1DK バス・トイレ・化け猫つき

朽縄咲良

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序章 猫はワシである

第二話 老人と返事

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 ――もしかすると、留守?

 不気味な静寂に包まれた、202号室の錆びかけたドアの前で佇む俺の頭の中に、ふと一つの推論が浮かんだ。
 だとしたら最悪だ。
 今はおとなしくしている部屋内の猫が、またさっきのように盛大に騒ぎ始めても、止める術が全く無い事になる。
 ――と、

(も……もしかして……)

 或いは――と、更に不吉な推測が、脳内に浮上した。

「い、いや、まさか、そんな訳ねえよ、ウン」

 だが、俺はぶるぶると首を激しく左右に振って、やにわに胸をざわめかせた悪い想像を、半ば強引に頭から振り払う。
 ……とはいえ、本能的に否定したが、否定するに足るような根拠も無い訳で。

「……確かめるには、もう一度呼びかけてみるしかないか」

 そう結論付けた俺は、大きく息を吸い込むと、もう一度、強めにドアをノックした。

「え、えーと……すいませーん。あの、お宅の猫――猫ちゃんが、その、ちょっとやかま……あ、いや、元気すぎる……みたいなんで、黙らせ……い、いや――お、おとなしくさせてもらえ……頂けると……ありがたい、っす。ハイ」

 毅然と言い放つつもりだったのだが、勢いが段々と尻つぼみになる俺の声。
 しかし、趣旨はきちんと伝わったんじゃないかな――。

「…………」

 ……うん、返答無し。
 依然として沈黙を貫くドアに思わずイラっとした俺は、今度は明確な怒りを込めて拳をドアに強く打ちつける。

 ドンドンドンドンドン!

「あの! ちょっと聞いてます? お宅の事なんですけど! あのー……」

 勢いに任せてそこまで言った俺だったが、ここで初めて、この家の人の名前を覚えてないという事に気が付いた。
 俺は慌てて、扉の脇の壁に付いた表札を確認する。
 汚れと経年劣化で黄色く変色した表札には、「初鹿野」と、下手糞な字で書かれていた。
 それを見た俺は、訝しげに首を傾げる。

「えー……と、これは何て読むんだ……? うーん……ハ、ハツ、シカ……ハツシカノ……さん?」
「たわけ! ハジカニョ……ハジカニ……あ~、あ~、……ハジ、カ、ノじゃ! 馬鹿もニョ!」
「う、うわっ!」

 唐突にドアの向こうから上がった人の声――しかも怒声に完全に不意を衝かれた俺は、驚きの叫びを上げながらのけぞった。
 が、すぐ、沸騰した怒りが驚愕を上書きする。
 いるじゃねーか、クソジジィ!

「ちょっと! あんた、ハ――ハジカ……初鹿野はじかのさんかッ? いるんだったら、さっさと返事してくれよ!」
「……ニャアア……」
「オマエじゃねえよ、アホ猫!」
「シャアアッ! ワシャ、ニャ……ニャホ猫じゃニャい! こニョ若造がぁ!」

 また、妙に甲高い人間の声が、ドアの向こうから聞こえてきた。

「大体、ヒト様の名前も碌に読めんニョータリンにニャホ呼ばわりされたくニャいニャあ!」
「――い、いや、別にあなたの事じゃ無いんすけど……初鹿野さん?」
「……ニャア」
「へ?」
「……いや、そうだニャ。こんな事を言い合ってる場合じゃニャいんだ……」

 ドア越しの初鹿野老人の声が、先ほどよりも幾分か落ち着いた。
 ゴホゴホというしわぶきの後、老人らしき声が再び上がる。

「あー、そこにいるにょは、204号室の……サンシくんじゃニャ?」
「……サエグサです。三枝悠馬さえぐさゆうま……」

 この爺、てめえも人の名前読めてねえじゃねえか……。
 思わずムッとする俺の内心にもまったく気づかぬ様子で、老人の能天気な声は更に続く。

「あーそうそう。サエグサ君じゃったにょ。――キミに一つ頼みがあるんじゃが」
「た、頼み?」
「そう。ちょっと、このドアを開けてほしいんニャ」

 目の前の扉からテシテシと柔らかい物が当たる音がする。

「このドア……って、家の扉の事ですか? 別にいいですけど――でも、何で?」
「――まあ、自分で開けられれば、わざわざおミャえさんを起こす事もニャかったんだがねぇ。ちと、今のワシ一人の力じゃ、どうしても開けられニャいんでの」
「開けられない……?」
「このまんまじゃ、あまり日保ひもちもせんだろうしのぉ……悪いが、迷惑ついでにひとつ頼まれてくれんかニャ?」

 ……日保ち?

「……は、はあ。まあ、分かりました」

 初鹿野老人の言葉に引っ掛かりを感じながらも、俺は言われた通りに錆びたドアノブを回してみた。
 が、ノブを回そうとしても、途中でガチンという金属音が鳴るばかりで、それ以上はびくとも動かない。

「――すみません、初鹿野さん。このドア、鍵かかってるみたいなんすけど」
「そりゃそうじゃろ、ワシゃそこまで不用心じゃニャいわい」
「……帰っていいっすか?」
「ニャ……ごめんニャさい。ちょっと待ってニャ」

 がさごそと室内をかき回す音が続いた後、たっぷり十分ほど待たされた後、ようやく扉の向こうから「お待たせしたニャ」と声がかかった。

「では、三枝君。ワシがドアポストのあニャから鍵を渡すから、受け取って開けてくれ」
「……は、はあ……」

 わざわざ俺に鍵を渡してドアを開けさせるより、自分で鍵を開ければいいのに……と訝しみつつも、俺は言われるままに、ドアポストに手を挿し込む。

 “ふに”

「ふ、うわわっ!」

 差し出した手のひらに、固い金属製の鍵の感触と一緒に、それとは全く違う柔らかい感触を感じた俺は、吃驚して変な声を出してしまった。
 と言っても、決して不快な物では無い。……否、むしろ逆だ。柔らかくて、温かくて……何となく、ほっこり幸せな気持ちにさせてくれるような――。

「――はっ!」

 心地よい感触に、危うくグッドトリップしそうだった……。
 俺は慌てて意識を立て直すと、ポストの穴から抜いた掌の上に乗った鍵を鍵穴に挿し込む。
 鍵を右に回すと、錠が開く手応えと共に、カチンという乾いた金属音が鳴った。

「初鹿野さん、鍵開きましたよ」
「おお、すまんニャ。扉も開けてくれ」
「あ、了解っす」

 初鹿野さんの指示に従って、俺は耳障りなきしみ音を鳴らす扉を開ける。
 部屋の中は、照明も消えており、真っ暗だった。
 声の近さから、初鹿野さんは玄関の三和土に立ってるのかと思っていたのだが――予想に反して、老人の姿は無い。

「初鹿野さーん……? 開けましたよー。どこっすか?」

 俺は、恐る恐る声をかけながら玄関で靴を脱ぎ、手探りで壁を伝いながら、部屋の中央にある室内灯のスイッチを探した。
 当然だが、202号室と204号室は、間取りも同じ1DK。当然、たとえ光が無くても、部屋の構造は簡単に分かる。
 と、

「――お、オワッ!」

 俺は、何か大きな物に躓き、その場に転倒した。
 幸い、転んだ先は布団だったので、痛い思いはしなかったが、年単位で太陽に晒された事が無かったとおぼしき、ぺっちゃんこの煎餅布団の巻き起こしたカビ混じりの埃をまともに吸い込んでしまった俺は、その場で激しく咳き込む。
 まともに呼吸が出来ない俺は、悶絶しながらも何とか照明の紐スイッチを探り当て、急いで引っ張った。
 それまで真っ暗だった部屋の中が、黄ばんだ古い蛍光灯の光によって照らし出される。

「眩しっ……!」

 突然の光に目が眩んだ俺は、悲鳴を上げながら目を細めた。
 そして――、

「う……」

 徐々に光に慣れた俺の眼は、自分が蹴躓いた原因となったを発見する。
 それは――俯せに倒れ、目を見開いたままぴくりとも動かない、

「ウソだろ……?」

 ……初鹿野さんの死体だった。
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