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第一章 異世界召喚

6. 泣き出したら20秒。そんなに待てっこないのは分かってる ②

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「ほんわぁ!ほん…、ぐびゅ、ぐびゅ、ぐびゅ…」

 途端に静かになる部屋。
 どっと疲れ、その場に崩れ落ちる少女達。

 勢いよく吸い込まれていく白い液体が哺乳瓶の中で泡立っていく。

「ふひー…一時はどうなる事かと」

「たまりませんね。もう、一日中突っ込んでいたい気分ですよ」

「同感」

 赤ん坊はあれだけ泣き叫んでいたのに、顔が真っ赤なだけで涙は流れていない。
 開いてんのか瞑ってんのか分からない細い目が、ウロウロと視線を彷徨わせている。

 ミルクの先に吸い付く口は余りに小さく、それなのに力は強い。

「やっぱ、生まれたて…だよなぁ」

 シワシワでくちゃくちゃ
 アニメや漫画、テレビのCMで見かける赤ちゃんというものは、こいつよりかなり成長した姿なのだと知った。

 腕や足は折れそうに細く、頭はいびつでまとまりがない。
 ぎゅうっと硬く握りしめた指の先は、一丁前にほんの小さな小さな爪がくっついているのだ。

「これが、新生児ってやつか」

「そりゃそうでしょうよ。【再生】してまだ一週間よ」

 疲れた顔でピンク髪が言う。
 左手に哺乳瓶を持って、右手は赤ん坊の頬をぷにぷにしながら笑っている。
 ドキリとした。

「どうしてこうなっちゃったんだか。すっごくキツイけど、黙ってれば可愛いとも言えなくもないわね」

 眉を吊り上げて怒っているよりも、今みたいに笑うとめちゃくちゃ可愛いのに。

 思わず喉の先まで出かかって、意識して留める。

 いかんいかん。相手ピンクはどう見ても未成年。
 幾ら可愛いとて、大人として手を出すわけにゃあって…何を考えているんだ、俺は。

「ああ、マジでなんでこうなっちまったんだか…」

 この赤ん坊がミルクにがっついている約10分。重みを感じる腕は痛いが、その時間だけは平和である。
 せめてこの僅かなひと時だけでも、仮寝できたらどんなに幸せだろうか。
 俺は目を閉じ、ぐわんぐわんと睡眠を欲する脳と意識を融合させる。

 俺は遠のく意識の中、この怒涛の3日間を回想する。

 慌ただしく過ぎ去った3日間ではあったが、それを開始する直前、俺は何故かここにいたのだ。

 どうしてこうなった。

 まさにその台詞が一番相応しい。

 ああ、そうだ。
 眠りに落ちる前に、これだけは言っておかないとな。


 《本日の俺の子育て持論》
 へけへけ泣き出したら、まずは20秒待て。夜泣きじゃなく、『寝言』の可能性があるからだ。
 すぐ抱き上げたり、ミルクをやったりするのは逆効果ってのを覚えておくんだな。
 ま、それも時と場合によるし、個人差があるから絶対そうだとは言わねえけど。


 そして俺の意識は、完全に落ちた。
 赤子をその腕に、抱いたまま―――。



 俺の名前は、桐山光羽きりやまこうは
 年齢は今年で28。オッサンに片足突っ込んだアラサーの元サラリーマンだ。

 長年勤めていたブラック企業を辞め実家に戻り、今は気ままなニート生活をしている。
 といっても、辞めてまだ一週間だから、あまり実感がないのが現状だ。

 どれだけ寝坊しても誰も怒らないのにいつもの時間に起きてしまうし、この間なんかはスーツを着て家を出ようとしたのを母親に止められて辞めた事にようやく気付いたし、鳴らないはずのスマホをいつまでも睨みつけていたりと、染みついた社畜魂はなかなか消えてくれない。

 身も心も会社…いや、顧客に人生を捧げていた俺は、数字ノルマの為とはいえやり過ぎていた。
 初めは契約が取れただけ金が入るからウハウハだった。もっと顧客に寄り添えば、もっと契約が増えると気付いた時には奴隷に成り果てていた。
 それでも俺を慕ってくれる顧客の老人たちを見捨てられなくて、彼女も家族も捨てて仕事に没頭した俺はバカだったとしかいいようがない。

 当てつけのように会社に退職届を出して、目の前でそれを破られ続けてきたが、支店長の気が変わって万が一、それが受理されるのを心の何処かでいつも願っていた。

 だけどこの度。
 一昨年結婚した俺の姉がめでたく妊娠。
 初孫フィーバーに、実家は盛り上がった。めちゃくちゃ盛り上がった。
 そして俺も、自分の血が入った新たな生命の誕生に、心を揺り動かされたのだ。

 ねえちゃんは結婚して、もうすぐ子供が産まれる。
 どんどん前に進んでいるのに、俺はなんなのだ、と。
 来る日も来る日も老人の用事をこなす日々。ノルマを達成するのは分かり切っているから、金だけは溜まる一方、使う暇が全くない。
 ねえちゃんの出産祝いに高いベビーカーをプレゼントしようとしたら、そんなものより俺が赤ちゃんを抱いてくれた方が嬉しいと言ってくれた言葉に、俺は完全に目が覚めた。

 老人の御用達聞きで人生を終わらせたくない。
 俺だって前を向いて、俺だけのあったかい家族が欲しい。
 俺は、俺自身を取り戻したいのだと。

 それからは早かった。
 会社は体裁を気にするから、弁護士を入れたら一発だった。
 顧客にはいろんな人たちがいたから、最後にそのツテを頼ったら快く協力してくれたのも有難かった。
 老人たちは便利屋の俺がいなくなるのを寂しがっていたが、所詮は契約の為に繋がった仲であり、俺そのものを見てくれていた人は誰もいなかったというワケだ。
 だから完全に吹っ切れたってのもある。

 インセンティブのヤバイ額が入った数千万の貯金と、地味に記していた残業と休日出勤の手当て、6年間の退職金、そして失業保険が入った俺はそれこそ数年は働かなくともいいほど金を持っていたが、じっとしているのも落ち着かない性質なのか、早々に職安で資格を得る教室に入り、介護士としての勉強をしている最中である。

 でも、暇なものは暇なのだ。
 今までとにかく忙しすぎた。自分の時間など、皆無なほどに。

 だから手持ち無沙汰で実家をウロウロしていたら、里帰りで帰省していたねえちゃんから買い物を頼まれた。
 臨月を迎えたねえちゃんは、いつ陣痛が来てもおかしくない。
 腹が重くて碌に動けず、ひいひい言いながら頻尿で一時間ごとに便所に駆け込んでいるねえちゃんは、母親とまったりテレビを観ながら束の間の自堕落を味わっている。
 俺はそんなねえちゃんの為に、何かしてやりたいと常日頃思っていたから、二つ返事で買い出しに出掛けたのだ。

 ベッドやベビーカーなど、大きなものは買い揃えている。
 産まれても一週間は病院だからそんなに急がなくてもいいのだけど、暇を持て余しているよりはマシだ。
 ねえちゃんからメモを貰い、母の軽自動車で近くの子供用品専門店に向かった。
 そこでオムツやミルク、哺乳瓶や入浴セットなどを大量に買い込んで、リュックの中に詰め込んだ。

 可愛いうさぎの産着があったから、俺からの餞別としてプレゼント包装に手間取ったのが原因だったのか。

 その日、晴れの予報だったのにやけに曇っていたのを覚えている。
 遠くで雷が引っ切り無しに鳴っていた。

 だけどそこからの記憶が―――飛んでいる。
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