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伝説の名探偵
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大奥様はいつも退屈をしている。
訪日中のハリウッドスターを邸宅に招いても、国宝級の美術品を気まぐれに購入しても、恵まれに恵まれた元華族の大奥様には、たいした刺激にはならないらしい。
そんな大奥様に仕えて二年目の春、塩坂梅子はその日はじめて遭遇する。
皺すらも美しい芙蓉の顔に、満面の笑みが花開く瞬間に。
「あらあら、杵崎さんったらお亡くなりになったのね。まあ、不審死! 遺産相続争いだなんて!」
あらあらあら。
うふふふふふ。
「ねぇ、梅ちゃん? 杵崎さんの奥様は、わたくしほどではないけれど、由緒正しいおうちの出でね? とてもじゃないけれど、お心が持たないわ。なにか、わたくしにお手伝いできることはないかしら?」
――そっとしておくのがよろしいかと。
そんな本音は口には出さず、梅子は「心配ですね」とだけ返す。
すると、大奥様はシルクのハンカチを口元にあて、うふふ、と笑い声をたてた。
「謎の匂いがぷんぷんするわ。ここは、伝説の名探偵さんにすべての謎を明らかにしていただきましょう」
「伝説の名探偵、ですか?」
「ああ、梅ちゃんは知らなかったわね。昔とてもお世話になったの。いい機会だから、ご挨拶をしてきてちょうだいな」
そんなわけで、由緒正しきメイドの梅子は横浜にある探偵事務所を訪問することとなる。
それが彼女の人生で、最も常識を裏切る非日常との出会いになるとは、そのときは露ほども想像していなかった。
横浜は異国情緒と混沌が同居する街である。
ニイハオ ニイハオ
シェイシェイ シェイシェイ
目尻に朱を入れた、どこかいかがわしい客引きの手を華麗にかわしながら、梅子は静かに朝の中華街を見回す。
その伏し目がちの瞳には浮ついた色は一切見られず、その足運びに隙はない。
見るものが見れば、梅子に武道の心得があることも、どんな事態も冷静に対応できる人物であることもうかがえたであろう。
実際、梅子は一般的な24歳の日本人女性とはほど遠かった。
母は優秀なメイド頭、父は筆頭執事。
代々、皇輝家に仕える塩坂家の一人娘として生を受けた梅子は、メイドとなることを運命づけられていた。
両親の献身的な仕事ぶりを見て育った彼女は、その道を目指すことになんの疑問も覚えることはなく、
茶器の扱いから、スワヒリ語の習得まで。
お仕えするのに必要な、ありとあらゆる特殊技能を叩き込まれ、22歳という異例の若さで、皇輝清子様の専属メイドに抜擢される。
順風満帆。
周囲からの多少のやっかみはあれど、主人たる清子様は理性的なお人柄で、梅子は問題なくお役目を全うしていたわけだけど。
『清子様の唯一のお楽しみは、こういった……いささか世俗にまみれた事柄で。困惑することもあるかもしれないが、お仕えする主人の望みが必ず叶うよう、全力を尽くすのが塩坂の家に生まれたお前の務めだ』
父の言葉が蘇る。珍しく渋面だった。
どうやらこの件は、はじめての試練となり得るものらしい。
久しく感じなかった挑戦心に心躍らせながら、梅子は中華街を抜けていく。
目的地は細い通りを出てすぐの、陽当たりのよい一角にたたずんでいた。
一階は珈琲専門店。
そのすぐ上、二階の曇り硝子に『桜葉探偵事務所』とかすれた文字が躍っている。
「こちらですね」
煉瓦造りの懐かしさを感じさせる三階建ての建物には、外階段やエレベーターは見当たらない。
梅子は迷うことなく珈琲専門店のドアベルを鳴らして入店する。
「いらっしゃいませ」
客はいない。
静かなジャズが流れる店内では、片眼鏡の初老のマスターが顔もあげず、作業をしている。
「恐れ入りますが、二階の探偵事務所にはどのように行けばよいのでしょう?」
「……ああ」
忙しいのか、無愛想なのか。
マスターはやはり顔もあげず、カウンターの奥を親指で示した。
「階段はそちら。足元に気をつけて」
梅子は軽く会釈をする。
教えられた階段は店の雰囲気に似合わぬほど急で、幅も狭かった。
たしかに足元に気をつけるよう、言われるだけの階段である。
しかし、彼が気をつけてと言ったのは、それだけが理由ではなかった。
梅子はスカートの裾を押さえ、静かに上っていく。
一段、また一段。そこへ、
「ぎゃあああああああん!!」
「待って! うんち、うんちを先にさせて!!」
耳をつんざくような甲高い泣き声と男の悲鳴に、梅子はバランスを大きく崩し、ぐっと体幹で立て直した。
「……い、今のは一体?」
足を止めていると、今度は悲鳴が降ってくる。
「ほんと、ちょ、ちょっと待って! ちゃんと、ちゃんとあげるから!」
「びぇぇぇぇん!」
「え、嘘でしょ!! うわ、またブリって!? ――あっ、だめ、そっち触らない!」
慌てふためいた男の声と、
赤ちゃんの泣き声。
そして、何かが床に落ちる音。
(ここは、伝説の名探偵がいる事務所なはずだ)
「お願い、悠馬くん!! おむつのなかを見せて!!」
どうにも嫌な予感が、胸をよぎる。
恐る恐る最後の段を上り、二階のドアの前に立つ。
ドアは半開きで、中からさらなる悲鳴と酸っぱい匂いが溢れ出てくる。
「……失礼、いたします」
控えめに声をかけ、扉を押し開けた瞬間。
梅子の常識は、音を立てて崩れ落ちた。
散乱した書類。
脱ぎ捨てられたジャケット。
床に転がるミルク缶と、こぼれた粉ミルク。
その中心では、無精髭を生やした男が、片手で哺乳瓶を振りながら、もう片方の手でおむつを振り回している。
「だからね! 今はミルクは無理! 先におむつ。そのすっぱい匂い、うんちだよね? 待って、悠馬くん、うんち!? どっち!? あー! うんちうんち!」
男と、赤ちゃんと、混沌。
梅子が言葉を失ったまま、その光景を見つめていると、男がこちらを振り返る。
目が合った。
一瞬で空気が変わる。
先ほどまでの慌ただしさが嘘のように、その瞳に人の内側を見透かすような鋭さが宿った。
「……あ」
だが次の瞬間、
「ごめんなさい、今ちょっと立て込んでて! あ、靴のままで結構です! あー! 悠馬っ、それ口に入れない!」
梅子は、深く、深く息を吸った。
(非常識です……!)
おむつを替えられて気持ちよくなった赤ちゃんが、きゃっきゃっと無邪気に笑っている。
――これが。
これが、伝説の名探偵?
悲しいことに、それが現実だった。
訪日中のハリウッドスターを邸宅に招いても、国宝級の美術品を気まぐれに購入しても、恵まれに恵まれた元華族の大奥様には、たいした刺激にはならないらしい。
そんな大奥様に仕えて二年目の春、塩坂梅子はその日はじめて遭遇する。
皺すらも美しい芙蓉の顔に、満面の笑みが花開く瞬間に。
「あらあら、杵崎さんったらお亡くなりになったのね。まあ、不審死! 遺産相続争いだなんて!」
あらあらあら。
うふふふふふ。
「ねぇ、梅ちゃん? 杵崎さんの奥様は、わたくしほどではないけれど、由緒正しいおうちの出でね? とてもじゃないけれど、お心が持たないわ。なにか、わたくしにお手伝いできることはないかしら?」
――そっとしておくのがよろしいかと。
そんな本音は口には出さず、梅子は「心配ですね」とだけ返す。
すると、大奥様はシルクのハンカチを口元にあて、うふふ、と笑い声をたてた。
「謎の匂いがぷんぷんするわ。ここは、伝説の名探偵さんにすべての謎を明らかにしていただきましょう」
「伝説の名探偵、ですか?」
「ああ、梅ちゃんは知らなかったわね。昔とてもお世話になったの。いい機会だから、ご挨拶をしてきてちょうだいな」
そんなわけで、由緒正しきメイドの梅子は横浜にある探偵事務所を訪問することとなる。
それが彼女の人生で、最も常識を裏切る非日常との出会いになるとは、そのときは露ほども想像していなかった。
横浜は異国情緒と混沌が同居する街である。
ニイハオ ニイハオ
シェイシェイ シェイシェイ
目尻に朱を入れた、どこかいかがわしい客引きの手を華麗にかわしながら、梅子は静かに朝の中華街を見回す。
その伏し目がちの瞳には浮ついた色は一切見られず、その足運びに隙はない。
見るものが見れば、梅子に武道の心得があることも、どんな事態も冷静に対応できる人物であることもうかがえたであろう。
実際、梅子は一般的な24歳の日本人女性とはほど遠かった。
母は優秀なメイド頭、父は筆頭執事。
代々、皇輝家に仕える塩坂家の一人娘として生を受けた梅子は、メイドとなることを運命づけられていた。
両親の献身的な仕事ぶりを見て育った彼女は、その道を目指すことになんの疑問も覚えることはなく、
茶器の扱いから、スワヒリ語の習得まで。
お仕えするのに必要な、ありとあらゆる特殊技能を叩き込まれ、22歳という異例の若さで、皇輝清子様の専属メイドに抜擢される。
順風満帆。
周囲からの多少のやっかみはあれど、主人たる清子様は理性的なお人柄で、梅子は問題なくお役目を全うしていたわけだけど。
『清子様の唯一のお楽しみは、こういった……いささか世俗にまみれた事柄で。困惑することもあるかもしれないが、お仕えする主人の望みが必ず叶うよう、全力を尽くすのが塩坂の家に生まれたお前の務めだ』
父の言葉が蘇る。珍しく渋面だった。
どうやらこの件は、はじめての試練となり得るものらしい。
久しく感じなかった挑戦心に心躍らせながら、梅子は中華街を抜けていく。
目的地は細い通りを出てすぐの、陽当たりのよい一角にたたずんでいた。
一階は珈琲専門店。
そのすぐ上、二階の曇り硝子に『桜葉探偵事務所』とかすれた文字が躍っている。
「こちらですね」
煉瓦造りの懐かしさを感じさせる三階建ての建物には、外階段やエレベーターは見当たらない。
梅子は迷うことなく珈琲専門店のドアベルを鳴らして入店する。
「いらっしゃいませ」
客はいない。
静かなジャズが流れる店内では、片眼鏡の初老のマスターが顔もあげず、作業をしている。
「恐れ入りますが、二階の探偵事務所にはどのように行けばよいのでしょう?」
「……ああ」
忙しいのか、無愛想なのか。
マスターはやはり顔もあげず、カウンターの奥を親指で示した。
「階段はそちら。足元に気をつけて」
梅子は軽く会釈をする。
教えられた階段は店の雰囲気に似合わぬほど急で、幅も狭かった。
たしかに足元に気をつけるよう、言われるだけの階段である。
しかし、彼が気をつけてと言ったのは、それだけが理由ではなかった。
梅子はスカートの裾を押さえ、静かに上っていく。
一段、また一段。そこへ、
「ぎゃあああああああん!!」
「待って! うんち、うんちを先にさせて!!」
耳をつんざくような甲高い泣き声と男の悲鳴に、梅子はバランスを大きく崩し、ぐっと体幹で立て直した。
「……い、今のは一体?」
足を止めていると、今度は悲鳴が降ってくる。
「ほんと、ちょ、ちょっと待って! ちゃんと、ちゃんとあげるから!」
「びぇぇぇぇん!」
「え、嘘でしょ!! うわ、またブリって!? ――あっ、だめ、そっち触らない!」
慌てふためいた男の声と、
赤ちゃんの泣き声。
そして、何かが床に落ちる音。
(ここは、伝説の名探偵がいる事務所なはずだ)
「お願い、悠馬くん!! おむつのなかを見せて!!」
どうにも嫌な予感が、胸をよぎる。
恐る恐る最後の段を上り、二階のドアの前に立つ。
ドアは半開きで、中からさらなる悲鳴と酸っぱい匂いが溢れ出てくる。
「……失礼、いたします」
控えめに声をかけ、扉を押し開けた瞬間。
梅子の常識は、音を立てて崩れ落ちた。
散乱した書類。
脱ぎ捨てられたジャケット。
床に転がるミルク缶と、こぼれた粉ミルク。
その中心では、無精髭を生やした男が、片手で哺乳瓶を振りながら、もう片方の手でおむつを振り回している。
「だからね! 今はミルクは無理! 先におむつ。そのすっぱい匂い、うんちだよね? 待って、悠馬くん、うんち!? どっち!? あー! うんちうんち!」
男と、赤ちゃんと、混沌。
梅子が言葉を失ったまま、その光景を見つめていると、男がこちらを振り返る。
目が合った。
一瞬で空気が変わる。
先ほどまでの慌ただしさが嘘のように、その瞳に人の内側を見透かすような鋭さが宿った。
「……あ」
だが次の瞬間、
「ごめんなさい、今ちょっと立て込んでて! あ、靴のままで結構です! あー! 悠馬っ、それ口に入れない!」
梅子は、深く、深く息を吸った。
(非常識です……!)
おむつを替えられて気持ちよくなった赤ちゃんが、きゃっきゃっと無邪気に笑っている。
――これが。
これが、伝説の名探偵?
悲しいことに、それが現実だった。
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