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土砂降りの散歩道 編
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【土砂降りの散歩道】
あれは僕が中学に入ったばかりのころだった。
小学6年生の時にこの田舎町に引っ越してきた僕は、たった一年しかいなかった小学校に全く馴染めず、中途半端な都会からやってきた事もあってか文化や言葉遣い、慣習の違いから正直浮いていて、無視とは言わずとも誰からも話しかけてもらえず独りぼっちな存在だった。
それは中学生になっても続いていて、校区が広くなって他校の生徒が増えたにも関わらず、まるで腫れ物を扱うような接し方をされていた。
僕は元々誰かの後ろにくっ付いて日陰の側で遊ぶのを好む性格で、積極的に話したりするタイプでもなかったから、最初の友達つくりに大失敗したらもう後はどうしようもない。
入学したてでドキドキしたのは初日の一日のみ。
僕は中学校でも浮いていた。
そんな折、日増しに元気がなくなる僕を心配してか、父が頻繁に僕を連れ回していた時期がある。
父は背が高く、目力が強くて頭も切れる。
痩せているけど力がめちゃくちゃ強くて、声も太い。
とても厳しく、短気でよく怒り、すぐに手が出て殴られるのもしょっちゅう。本気でキレると足でぶっとばされる事もしばしばある。
だけど母には異様に優しくて、僕ら兄弟の前でも平気で嫌がる母にチュウしたり、休みの日は地図も持たずに長出のドライブをして家族サービスに事欠かなかったりと、怖い時と優しい時のギャップが激しかったりもする。
この世で一番尊敬する人を聞かれれば、僕は迷わず父の名を挙げる。
だけどそんな父を僕は慕っているのに、怖くて苦手な存在でもあった。
その頃の父は、会社の定期健診で糖尿病の要注意を受けていたらしく、ウォーキングがてらに夜中、犬のオレオの散歩をしていた。
毎夜毎夜どこに行くのか、一度出ると二時間くらいは戻ってこない。
帰る頃には僕ら子供達は全員夢の中なので知った事じゃなかったのだけど、僕はその長ったらしい散歩に誘われてしまったのである。
気難しい父と、大人しい僕。
父はどうにか僕の塞いだ心を解きほぐしたかったのだろう。
当時の親心なんか僕は知る由もなくて、眠い中散歩に連れ出されるのは良い迷惑だと思っていた。
しかし僕に決定権などあるはずもなく。
父が今夜付き合えと言われれば、僕はわかりましたと二つ返事で従うしかなかったのだ。
父が仕事から帰ってきて、夕ご飯を食べて少し休憩して22時。
「ユウ、準備は?」
言われるまでもなく全部済んでいる。
要領の良い父はもたつかれると怒る。
オレオに首輪をしてリードをつけて、父の首にぶら下げる懐中電灯とタオル、玄関にウォーキング用のシューズ。
「雨、凄いけど」
奇しくも今日は夕方から雨が降っていて、夜になるにつれて雨足が強くなり、今は土砂降りだ。
「母さん、カッパ出してくれ」
「こんな日に出なくてもいいやん」
「いや、行く。オレオもそのつもりになっとる」
四月になったばかり。
夜は寒く雨に打たれると尚更だろう。
だけど一度言い出したら聞かない頑固な父だ。
雨が降ろうが槍が降ろうが、父が行くと言えば行かざるを得ないのである。
中途半端な田舎で、街灯も疎ら。
雨で空は月も消え、一層淀んで暗い。
ひゅうと冷たい風が突き刺さる。
父と僕はカッパを着た上に傘を差し、ウォーキングに出発した。
散歩道はいつも違っていた。
何で二時間も帰らないのだろうと思っていたが、オレオの気の向くままに歩いていたからだった。
夜の田舎道。
人っ子1人通らない。
オレオは車の通る道路を越えた時点でリードを外され、自由気ままに走り回る。
それを僕らが付いていく。
オレオが帰りたいと思わない限り散歩は続く。だから時間がかかるのだ。
オレオが行く道は大抵決まっている。
と言っても、田舎の僕の家から三つしか道がないのだけれど。
北は小学校へ行く道。
同和地区の坂を越えた先が小学校。小学校は森に囲まれ、大きな水路と田んぼ、お墓がある。
西は海へと繋がる道。
田んぼと畑とでっかい民家、大学の野球練習場がある。
幾つかの山を越え、立ち並ぶ民宿の先が海水浴場だ。
東は二手に分かれていて、一方は中学校に行く道に繋がっている。
中学へはチャリで通う。森を二つも越えないといけないが、頑張れば8分で着けるのでもっぱら通学路として使っている。
もう一方は、平らだけど田んぼしかない畦道だ。土と砂利と石ばかりで道も細く、街灯は全くなくて家すらもない。
チャリを走らせたらパンクするからこの道は余り使えない。
オレオの今夜の気まぐれは、この田んぼの畦道に決定したようだ。
父の首に下げた灯りだけを頼りに、僕らは雨の中を進んでいく。
道を踏み外せば田んぼに真っ逆さま。僕は父の真後ろをトボトボと歩いていた。
碌な会話はない。
父との共通の趣味はないし、学校の話はしたくない。
母にはおおっぴらに話せる事も、父には話しにくい。
僕と父とオレオの水たまりを踏む音と、傘を打ち鳴らす雨の音。
真っ暗な闇に僕らは溶け込んでいる。
怖がりな僕は夜が嫌いだった。
夜の闇よりも濃い木の影や、遠くに見える民家の明かり、風と雨の不気味な音がこの世の者でない何者かに見えてしまって怖いのだ。
でも今更帰りたいなんて父には言えない。
僕は出来るだけ怖いものを見ないように足元だけを見て歩いていた。
まあ、傘であんまり前が見えなかったのもあるけどね。
「お前、部活はどうするんや」
唐突に父から聞かれた。
「えっと…」
僕は悩んでいた。
中学校では部活がある。
希望制で生徒全員が何らかの部活に所属しなければならない決まりはない。
実際に帰宅部が殆どだ。
僕の中学校は田舎で生徒数も少ないから、部活も僅かしかない。
運動部は野球、柔道、相撲、陸上、女子バスケ。文化部に至っては吹奏楽、放送しかない。
僕は何の取り柄もないけれど、昔から足の速さだけには自信があったから、陸上部に入りたいと思っていた。
部活に入れば退屈な日々を過ごさなくてもいいし、そこで友達も出来るかもしれない。
だけど部活を始めるとなるとお金がかかる。
ジャージだったりシューズやスパイクだったり。
それに夏休みも冬休みもなく部活三昧で、顧問の先生は学校一怖いと噂される人だったので、決めあぐねていたのだ。
「やりたいのなら親の金なんか気にするな」
「うん…」
「一生懸命やり遂げたら、それだけ自分に自信がつく。大会でいい成績を残そうとしなくていい。毎日走るだけで、違うもんだ」
「そうだね」
入部希望の提出期限は今週までだ。
僕は精一杯悩むことにした。
親がやってもいいと言うのだ。後は僕の心次第。
僕はほんの少しだけ前向きになれた気がした。
そうこうしている間にもオレオは真っ暗な田んぼの畦道をどんどん進んでいて、僕はオレオのうんこを暗闇から探すのに苦労していた。
雨が強くなる。
ただでさえ真っ暗なのに、ぬかるみに足が取られてしまう。
次第に父も億劫になってきたのか、遥か前を行くオレオを呼んだ。
ハッハッとこんな雨の中でもへっちゃらなオレオが葉っぱを咥えて僕らの方へ。
そこでぶるぶると身体を震わせるもんだから、僕は顔までびちょびちょになってしまう。
父がオレオにリードを付けて、帰るぞと一言呟いた。
畦道はちょうど真ん中を少し越えた辺り。
そのまま真っ直ぐ進むと県道にぶち当たるが、時間が時間なので車のライトすら確認できない。
散歩を始めて一時間ぐらいは経った。もう充分だろう。
僕らは元来た道を帰った。
父を先頭に、横にはオレオ。
すぐ後ろに僕。
行きは誰にも会わなかった。こんな夜中の雨の日に出歩いている方が変なのだ。
雨を受け止める傘が重い。
ドドドドと雨音がうるさい。
傘で前がよく見えないが、父の足を頼りに僕は歩く。
ふいに煙たい匂いが鼻をくすぐった。
父が煙草を吸い出したのかと思ったが、何も持っていない。
「霧が出てきたな。はよ帰ろう」
「うん」
傘を上げると薄っすらと白いモヤが霞がかっている。
ぶるりと身体が震えた。
何だか嫌な雰囲気だ。
ここだけ何かが纏わりついているような、重苦しい空気が充満している。
父も僕と同じ気持ちだったのか。少し早歩きになっている。
だけど足を踏み外して田んぼに落ちると元も子もない。
父は慎重に、オレオの道草を出来るだけ無視して家路を急いでいる。
――――ピチャン
その時だった。
僕らとオレオ以外の足音が、前から聴こえてきたのだ。
それからバシャバシャと僕らと同じ音。
田んぼの畦道の、でこぼことした地面の水たまりを踏み鳴らす音がする。
父の歩みが遅くなった。
オレオのリードを引っ張り、父側に寄せる。
畦道は細い。
大の大人と犬の3人も並べばきゅうきゅうだ。
父は前からやってくる人の邪魔にならないように、オレオを父の足の間に入れる。
僕は父の足元しか見えていないが、父に習って小道の脇に身を寄せた。
バシャバシャ
バシャバシャ
足音は遠慮がない。
ずんずん僕らに近付いてくる。
父のぶら下げた懐中電灯がその人を照らす。
傘でよく見えないが、僕からはその人の足だけが見えている。
黄色い長靴を履いていた。
大きくて、甚平のようなズボン。おじさんのようだ。
「こんばんは」
おじさんとすれ違う時に、父が声をかけた。
おじさんは少しだけ立ち止まり、会釈をしたようだった。
オレオは興味なさそうに欠伸をしている。
バシャバシャ
おじさんが僕の横を通る。
おじさんの差した傘が、僕の傘と当たってしまった。
煙たい匂いが強くなった。
この匂いはおじさんの臭いか。
日常的に煙草を吸う人は煙草の匂いが染み付いているものである。
壮年特有の男臭さと相まって、おじさんとすれ違った時はむわっとして目が痛いほどだった。
こんな時間に、こんなところで何してるんだろう。
自分の事は棚に上げてのんびりとそう思った。
おじさんの足音が遠ざかる。
おじさんの前方は田んぼしかない。民家は遠く、県道に出るにはあと数十分も歩かねばならないだろう。
この人も散歩が日課なのだろうか。
そう思った瞬間だった。
徐に父に手を掴まれる。
思い切り引っ張られ、僕はつんのめって父の腰にしがみつく。
父の傘と僕の傘が重なりあって、骨の部分が突き刺さりそうで危ない。僕は思わず傘を手放し直接雨に打たれる羽目になった。
父の胸元の懐中電灯が下から父の顔を照らす。
父は僕を引き寄せたまま、通り過ぎたおじさんの後ろ姿を凝視している。
僕を怒る時の怖い顔をしている。
なんだ?と思っておじさんの方を振り返ろうとしたが、強張った表情の父に止められる。
「おとう…」
「ユウ、絶対に振り返るなよ」
「え?」
「しぃっ!こんまま帰るけな」
そう言って父がオレオの首輪を掴んだ。オレオを促し、父が踵を翻し歩き出す。
僕は急に怖くなって、落ちた傘を拾おうと腰を屈めた。
バシャ。
―――ピチャリ。
「え!」
突然だった。
おじさんの足音が、水溜りを踏んでいた水音がぴったりと止んだのだ。
バシャバシャ…バシャバシャ!!
かと思ったら、物凄い勢いで僕らの方に戻ってきたのである。
バシャバシャバシャバシャ!!
おじさんの長靴が泥を踏み、水溜りを蹴散らしながら雨音よりも強い音が、後ろからどんどん迫ってくる。
「!!」
僕は固まってしまった。
僕らの不躾な視線がおじさんを怒らせて、文句を言いに戻ってきたのかと思ったのだ。
少し先を行っていた父は、僕の方を見ないまま僕の腕を鷲掴みにして、半ば駆け足で前にひたすら進む。
バシャバシャバシャバシャ!
しかしおじさんの方は完全に走っている。
足音はすぐ間近、ほんの僕の後ろ。
もう少しで追いつかれる!
僕らが一体何をしたのか。
それともこんな雨の夜中に子供連れで散歩する僕らを怖がらせる目的なのか?
よく言うじゃないか。
春はへんなひとが現れる季節だって。
バシャバシャ!
真後ろにおじさんの気配。
おじさんの走ってきた息遣いがはっきりと聞こえた時、父が思い切り振り返った。
パシッ―――
音が、瞬時に、消えた。
僕の真後ろにいるおじさんの気配も。
おじさんそのものが、消えた。
迫り来る勢いはたちまち立ち消え、足音もおじさんも、黄色い長靴も傘も何もかもが無くなって、僕は狼狽えた。
「ひゃあう」
変な声が出た。
父はおじさんの姿を探している。
首の懐中電灯を高く掲げ、周囲をキョロキョロと探っている。
だが、見つからない。
僕らの周りは田んぼしかない。
隠れる場所そのものが、ないのだ。
だだっ広い田んぼの真ん中の畦道に父と僕と犬のオレオの3人が、わけもなく取り残された。
父は持っていた傘を放り投げた。
そして、有無も言わさず僕の腕を強く握りしめて、一目散に駆け出した。
僕は意味が分からず言葉が出てこない。父は終始無言だ。
オレオだけが遊んでいると思い込んで、急に始まったかけっこにはしゃぐ。
そのまま駆けて駆けて畦道を抜けて田んぼを通り過ぎ、住宅街のバス道路に入っても尚僕らは走り、やっとのこさ現れた信号機の赤でようやく父の足が止まる。
上がりきった息を、ぜえぜえとやり過ごして足早に歩く事、十数分後。
僕らは我が家に辿り着いた。
玄関で僕らを出迎えた母は、傘も持たず、カッパの頭も被らず全身ずぶ濡れの僕らを見て驚いて、慌ててタオルを持ってきた。
父はまだ怒ったような顔をしていて、タオルを受け取ったその手が今度は母の手を掴む。
「どうしたと?」
訝しがる母を引っ張り、父はそのまま母と車で何処かに出かけてしまった。
オレオの身体を拭いておけと僕に言い残して。
あれは僕が中学に入ったばかりのころだった。
小学6年生の時にこの田舎町に引っ越してきた僕は、たった一年しかいなかった小学校に全く馴染めず、中途半端な都会からやってきた事もあってか文化や言葉遣い、慣習の違いから正直浮いていて、無視とは言わずとも誰からも話しかけてもらえず独りぼっちな存在だった。
それは中学生になっても続いていて、校区が広くなって他校の生徒が増えたにも関わらず、まるで腫れ物を扱うような接し方をされていた。
僕は元々誰かの後ろにくっ付いて日陰の側で遊ぶのを好む性格で、積極的に話したりするタイプでもなかったから、最初の友達つくりに大失敗したらもう後はどうしようもない。
入学したてでドキドキしたのは初日の一日のみ。
僕は中学校でも浮いていた。
そんな折、日増しに元気がなくなる僕を心配してか、父が頻繁に僕を連れ回していた時期がある。
父は背が高く、目力が強くて頭も切れる。
痩せているけど力がめちゃくちゃ強くて、声も太い。
とても厳しく、短気でよく怒り、すぐに手が出て殴られるのもしょっちゅう。本気でキレると足でぶっとばされる事もしばしばある。
だけど母には異様に優しくて、僕ら兄弟の前でも平気で嫌がる母にチュウしたり、休みの日は地図も持たずに長出のドライブをして家族サービスに事欠かなかったりと、怖い時と優しい時のギャップが激しかったりもする。
この世で一番尊敬する人を聞かれれば、僕は迷わず父の名を挙げる。
だけどそんな父を僕は慕っているのに、怖くて苦手な存在でもあった。
その頃の父は、会社の定期健診で糖尿病の要注意を受けていたらしく、ウォーキングがてらに夜中、犬のオレオの散歩をしていた。
毎夜毎夜どこに行くのか、一度出ると二時間くらいは戻ってこない。
帰る頃には僕ら子供達は全員夢の中なので知った事じゃなかったのだけど、僕はその長ったらしい散歩に誘われてしまったのである。
気難しい父と、大人しい僕。
父はどうにか僕の塞いだ心を解きほぐしたかったのだろう。
当時の親心なんか僕は知る由もなくて、眠い中散歩に連れ出されるのは良い迷惑だと思っていた。
しかし僕に決定権などあるはずもなく。
父が今夜付き合えと言われれば、僕はわかりましたと二つ返事で従うしかなかったのだ。
父が仕事から帰ってきて、夕ご飯を食べて少し休憩して22時。
「ユウ、準備は?」
言われるまでもなく全部済んでいる。
要領の良い父はもたつかれると怒る。
オレオに首輪をしてリードをつけて、父の首にぶら下げる懐中電灯とタオル、玄関にウォーキング用のシューズ。
「雨、凄いけど」
奇しくも今日は夕方から雨が降っていて、夜になるにつれて雨足が強くなり、今は土砂降りだ。
「母さん、カッパ出してくれ」
「こんな日に出なくてもいいやん」
「いや、行く。オレオもそのつもりになっとる」
四月になったばかり。
夜は寒く雨に打たれると尚更だろう。
だけど一度言い出したら聞かない頑固な父だ。
雨が降ろうが槍が降ろうが、父が行くと言えば行かざるを得ないのである。
中途半端な田舎で、街灯も疎ら。
雨で空は月も消え、一層淀んで暗い。
ひゅうと冷たい風が突き刺さる。
父と僕はカッパを着た上に傘を差し、ウォーキングに出発した。
散歩道はいつも違っていた。
何で二時間も帰らないのだろうと思っていたが、オレオの気の向くままに歩いていたからだった。
夜の田舎道。
人っ子1人通らない。
オレオは車の通る道路を越えた時点でリードを外され、自由気ままに走り回る。
それを僕らが付いていく。
オレオが帰りたいと思わない限り散歩は続く。だから時間がかかるのだ。
オレオが行く道は大抵決まっている。
と言っても、田舎の僕の家から三つしか道がないのだけれど。
北は小学校へ行く道。
同和地区の坂を越えた先が小学校。小学校は森に囲まれ、大きな水路と田んぼ、お墓がある。
西は海へと繋がる道。
田んぼと畑とでっかい民家、大学の野球練習場がある。
幾つかの山を越え、立ち並ぶ民宿の先が海水浴場だ。
東は二手に分かれていて、一方は中学校に行く道に繋がっている。
中学へはチャリで通う。森を二つも越えないといけないが、頑張れば8分で着けるのでもっぱら通学路として使っている。
もう一方は、平らだけど田んぼしかない畦道だ。土と砂利と石ばかりで道も細く、街灯は全くなくて家すらもない。
チャリを走らせたらパンクするからこの道は余り使えない。
オレオの今夜の気まぐれは、この田んぼの畦道に決定したようだ。
父の首に下げた灯りだけを頼りに、僕らは雨の中を進んでいく。
道を踏み外せば田んぼに真っ逆さま。僕は父の真後ろをトボトボと歩いていた。
碌な会話はない。
父との共通の趣味はないし、学校の話はしたくない。
母にはおおっぴらに話せる事も、父には話しにくい。
僕と父とオレオの水たまりを踏む音と、傘を打ち鳴らす雨の音。
真っ暗な闇に僕らは溶け込んでいる。
怖がりな僕は夜が嫌いだった。
夜の闇よりも濃い木の影や、遠くに見える民家の明かり、風と雨の不気味な音がこの世の者でない何者かに見えてしまって怖いのだ。
でも今更帰りたいなんて父には言えない。
僕は出来るだけ怖いものを見ないように足元だけを見て歩いていた。
まあ、傘であんまり前が見えなかったのもあるけどね。
「お前、部活はどうするんや」
唐突に父から聞かれた。
「えっと…」
僕は悩んでいた。
中学校では部活がある。
希望制で生徒全員が何らかの部活に所属しなければならない決まりはない。
実際に帰宅部が殆どだ。
僕の中学校は田舎で生徒数も少ないから、部活も僅かしかない。
運動部は野球、柔道、相撲、陸上、女子バスケ。文化部に至っては吹奏楽、放送しかない。
僕は何の取り柄もないけれど、昔から足の速さだけには自信があったから、陸上部に入りたいと思っていた。
部活に入れば退屈な日々を過ごさなくてもいいし、そこで友達も出来るかもしれない。
だけど部活を始めるとなるとお金がかかる。
ジャージだったりシューズやスパイクだったり。
それに夏休みも冬休みもなく部活三昧で、顧問の先生は学校一怖いと噂される人だったので、決めあぐねていたのだ。
「やりたいのなら親の金なんか気にするな」
「うん…」
「一生懸命やり遂げたら、それだけ自分に自信がつく。大会でいい成績を残そうとしなくていい。毎日走るだけで、違うもんだ」
「そうだね」
入部希望の提出期限は今週までだ。
僕は精一杯悩むことにした。
親がやってもいいと言うのだ。後は僕の心次第。
僕はほんの少しだけ前向きになれた気がした。
そうこうしている間にもオレオは真っ暗な田んぼの畦道をどんどん進んでいて、僕はオレオのうんこを暗闇から探すのに苦労していた。
雨が強くなる。
ただでさえ真っ暗なのに、ぬかるみに足が取られてしまう。
次第に父も億劫になってきたのか、遥か前を行くオレオを呼んだ。
ハッハッとこんな雨の中でもへっちゃらなオレオが葉っぱを咥えて僕らの方へ。
そこでぶるぶると身体を震わせるもんだから、僕は顔までびちょびちょになってしまう。
父がオレオにリードを付けて、帰るぞと一言呟いた。
畦道はちょうど真ん中を少し越えた辺り。
そのまま真っ直ぐ進むと県道にぶち当たるが、時間が時間なので車のライトすら確認できない。
散歩を始めて一時間ぐらいは経った。もう充分だろう。
僕らは元来た道を帰った。
父を先頭に、横にはオレオ。
すぐ後ろに僕。
行きは誰にも会わなかった。こんな夜中の雨の日に出歩いている方が変なのだ。
雨を受け止める傘が重い。
ドドドドと雨音がうるさい。
傘で前がよく見えないが、父の足を頼りに僕は歩く。
ふいに煙たい匂いが鼻をくすぐった。
父が煙草を吸い出したのかと思ったが、何も持っていない。
「霧が出てきたな。はよ帰ろう」
「うん」
傘を上げると薄っすらと白いモヤが霞がかっている。
ぶるりと身体が震えた。
何だか嫌な雰囲気だ。
ここだけ何かが纏わりついているような、重苦しい空気が充満している。
父も僕と同じ気持ちだったのか。少し早歩きになっている。
だけど足を踏み外して田んぼに落ちると元も子もない。
父は慎重に、オレオの道草を出来るだけ無視して家路を急いでいる。
――――ピチャン
その時だった。
僕らとオレオ以外の足音が、前から聴こえてきたのだ。
それからバシャバシャと僕らと同じ音。
田んぼの畦道の、でこぼことした地面の水たまりを踏み鳴らす音がする。
父の歩みが遅くなった。
オレオのリードを引っ張り、父側に寄せる。
畦道は細い。
大の大人と犬の3人も並べばきゅうきゅうだ。
父は前からやってくる人の邪魔にならないように、オレオを父の足の間に入れる。
僕は父の足元しか見えていないが、父に習って小道の脇に身を寄せた。
バシャバシャ
バシャバシャ
足音は遠慮がない。
ずんずん僕らに近付いてくる。
父のぶら下げた懐中電灯がその人を照らす。
傘でよく見えないが、僕からはその人の足だけが見えている。
黄色い長靴を履いていた。
大きくて、甚平のようなズボン。おじさんのようだ。
「こんばんは」
おじさんとすれ違う時に、父が声をかけた。
おじさんは少しだけ立ち止まり、会釈をしたようだった。
オレオは興味なさそうに欠伸をしている。
バシャバシャ
おじさんが僕の横を通る。
おじさんの差した傘が、僕の傘と当たってしまった。
煙たい匂いが強くなった。
この匂いはおじさんの臭いか。
日常的に煙草を吸う人は煙草の匂いが染み付いているものである。
壮年特有の男臭さと相まって、おじさんとすれ違った時はむわっとして目が痛いほどだった。
こんな時間に、こんなところで何してるんだろう。
自分の事は棚に上げてのんびりとそう思った。
おじさんの足音が遠ざかる。
おじさんの前方は田んぼしかない。民家は遠く、県道に出るにはあと数十分も歩かねばならないだろう。
この人も散歩が日課なのだろうか。
そう思った瞬間だった。
徐に父に手を掴まれる。
思い切り引っ張られ、僕はつんのめって父の腰にしがみつく。
父の傘と僕の傘が重なりあって、骨の部分が突き刺さりそうで危ない。僕は思わず傘を手放し直接雨に打たれる羽目になった。
父の胸元の懐中電灯が下から父の顔を照らす。
父は僕を引き寄せたまま、通り過ぎたおじさんの後ろ姿を凝視している。
僕を怒る時の怖い顔をしている。
なんだ?と思っておじさんの方を振り返ろうとしたが、強張った表情の父に止められる。
「おとう…」
「ユウ、絶対に振り返るなよ」
「え?」
「しぃっ!こんまま帰るけな」
そう言って父がオレオの首輪を掴んだ。オレオを促し、父が踵を翻し歩き出す。
僕は急に怖くなって、落ちた傘を拾おうと腰を屈めた。
バシャ。
―――ピチャリ。
「え!」
突然だった。
おじさんの足音が、水溜りを踏んでいた水音がぴったりと止んだのだ。
バシャバシャ…バシャバシャ!!
かと思ったら、物凄い勢いで僕らの方に戻ってきたのである。
バシャバシャバシャバシャ!!
おじさんの長靴が泥を踏み、水溜りを蹴散らしながら雨音よりも強い音が、後ろからどんどん迫ってくる。
「!!」
僕は固まってしまった。
僕らの不躾な視線がおじさんを怒らせて、文句を言いに戻ってきたのかと思ったのだ。
少し先を行っていた父は、僕の方を見ないまま僕の腕を鷲掴みにして、半ば駆け足で前にひたすら進む。
バシャバシャバシャバシャ!
しかしおじさんの方は完全に走っている。
足音はすぐ間近、ほんの僕の後ろ。
もう少しで追いつかれる!
僕らが一体何をしたのか。
それともこんな雨の夜中に子供連れで散歩する僕らを怖がらせる目的なのか?
よく言うじゃないか。
春はへんなひとが現れる季節だって。
バシャバシャ!
真後ろにおじさんの気配。
おじさんの走ってきた息遣いがはっきりと聞こえた時、父が思い切り振り返った。
パシッ―――
音が、瞬時に、消えた。
僕の真後ろにいるおじさんの気配も。
おじさんそのものが、消えた。
迫り来る勢いはたちまち立ち消え、足音もおじさんも、黄色い長靴も傘も何もかもが無くなって、僕は狼狽えた。
「ひゃあう」
変な声が出た。
父はおじさんの姿を探している。
首の懐中電灯を高く掲げ、周囲をキョロキョロと探っている。
だが、見つからない。
僕らの周りは田んぼしかない。
隠れる場所そのものが、ないのだ。
だだっ広い田んぼの真ん中の畦道に父と僕と犬のオレオの3人が、わけもなく取り残された。
父は持っていた傘を放り投げた。
そして、有無も言わさず僕の腕を強く握りしめて、一目散に駆け出した。
僕は意味が分からず言葉が出てこない。父は終始無言だ。
オレオだけが遊んでいると思い込んで、急に始まったかけっこにはしゃぐ。
そのまま駆けて駆けて畦道を抜けて田んぼを通り過ぎ、住宅街のバス道路に入っても尚僕らは走り、やっとのこさ現れた信号機の赤でようやく父の足が止まる。
上がりきった息を、ぜえぜえとやり過ごして足早に歩く事、十数分後。
僕らは我が家に辿り着いた。
玄関で僕らを出迎えた母は、傘も持たず、カッパの頭も被らず全身ずぶ濡れの僕らを見て驚いて、慌ててタオルを持ってきた。
父はまだ怒ったような顔をしていて、タオルを受け取ったその手が今度は母の手を掴む。
「どうしたと?」
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零細出版社「怪奇文庫」が発行するオカルト専門誌『現代怪異録』のコーナー「都市伝説レポート」。弊社の野々宮記者が全国各地の都市伝説をご紹介します。本コーナーに掲載される内容は、すべて事実に基づいた取材によるものです。しかしながら、その解釈や真偽の判断は、最終的に読者の皆様にゆだねられています。真実は時に、私たちの想像を超えるところにあるのかもしれません。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
『イージス艦長、インパール最前線へ。――牟田口廉也に転生した俺は、地獄の餓死作戦を「鉄壁の兵站要塞」に変える』
月神世一
SF
【あらすじ】
「補給がなければ、戦場に立つ資格すらない」
坂上真一(さかがみ しんいち)、50歳。
かつてイージス艦長として鉄壁の防空網を指揮し、現在は海上自衛隊で次世代艦の兵站システムを設計する男。
背中には若き日の過ちである「仁王」の刺青を隠し持ち、北辰一刀流の達人でもある彼は、ある日、勤務中に仮眠をとる。
目が覚めると、そこは湿気と熱気に満ちた1944年のビルマだった。
鏡に映っていたのは、小太りで口髭の男――歴史の教科書で見た、あの「牟田口廉也」。
しかも時期は、日本陸軍史上最悪の汚点とされる「インパール作戦」決行の直前。
部下たちは「必勝の精神論」を叫び、無謀な突撃を今か今かと待っている。
(……ふざけるな。俺に、部下を餓死させろと言うのか?)
現代の知識と、冷徹な計算、そして海自仕込みのロジスティクス能力。
すべてを駆使して、坂上(中身)は歴史への介入を開始する。
精神論を振りかざすふりをして上層部を欺き、現地改修で兵器を強化し、密かに撤退路を整備する。
これは、「史上最も無能な指揮官」の皮を被った「現代の有能な指揮官」が、確定した敗北の運命をねじ伏せ、数万の命を救うために戦う、逆転の戦記ドラマ。
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