甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第一部三章 出陣

出陣と禁

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 永禄七年六月吉日――。
 信繁は、自邸の玄関にて、黒の具足に身を包み、玄関の上がりかまちに腰を下ろして、従者に草履の紐を結ばせていた。
 この具足を纏うのは、三年前――川中島の戦い以来だ。九ヶ月前に目を醒ましてから、暇さえあれば身体を動かして体力と筋力を取り戻してきたが、やはりまだ戻りきっていないのだろう。久々の具足の重さに負けて、彼の動きは鈍い。

「……主様」
「――桔梗か」

 背中越しに声をかけられ、信繁は振り向く。
 いつもよりも、ほんの少し念入りに化粧を施した妻が、僅かに目を潤ませて立っていた。
 その顔を見た信繁は、にこやかな微笑みを浮かべる。

「おいおい、どうした。そのように沈んだ顔を見せられては、儂も不安になってしまうぞ」
「……も、申し訳御座いませぬ」

 信繁の冗談めかした優しい声に、桔梗はハッとした様子で目尻を拭うと、彼にいつもの穏やかな笑みを向けた。

「……いってらっしゃいませ、主様。――ご武運を」
「おう。お主も息災でな。――留守の間、宜しく頼む」

 ふたりの間で交わされる、いつものやり取り――。が、桔梗は、感情を抑えきれなくなったように、その笑みを崩した。
 彼女は唇を噛み、必死で涙を堪えながら、信繁に必死で訴えかける。

「――主様……! どうか……どうか、ご無理はなさらず! 生きて……元気で戻ってきて下さいまし……!」
「桔梗――」

 桔梗は不安だったのだ。このまま夫を見送って、また三年前のような――いや、もっと酷い姿になって帰ってくるのを迎えなければならなくなるのではないか――と。あの時、彼女の胸をいっぱいに満たした、悲しみと恐怖、そして絶望は、今でも決して忘れる事が出来ない。

『行ってほしくない。戦なぞ放っておいて、ずっと自分の傍で微笑わらっていてほしい……』

 ――武士の妻として、決して口にしてはならない言葉が、今にも口元から溢れ出そうなのを、必死で抑え込む。
 信繁にも、そんな桔梗の想いは痛いほど解っていた。思わず手を伸ばして、彼女の身体を強く抱きすくめようとするが、『出陣の前、三日間は女性に触れてはいけない』という、古来からのしきたりが頭を過ぎって、その手は中途で止まった。
 仕方が無いので、彼は満面の笑みを顔面に貼り付けて、妻を安心させようと口を動かす。

「……その様に、心配せずとも良い。此度の出陣は、城をひとつ攻め落とすだけの小さな戦だ。実際のところ、儂らは後方で陣を構えているだけで終わってしまうであろうよ」
「父上の仰る通りでございますよ、母上」

 信繁の横に立っていた、翠の具足を纏った若武者――嫡男・信豊が、母親を元気づけようと、力強く頷きながら言った。

「それに――此度においては、父上の横には某と、それに喜兵衛もおります。父上の事はお任せ下さい。我が命に代えましても、父上の身はお守り致します。――幸実のように」
「――!」
「おい! 六郎次郎!」

 胸を張る信豊の言葉に、桔梗の顔色が青ざめた。それに気付き、険しい声で咎める信繁。

「儂が生きても、お主が死んでしまったら、桔梗……母は悲しむに決まっておろう! 儂の身だけでは無い、お主自身の命も大切にするのだ! ――間違っても、その様な事を親の前で言うのではない!」
「あ……はい!」

 信繁に叱られ、ハッとした顔をして、ふたりに向かって頭を下げる。

「……浅慮で御座いました。父上の仰る通り、皆で無事に戻って参ります」
「……うむ。そういう事だ。桔梗よ――安心して、ここで待っておれ。よいな」
「……は、はい――」
「ちーちーうーえ~!」

 信繁の言葉に桔梗が頷こうとした時、彼女の背後から小さな影が飛び出し、とてとてと足音を立てながら、信繁に向かって突進してきた。

「あ――! いけません、綾……!」

 気付いた桔梗が、慌てて捕まえようと手を伸ばすが、その背中には届かない。

「ちちうえッ!」

 と、可愛らしい声を張り上げながら、信繁の娘・綾は、彼の脚にしがみつく。

「「あ――ッ!」」

 桔梗と信豊が、顔を真っ青にして叫んだ。
 いかに、齢六歳といえど、綾は歴とした女子。彼女が信繁に抱きついた瞬間、『出陣三日前からは、女に触れてはならぬ』という禁が破られてしまったのだ。縁起を担ぐ武家の者としては、看過できない一大事だ。
 そんな大人たちの狼狽をよそに、綾は、父の太腿をしっかりと抱き締めながら、その可愛らしい顔を見上げた。
 その、大きな黒い瞳を涙で潤ませながら、彼女は必死に、父に向かって訴えかける。

「ちちうえ……あやは、さみしいのです」
「……綾」
「……でも、がまんするのです。あやは、つよいちちうえのこです……」
「……」
「――あやはいいこにしてるので、ちちうえも……ぜったい――ぜったいに、かえってきてください……やくそくです!」
「……綾っ!」

 今にも泣き出しそうになりながらも、必死で堪えて言葉を紡ぐ娘の様子に、信繁は顔をくしゃくしゃにして、しゃがみ込むや否や、彼女の身体を固く抱き締めた。

「相解った! その約束、父は必ず守り抜こうぞ! 儂は必ずお主の元へ帰ってまいる! だから、綾も母上と一緒に、良い子にして待っておるのだぞ! これも、約束だ!」

 そう言って、満面の笑みを浮かべて、綾のおかっぱ頭を優しく撫でた。綾も「はいっ!」と答えると、父の首に抱きついた。
 そして、信繁は顔を上げると、桔梗に手招きした。

「さあ、お主も参れ、桔梗!」
「え――? は……い、いえ……それは……」

 だが、桔梗は二の足を踏む。もちろん、本心はすぐにでも信繁に縋り付きたいところだったが、“出陣前の女禁”が脳裏に過ぎったからだ。
 そんな彼女の様子を見た信繁は、笑って首を振った。

「良い! 女禁など、ただの縁起担ぎだ。――第一、綾によって、既に禁は破られておる。今さら、ひとりもふたりも変わらぬさ」
「……で、ですが……」
「……ええい、良いと言うに!」

 逡巡する桔梗の態度に痺れを切らした信繁は、綾を抱き上げ、おもむろに立ち上がり、上がり框の上に上がった。
 そして、立ち竦む桔梗の身体を、綾ごときつく抱きしめる。

「! ――あ、主様……い、いけませぬ――」
「何がいけない事がある?」

 顔を真っ赤にしたり真っ青にしたりして、夫の抱擁から逃れようとする桔梗を決して逃すまいと、抱き締める腕に力を込めながら、信繁は力強く言う。

「妻と娘に触れた程度で死ぬものか! 何度でも誓おうぞ。儂は、必ず桔梗と綾の元へと帰ってまいる! この誓いは、たとえ、地獄の閻魔大王にだろうと、決して曲げさせぬ! 儂には、こんなに美しい菩薩様が、ふたりもついておるのだからな!」
「……主様……」
「――だから、ふたりとも、安心して待っておれ。この武田左馬助信繁、御旗楯無に誓って、必ず誓いを果たす所存だ。……良いな、桔梗、綾」
「「……はいっ!」」

 信繁の言葉に、母子は目から大粒の涙を零しながら、彼の身体に抱きついた。
 ――微笑みを浮かべて、胸の中で泣きじゃくるふたりの頭を優しく撫でながら、信繁は思いを新たにする。

(……そうだ。ふたりの流した涙を裏切らぬよう、必ず生きて帰らねば――な)
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