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露呈
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「ぅぅ‥」
普段通りにいつも通っていた自身の教室へと向かったテツであったが内股で両太腿を擦り合わせて頬を赤く染めて躊躇いを見せている。
「どうしよう‥」
教室の前で挙動不審に視線を周囲に巡らせるテツ。
不安に揺れる瞳を涙で潤ませる彼に声をかける男がいた。
元々の顔が女性寄りの可愛らしい美貌を持つ魅力的な彼に雄が声をかけてくるのは当然のことと言えた。
「どうした?自分の教室がわからないのか?」
彫りの深い顔立ちで切長の瞳が特徴的な端正な顔立ちの壮年の男がテツを見下ろす。
「い、いえ‥ただ中に入りにくくて‥」
小柄なテツの体躯よりも遥かに長身な男の肉体は衣服の上からでもわかるほどに隆起した筋肉で覆われていて迫力がある。
岩男のように大柄なを誇示するかのように堂々とした立ち振る舞いは気弱なテツを気圧した。
「ふむ‥俺はこの教室の担当のグラウだ。不安なら一緒に行くとしよう。ほらこちらにきたまえ」
流れるような動作でさりげなくテツの手をとるグラウ。
「あ‥♡」
男の分厚くてゴツゴツとした手の平の感触を感じて自然と甘い声が漏れるテツ。
自身の父親であるアルフを想起させるその手を思わず握りしめてしまう彼である。
「はは‥そこまで緊張することはないさ。新しく入ってきた新入生だろう?もしもうまく馴染むことができなければ是非相談してほしい」
己に対して縋るような視線を向けてくるテツの不安に揺れる瞳を見て庇護欲を刺激されるグラウ。
自然とテツの魅惑的な肉体に視線が釘付けになってしまう彼である。
「‥先生?」
食い入るように自身の身体を見つめてくるグラウに怪訝な表情を向けるテツ。
可愛らしく小首を傾げて見上げてくる彼に姿に我に帰るグラウ。
「あ、ああ‥先に教室の中に入るから君は俺が呼んだら来てくれ」
己の顔を覗き込んだ際に柔らかく弾んだテツの豊満な乳肉から視線を逸らすグラウ。
きめ細やかな初雪の如き穢れない肌を持つテツはあまりに魅力的な少女に思えた。
グラウは己の邪念を振り払うべく教室内に足を踏み入れた。
「おはよう!今日はみんなに紹介したい子がいるんだ。これから一緒に学んでいく仲間として仲良くしてやってほしい。‥入ってきてくれ!」
快活な挨拶と同時早速テツの紹介をするべく声を張り上げるグラウ。
広い教室内によく響く声は廊下にいるテツにまで容易に届かせた。
「は、はい!」
力強い男の命令に対して上擦った声を上げながら従順に従ってしまうテツ。
恐る恐る教室に歩みを進める彼を無数の瞳が捉えた。
誰も彼もが見知った人物であるにも関わらず相変わらずの緊張感がテツを襲った。
此処に集められたのは村内でも有数の名家の後継である子息や子女のばかりである。
しかしそれは権力だけにものを言わせて入学を果たしただけでなくその地位に見合うほどの実力も有している。
唯一の例外としてアルフの息子という肩書きを用いて入学したテツは肩身が狭い思いをしていた。
正に親の七光を体現していた彼は軽蔑の眼差しを向けられることも少なくなかった。
「‥ぅ」
圧倒的なまでの輝かしい才能の持ち主である彼等が自身に注目していることに肩を震わせる。
以前までは憎悪を感じていた筈なのに身体が女体へと近づいているせいなのか現在では恐怖さえ感じた。
「さぁ‥自己紹介をしてくれ」
教室内の圧迫感に圧倒されて眦に涙さえ浮かばせているテツの姿に気づいていないグラウは教壇の前へと促した。
「え‥は、はい!」
緊張間の籠る上擦った声を上げて人々の前に立つテツ。
正面を見据える彼の視界に映った光景は劇的だった。
男は驚愕に目を見開く者が大半だったが嫉妬の感情を瞳に垣間みせる少女達。
それも当然のこと彼等はテツが教室に足を踏み入れた瞬間に正体を看破していた。
目の前の美しい少女が以前まで男であったテツという少年であることに。
「お前‥まさか‥テツなのか?」
後ろから驚愕を露わにしたグラウの声が聞こえてきた。
「なッなんで‥」
自身の正体が見破られたことに驚愕の声を上げるテツ。
「その魔力はあいつしかいない。その反応‥お前‥本当にテツなのか?」
動揺を露わにするテツの姿に確信を得るグラウ。
「‥魔力‥‥」
教室に入る緊張感に耐えることができなかったテツは無意識に身体から微弱な魔力を放ってしまっていた。
それを正確に感知されたことにより正体が露呈してしまったのだ。
「うそ‥そんなので‥」
衝撃に茫然自失とした様子で立ち尽くすテツ。
鎮まり帰った教室に押しつぶされるような感覚に陥った彼は襲いくる恐怖に身を震わせる。
しかしそんな誰もが雰囲気に呑まれて言葉を発することができない中で唯一声を上げる者が居た。
「彼‥いや‥彼女がテツであることは間違いない。朝に登校している時は姿が変わっていて驚いたけど魔力ですぐにわかったよ」
押し黙る周囲の空気になんら臆することなく堂々とした態度でテツと視線を合わせるフウガ。
「おお‥そうだよな。この魔力は間違いなくテツのものだ。しかし‥その姿は一体どういうことなんだ?よかったら説明してくれると助かる」
沈黙を破ったフウガの言葉に頷いて肯定を示すグラウは疑問の眼差しをテツに向けた。
「え‥あの‥その‥」
自身の正体が容易く露呈してしまったことへの衝撃から未だ立ち直ることができていない彼は困惑した表情で視線を彷徨わせた。
「先生‥どうやらテツ自身もどのように説明したらいいかわかっていないようです。そうだろう?」
百合の花のように儚げな印象を受ける真っ白な肌の少女を前にしてフウガは内心で驚きを露わにした。
このような事態を想定していたのは確かだがテツがここまで美しい少女の姿に変貌を遂げるのは予想外であった。
「は、はいッ」
自身をこのような状況に陥れたのはフウガであることは父であるアルフから聞き及んでいた。
しかし圧倒的な強者である雄を目の前にすると抱いていた反抗心がみるみるうちに消失していくのがわかった。
テツは何度も首を縦に振ると壇上のグラウに縋るような眼差しを向けた。
「そ、そうなのか‥。まぁ本当にテツであるのなら自己紹介をする必要もないな。とりあえずいつもの席についてくれ」
未だ腑に落ちない様子を見せながらも疑問をなんとか飲み下してテツに着席を促すグラウ。
「わかりました‥」
初日から正体が教室中に知れ渡ってしまったテツは気落ちした様子で顔を地面へと俯かせながら自身の席に腰を落ち着けた。
「あー‥騒がせてしまってすまない。では気を取り直して朝礼を開始する」
多少の落ち着きを取り戻したグラウの力強い声が響く。
指導者としての才覚が一流な彼の言葉が生徒たちの混乱を収めた。
「今日は特に連絡事項はないがテツは俺のところに来てくれ。以上だ」
一瞬で話を切り上げてテツに視線を向けて教室の外へと促すグラウ。
「はい」
素直に立ち上がって教室の外へと向かうテツ。
その際に男子生徒の横を通りかかった彼の耳に親しげな言葉が届く。
「お前本当にテツなのかよ‥。本当に変わったな‥」
テツに声をかけたのは短髪に髪を刈り上げた大柄な男子生徒だった。
グラウに負けず劣らずの強面をしている男に小声で答えるテツ。
「そう‥だよ‥マサ‥また後でね」
話しかけてきたのは美しい顔立ちのフウガとは対照的な粗野な印象を受ける男は与えられた返答に対して躊躇いがちながらも頷いた。
悪友と称することのできる間柄であったテツに軽い気持ちで話しかけたマサは僅かに動揺を露わにした。
以前のテツとは様変わりしたおよそ別人といってもいい可憐な容姿の息を呑む彼である。
教室の足を踏み入れた時に人目見た瞬間から視線が釘付けになった圧倒的なテツの美貌に魅了されたマサは正体を知って尚己の胸の内で湧き上がる激情を感じていた。
「おう‥」
動揺を押し隠すかのように一言ぶっきらぼうに返事を返したマサ。
彼としては珍しい大人しい態度を意外に思ったテツは笑みを浮かべた。
普段は適当に返される返事が今日は何故か重みがあるように感じられたのだ。
「ッ‥」
テツの何気なく浮かべた笑みはその圧倒的な美貌も相まって教室中の生徒たちを魅了した。
無論マサとて例外ではない。
幼い容姿に浮かべられた儚げで可憐な微笑を前にして誰もが感嘆のため息を零す。
現在のテツには男であった面影など一欠片すらも残っていなかった。
「テツさん‥」
誰もがテツに目を奪われる中で例外であるユキが悲しげに声を震わせる。
「君が気に病むことではないよ。彼がああなることは村全体の決定でもあった」
彼女の隣の席で優しげな微笑を浮かべているフウガ。
彼はユキの肩に優しく手を置いてゆるゆると首を左右に振った。
「‥でも‥」
このように残酷な目に遭ったテツに憐憫に眼差しを向けるユキはただひたすらに罪悪感を感じていた。
もしも自身がテツのことをもっと献身的に支えることができたのならば違う未来があったのではないか。
彼女は後悔の念に美しい顔を歪めて俯いた。
「テツには鬼人族の男としての力がなかった。これは誰のせいでもない。彼は努力しているのは俺だって知っていたさ。だから追放だけは何とか免れることができた」
フウガは鎮痛な面持ちでユキに語ってみせる。
事実として彼はテツに対して負い目を感じていた。
テツが幼馴染であるユキに対して想いを寄せていることをフウガは理解していた。
しかし己の雄としての本能がユキを奪うことに対して肯定を示していた。
故に未だ完全ではないにしろ手に入れた。
ユキの肉体は既にフウガの手中にあるも同然だ。
そして後一押しでその心も手に入れることができるだろう。
「大丈夫だ。俺も彼のことは見守っていくつもりだ」
そっとユキの華奢な肩を己の方へと抱き寄せるフウガ。
「‥はい‥フウガ様よろしくお願いします」
囁くような甘い媚びた声で懇願するユキ。
フウガはユキの艶やかな光沢を放つ黒髪を優しく撫でた。
「ふふ‥相変わらずね」
フウガの逞しい筋肉に覆われた腕の中で心地よさを感じていたユキに対して不意にに声が投げかけられた。
「ユメさん‥」
揶揄うような声に我に帰ったユキは苦しげに瞳を歪ませた。
「私は‥ただ‥」
反論するべく口を開いたものの自身の現在の姿を顧みて口を噤むユキ。
「もう~照れなくても良いのよ。フウガ様に贔屓にしてもらえるなんてとても名誉なことなんだから誇って良いのに」
羨望の眼差しを向けてくるユメに対して辟易とした感情を覚えたユキは力な左右にかぶりを振った。
「私には力がないんです。だからこうやって無様にフウガ様に縋らなくては満足に学校生活さえ送ることができないのです」
無力な自身に対して不甲斐ない思いを抱い憂いを帯びた瞳を伏せるユキ。
「ふーん‥ユキさんって偉いのね」
側から見れば普段からお高くとまっているように見えるユキの姿はユメによって気に触る。
切長の透き通る宝石の如き瞳から綺麗に生え揃う長いまつ毛をを伏せて嘆く姿はとても絵になっている。
類まれなるユキの美貌に対して羨望の眼差しを送る生徒は少なくない。
ユメはフウガから無償の愛を受けるユキが羨ましくて仕方がなかった。
しかしアルフの手前もあって強気に出ることのできないユメ。
妬みの言葉を吐きたいが四六時中フウガはユキに張り付いているが故に機会はない。
であれば好意的に接して仲を深めようという目論見である。
「いえ‥そんな‥だってテツさんがああなったのも私の力不足なんです」
顔をあげるユキの一筋の翳りを帯びた儚い美貌露わになった。
「そんなことはないさ。それに追放されたわけではないのだからそこまで悲観的になることはない」
落ち着いた声音で諭すようにユキの瞳を正面から見据えて言い聞かせるフウガ。
「ッそれは‥あなたは本気で言っているんですか?」
慰めのような言葉を受けて険のある眼差しをフウガに向けるユキ。
「ちょっとユキさん‥」
ユキの尋常ならざる剣幕に驚いて声を上げるユメ。
「あ‥申し訳ありませんフウガ様‥」
フウガに対して無礼を働くなど本来であれば許されることではない。
ユキもフウガという自身よりも圧倒的な強者である雄に勝つことなど不可能であることを本能で理解していた。
しかし同時に鬼人族の男が女になってしまうということがどれだけ屈辱であるかを生前男だったユキは身を持って経験していた。
故に何にも根拠もない慰めの言葉を吐いたフウガに対して非難の消えをあげたのは致し方ないことといえよう。
「いや大丈夫だ。俺にも気をつける」
答えるフウガの表情には笑顔が浮かんでいたが強い意志の宿った瞳はユキを捉えて離さない。
「そういえばあのテツがまさか女の子になるなんて思わなかったわぁ」
話題に上がったテツの名前に反応してユメが無神経に言い放った。
「確か‥ユメはテツのこと嫌っていたよね」
フウガの柔らかな声での指摘にユメは何の躊躇いもなく頷いて見せた。
「ええ‥だって彼ってば男なのに弱いんですもの」
上品に口元を手で覆い隠しながらも嘲笑した表情は隠し切れていない。
「それがまさか女になってしまうなんてどういうことなのかしら‥」
しかし次の瞬間には忌々しげに端正な顔を歪ませるユメ。
「流石に言い過ぎだ。テツの努力を否定するのはどうかと思うよ」
テツへの侮辱の言葉によって次第に顔を青ざめさせていくユキの姿を見てとったフウガは厳しい声で言い放つ。
「そ、そうですね言い過ぎたわ‥ごめんなさい」
実力はさることなが人望も高いフウガの不興を買うのを恐れたユメは媚びた笑顔を浮かべて頭を下げた。
「この話は終わりにしよう‥。テツが職員室から戻ってきたら本人に直接聞けば良いさ」
これ以上この話題を掘り返すことがないように釘を刺すフウガ。
ユキは無論のことユメも従順に頷いた。
「あいつ本当にテツなんだよな」
しかし噂というのは本人達が望んでいなくても耳に入ってくるものである。
特に周囲の男子生徒がテツの肉体の変わりように驚いているのが窺える。
女生徒は話題にあげるのも億劫といった様子で顔を顰めている者が大多数だ。
その原因はテツの容姿が圧倒的な美貌を誇っているからに他ならない。
彼女達は自分達にはない魔性とも称することのできるテツの美しさを羨んでいるのだ。
豊満な胸に反して反則的なまでにくびれた腰。
歩くごとに上下に揺れ動くほどに大きな乳肉は男たちの視線を惹きつけて止まない。
魅惑的な曲線を描く腰が揺れる度に上向いたむっちりとした尻肉が淫靡に形を変える。
剥き出しの純白で穢れのない張りのある太腿は少女達も羨望の眼差しを向ける他にない。
特に手入れをしているわけでもないのにテツの身体は一級品だった。
「ああ‥魔力は完全に同じだった。間違いねぇよ」
男たちは特に嫉妬心を抱くことはなかったが純粋に見惚れていた。
男であったことを考慮しても現在のテツは息を呑むほど魅力的なのは間違いない。
彼等は周囲の反応を観察して己がどのように立ち回ればテツと接点を持てるかを思案した。
そして導き出した結論は至って単純にして確実な手法。
「なあマサ。お前ってテツと仲良かったよな?」
男達の中でも特に雄として優秀な者たちがマサの周囲に集まってきた。
彼等はの瞳は皆一様に強い意志の光を垣間見せていた。
「‥俺とあいつはそこまで仲は良くねえよ。ただ席が近かったから話してただけだ」
素気なく顔を逸らして言い切るマサ。
大仰にも組まれた長い脚が素行の悪さを露わにしている。
筋肉に覆われた大柄な体躯を威圧するかのように後ろに逸らす彼の姿に形の良い眉を歪める男。
「お前‥わかるだろう?俺たちは何もあいつを売れっていってるわけじゃあねえ。ここは平等にいこうぜ」
口元に笑みを浮かべてはいるが有無を言わせぬ迫力を醸し出す男たち。
屈強な戦士に取り囲まれているマサだがその表情はどこ吹く風といった様子でまるで意に解すことはなかった。
「くだらなねえ。なんだ?テツが急に可愛くなったからって発情してんじゃねえよ。猿かよお前ら」
鋭い眼光で周囲に視線を走らせるマサは口の端を吊り上げて嘲笑した。
酷い侮辱の言葉を受けた男達は額に青筋を立てていきりたつ。
ある者は目を血走らせてマサの顔を至近距離から覗き込み。
忍耐力が強い者は拳を血が滴るほどに握りしめながらも笑顔を崩さない。
それほどにテツの情報は彼等にとって喉から手が出るほどに欲しい代物だった。
「まあ‥そういうなよ。俺はただあいつがこの先うまく生活できるように手助けしてやろうと思って─」
軽薄な笑みを顔に貼り付けた男の台詞は突如として立ち上がったマサによって遮られた。
否─立ち上がると同時に誰の視覚にも捉えることのできない神速で放たれた拳での打撃が軽薄男の顎を真下から貫いたのだ。
見事な曲線を描いて吹き飛んだ男は教室の壁に激突して意識を失った。
衝突と同時に破壊された石壁の破片がユキに向かって飛んでいく。
瞬間─驚愕の表情を浮かべて硬直したままのユキの傍にいたフウガの身体が揺れた。
常人では捉えることにできない人外染みた速度で迫り来る石の破片を蹴り落とす。
人外の力を持って放たれた下段蹴りの余波が室内の空気を震わせる。
「‥もしもユキに怪我でも負わせてしまったらどう責任をとるつもりだ?」
低い声で問いかけるフウガの冷徹な眼光がマサを射抜く。
「お前がいる限りそんなことは起きないだろうな」
しかしフウガを正面から見据えて対峙しているマサの表情には一切の恐怖の感情を窺うことができない。
「もしも次にこのようなことがあったのなら然るべき処置をしなければならない」
一切臆した様子を見せないマサに有無を言わせぬ尋常ならざるほどの重圧を込めた声で言い放つフウガ。
「は‥どんなことか興味があるな是非教えてくれよ」
口元を歪めて挑発的な言葉を返すマサだったがフウガは既にユキに視線を移して笑みを浮かべていた。
「大丈夫か?どこにも怪我はないか?」
マサと接する態度とは一転貴公子然とした優しい微笑をたたえているユキに話しかけるフウガ。
「‥」
自然と会話を放り出されたマサは憮然とした表情で窓から外を眺めている。
「え、ええ‥ありがとうございます。フウガ様」
未だに目の前で起きた事態をうまく飲み込むことができないユキは困惑気味に頭を下げた。
「いや‥当然のことをしたまでだ。‥ユメさんも大丈夫か?」
ユキの背中に身を隠して盾にしているユメに対して嫌味なく問いかけるフウガ。
「え、?ええ大丈夫よ」
自らの行いを鑑みて我に帰ったユメは慌ててユキの背中に置いた手を離した。
縋りついていた身体を流れるような動作で自席をへと移動させる彼女は何事なかったかのように振る舞った。
「それよりフウガ様。どうして彼を止めなかったのでしょうか?あなたなら容易なことのように思えるのだけれど」
先程までの恐怖に彩られていた表情とは一変毅然とした面持ちでフウガに問いかけるユメ。
「‥それは俺を買い被りすぎだ。彼はとても強い。とてもではないけれどそんな簡単の御すことはできない」
その言葉が明らかに謙遜であることはユキは理解していた。
自身の父である龍鬼と無手とはいえ引き分けたフウガが一生徒であるマサと戦って敗れるとはとても思えない。
「そういうこと‥ですか」
しかしその事実を知り得ないユメにとってはマサの人外染みた膂力を見せつけられた手前話を鵜呑みにする他なかった。
「ああ。‥それよりも授業の準備をしなくていいのか?一時限は確か儀式の練習だったが‥」
腑に落ちない様子で頷いたユメから視線をユキに移したフウガは時間割の内容を告げる。
「あッ‥そうでした。私そろそろ着替えなくてはいけません。ユメさんまた後で‥」
はっとした表情を浮かべて立ち上がったユキ授業の用意をするべく教室を出る。
「ユメさん。俺もやることがあるから先に儀式場に向かうことにするよ」
爽やかな笑みで一言言い残したフウガは颯爽とした足取りでユキの後に続いた。
「‥」
取り残されたユメの視線は誰にも介抱されることなく未だに意識を失っているマサに殴り飛ばされた男にを見つめていた。
「やっぱり‥なんとかしてフウガ様に取り入らないと‥」
思い詰めた表情で一人呟く彼女の姿を気にかける者は誰一人としていなかった。
普段通りにいつも通っていた自身の教室へと向かったテツであったが内股で両太腿を擦り合わせて頬を赤く染めて躊躇いを見せている。
「どうしよう‥」
教室の前で挙動不審に視線を周囲に巡らせるテツ。
不安に揺れる瞳を涙で潤ませる彼に声をかける男がいた。
元々の顔が女性寄りの可愛らしい美貌を持つ魅力的な彼に雄が声をかけてくるのは当然のことと言えた。
「どうした?自分の教室がわからないのか?」
彫りの深い顔立ちで切長の瞳が特徴的な端正な顔立ちの壮年の男がテツを見下ろす。
「い、いえ‥ただ中に入りにくくて‥」
小柄なテツの体躯よりも遥かに長身な男の肉体は衣服の上からでもわかるほどに隆起した筋肉で覆われていて迫力がある。
岩男のように大柄なを誇示するかのように堂々とした立ち振る舞いは気弱なテツを気圧した。
「ふむ‥俺はこの教室の担当のグラウだ。不安なら一緒に行くとしよう。ほらこちらにきたまえ」
流れるような動作でさりげなくテツの手をとるグラウ。
「あ‥♡」
男の分厚くてゴツゴツとした手の平の感触を感じて自然と甘い声が漏れるテツ。
自身の父親であるアルフを想起させるその手を思わず握りしめてしまう彼である。
「はは‥そこまで緊張することはないさ。新しく入ってきた新入生だろう?もしもうまく馴染むことができなければ是非相談してほしい」
己に対して縋るような視線を向けてくるテツの不安に揺れる瞳を見て庇護欲を刺激されるグラウ。
自然とテツの魅惑的な肉体に視線が釘付けになってしまう彼である。
「‥先生?」
食い入るように自身の身体を見つめてくるグラウに怪訝な表情を向けるテツ。
可愛らしく小首を傾げて見上げてくる彼に姿に我に帰るグラウ。
「あ、ああ‥先に教室の中に入るから君は俺が呼んだら来てくれ」
己の顔を覗き込んだ際に柔らかく弾んだテツの豊満な乳肉から視線を逸らすグラウ。
きめ細やかな初雪の如き穢れない肌を持つテツはあまりに魅力的な少女に思えた。
グラウは己の邪念を振り払うべく教室内に足を踏み入れた。
「おはよう!今日はみんなに紹介したい子がいるんだ。これから一緒に学んでいく仲間として仲良くしてやってほしい。‥入ってきてくれ!」
快活な挨拶と同時早速テツの紹介をするべく声を張り上げるグラウ。
広い教室内によく響く声は廊下にいるテツにまで容易に届かせた。
「は、はい!」
力強い男の命令に対して上擦った声を上げながら従順に従ってしまうテツ。
恐る恐る教室に歩みを進める彼を無数の瞳が捉えた。
誰も彼もが見知った人物であるにも関わらず相変わらずの緊張感がテツを襲った。
此処に集められたのは村内でも有数の名家の後継である子息や子女のばかりである。
しかしそれは権力だけにものを言わせて入学を果たしただけでなくその地位に見合うほどの実力も有している。
唯一の例外としてアルフの息子という肩書きを用いて入学したテツは肩身が狭い思いをしていた。
正に親の七光を体現していた彼は軽蔑の眼差しを向けられることも少なくなかった。
「‥ぅ」
圧倒的なまでの輝かしい才能の持ち主である彼等が自身に注目していることに肩を震わせる。
以前までは憎悪を感じていた筈なのに身体が女体へと近づいているせいなのか現在では恐怖さえ感じた。
「さぁ‥自己紹介をしてくれ」
教室内の圧迫感に圧倒されて眦に涙さえ浮かばせているテツの姿に気づいていないグラウは教壇の前へと促した。
「え‥は、はい!」
緊張間の籠る上擦った声を上げて人々の前に立つテツ。
正面を見据える彼の視界に映った光景は劇的だった。
男は驚愕に目を見開く者が大半だったが嫉妬の感情を瞳に垣間みせる少女達。
それも当然のこと彼等はテツが教室に足を踏み入れた瞬間に正体を看破していた。
目の前の美しい少女が以前まで男であったテツという少年であることに。
「お前‥まさか‥テツなのか?」
後ろから驚愕を露わにしたグラウの声が聞こえてきた。
「なッなんで‥」
自身の正体が見破られたことに驚愕の声を上げるテツ。
「その魔力はあいつしかいない。その反応‥お前‥本当にテツなのか?」
動揺を露わにするテツの姿に確信を得るグラウ。
「‥魔力‥‥」
教室に入る緊張感に耐えることができなかったテツは無意識に身体から微弱な魔力を放ってしまっていた。
それを正確に感知されたことにより正体が露呈してしまったのだ。
「うそ‥そんなので‥」
衝撃に茫然自失とした様子で立ち尽くすテツ。
鎮まり帰った教室に押しつぶされるような感覚に陥った彼は襲いくる恐怖に身を震わせる。
しかしそんな誰もが雰囲気に呑まれて言葉を発することができない中で唯一声を上げる者が居た。
「彼‥いや‥彼女がテツであることは間違いない。朝に登校している時は姿が変わっていて驚いたけど魔力ですぐにわかったよ」
押し黙る周囲の空気になんら臆することなく堂々とした態度でテツと視線を合わせるフウガ。
「おお‥そうだよな。この魔力は間違いなくテツのものだ。しかし‥その姿は一体どういうことなんだ?よかったら説明してくれると助かる」
沈黙を破ったフウガの言葉に頷いて肯定を示すグラウは疑問の眼差しをテツに向けた。
「え‥あの‥その‥」
自身の正体が容易く露呈してしまったことへの衝撃から未だ立ち直ることができていない彼は困惑した表情で視線を彷徨わせた。
「先生‥どうやらテツ自身もどのように説明したらいいかわかっていないようです。そうだろう?」
百合の花のように儚げな印象を受ける真っ白な肌の少女を前にしてフウガは内心で驚きを露わにした。
このような事態を想定していたのは確かだがテツがここまで美しい少女の姿に変貌を遂げるのは予想外であった。
「は、はいッ」
自身をこのような状況に陥れたのはフウガであることは父であるアルフから聞き及んでいた。
しかし圧倒的な強者である雄を目の前にすると抱いていた反抗心がみるみるうちに消失していくのがわかった。
テツは何度も首を縦に振ると壇上のグラウに縋るような眼差しを向けた。
「そ、そうなのか‥。まぁ本当にテツであるのなら自己紹介をする必要もないな。とりあえずいつもの席についてくれ」
未だ腑に落ちない様子を見せながらも疑問をなんとか飲み下してテツに着席を促すグラウ。
「わかりました‥」
初日から正体が教室中に知れ渡ってしまったテツは気落ちした様子で顔を地面へと俯かせながら自身の席に腰を落ち着けた。
「あー‥騒がせてしまってすまない。では気を取り直して朝礼を開始する」
多少の落ち着きを取り戻したグラウの力強い声が響く。
指導者としての才覚が一流な彼の言葉が生徒たちの混乱を収めた。
「今日は特に連絡事項はないがテツは俺のところに来てくれ。以上だ」
一瞬で話を切り上げてテツに視線を向けて教室の外へと促すグラウ。
「はい」
素直に立ち上がって教室の外へと向かうテツ。
その際に男子生徒の横を通りかかった彼の耳に親しげな言葉が届く。
「お前本当にテツなのかよ‥。本当に変わったな‥」
テツに声をかけたのは短髪に髪を刈り上げた大柄な男子生徒だった。
グラウに負けず劣らずの強面をしている男に小声で答えるテツ。
「そう‥だよ‥マサ‥また後でね」
話しかけてきたのは美しい顔立ちのフウガとは対照的な粗野な印象を受ける男は与えられた返答に対して躊躇いがちながらも頷いた。
悪友と称することのできる間柄であったテツに軽い気持ちで話しかけたマサは僅かに動揺を露わにした。
以前のテツとは様変わりしたおよそ別人といってもいい可憐な容姿の息を呑む彼である。
教室の足を踏み入れた時に人目見た瞬間から視線が釘付けになった圧倒的なテツの美貌に魅了されたマサは正体を知って尚己の胸の内で湧き上がる激情を感じていた。
「おう‥」
動揺を押し隠すかのように一言ぶっきらぼうに返事を返したマサ。
彼としては珍しい大人しい態度を意外に思ったテツは笑みを浮かべた。
普段は適当に返される返事が今日は何故か重みがあるように感じられたのだ。
「ッ‥」
テツの何気なく浮かべた笑みはその圧倒的な美貌も相まって教室中の生徒たちを魅了した。
無論マサとて例外ではない。
幼い容姿に浮かべられた儚げで可憐な微笑を前にして誰もが感嘆のため息を零す。
現在のテツには男であった面影など一欠片すらも残っていなかった。
「テツさん‥」
誰もがテツに目を奪われる中で例外であるユキが悲しげに声を震わせる。
「君が気に病むことではないよ。彼がああなることは村全体の決定でもあった」
彼女の隣の席で優しげな微笑を浮かべているフウガ。
彼はユキの肩に優しく手を置いてゆるゆると首を左右に振った。
「‥でも‥」
このように残酷な目に遭ったテツに憐憫に眼差しを向けるユキはただひたすらに罪悪感を感じていた。
もしも自身がテツのことをもっと献身的に支えることができたのならば違う未来があったのではないか。
彼女は後悔の念に美しい顔を歪めて俯いた。
「テツには鬼人族の男としての力がなかった。これは誰のせいでもない。彼は努力しているのは俺だって知っていたさ。だから追放だけは何とか免れることができた」
フウガは鎮痛な面持ちでユキに語ってみせる。
事実として彼はテツに対して負い目を感じていた。
テツが幼馴染であるユキに対して想いを寄せていることをフウガは理解していた。
しかし己の雄としての本能がユキを奪うことに対して肯定を示していた。
故に未だ完全ではないにしろ手に入れた。
ユキの肉体は既にフウガの手中にあるも同然だ。
そして後一押しでその心も手に入れることができるだろう。
「大丈夫だ。俺も彼のことは見守っていくつもりだ」
そっとユキの華奢な肩を己の方へと抱き寄せるフウガ。
「‥はい‥フウガ様よろしくお願いします」
囁くような甘い媚びた声で懇願するユキ。
フウガはユキの艶やかな光沢を放つ黒髪を優しく撫でた。
「ふふ‥相変わらずね」
フウガの逞しい筋肉に覆われた腕の中で心地よさを感じていたユキに対して不意にに声が投げかけられた。
「ユメさん‥」
揶揄うような声に我に帰ったユキは苦しげに瞳を歪ませた。
「私は‥ただ‥」
反論するべく口を開いたものの自身の現在の姿を顧みて口を噤むユキ。
「もう~照れなくても良いのよ。フウガ様に贔屓にしてもらえるなんてとても名誉なことなんだから誇って良いのに」
羨望の眼差しを向けてくるユメに対して辟易とした感情を覚えたユキは力な左右にかぶりを振った。
「私には力がないんです。だからこうやって無様にフウガ様に縋らなくては満足に学校生活さえ送ることができないのです」
無力な自身に対して不甲斐ない思いを抱い憂いを帯びた瞳を伏せるユキ。
「ふーん‥ユキさんって偉いのね」
側から見れば普段からお高くとまっているように見えるユキの姿はユメによって気に触る。
切長の透き通る宝石の如き瞳から綺麗に生え揃う長いまつ毛をを伏せて嘆く姿はとても絵になっている。
類まれなるユキの美貌に対して羨望の眼差しを送る生徒は少なくない。
ユメはフウガから無償の愛を受けるユキが羨ましくて仕方がなかった。
しかしアルフの手前もあって強気に出ることのできないユメ。
妬みの言葉を吐きたいが四六時中フウガはユキに張り付いているが故に機会はない。
であれば好意的に接して仲を深めようという目論見である。
「いえ‥そんな‥だってテツさんがああなったのも私の力不足なんです」
顔をあげるユキの一筋の翳りを帯びた儚い美貌露わになった。
「そんなことはないさ。それに追放されたわけではないのだからそこまで悲観的になることはない」
落ち着いた声音で諭すようにユキの瞳を正面から見据えて言い聞かせるフウガ。
「ッそれは‥あなたは本気で言っているんですか?」
慰めのような言葉を受けて険のある眼差しをフウガに向けるユキ。
「ちょっとユキさん‥」
ユキの尋常ならざる剣幕に驚いて声を上げるユメ。
「あ‥申し訳ありませんフウガ様‥」
フウガに対して無礼を働くなど本来であれば許されることではない。
ユキもフウガという自身よりも圧倒的な強者である雄に勝つことなど不可能であることを本能で理解していた。
しかし同時に鬼人族の男が女になってしまうということがどれだけ屈辱であるかを生前男だったユキは身を持って経験していた。
故に何にも根拠もない慰めの言葉を吐いたフウガに対して非難の消えをあげたのは致し方ないことといえよう。
「いや大丈夫だ。俺にも気をつける」
答えるフウガの表情には笑顔が浮かんでいたが強い意志の宿った瞳はユキを捉えて離さない。
「そういえばあのテツがまさか女の子になるなんて思わなかったわぁ」
話題に上がったテツの名前に反応してユメが無神経に言い放った。
「確か‥ユメはテツのこと嫌っていたよね」
フウガの柔らかな声での指摘にユメは何の躊躇いもなく頷いて見せた。
「ええ‥だって彼ってば男なのに弱いんですもの」
上品に口元を手で覆い隠しながらも嘲笑した表情は隠し切れていない。
「それがまさか女になってしまうなんてどういうことなのかしら‥」
しかし次の瞬間には忌々しげに端正な顔を歪ませるユメ。
「流石に言い過ぎだ。テツの努力を否定するのはどうかと思うよ」
テツへの侮辱の言葉によって次第に顔を青ざめさせていくユキの姿を見てとったフウガは厳しい声で言い放つ。
「そ、そうですね言い過ぎたわ‥ごめんなさい」
実力はさることなが人望も高いフウガの不興を買うのを恐れたユメは媚びた笑顔を浮かべて頭を下げた。
「この話は終わりにしよう‥。テツが職員室から戻ってきたら本人に直接聞けば良いさ」
これ以上この話題を掘り返すことがないように釘を刺すフウガ。
ユキは無論のことユメも従順に頷いた。
「あいつ本当にテツなんだよな」
しかし噂というのは本人達が望んでいなくても耳に入ってくるものである。
特に周囲の男子生徒がテツの肉体の変わりように驚いているのが窺える。
女生徒は話題にあげるのも億劫といった様子で顔を顰めている者が大多数だ。
その原因はテツの容姿が圧倒的な美貌を誇っているからに他ならない。
彼女達は自分達にはない魔性とも称することのできるテツの美しさを羨んでいるのだ。
豊満な胸に反して反則的なまでにくびれた腰。
歩くごとに上下に揺れ動くほどに大きな乳肉は男たちの視線を惹きつけて止まない。
魅惑的な曲線を描く腰が揺れる度に上向いたむっちりとした尻肉が淫靡に形を変える。
剥き出しの純白で穢れのない張りのある太腿は少女達も羨望の眼差しを向ける他にない。
特に手入れをしているわけでもないのにテツの身体は一級品だった。
「ああ‥魔力は完全に同じだった。間違いねぇよ」
男たちは特に嫉妬心を抱くことはなかったが純粋に見惚れていた。
男であったことを考慮しても現在のテツは息を呑むほど魅力的なのは間違いない。
彼等は周囲の反応を観察して己がどのように立ち回ればテツと接点を持てるかを思案した。
そして導き出した結論は至って単純にして確実な手法。
「なあマサ。お前ってテツと仲良かったよな?」
男達の中でも特に雄として優秀な者たちがマサの周囲に集まってきた。
彼等はの瞳は皆一様に強い意志の光を垣間見せていた。
「‥俺とあいつはそこまで仲は良くねえよ。ただ席が近かったから話してただけだ」
素気なく顔を逸らして言い切るマサ。
大仰にも組まれた長い脚が素行の悪さを露わにしている。
筋肉に覆われた大柄な体躯を威圧するかのように後ろに逸らす彼の姿に形の良い眉を歪める男。
「お前‥わかるだろう?俺たちは何もあいつを売れっていってるわけじゃあねえ。ここは平等にいこうぜ」
口元に笑みを浮かべてはいるが有無を言わせぬ迫力を醸し出す男たち。
屈強な戦士に取り囲まれているマサだがその表情はどこ吹く風といった様子でまるで意に解すことはなかった。
「くだらなねえ。なんだ?テツが急に可愛くなったからって発情してんじゃねえよ。猿かよお前ら」
鋭い眼光で周囲に視線を走らせるマサは口の端を吊り上げて嘲笑した。
酷い侮辱の言葉を受けた男達は額に青筋を立てていきりたつ。
ある者は目を血走らせてマサの顔を至近距離から覗き込み。
忍耐力が強い者は拳を血が滴るほどに握りしめながらも笑顔を崩さない。
それほどにテツの情報は彼等にとって喉から手が出るほどに欲しい代物だった。
「まあ‥そういうなよ。俺はただあいつがこの先うまく生活できるように手助けしてやろうと思って─」
軽薄な笑みを顔に貼り付けた男の台詞は突如として立ち上がったマサによって遮られた。
否─立ち上がると同時に誰の視覚にも捉えることのできない神速で放たれた拳での打撃が軽薄男の顎を真下から貫いたのだ。
見事な曲線を描いて吹き飛んだ男は教室の壁に激突して意識を失った。
衝突と同時に破壊された石壁の破片がユキに向かって飛んでいく。
瞬間─驚愕の表情を浮かべて硬直したままのユキの傍にいたフウガの身体が揺れた。
常人では捉えることにできない人外染みた速度で迫り来る石の破片を蹴り落とす。
人外の力を持って放たれた下段蹴りの余波が室内の空気を震わせる。
「‥もしもユキに怪我でも負わせてしまったらどう責任をとるつもりだ?」
低い声で問いかけるフウガの冷徹な眼光がマサを射抜く。
「お前がいる限りそんなことは起きないだろうな」
しかしフウガを正面から見据えて対峙しているマサの表情には一切の恐怖の感情を窺うことができない。
「もしも次にこのようなことがあったのなら然るべき処置をしなければならない」
一切臆した様子を見せないマサに有無を言わせぬ尋常ならざるほどの重圧を込めた声で言い放つフウガ。
「は‥どんなことか興味があるな是非教えてくれよ」
口元を歪めて挑発的な言葉を返すマサだったがフウガは既にユキに視線を移して笑みを浮かべていた。
「大丈夫か?どこにも怪我はないか?」
マサと接する態度とは一転貴公子然とした優しい微笑をたたえているユキに話しかけるフウガ。
「‥」
自然と会話を放り出されたマサは憮然とした表情で窓から外を眺めている。
「え、ええ‥ありがとうございます。フウガ様」
未だに目の前で起きた事態をうまく飲み込むことができないユキは困惑気味に頭を下げた。
「いや‥当然のことをしたまでだ。‥ユメさんも大丈夫か?」
ユキの背中に身を隠して盾にしているユメに対して嫌味なく問いかけるフウガ。
「え、?ええ大丈夫よ」
自らの行いを鑑みて我に帰ったユメは慌ててユキの背中に置いた手を離した。
縋りついていた身体を流れるような動作で自席をへと移動させる彼女は何事なかったかのように振る舞った。
「それよりフウガ様。どうして彼を止めなかったのでしょうか?あなたなら容易なことのように思えるのだけれど」
先程までの恐怖に彩られていた表情とは一変毅然とした面持ちでフウガに問いかけるユメ。
「‥それは俺を買い被りすぎだ。彼はとても強い。とてもではないけれどそんな簡単の御すことはできない」
その言葉が明らかに謙遜であることはユキは理解していた。
自身の父である龍鬼と無手とはいえ引き分けたフウガが一生徒であるマサと戦って敗れるとはとても思えない。
「そういうこと‥ですか」
しかしその事実を知り得ないユメにとってはマサの人外染みた膂力を見せつけられた手前話を鵜呑みにする他なかった。
「ああ。‥それよりも授業の準備をしなくていいのか?一時限は確か儀式の練習だったが‥」
腑に落ちない様子で頷いたユメから視線をユキに移したフウガは時間割の内容を告げる。
「あッ‥そうでした。私そろそろ着替えなくてはいけません。ユメさんまた後で‥」
はっとした表情を浮かべて立ち上がったユキ授業の用意をするべく教室を出る。
「ユメさん。俺もやることがあるから先に儀式場に向かうことにするよ」
爽やかな笑みで一言言い残したフウガは颯爽とした足取りでユキの後に続いた。
「‥」
取り残されたユメの視線は誰にも介抱されることなく未だに意識を失っているマサに殴り飛ばされた男にを見つめていた。
「やっぱり‥なんとかしてフウガ様に取り入らないと‥」
思い詰めた表情で一人呟く彼女の姿を気にかける者は誰一人としていなかった。
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