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全てを知って2
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大江に着くと、真夏は小さな宿の玄関でキャリーケースを預け、軽い身支度だけを調えて出かけた。宿の女将には「夕方には戻ります」とだけ伝え、軽く会釈をして外に出る。言葉の端々に余計な感情を乗せないように、ただ淡々と。けれどその背中には、旅立ちというより”決意”に近い気配が宿っていた。
登山道の入り口にたち、ひとつ深呼吸をする。真夏は一歩ずつ、かつての記憶の残る山の奥へと足を進めていった。緩やかな坂道を歩いて行くうちに、まるで誰かが山を静かに整えてくれたかのような穏やかさに包まれている。驚くほどに人の気配はない。鳥のさえずりと、足元の落ち葉を踏みしめる音、そして木々のざわめきだけがそこにある。
ふと、吹き抜ける風が肌を撫でていく。その瞬間、真夏の中に遠い間隔が蘇った。
――この風、知ってる!
思い出すのは、まだ霞若と呼ばれていた頃。夢の中で夜の山を銀髪の鬼と共に歩いたあの時間。風が肩にあたり、2人の間をする抜けていった。その体感が今、現実のものとして蘇ってきた。
さらに歩くうちに、沈香と丁子、龍脳の香りが風に乗ってきた気がした。思わず立ち止まり、鼻先をかすめるその香に意識を傾ける。木々の中にあるはずのない香り。けれど、それは忘れようにも忘れられないものだった。彼の袖口から、髪から、夜の静けさの中でそっと寄り添った時の空気から漂っていた香り。
――博嗣さま
その名を真夏は口には出さず、心の中で静かに呼んだ。呼んだ瞬間、木漏れ日がふわりと差し込んだ。枝葉の隙間からこぼれる光が足元を照らす。その光の中に、ふと、かつての博嗣の姿が浮かんだ気がした。
白く細い指、肩をも超える長く伸びた銀の髪。眼差しの奥にある、どこか儚い優しさ。寄り添って歩いたあの時、言葉は少なくても彼は常に傍にいてくれた。何も言わず、ただ傍にいる、という形で。あの頃、何も言わずに、ただ寄り添ってくれていたあの人が、どれほど心の支えだったか。
胸の奥にぽたり、と落ちるような感覚があった。それは痛みではなく、懐かしさと敬愛と、そして今、この山に再び自分が足を運んでいる理由そのものだった。
木の幹をそっと手でなぞると、ざらりとした感触と共に、過去の残響が指先から伝わってくる気がした。千年前と同じ風が吹き、同じ木々がここにあったと思うと、胸の奥がじんわりと温かくなる。風の中で、木の葉が舞った。木漏れ日が揺れ、鳥が一羽、枝を飛び移る。そのひとつひとつが、まるで時の層を捲っていくように感じられた。耳をすませば、どこかで水のせせらぎが聞こえる。目に見えないけれど、山の奥深くで流れる小さな流れ。かつて博嗣と歩いた夜に同じ音を聞いた気がする。静けさの中に微かな音が混じる度、体の奥で何かが目覚めるようだった。草の香り。湿った土の匂い。ひとつひとつが、心に沈んでいた層を丁寧に捲っていく。忘れたくなかったこと。忘れざるを得なかったこと。そのどちらもが、今ここで息を吹き返していた。自分が今、ここにいる意味を、真夏は確かめるようにもう一歩、山の奥へと進んでいった。
登山道の入り口にたち、ひとつ深呼吸をする。真夏は一歩ずつ、かつての記憶の残る山の奥へと足を進めていった。緩やかな坂道を歩いて行くうちに、まるで誰かが山を静かに整えてくれたかのような穏やかさに包まれている。驚くほどに人の気配はない。鳥のさえずりと、足元の落ち葉を踏みしめる音、そして木々のざわめきだけがそこにある。
ふと、吹き抜ける風が肌を撫でていく。その瞬間、真夏の中に遠い間隔が蘇った。
――この風、知ってる!
思い出すのは、まだ霞若と呼ばれていた頃。夢の中で夜の山を銀髪の鬼と共に歩いたあの時間。風が肩にあたり、2人の間をする抜けていった。その体感が今、現実のものとして蘇ってきた。
さらに歩くうちに、沈香と丁子、龍脳の香りが風に乗ってきた気がした。思わず立ち止まり、鼻先をかすめるその香に意識を傾ける。木々の中にあるはずのない香り。けれど、それは忘れようにも忘れられないものだった。彼の袖口から、髪から、夜の静けさの中でそっと寄り添った時の空気から漂っていた香り。
――博嗣さま
その名を真夏は口には出さず、心の中で静かに呼んだ。呼んだ瞬間、木漏れ日がふわりと差し込んだ。枝葉の隙間からこぼれる光が足元を照らす。その光の中に、ふと、かつての博嗣の姿が浮かんだ気がした。
白く細い指、肩をも超える長く伸びた銀の髪。眼差しの奥にある、どこか儚い優しさ。寄り添って歩いたあの時、言葉は少なくても彼は常に傍にいてくれた。何も言わず、ただ傍にいる、という形で。あの頃、何も言わずに、ただ寄り添ってくれていたあの人が、どれほど心の支えだったか。
胸の奥にぽたり、と落ちるような感覚があった。それは痛みではなく、懐かしさと敬愛と、そして今、この山に再び自分が足を運んでいる理由そのものだった。
木の幹をそっと手でなぞると、ざらりとした感触と共に、過去の残響が指先から伝わってくる気がした。千年前と同じ風が吹き、同じ木々がここにあったと思うと、胸の奥がじんわりと温かくなる。風の中で、木の葉が舞った。木漏れ日が揺れ、鳥が一羽、枝を飛び移る。そのひとつひとつが、まるで時の層を捲っていくように感じられた。耳をすませば、どこかで水のせせらぎが聞こえる。目に見えないけれど、山の奥深くで流れる小さな流れ。かつて博嗣と歩いた夜に同じ音を聞いた気がする。静けさの中に微かな音が混じる度、体の奥で何かが目覚めるようだった。草の香り。湿った土の匂い。ひとつひとつが、心に沈んでいた層を丁寧に捲っていく。忘れたくなかったこと。忘れざるを得なかったこと。そのどちらもが、今ここで息を吹き返していた。自分が今、ここにいる意味を、真夏は確かめるようにもう一歩、山の奥へと進んでいった。
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