央》でお茶でも飲んでいろと?
 そんなの無理だ。
 ひと月ごとの確約されたねやよりもっと、この人の傍で在りたいと願っているのに。

「僕は、自由なんだよね?」
「…死を免れなかったお前がせっかく拾った命だ。好きに生きればいいし、すればいい。ユリウス達との制約など、俺には知ったことじゃないさ」
「君ならそう言うと思っていたよ。ありがとね」

 僕は差し出された肢体を思う存分好きにさせてもらった。
 本人が良いと言ったのだから、遠慮なくね。

 前に下手くそと云われた事が結構ショックで、色々と抱き方を試行錯誤していたら笑われた。なにクソと思って僕の持てる限りの生技を披露してみせたけど、気持ちばかりが先行して巧くいかない。焦りがばかりが募って汗だくとなっているその下でリュシアは涼しい顔だ。
 僕に凄い恰好を強制されているのにリュシアは余裕綽々で、逆に手解きを受けてしまう始末である。

 二度目のセックスはめちゃくちゃだったよ。童貞のガキみたいに、結局僕がマグロになるしかなかったんだから。
 僕の人生、これから先はとても長い。
 僕が生きようとする限り、リュシアと共に在れる。
 だからいつか、リュシアをぎゃふんと言わせてあげるのだ。彼が赤面して泣いて縋ってくるほどの男になってみせよう。技術も懐も男っぷりもでっかくなって、堂々とその隣に侍るのだ。

 ―――君が好きだよ、リュシア。

 ついそう言いそうになって、思いとどまる。
 身体を繋げていると、熱に浮かされて愛の言葉を囁きたくなるけど、今は言うべき時ではない。
 リュシアはそんな言葉など、欲していない。彼の中でこの行為は、ただの核への干渉手段なのであって、愛の睦み合いではないのだ。それを勘違いしてはいけない。
 行為自体に深い意味はないと思わせておかないと、重過ぎる愛情に嫌気が差して、彼はまた強行突破に出てしまう。ただでさえ、仕方なく肢体を明け渡してくれているのだから。

 好きだ、愛してる。
 その言葉を呑み込んで、代わりにたくさんのキスを送ろう。

「僕は必ず、君の役に立ってみせるよ」
「…それもお前の好きにすればいい事だ」

 リュシアはである。
 本来の性格なのか、それが彼なりの処世術なのかは知らない。
 だからこそ、僕が取るべき行動は一つしかないだろう。

 彼とともに行く。

 これが僕の答えである。





 ザザザ…ザザーー…、ザザーー…

 海の波の音は、砂漠の砂の音にとてもよく似ている。
 何処までも続く水平線も、果てない砂漠の大地と色が違うだけで、そんなに変わらないように見える。

 初めて海を見るのに初めてではない感覚に、僕はかつての故郷を思い返している。
 真っ白な世界になってしまった僕の生まれ故郷で起こった惨劇。
 その始まりから終わりを、そしてこれからの未来を海に語る。

 僕の身に何が起き、一つの町が消えた一部始終はさっき語った通りだよ。
 長い物語だったけれど、揺蕩う海は数千年も前からそこにあるんだから、ほんの11年の出来事なんてきみからしてみれば一瞬の出来事だろう?
 ねえ、知っているかい。
 世界は、災厄から10年の節目を過ぎて、目まぐるしく変わろうとしている事を。

 人は“組織ギルド”を結成して、死に物狂いで滅亡にあらがっている。
 どっちつかずでフラフラしていた僕は、ついに人間側に味方して、その身を信じた人に預ける事にした。
 降りかかった不幸の報復なんかは考えていない。ただ、信じた人に着いて行くだけだ。
 出来れば人間が勝って欲しいとは思うけれど、そんな事を一個人の僕が気にしても仕方がない事だし、僕は僕の出来る事を、僕がしたいようにやれればそれでいいと思う。

 だから、今ここにいる。
 塔に入り浸って出発の日時を訊き出し、旅人を装ってうまく騎士を護衛につけて港町までやってきたのはその為だ。

 海は規則正しい波の音を僕に返してくれて、穏やかな旅路の出発を祝ってくれているかのようである。

 僕の姿を見て、彼は何と言うだろう。

 リュシアの事だ。多分、僕を睨みつけてそれで終わりだろうね。
 僕が彼の旅に黙ってコソっと押しかけてくることは、何となく予想しているんじゃないかと思うんだ。
 だってほらあの人、先見の明が凄いからね。

 僕は自由だと彼は言った。
 街から出るなとは言われたけれど、着いてくるなとは一言も言わなかった。
 それにあくまで自己責任だって事は、重々承知しているさ。

 リュシアのいない《中央》で、ただ彼の帰りを待ち続け、気の乗らないデートを繰り返して、他のギルドマスターおっさんと顔を付き合わせて、一体何の意味がある?
 生きる張り合いすらない町で自堕落に過ごすよりも、きっぱり大好きな人と一緒にいた方がいいに決まっている。


 ポンポンポン――


 港に停泊する一隻の船に石炭が燃やされている。一筋の煙が立ち昇り、真っ青な空に線を描く様を僕はのんびりと眺めている。

「あれがリュシアの船かな」

 船頭に据えた女神の守り像よりも、やっぱりあの人の方が美しい。



 港町の坂の上に、地味なローブ姿の旅人たちが見えた。
 人影は三つ。うち一つはとても小さくて、落ち着きがなくウロチョロしているのが遠目からでも良く分かる。

「うん、時間ぴったりだ」

 さて、どうやって登場してみせようかな。
 びっくりさせるには、何処に隠れれば効果的だろう。
 海の女人像の後ろかな、それともいっそ噴水の中から飛び出してみせようか。船に既に乗ってるっても捨てがたい。ああ、そうだ。海で溺れてるフリをして虚を突くのも面白いかもしれない。

 荷物を詰め込んだリュックを背負い、広場であれこれと百面相をしていたら、ローブの一人がこっちを見て手を振っている。
 少女なんかは飛び跳ねちゃっているから、路側から落っこちそうになっている。

「もうバレちゃったか…なんでもお見通しのリュシアを驚かせようとしたのが間違いだったかな」

 僕は彼らの到着が待ちきれなくて、長い坂道を駆け上がる。

 ああ、ジメジメする。
 潮はベタベタで生臭い。変な虫もそこら辺にいるし、港町なんて僕には性に合わない。

「ハァ、ハァ…ふふ、驚いたかな?」

 だけど彼がいるだけで、この不愉快さも全く気にならなくなるのだから、恋のパワーとは恐ろしいものである。
 それを僕が感無量に味わう事も。

「僕も一緒に連れて行って欲しい。言ったでしょ、君の役に立ちたいんだって」



 僕は今日、旅に出る。

 船に乗って、未開の地へ。
 人類が抗う道筋を描く、リュシアと一緒に。

「君はつれないね。僕を置いて行くなんて酷いよ」
「……」

 海を越え、僕の未来の可能性を掴み取りに行くのだ。
 僕が夢を叶える為には、彼と一緒でなければならない。
 そう。この無愛想で平坦で、無口で偉そうで、何処か壊れたこの人と一緒に。

 そうする事で、僕は僕になれる。
 僕はいつまでも、でいられる。



 男だったら夢は大きくもたないとね。
 僕の夢は世界の王になる事と、世界中の女で作るハーレム郷、それから――――。

「お前は荷物持ちだ。遅れるなよ」

 そうぶっきらぼうに言い放って、きっかり四人分の荷物を置いて行く。
 姿を消しているロンという奴も、ちゃっかり便乗するなんてズルい。

「ありがとう、リュシア。これからもよろしくね」



 海は青く、美しい。

 そんな青よりも深い色をした蒼淵の瞳を独り占めしたい。



 それが、僕の夢である。






 今より11年前。
 僕が9歳だった頃。

 あの日、世界の全てが終わろうとしていた時、ひょんな事から我が町ヴァレリに訪れた転機とは、人類の敵によって与えられた、一時的な平和と安定だった。

 世界が破滅に導かれていく条理の波に逆らって、幸せになっていく町はついにその罰を受ける。
 誰もが羨む贅沢な生活を、快楽を、僕らはありのままに受け入れ、世界にただ一つの「選ばれた民」だと信じていた能天気な住民達は、他の人間達が抗い始めた時に死滅した。

 愚か者の住む町の愚か者である僕も、いつか皆が眠る無の世界に行くだろう。
 でもほんの少しだけ、そこへ行くのを待って欲しい。

 せめて君たちが死んでしまったこの儚さを、無念と思う前に散った嘆きを、このロクでもない世界に遺してからでも遅くはないと思うんだ。

 それまでどうか、僕を恨みながら待っていて下さい。

 ヴァレリの民と、親愛なる父さんへ。

 ――――セトより。







 三. セトの章 完



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