甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第一部三章 出陣

穴山と今川

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 信繁の直接的な問いかけに、信玄は瞑目し、口をへの字に結んだ。
 再び、重苦しい沈黙がふたりの間を揺蕩たゆたう。

(……さあ、どう返される?)

 信繁は、瞬きも忘れて、少しの変化も見逃すまいと正面の兄の顔を凝視する。
 と、信玄が、閉じていた眼を開く。
 そして、信繁の顔をジロリと見ると――首を傾げた。

「……おかしいのう」
「――おかしい?」

 信玄の言葉に、信繁も同じように首を傾げる。
 そんな弟を前に、信玄はキョトンとした顔を向け、頷いた。

「うむ……。確かに、先年の大雨で駿州往還の一部が崩れ、そのをしたいと、彦六郎から申し出があり、裁可した覚えはあるが……。もしや、彦六郎の奴、今川側に話を通しておらんのか?」
「彦六郎が――?」

 信繁は、信玄の答えに困惑の表情を浮かべた。
 ……が、

(……やはり、穴山を隠れ蓑に仕立てたか)

 信玄が発したその答えは、彼の想定した通りのものだった。

 ――彦六郎とは、甲斐河内地方 (現在の南巨摩郡付近)の穴山氏の当主・穴山陸奥守信君の通称である。
 穴山氏は、河内地方を治める国人領主である。武田氏に帰順はしているが、完全な臣従はしておらず、独自の家臣団を持ち、半独立を守っていた。穴山家が執り仕切る河内地方には、武田家に害を為す事がハッキリした事案を除き、武田家当主といえどもみだりに口出しが出来ないのだ。
 また、同時に、穴山氏と武田氏は二代にわたる婚姻関係を築いていた。当主信君の母は信玄の姉、そして妻も、信玄の次女・藍であった。
 それはもちろん、甲斐国内で武田家とは別の支配形態を維持している穴山家を、血の繋がりで武田家臣団へ組み込もうとする意図の元で成り立った婚姻である。
 そして、この姻戚関係により、穴山家は武田家臣団の中で“半独半従の領主”であり、かつ“武田親族衆の一員”でもあるという異色の存在となったのだ。

 信繁は、ふうと息を吐くと、顎に指を当てた。そして、上目遣いに信玄を見て言う。

「……つまり、この度、今川方が問い質してきた“駿州往還の道普請”とは、あくまで穴山陸奥守が主導して行っているもので、武田宗家としては、一切関知していない――そういう事ですか」
「――ああ」

 信繁の言葉に、涼しい顔で首肯する信玄。

「……もちろん、駿州往還は、駿河側にも繋がる太い道じゃ。当然、儂に言ってきたのと同様に、彦六郎が既に氏真殿の方へも断りを入れているものだと思っておったが、していなかったという事か……。それなら、寝耳に水の今川方が慌てて書状を寄越してくるのも当然だな。……彦六郎め――まったく、迂闊な奴よ」
「……」

 憤慨した顔で、饒舌に捲し立てる信玄の顔を見据えながら、信繁は(白々しい事を仰る――)と、内心で舌打ちした。
 信玄は、道普請の事を全て穴山家が独断で行った事で、穴山信君が今川家への連絡を怠っただけだと主張し、自分は知らぬ存ぜぬを通すつもりなのだ。
 ……恐らく、内密に行っている道普請が今川方に露見した場合に備えて、予め用意していた釈明なのだろう。そして、それは穴山信君も承知していて、既に裏で口裏を合わせているに違いない。
 であれば……これ以上、道普請に信玄が噛んでいる、という事を追及する事は難しいだろう。
 ――ならば、

「左様でござるか」

 信繁は、そう呟くと大きく頷いた。

「――であれば、その旨を書状にしたため、朝比奈殿へと送りましょう。文面は某にお任せ頂いて宜しいですか?」
「……うむ」
「あと――」
「――うん?」

 信繁が言葉を継いだ事に、信玄はピクリと眉を上げた。その表情には、微かな緊張が垣間見える。
 そんな兄の表情には気付かないフリをして、信繁はさも深刻そうな表情を浮かべて言った。

「今回の件は穴山陸奥守の怠慢だとしても、今川方に、当家に対する要らぬ疑念を抱かせてしまった事は確かでござる。ここは、今川家の心情を慮って、道普請自体を取り止めさせるべきではありませぬか?」
「取り止めさせる? ――道普請の全てをか?」

 その進言に、信玄の顔が朱に染まった。
 彼は、膝を拳で叩くと、興奮した口調で捲し立てる。

「何故だ? 連絡が行き届かなかったのであれば、彦六郎に、追って駿府にも伝えるように命じれば良いだけの話であろう! 何故、道普請自体を取り止める必要があるのだ?」
「それでは、今川殿も収まりますまい。なあなあで事後確認を認めさせられたという、穴山と武田に対するしこりを残す事となります。ここは、一度普請を白紙に戻して、両家摺り合わせの上で、改めて再開するのが筋でありましょう」
「……そんな悠長な事をしていられるか! 穴山も、既に数多の人夫を雇い入れて、普請に取りかかっておるのだ! それを今さら――」
「――で、あれば」

 逆上する信玄を前に、あくまでも沈着冷静な態度を崩さずに、信繁は言った。

「その普請の場を、今川側の者にも実見して頂いた上で、納得して頂く事が必要かと思われます。でなくば、今川の、当家に対する疑念は晴れそうもありませぬ」
「……典きゅ――!」
「……!」

 信繁は、信玄の刺すような鋭い視線を、その隻眼で真っ直ぐに見返しながら、静かに呼びかけた。

「……」
「太郎の事をお考えなされよ。万が一、今、駿府と事を構えたら、太郎の立場はどうなりますか!」
「……」

 信繁は、左目を爛々と光らせながら、信玄あにの顔を見据えた。
 彼の言葉と、決して退かないという決意の籠もった態度を前に、信玄は大きく目を剥いた。真一文字に結んだ口の中から、ギリギリと、奥歯を噛み締める音が聞こえた。
 暫しの間、火鉢を挟んで対峙するふたりの兄弟は、身じろぎもせずに睨み合う。
 ――そして、

「……相解ったッ!」

 信玄は吐き捨てるように叫ぶと、憤然とした顔で勢いよく立ち上がった。
 そして、座ったままの信繁を睨みつけると、嗄れた声を張り上げる。

「穴山には、即刻普請を取り止めるよう申し伝える! お主は、その旨を書状にて今川に伝えるが良い!」

 それだけ言い捨てると、クルリと踵を返し、そのまま荒い足音を立てながら、振り返りもせずに部屋を出ていった。
 ピシャンッと荒々しい音を立てて、襖が閉められる。

「……ふう」

 ひとり、部屋に残された信繁は、大きく溜息を吐くと、天井を見上げた。
 緊張で強張った、首と肩が痛い。
 彼は顔を上に向けたまま、火鉢の火に照らされ、赤く浮かび上がる天井の木目を眺めながら、ぼんやりと考えていた。

(……これで良かろう)

 これで道普請は、当分の間、止まる事になるだろう。今川からの抗議を受けた上で、更に普請を続けようとすれば、甲駿の外交における大きな問題に発展する。現在の情勢では、信玄もまだ今川との仲を悪化させる事を良しとはしないだろう。
 ……そう、

(……やはり、お屋形様は、ゆくゆくは今川と――)

 おもむろに、信繁は寒気を感じた。
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