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その男、名探偵?
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探偵事務所の窓際は応接スペースとなっていた。
梅子が勧められたソファに腰をかけていると、先程のマスターが下から珈琲を運んでくる。
「恐れ入ります」
白磁の小さなティーカップは、アンティークだろう、藍色の染付が優美だった。
ソーサーにはホワイトチョコレートが添えられている。
「ごゆっくり。まだかかりますので」
頭痛がする。
頭痛というより、理性が悲鳴を上げているのだ。
チラリと視線をあげれば、寝不足なのか、いささかやつれた男が、赤ちゃんの背中を叩いている。
「悠馬くん、諦めてゲップを出すんだ。君がゲップをしないときは、いつもミルクを吐いて苦しい想いをしているじゃないか。楽になれるから、素直にゲップを吐き出したまえ」
「ふぇ」
「そうだ。ゲップを吐いてしまえ」
さながら、自白をうながす刑事のごとき凄みのある目つき。
鬼気迫るものを感じさせるが、しかし、食後のゲップをさせようと赤ちゃんの背中を叩く手つきは、どうにもたどたどしかった。
男は二十代後半であろうか。
梅子より年上ではあるが、頼りがいというものをまったく感じない。
また服装もよろしくなかった。
シワの寄ったワイシャツに、粉ミルクまみれのスラックス。
(大奥様、この方に期待されるのは酷なように感じております。それでも、彼に名探偵の役割を望まれるのでしょうか?)
もちろんよ、と心の中の大奥様はとびきりの笑顔でうなずいている。
主人のいつも退屈なご様子を思い返せば、この件でがっかりさせることは梅子にはできなかった。
固く瞳を閉じ、腹をくくる。
「失礼いたします」
立ち上がると、青年に助言する。
「そのような弱い力で恐る恐る叩いたところで、ゲップを出したくても、赤様はゲップを出せるものではございません。もう少し強めに叩かれては如何でしょう?」
「……ご経験がおありですか」
「ナニーの教育を受けております」
ナニー、と呟いた男は、ふと考え込むように目を伏せた。
「あなた、もしかして、塩坂家の方?」
「……その通りでございますが、なぜ」
「あー、このタイミングできたか。面倒な」
わしゃわしゃと、乱雑に頭をかく男。
すると、明るい室内に、きらきらと白い粉が舞う。
あれは粉ミルクであろうか。それとも育児で風呂に入れないための、ふけであろうか。
なるべく考えないようにしている間に、男は赤子にゲップを出させることに成功したようだった。
にこにこ笑顔の赤子と瞳を合わせると、抱っこ紐で、自分の胸元に赤ちゃんを装着させる。
月齢3ヶ月ほどの、ふにゃふにゃした赤子はおとなしく抱っこ紐の中におさまった。
タンポポの綿毛のような小さな頭を撫でられているうちに、すやすやと寝息を立て始める。
やがて、男はまた梅子にソファーを勧める。
「一応、お話はうかがいましょう」
渋い顔ではあるが、その瞳には知性がある。
梅子は気を取り直して、彼に向き合った。
「仰る通り、私は塩坂家の人間でございます。塩坂梅子と申します。恐れ入りますが、お名前をうかがってもよろしいでしょうか?」
「……僕は桜庭太一。この子は悠馬くん。故あって、僕が育ててます」
故あって、というのが具体的にどんなものか気にはなったが、梅子はさらりと流した。大した問題ではない。
それよりも、
「本日は皇輝清子様のご命令で参りました。桜庭様は、なぜ、私が塩坂家の人間だと思われたのですか?」
「子供の頃、あなたのお父上にお会いしたことがあります。とても似ている」
「そうでしょうか? 私は母親似と言われますが」
「顔じゃなく、立ち居振る舞いが似てるんだ。間合いの取り方、視線の流れも独特だ」
「…………」
梅子に武道を叩き込んだのは父である。はじめて教わったのは、足音の殺し方だった。
武の道は主人を不快にさせない体捌きへと通じ、塩坂家の者にとっては必須科目である。
しかしそのような指摘を周りから受けたことはなかった。
彼の洞察力は名探偵に相応しい、と梅子がひそかに頬を緩めたそのとき。
「僕になにも期待しないで。きな臭い事件とか、面倒で仕方がないんだ」
「私はまだ何も話しておりませんが」
「話さなくてもわかる。塩坂の人間がここに来たということは、厄介で面倒くさい事件を華麗に解決しろ、と清子様に命じられたんだろう?」
「事件が起これば、名探偵が必要となるのが自明の理では?」
「そこが間違ってる。勘違いしてるようだけど、清子様の期待に応えた名探偵は先代であって、僕は二代目のへっぽこさ」
代替わりしたとは聞いていなかった。
梅子が黙ったのを見て取ると、
「今どき名探偵なんて流行らない。先代は楽隠居でまったりしてるし、この事務所も、今や迷い犬探しや、不倫の証拠集めぐらいしか請け負っていない。杵崎グループのお家騒動なんて関わりたくもない」
「……私は依頼内容をまだ口にしておりません。杵崎グループの件はどちらでお知りになったのでしょう?」
そう問うと、盛大に顔を顰めて今度は男が黙り込んだ。
胸元で大人しくしている赤ちゃんの頭部に鼻を埋める。
すーはー、すーはー、と呼吸音が聞こえてきて、梅子は目を細めた。
「たまたまニュースで杵崎社長の事故死の報道をチラッと見た。あの大奥様のご交友関係だと、その辺りかと思っただけさ」
「ご慧眼恐れ入ります。仰る通りでございます。しかし一点修正させていただきますと、杵崎様は事故死と確定したわけではございません。その時間、たまたま監視カメラが」
「詳細なんて聞きたくない!!」
顔をあげて叫ぶと、また赤ちゃんの頭に鼻を埋める。
すーはー
すーはー
すーはー
「あの。桜庭様は、悠馬様の後頭部の匂いを嗅がれているのは、何故でしょう? なにをされているのでしょうか?」
「ノナナールを摂取してる」
「……のななーる」
梅子が勧められたソファに腰をかけていると、先程のマスターが下から珈琲を運んでくる。
「恐れ入ります」
白磁の小さなティーカップは、アンティークだろう、藍色の染付が優美だった。
ソーサーにはホワイトチョコレートが添えられている。
「ごゆっくり。まだかかりますので」
頭痛がする。
頭痛というより、理性が悲鳴を上げているのだ。
チラリと視線をあげれば、寝不足なのか、いささかやつれた男が、赤ちゃんの背中を叩いている。
「悠馬くん、諦めてゲップを出すんだ。君がゲップをしないときは、いつもミルクを吐いて苦しい想いをしているじゃないか。楽になれるから、素直にゲップを吐き出したまえ」
「ふぇ」
「そうだ。ゲップを吐いてしまえ」
さながら、自白をうながす刑事のごとき凄みのある目つき。
鬼気迫るものを感じさせるが、しかし、食後のゲップをさせようと赤ちゃんの背中を叩く手つきは、どうにもたどたどしかった。
男は二十代後半であろうか。
梅子より年上ではあるが、頼りがいというものをまったく感じない。
また服装もよろしくなかった。
シワの寄ったワイシャツに、粉ミルクまみれのスラックス。
(大奥様、この方に期待されるのは酷なように感じております。それでも、彼に名探偵の役割を望まれるのでしょうか?)
もちろんよ、と心の中の大奥様はとびきりの笑顔でうなずいている。
主人のいつも退屈なご様子を思い返せば、この件でがっかりさせることは梅子にはできなかった。
固く瞳を閉じ、腹をくくる。
「失礼いたします」
立ち上がると、青年に助言する。
「そのような弱い力で恐る恐る叩いたところで、ゲップを出したくても、赤様はゲップを出せるものではございません。もう少し強めに叩かれては如何でしょう?」
「……ご経験がおありですか」
「ナニーの教育を受けております」
ナニー、と呟いた男は、ふと考え込むように目を伏せた。
「あなた、もしかして、塩坂家の方?」
「……その通りでございますが、なぜ」
「あー、このタイミングできたか。面倒な」
わしゃわしゃと、乱雑に頭をかく男。
すると、明るい室内に、きらきらと白い粉が舞う。
あれは粉ミルクであろうか。それとも育児で風呂に入れないための、ふけであろうか。
なるべく考えないようにしている間に、男は赤子にゲップを出させることに成功したようだった。
にこにこ笑顔の赤子と瞳を合わせると、抱っこ紐で、自分の胸元に赤ちゃんを装着させる。
月齢3ヶ月ほどの、ふにゃふにゃした赤子はおとなしく抱っこ紐の中におさまった。
タンポポの綿毛のような小さな頭を撫でられているうちに、すやすやと寝息を立て始める。
やがて、男はまた梅子にソファーを勧める。
「一応、お話はうかがいましょう」
渋い顔ではあるが、その瞳には知性がある。
梅子は気を取り直して、彼に向き合った。
「仰る通り、私は塩坂家の人間でございます。塩坂梅子と申します。恐れ入りますが、お名前をうかがってもよろしいでしょうか?」
「……僕は桜庭太一。この子は悠馬くん。故あって、僕が育ててます」
故あって、というのが具体的にどんなものか気にはなったが、梅子はさらりと流した。大した問題ではない。
それよりも、
「本日は皇輝清子様のご命令で参りました。桜庭様は、なぜ、私が塩坂家の人間だと思われたのですか?」
「子供の頃、あなたのお父上にお会いしたことがあります。とても似ている」
「そうでしょうか? 私は母親似と言われますが」
「顔じゃなく、立ち居振る舞いが似てるんだ。間合いの取り方、視線の流れも独特だ」
「…………」
梅子に武道を叩き込んだのは父である。はじめて教わったのは、足音の殺し方だった。
武の道は主人を不快にさせない体捌きへと通じ、塩坂家の者にとっては必須科目である。
しかしそのような指摘を周りから受けたことはなかった。
彼の洞察力は名探偵に相応しい、と梅子がひそかに頬を緩めたそのとき。
「僕になにも期待しないで。きな臭い事件とか、面倒で仕方がないんだ」
「私はまだ何も話しておりませんが」
「話さなくてもわかる。塩坂の人間がここに来たということは、厄介で面倒くさい事件を華麗に解決しろ、と清子様に命じられたんだろう?」
「事件が起これば、名探偵が必要となるのが自明の理では?」
「そこが間違ってる。勘違いしてるようだけど、清子様の期待に応えた名探偵は先代であって、僕は二代目のへっぽこさ」
代替わりしたとは聞いていなかった。
梅子が黙ったのを見て取ると、
「今どき名探偵なんて流行らない。先代は楽隠居でまったりしてるし、この事務所も、今や迷い犬探しや、不倫の証拠集めぐらいしか請け負っていない。杵崎グループのお家騒動なんて関わりたくもない」
「……私は依頼内容をまだ口にしておりません。杵崎グループの件はどちらでお知りになったのでしょう?」
そう問うと、盛大に顔を顰めて今度は男が黙り込んだ。
胸元で大人しくしている赤ちゃんの頭部に鼻を埋める。
すーはー、すーはー、と呼吸音が聞こえてきて、梅子は目を細めた。
「たまたまニュースで杵崎社長の事故死の報道をチラッと見た。あの大奥様のご交友関係だと、その辺りかと思っただけさ」
「ご慧眼恐れ入ります。仰る通りでございます。しかし一点修正させていただきますと、杵崎様は事故死と確定したわけではございません。その時間、たまたま監視カメラが」
「詳細なんて聞きたくない!!」
顔をあげて叫ぶと、また赤ちゃんの頭に鼻を埋める。
すーはー
すーはー
すーはー
「あの。桜庭様は、悠馬様の後頭部の匂いを嗅がれているのは、何故でしょう? なにをされているのでしょうか?」
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