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第一部三章 出陣
御旗と楯無
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躑躅ヶ崎館の大広間には、物々しい軍装に身を包んだ武者たちが、微動だにせずに立ち並んでいた。
信繁もまた、居並ぶ家臣たちの先頭に立ち、彼らと向かい合う形で立つ、甲冑の上に赤い羽織と袈裟をかけた僧形の男の顔をじっと見つめる。
「皆の者、ご苦労である」
その場に居る全ての男たちの視線を一身に受けながら、武田家当主・武田信濃守大膳太夫晴信入道信玄は、重々しく言葉を紡ぐ。
「――我らは、これより出陣し、上野箕輪城を落としに行く。皆も既知のように、関東随一の堅城との呼び声も高い城だ。実際、数年前より、幾度にわたって攻め込んだが、箕輪の地の利、そして“上野の黄斑”長野業正率いる城兵の士気が高い事も相俟って、落城させるには到らなかった」
信玄は、そこで言葉を切ると、居並ぶ武将たちの顔をゆっくりと見渡す。
その先頭に立つ信繁と、嫡子義信の顔に目を移すと、大きく息を吸い込み、言葉を継ぐ。
「――だが、先年、業正が死に、年若い業盛に代替わりした事で、状況は我々の方へと靡いた! 絶対的な柱であった業正を失い、西上野の結束は、大いに乱れておる」
そこまで言うと、信玄は乾いた咳をひとつして、懐紙で口元を拭った。そして、拭いた懐紙を控えていた近習に手渡すと、更に言葉を続ける。
「……永禄四年以降、西上野は我が嫡子・太郎義信に任せておったが――」
信玄の言葉に、ピクリとその身を震わせたのは、義信だ。
信繁は、それを横目で見止めて、表情を曇らせる。
(……やはり、箕輪攻めの総大将を下ろされた事が堪えているようだな……)
今回の箕輪城攻めに、信玄自らが出馬する事になった為、必然的に義信は副将格へと降格する事になった。
川中島の戦いで叱責されて以来、関係が悪化してしまっている父・信玄に認められようと、精力的に進めていた西上野攻略戦の中心から外されてしまった事に、彼は大きな失望と喪失感を抱いてしまっている。
そんな様子の嫡男をよそに、信玄は、より一層声を張り上げる。
「――その抜群の働きにより、岩櫃城をはじめとした、西上野にある主要な拠点は既に武田の手に落ちた! 残すは箕輪の城のみだ! 此度の戦で確実に箕輪の息の根を止める為、此度は義信に加えて、儂自ら出陣するものである!」
「……!」
信玄の口から発せられた意外な言葉に、義信は驚きの表情を浮かべて顔を上げた。その目は大きく見開かれ、頬は紅潮している。
そんな息子に小さく頷きかけた後、信玄は、横目で信繁を見て目配せをした。
(……これで良いのだろう、次郎?)
彼の目は、そう言っている。
信繁は、そんな兄に、僅かに頷いた。
(……それで結構ですよ、兄上)
――そう。この演説の場で、敢えて義信の武功について触れるよう、事前に信玄に促したのは、他ならぬ信繁であった。
総大将を下ろされた形になり、いよいよ父に疎まれていると信じ込み、沈んでいる義信の気持ちを解きほぐし和らげる為。そして、親子の不仲を疑いはじめ、動揺しつつある家臣団の疑念を解消する為には、信玄自身の口から、義信を称える言葉が紡がれる事実が必要だった。
その狙いは当たったようだ。
信繁から見える義信の横顔は、先程までとは打って変わって、生気に溢れたものになっていたし、背後に立ち並ぶ家臣たちの間からも、安堵の息が漏れるのが感じられた。
(……これで、ふたりの関係が良くなれば良いのだがな……)
親子の仲は良いに越した事は無い――。信繁は、心からそう思った。
と、
「なお――」
そんな信繁の内心をよそに、信玄の演説は続く。
「此度の戦、我が四男、諏訪四郎勝頼の初陣でもある。皆の者、宜しく頼む」
その言葉に、おお……と、家臣たちの中から、微かなどよめきが上がった。
「――四郎」
信玄に呼ばれ、藍色威の真新しい具足に身を包んだ白皙の若武者が、皆の前に進み出る。
その堂々とした偉丈夫ぶりに、ほう……と、溜息が漏れ聞こえた。
皆を前にして、四郎は緊張の面持ちで、小さく頭を下げた。
そして、真っ直ぐ前を見て、凜と澄んだ声を張り上げた。
「――諏訪四郎勝頼に御座る! 各々方、以後、どうぞお見知りおきをッ!」
勝頼の短い言葉に応じて、家臣たちが一斉に「おうっ!」と叫んだ。
信繁は、ふと気になって義信の顔を見たが、彼の顔には特段の変化は無く、彼は密かに胸を撫で下ろす。
一方、信玄は満足そうに頷き、勝頼に声をかける。
「うむ。勝頼、存分に励むが良いぞ。――下がってよい」
「――はっ」
勝頼は、信玄に向かって一礼すると、颯爽とした足取りで、元の立ち位置へと戻っていく。
その後ろ姿を満足そうに眺めた後、信玄は、クルリと皆に背中を向けた。
そして、大広間の奥に安置された、一領の大鎧と、日の丸をあしらった軍旗に正対して立つ。
“御旗楯無”――それが、その旗と鎧の名前である。
武田家の家祖・新羅三郎義光から代々受け継がれた重代の秘宝であり、武田家の中で神格化されていた。武田家にとっての神器に等しい“御旗楯無”の前で誓った事は、絶対に成し遂げなければならない。
出陣の際には、御旗楯無の前で、全家臣が声を上げて、必勝を誓う――それが、武田家代々の慣習となっていた。
「……」
信玄が両手を広げて上げる。居並ぶ家臣たちも、信玄に倣って両手を上げた。
信玄は大きく息を吸い、腹の底から響く大音声で、祝詞を言上した。
「御旗楯無も御照覧あれ!」
「「「御照覧あれッ!」」」
信玄に続いて、全家臣が声を張り上げる。その、鬨の声のような夥しい声の奔流に、屋敷が震える。
そして、信玄は皆の前に向き直った。
戦へ向かう興奮で上気した顔を巡らし、居並ぶ家臣の顔をじっくりと睨め回して、彼は大きく頷き、叫んだ。
「うむ! 各々方、参るぞッ!」
「「「応ッ!」」」
彼の力強い言葉に、家臣たちも、気合が入った声で応えた。
――この瞬間、
武田氏による、最後の西上野平定戦は始まったのである。
信繁もまた、居並ぶ家臣たちの先頭に立ち、彼らと向かい合う形で立つ、甲冑の上に赤い羽織と袈裟をかけた僧形の男の顔をじっと見つめる。
「皆の者、ご苦労である」
その場に居る全ての男たちの視線を一身に受けながら、武田家当主・武田信濃守大膳太夫晴信入道信玄は、重々しく言葉を紡ぐ。
「――我らは、これより出陣し、上野箕輪城を落としに行く。皆も既知のように、関東随一の堅城との呼び声も高い城だ。実際、数年前より、幾度にわたって攻め込んだが、箕輪の地の利、そして“上野の黄斑”長野業正率いる城兵の士気が高い事も相俟って、落城させるには到らなかった」
信玄は、そこで言葉を切ると、居並ぶ武将たちの顔をゆっくりと見渡す。
その先頭に立つ信繁と、嫡子義信の顔に目を移すと、大きく息を吸い込み、言葉を継ぐ。
「――だが、先年、業正が死に、年若い業盛に代替わりした事で、状況は我々の方へと靡いた! 絶対的な柱であった業正を失い、西上野の結束は、大いに乱れておる」
そこまで言うと、信玄は乾いた咳をひとつして、懐紙で口元を拭った。そして、拭いた懐紙を控えていた近習に手渡すと、更に言葉を続ける。
「……永禄四年以降、西上野は我が嫡子・太郎義信に任せておったが――」
信玄の言葉に、ピクリとその身を震わせたのは、義信だ。
信繁は、それを横目で見止めて、表情を曇らせる。
(……やはり、箕輪攻めの総大将を下ろされた事が堪えているようだな……)
今回の箕輪城攻めに、信玄自らが出馬する事になった為、必然的に義信は副将格へと降格する事になった。
川中島の戦いで叱責されて以来、関係が悪化してしまっている父・信玄に認められようと、精力的に進めていた西上野攻略戦の中心から外されてしまった事に、彼は大きな失望と喪失感を抱いてしまっている。
そんな様子の嫡男をよそに、信玄は、より一層声を張り上げる。
「――その抜群の働きにより、岩櫃城をはじめとした、西上野にある主要な拠点は既に武田の手に落ちた! 残すは箕輪の城のみだ! 此度の戦で確実に箕輪の息の根を止める為、此度は義信に加えて、儂自ら出陣するものである!」
「……!」
信玄の口から発せられた意外な言葉に、義信は驚きの表情を浮かべて顔を上げた。その目は大きく見開かれ、頬は紅潮している。
そんな息子に小さく頷きかけた後、信玄は、横目で信繁を見て目配せをした。
(……これで良いのだろう、次郎?)
彼の目は、そう言っている。
信繁は、そんな兄に、僅かに頷いた。
(……それで結構ですよ、兄上)
――そう。この演説の場で、敢えて義信の武功について触れるよう、事前に信玄に促したのは、他ならぬ信繁であった。
総大将を下ろされた形になり、いよいよ父に疎まれていると信じ込み、沈んでいる義信の気持ちを解きほぐし和らげる為。そして、親子の不仲を疑いはじめ、動揺しつつある家臣団の疑念を解消する為には、信玄自身の口から、義信を称える言葉が紡がれる事実が必要だった。
その狙いは当たったようだ。
信繁から見える義信の横顔は、先程までとは打って変わって、生気に溢れたものになっていたし、背後に立ち並ぶ家臣たちの間からも、安堵の息が漏れるのが感じられた。
(……これで、ふたりの関係が良くなれば良いのだがな……)
親子の仲は良いに越した事は無い――。信繁は、心からそう思った。
と、
「なお――」
そんな信繁の内心をよそに、信玄の演説は続く。
「此度の戦、我が四男、諏訪四郎勝頼の初陣でもある。皆の者、宜しく頼む」
その言葉に、おお……と、家臣たちの中から、微かなどよめきが上がった。
「――四郎」
信玄に呼ばれ、藍色威の真新しい具足に身を包んだ白皙の若武者が、皆の前に進み出る。
その堂々とした偉丈夫ぶりに、ほう……と、溜息が漏れ聞こえた。
皆を前にして、四郎は緊張の面持ちで、小さく頭を下げた。
そして、真っ直ぐ前を見て、凜と澄んだ声を張り上げた。
「――諏訪四郎勝頼に御座る! 各々方、以後、どうぞお見知りおきをッ!」
勝頼の短い言葉に応じて、家臣たちが一斉に「おうっ!」と叫んだ。
信繁は、ふと気になって義信の顔を見たが、彼の顔には特段の変化は無く、彼は密かに胸を撫で下ろす。
一方、信玄は満足そうに頷き、勝頼に声をかける。
「うむ。勝頼、存分に励むが良いぞ。――下がってよい」
「――はっ」
勝頼は、信玄に向かって一礼すると、颯爽とした足取りで、元の立ち位置へと戻っていく。
その後ろ姿を満足そうに眺めた後、信玄は、クルリと皆に背中を向けた。
そして、大広間の奥に安置された、一領の大鎧と、日の丸をあしらった軍旗に正対して立つ。
“御旗楯無”――それが、その旗と鎧の名前である。
武田家の家祖・新羅三郎義光から代々受け継がれた重代の秘宝であり、武田家の中で神格化されていた。武田家にとっての神器に等しい“御旗楯無”の前で誓った事は、絶対に成し遂げなければならない。
出陣の際には、御旗楯無の前で、全家臣が声を上げて、必勝を誓う――それが、武田家代々の慣習となっていた。
「……」
信玄が両手を広げて上げる。居並ぶ家臣たちも、信玄に倣って両手を上げた。
信玄は大きく息を吸い、腹の底から響く大音声で、祝詞を言上した。
「御旗楯無も御照覧あれ!」
「「「御照覧あれッ!」」」
信玄に続いて、全家臣が声を張り上げる。その、鬨の声のような夥しい声の奔流に、屋敷が震える。
そして、信玄は皆の前に向き直った。
戦へ向かう興奮で上気した顔を巡らし、居並ぶ家臣の顔をじっくりと睨め回して、彼は大きく頷き、叫んだ。
「うむ! 各々方、参るぞッ!」
「「「応ッ!」」」
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