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第一部二章 再動

方針と邪推

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 「お主に西上野の攻略を任せたのは、二年前――八幡原での戦いの後じゃ。しかし、未だに箕輪城は健在だ」

 口を真一文字に結んで黙りこくる義信に対し、淡々とした声で言葉を紡ぐ信玄。

「あの長野業正も、既に鬼籍に入った。今、箕輪の城を守るのは、業正の息子――まだ年若い業盛だ。しかし、西上野の攻略は遅々として進まぬ。なれば、この儂が自ら軍を率いて――」
「お……お待ち下され、お屋形様!」

 信玄の言葉を慌てて遮ったのは、義信の傍らに座った飯富虎昌だ。彼は義信の守役の為、当然、義信の副将として西上野攻略の陣に加わっていた。
 虎昌は、血走らせた目で信玄を睨めつけるように見ながら、声を震わせながら言った。

「た、確かに、箕輪はまだ陥とせてはおりませぬが……、先月、別働の真田弾正殿が、岩櫃城いわびつじょうを攻略致しました。若殿の指揮の下、西上野の掌握は着実に進んでおります!」

 岩櫃城は、上野の北西部・吾妻郡に位置する山城である。そそり立つ岩櫃山の岩肌と麓を流れる吾妻川の急流によって守られた、天然の要害だ。
 この城の攻略を担当した真田幸綱は、謀略を駆使して家臣たちの離間を謀っており、先月、城主斎藤憲弘が武田方へ内応した家臣によって城を逐われた事により、終に陥落させる事に成功した。
 それは紛れもなく、武田家の西上野制圧の大きな前進を意味するものであったのだが、

「それは、喜ばしい事であるが」

 と、信玄は虎昌の言葉に頷いたものの、その言葉とは裏腹に、その顔に喜色を浮かべる事は無かった。

「……西上野の肝が、あくまでも箕輪なのは、そなたたちも心得ておるであろう。儂は、業正亡き今なれば、遅くとも今年中には箕輪を攻略できると踏んでおったのだがな。既に碓氷峠辺りの山々には雪が降り積もり、春になるまで越山も叶わぬ」

 『保って、せいぜいあと数ヶ月といったところだ』――信繁は、昏睡から目覚めて、初めて信玄が見舞いに来た時に言っていた言葉を思い出す。
 信玄は、決して出来ない目標を口には出さない。それは、弟として、副将として傍らに立って、ずっと彼の事を見ていた信繁には既知の事だった。
 そんな、慎重派の信玄が立てた、最低限の想定すら下回る西上野侵攻の進捗状況に、彼が内心で苛立っている事は想像に難くない。
 居並ぶ重臣たちも、信玄が胸に秘めた憤懣たる思いを察したようだ。
 大広間が、重苦しい沈黙に包まれる。
 ――その時、

「――恐れながら、お屋形様」

 そう言って手を上げたのは、難しい顔をした馬場民部信春であった。
 その声に、信玄が眉を動かし、視線を信春に向けると小さく頷き、発言を赦す。
 信春は、手をついて一礼すると、厳かに口を開いた。

「箕輪城は、関東でも指折りの堅城で御座います。確かに、長野業正は死にましたが、城内の結束が固い内は、容易く破れるものでは御座いませぬ。――なればその、人と人との結束を内側から崩していく……真田殿や若殿が採られている策に間違いは御座いませぬ。ただ――」

 信春は、顎髭を撫でながら言葉を継ぐ。

「得てして、そういった、人の心に種を蒔いて、疑心の芽を芽吹かせるのには時間がかかるもので御座る。――なれば、もう少し長い目で、ご自身の後継者たる若殿の采配を見守られるのも、武田家の総領であるお屋形様のお役目の内かと存じます」
「……」

 武田家の宿老として、毅然と当主に意見した信春の言葉に、信玄は仏頂面になって黙り込んだ。
 再び、評定の場に重苦しい沈黙が垂れ込める。
 ……と。

「……お屋形様は、何故にそこまで焦っていらっしゃるのですか?」

 その沈黙を破ったのは、義信だった。
 嫡男の発した言葉に、信玄の太い眉がピクリと跳ね上がり、彼はギロリと息子に鋭い視線を向ける。
 義信は、信玄から向けられた刺し貫かれそうな鋭い視線にも怯む事無く、己の敢然としたそれを合わせた。一瞬、二人の親子は、まるで刃を以て戦場で対峙するかのような緊張感を以て、互いに睨み合う。
 と、信玄は、その目を伏せた。彼は大きく溜息を吐くと、落ち着いた低い声で言う。

「……焦っている? ――儂がか?」
「ええ」

 信玄の問い返しに、大きく首肯する義信。

「お屋形様は、一刻も早く、上野、そして北信濃の地を片付けようとして、些か性急になられておられるように思います。故に、私の采配を、そのように悪し様に言われるのでしょう」
「……若殿!」

 義信の強い言葉に、隣の虎昌が慌てた様子で彼の袖を引くが、彼の口は止まらない。

「――さて、そのように急いで、上野……そして北信濃を固めた後は、お屋形様はどちらへ軍を向けられるのでしょう? ――北の越後 (現在の新潟県)? いいえ、それは違うでしょうな。――であれば、東上野と、その先の下野しもつけ(現在の栃木県)か? ……否。それは、上杉はもちろん、小田原の北条氏康殿をも刺激する事になります故、あり得ませぬ」
「……」
「……であれば、西の美濃 (現在の岐阜県)ですか? 一昨年に斎藤義龍が身罷った後、年若い龍興が家督を継いでおりますが、その国情は些か乱れておる様子。南からは尾張の織田が攻めかかりつつあります故、漁夫の利を狙って、東から我々が侵攻すれば、美濃の半分は獲れる……」

 義信は、そこまで言うと、言葉を止めた。その顔色は、先程までとは違って、紙のように白い。そして、その血の気の引いた顔の真ん中で、目だけが血走り、まるで熱病に浮かされたかのように爛々と輝いていた。
 彼は、舌を出して唇を濡らすと、覚悟を決めて、次の言葉を吐く――。

「……或いは――み、南の――!」
「若殿ッ!」

 義信の言葉を、先程に倍する声量で、虎昌が止めた。
 彼は、節くれ立った指で、義信の手首を強く掴み、厳しい声色で一喝した。

「若殿! それ以上はなりませぬ! それ以上はッ!」
「……!」

 虎昌の強い声と、手首に食い込む指の痛みで、義信はハッと我に返った様に目をしばたたかせる。

「……し、失礼致した」

 義信は、おもむろに信玄に向かって深々と頭を下げると、フラフラと立ち上がった。

「わ……私は、些か気分が優れませぬ。――これにて、御免仕ります……」

 そう、呟くように言うと、彼はクルリと身体を返し、信玄の返事も待たずに、覚束ない足取りで大広間を出て行く。

「わ……若殿……!」

 と、彼の後を追おうと、虎昌をはじめとした数人が腰を浮かそうとするが――、

「ならぬ!」

 首座の信玄の怒気を孕んだ一喝に、場の一同は固まった。

「捨て置け! 今は重要な評定の最中じゃ」

 と、信玄は口をへの字に曲げたまま、憤然と言い捨てる。
 まるで不動明王の如く、その背後から憤怒の炎が吹き出してきそうな当主の剣幕には抗うべくもなく、居並ぶ重臣たちは座り直すが、互いに困惑に満ちた顔を見合わせた。
 殊に虎昌は、唇まで真っ青になり、茫然とした表情を浮かべて、義信が出ていった襖の方をじっと見つめている。

(……はて)

 信繁は、そんな主君あにと家臣たちの様子を見ながら、妙な既視感に心を苛まれていた。

(――この様な光景……以前にも……?)
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