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序章 猫はワシである
第三話 老人と猫
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「…………は? え……?」
何これ?
目の前の異常な状況に、しばしの間、俺は凍りついたように固まっていた。
どう見ても、目の前で倒れている初鹿野さんは、眠っているだけのようには見えない。
その顔色は、蒼白を通り越した土気色。半開きの口の端には白い泡がこびり付き、飛び出さんばかりに見開かれた眼球の瞳は焦点を失い、白濁していた。
どう見ても、生きた人間の形相ではない。
「…………うそ――ま、マジかよ……」
確かに、ついさっきまでハッキリと言葉を交わしていた老人の思いもかけない姿を前にして、俺は金魚のように口をパクパクしているだけだった。
「し……死ん……」
「死んでる」――咄嗟にそう口走りかけた俺だったが、ふと違う可能性を見い出す。
(……ひょっとして、たちの悪いドッキリじゃね?)
さっきドア越しに会話のやりとりをしていた時には、老人の容態に問題がある様には――何か所々アクセントに妙な訛りっぽいのはあったが――全く感じなかった。
その事を思い出した俺は、一縷の望みを込めて、微動だにしない初鹿野老人に声をかけてみる。
「あ……あの~。は、初鹿野……さん? 大丈夫ですかぁ?」
「……」
「ど……ドッキリだったら、見事に騙されましたから、そろそろネタ晴らししてくれてもいいんですよ~?」
「…………」
……沈黙がこの上なく雄弁に結論を示していた。
脳が『嘘じゃない』と冷静に判断を下そうとするのを感じながら、俺の身体はそれを猛然と否定するように行動した。
すくんで動かなかった身体を無理矢理動かした俺は、目の前に横たわる小さな老人の肩を掴んで、強く揺する。
「は、初鹿野さん! 大丈夫ですか! ねえ!」
激しく揺さぶられた初鹿野老人は、人形のように頭をぐらんぐらんさせながら――それでもやっぱり目を覚まさない。
「初鹿野さん! 初鹿野さん! 返事してくださいよ、初鹿野さんッ!」
「……みゃ~お」
「へ?」
突然背後から聞こえた鳴き声に驚いた俺は、慌てて振り返った。
玄関のドアの傍らに、一匹の猫が、ちょこんと座っていた。
黒と白のツートンカラーの毛皮で、まだ生まれて数ヶ月くらいの子猫のようだ。
尖った耳をぴこんと立てて、瞳孔が開いて黒目がちになった大きな目を見開いて、こっちをじっと見ている。
「さっき、さんざん鳴き喚いていたのはお前か……。どうしたの、お前のご主人……」
「みゃあう」
……猫に訊いても分からないか。
俺は気を取り直すと、再び老人の身体を揺さぶった。
「ちょっと、初鹿野さん。俺、充分ビックリしましたから。だから、もうおしまいでいいっすよ! さっきまで元気だったでしょ? さあ、起きて起きて!」
「ニャゴぉ」
「ねえ、いい加減にしろよ、初鹿野さん!」
「ニャ~オ!」
「おい! 冗談はもういいからさ、狸寝入りは止めろって言ってんだよ、クソ爺!」
「ニギャーオゥ!」
「うるっさいわ! オマエじゃねえよ! クソ猫ぉ!」
「ニャぁ――かましいにょはおミャえにゃぁあ!」
猫が怒った。
尻尾をビンと伸ばし、体中の毛を逆立てて、大音声で叫んだ――日本語で!
「…………へ?」
俺、フリーズ。
「返事しろ返事しろって……さっきからしてるニャろがぁあ! しかも、年長者に向かって『クソ爺』とはニャんの了見ニャ、ふううううううううううううぅぅっぅぅぅぅぅ!」
子猫は、背中の毛を逆立てて、凄まじい怒りを俺にぶつけてくる。かわいらしい外見とは裏腹な、ドスの効いた日本語でペラペラと。
「まったく、最近の若いモンは、目上に対する言葉遣いがニャっとらん! というか、そんニャに強引に他人様の身体を揺するヤツがあるかぁ! か弱い老人様ニャンにゃぞ! 骨バッキバキにニャルにゃろがぁ! 骨粗鬆症ニャめるな若造ぉぉぉッ!」
「……ね」
「ニャ?」
「ね、猫がしゃべったぁああああああああ!」
俺は裏返った声で叫びながら尻もちをつくと、そのままの格好で這いずる様にして、必死で目の前の猫の姿をした何かから距離を取ろうとする。
だが、1DKの六畳間である。すぐに壁に背中をぶつけてしまった。
逃げ場のなくなった俺は、ザラザラした部屋の壁に背中を圧しつけながら、ガクガクと震える。
玄関にいた猫は、なおも背中の毛を逆立てながら、そんな情けない恰好の俺の事を睨みつけていた。
――と、
「――あ、そうか」
と呟くと、それまで取っていた臨戦態勢を解く。
「――へ?」
「いや~、いきニャり怒鳴られたので、つい頭に血が上ってしミャったニャ。すミャンね」
急に態度を変えた猫は、戸惑う俺にそう言うと、実に人間らしい仕草で頭を下げた。
「え? は? あ……いえいえ、こちらこそ……すみません」
つられて頭を下げる俺。
……あれ?
「って、違う! お…おま――アンタ、何なんだよ! 何で喋ってるんだよ! ね……猫の癖に!」
「まあ、話せば長い話ニャンだが」
我に返って声を荒げる俺に、そう答えると、子猫は自分の前足の甲を舌で舐める。
そして、舌で湿した前足で顔を拭いながら、しれっと言葉を継いだ。
「要するに、ワシが初鹿野伝蔵ニャんじゃ」
「……」
「……」
「…………」
「…………おい、ニャんか言え。気ミャづい」
「あ……これ夢か。そうだよね! 猫がペラペラ喋ってるなんて……こんな事、現実にある訳無いもんなぁ! いやー、二十三にもなってこんなメルヘンチックな夢見ちゃうなんて、俺もまだまだガキなアダダダダッ!」
現実逃避しながら早口で捲し立てた俺の声は、頬を抓ろうとした手の甲に思いっきり爪を立てられ、途中で悲鳴に変わる。
「い、痛ぇよ! 何するん――」
「ほれ、これで夢じゃニャい事が分かったじゃろ?」
俺の手の甲を突き刺した爪を舌で舐めながら、猫はサディスティックに目を細めてみせた。その顔と仕草は、マンガで良く出てくる、噛ませ犬 (猫だけど)のチンピラがナイフを舐める時のそれだった……。
――と、
おもむろに耳をペタンと伏せた彼は、がっくりと肩を落とし、大きな溜息を吐きながら言葉を継いだ。
「はぁ~……確かに、夢だったらどんニャに良かったことか……」
「ま……マジっすか? マジであんた――初鹿野さんなのか?」
俺の問いかけに、猫はゆっくりと頷くのだった。
何これ?
目の前の異常な状況に、しばしの間、俺は凍りついたように固まっていた。
どう見ても、目の前で倒れている初鹿野さんは、眠っているだけのようには見えない。
その顔色は、蒼白を通り越した土気色。半開きの口の端には白い泡がこびり付き、飛び出さんばかりに見開かれた眼球の瞳は焦点を失い、白濁していた。
どう見ても、生きた人間の形相ではない。
「…………うそ――ま、マジかよ……」
確かに、ついさっきまでハッキリと言葉を交わしていた老人の思いもかけない姿を前にして、俺は金魚のように口をパクパクしているだけだった。
「し……死ん……」
「死んでる」――咄嗟にそう口走りかけた俺だったが、ふと違う可能性を見い出す。
(……ひょっとして、たちの悪いドッキリじゃね?)
さっきドア越しに会話のやりとりをしていた時には、老人の容態に問題がある様には――何か所々アクセントに妙な訛りっぽいのはあったが――全く感じなかった。
その事を思い出した俺は、一縷の望みを込めて、微動だにしない初鹿野老人に声をかけてみる。
「あ……あの~。は、初鹿野……さん? 大丈夫ですかぁ?」
「……」
「ど……ドッキリだったら、見事に騙されましたから、そろそろネタ晴らししてくれてもいいんですよ~?」
「…………」
……沈黙がこの上なく雄弁に結論を示していた。
脳が『嘘じゃない』と冷静に判断を下そうとするのを感じながら、俺の身体はそれを猛然と否定するように行動した。
すくんで動かなかった身体を無理矢理動かした俺は、目の前に横たわる小さな老人の肩を掴んで、強く揺する。
「は、初鹿野さん! 大丈夫ですか! ねえ!」
激しく揺さぶられた初鹿野老人は、人形のように頭をぐらんぐらんさせながら――それでもやっぱり目を覚まさない。
「初鹿野さん! 初鹿野さん! 返事してくださいよ、初鹿野さんッ!」
「……みゃ~お」
「へ?」
突然背後から聞こえた鳴き声に驚いた俺は、慌てて振り返った。
玄関のドアの傍らに、一匹の猫が、ちょこんと座っていた。
黒と白のツートンカラーの毛皮で、まだ生まれて数ヶ月くらいの子猫のようだ。
尖った耳をぴこんと立てて、瞳孔が開いて黒目がちになった大きな目を見開いて、こっちをじっと見ている。
「さっき、さんざん鳴き喚いていたのはお前か……。どうしたの、お前のご主人……」
「みゃあう」
……猫に訊いても分からないか。
俺は気を取り直すと、再び老人の身体を揺さぶった。
「ちょっと、初鹿野さん。俺、充分ビックリしましたから。だから、もうおしまいでいいっすよ! さっきまで元気だったでしょ? さあ、起きて起きて!」
「ニャゴぉ」
「ねえ、いい加減にしろよ、初鹿野さん!」
「ニャ~オ!」
「おい! 冗談はもういいからさ、狸寝入りは止めろって言ってんだよ、クソ爺!」
「ニギャーオゥ!」
「うるっさいわ! オマエじゃねえよ! クソ猫ぉ!」
「ニャぁ――かましいにょはおミャえにゃぁあ!」
猫が怒った。
尻尾をビンと伸ばし、体中の毛を逆立てて、大音声で叫んだ――日本語で!
「…………へ?」
俺、フリーズ。
「返事しろ返事しろって……さっきからしてるニャろがぁあ! しかも、年長者に向かって『クソ爺』とはニャんの了見ニャ、ふううううううううううううぅぅっぅぅぅぅぅ!」
子猫は、背中の毛を逆立てて、凄まじい怒りを俺にぶつけてくる。かわいらしい外見とは裏腹な、ドスの効いた日本語でペラペラと。
「まったく、最近の若いモンは、目上に対する言葉遣いがニャっとらん! というか、そんニャに強引に他人様の身体を揺するヤツがあるかぁ! か弱い老人様ニャンにゃぞ! 骨バッキバキにニャルにゃろがぁ! 骨粗鬆症ニャめるな若造ぉぉぉッ!」
「……ね」
「ニャ?」
「ね、猫がしゃべったぁああああああああ!」
俺は裏返った声で叫びながら尻もちをつくと、そのままの格好で這いずる様にして、必死で目の前の猫の姿をした何かから距離を取ろうとする。
だが、1DKの六畳間である。すぐに壁に背中をぶつけてしまった。
逃げ場のなくなった俺は、ザラザラした部屋の壁に背中を圧しつけながら、ガクガクと震える。
玄関にいた猫は、なおも背中の毛を逆立てながら、そんな情けない恰好の俺の事を睨みつけていた。
――と、
「――あ、そうか」
と呟くと、それまで取っていた臨戦態勢を解く。
「――へ?」
「いや~、いきニャり怒鳴られたので、つい頭に血が上ってしミャったニャ。すミャンね」
急に態度を変えた猫は、戸惑う俺にそう言うと、実に人間らしい仕草で頭を下げた。
「え? は? あ……いえいえ、こちらこそ……すみません」
つられて頭を下げる俺。
……あれ?
「って、違う! お…おま――アンタ、何なんだよ! 何で喋ってるんだよ! ね……猫の癖に!」
「まあ、話せば長い話ニャンだが」
我に返って声を荒げる俺に、そう答えると、子猫は自分の前足の甲を舌で舐める。
そして、舌で湿した前足で顔を拭いながら、しれっと言葉を継いだ。
「要するに、ワシが初鹿野伝蔵ニャんじゃ」
「……」
「……」
「…………」
「…………おい、ニャんか言え。気ミャづい」
「あ……これ夢か。そうだよね! 猫がペラペラ喋ってるなんて……こんな事、現実にある訳無いもんなぁ! いやー、二十三にもなってこんなメルヘンチックな夢見ちゃうなんて、俺もまだまだガキなアダダダダッ!」
現実逃避しながら早口で捲し立てた俺の声は、頬を抓ろうとした手の甲に思いっきり爪を立てられ、途中で悲鳴に変わる。
「い、痛ぇよ! 何するん――」
「ほれ、これで夢じゃニャい事が分かったじゃろ?」
俺の手の甲を突き刺した爪を舌で舐めながら、猫はサディスティックに目を細めてみせた。その顔と仕草は、マンガで良く出てくる、噛ませ犬 (猫だけど)のチンピラがナイフを舐める時のそれだった……。
――と、
おもむろに耳をペタンと伏せた彼は、がっくりと肩を落とし、大きな溜息を吐きながら言葉を継いだ。
「はぁ~……確かに、夢だったらどんニャに良かったことか……」
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俺の問いかけに、猫はゆっくりと頷くのだった。
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