甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第一部三章 出陣

戦場と大局

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 躑躅ヶ崎館を発った、信玄率いる武田軍は、若神子城から諏訪を通り、小県ちいさがたへと抜ける進路を取った。途中、諏訪にて、諏訪衆が勝頼の麾下に入る為に合流するなどもあり、甲斐府中を出てから五日後、塩田城 (現在の長野県上田市)に入る頃には、その軍勢は一万三千を超えていた。
 塩田城は、小県……いや、信濃国最大の規模を誇る城砦のひとつであり、その麓には塩田平を東西に走る鎌倉街道があった。
 鎌倉街道を東に行けば、碓氷峠を抜け、上野へと出る。逆に西へ行けば、川中島のある善光寺平を抜けて、越後へと到る。
 つまり塩田城は、信濃における戦略上の重要な拠点だったのである。


「お屋形様、ようこそおいで下されました。お疲れで御座いましょう。本殿にて、ごゆるりとお寛ぎ下さいませ」

 塩田城では、赤一色の軍装に身を包んだ飯富虎昌が、大手門にて主君を迎えた。塩田は地理上の要衝故、武田家譜代の中でも最強の部隊である“赤備え衆”を率いる飯富虎昌が城主に任じられていた。

「うむ」

 騎乗した信玄は、恭しく頭を垂れる虎昌に向けて鷹揚に頷き、ゆるゆると馬を進める。
 その後ろを、副将格である信繁と義信が並んで進んだ。
 更に、その後に続いて、武田軍の将兵たちが隊列を乱さず、粛々とついてゆく。
 信濃随一の大規模城砦である塩田城の各郭は、たちまち戦装束に身を固めた男たちで満ちた。


 夕餉を摂り、湯船にゆったりと浸かってさっぱりとした信玄は、自身の室に信繁と義信を呼び寄せた。
 少しして部屋に入ってきたふたりの姿を見て、白の夜着の胸をはだけて団扇で扇ぎながら、湯で火照った身体を冷ましていた信玄は、呆れたように言う。

「何じゃ、お主ら。その様な格好のままで……」

 信繁と義信は、信玄とは打って変わって、旅塵に塗れた軍装のままだったからだ。
 義信は、信玄の発した棘のある言葉に、ムッとした顔をするが、信繁は穏やかに苦笑して答える。

「申し訳御座らぬ。兵達の差配や、補充物資の手配などに追われておりました故、具足を脱ぐ余裕も無く、この様なむさ苦しき格好のまま、参上仕りました」
「そうか。――いや、別に咎めだてておる訳では無い。ご苦労だったな、ふたりとも。楽にしてくれ」

 信玄は、鷹揚に言うと、目線でふたりに座るように促した。
 信繁と義信は、一瞬だけ視線を交わして頷き合うと、腰に差していた刀を右脇に置き、信玄の前に並んで腰を下ろす。
 信玄は、ふたりが座るのを見ると、団扇を置き、夜着のあわせを整えた。
 そして、やや前屈みになると、声を顰めて切り出す。

「――明日は丸一日、この塩田に留まり、皆の疲れを癒やす事とする」
「はっ」

 信玄の言葉に、ふたりは小さく頷いた。
 諏訪から小県までの道のり――険しい山々の間を縫うようにして、塩田城まで到った武田軍の将兵たち。やはり、疲労は蓄積している。この後、鎌倉街道を東に進み、信濃と上野の国境くにざかいに聳える碓氷峠を越えなければならない。その難所を前に、将兵たちに休養を与え、英気を養わせるのは良策だといえた。
 と、信玄は、ふたりの顔を順に見回すと、ふたりとの間に信濃の地図を広げた。そして、団扇で塩田の地を指すと、言葉を継ぐ。

「そして、ここで軍をふたつに分ける」
「……軍を、分ける?」

 信玄の言葉を聞いた義信は、思わず耳を疑い、その目を見開いた。
 一方、隣に座る信繁は、落ち着いた顔のまま、小さく頷く。

「……やはり。一方を箕輪へ、もう一方を川中島に向かわせるのですな」
「うむ。さすがは典厩だな。読んでおったか、儂の考えを」

 信玄は、満足そうに口元を綻ばせた。
 信繁は、帯に差した扇子を抜くと、地図の一点を指した。

「箕輪の地は、西上野の要。ここを我らに落とされてしまっては、関東に進出したい越後の上杉にとっては、大きな痛手となります。当然、相応の救援を、箕輪に送り込もうとするでしょうな」
「ああ。もちろん、それは想定済みよ。そう思って、に邪魔をされぬよう、予め、出羽 (現在の山形県)の蘆名を動かそうとも思ったのだが、なかなか上手くいかぬようでな」
「――それで、我が軍の一部を川中島方面へ進め、上杉輝虎めの動きを牽制しようという訳ですな!」

 ようやく、ふたりの話す内容の意味に気付いた義信が、目を輝かせた。信玄は、嫡子の言葉に首肯する。

「川中島から、長尾の本城・春日山城までは、たったの二十里 (約80km)ほどだ。そんな至近に我が軍が展開したと知れば、景虎めも迂闊には箕輪へと向かえまい」
「なるほど……」

 義信は顎に手を当て、信玄の言葉にうんうんと聞き入っていたが、ふと不安げな表情を浮かべた。

「……もし、それでも越後勢が箕輪城の救援に向かってきたら……どうされますか?」
「――簡単な事よ。そうしたら、川中島の別軍が、海津の香坂や奥信濃の諸城から兵を掻き集めた上で、そのまま春日山城を落としに行けば良い」

 義信の疑問に、事も無げに答えたのは信繁だった。信玄もまた、深く頷いて、信繁の意見に同意する。
 信繁は、地図に落としていた目を上げると、信玄を真っ直ぐに見て問うた。

「して――、どの様に分けまするか? 軍をふたつに……」
「そうだな……」

 信玄は、口髭を撫でながら、半目を開けて、暫し考える。
 そして、考えが纏まると、その大きな目を開けて、決然と言った。

「――箕輪へは、儂と馬場、工藤らが一万の軍を率いて向かう。……初陣の四郎も連れて行く。――川中島へは、お主らふたりと、そして飯富兵部を付けた五千。その様に振り分けるとしよう」
「はっ。畏まりました」

 信玄の下知に、信繁は小さく答えて一礼をした。
 だが――、

「ち――父上! わ、私も、箕輪攻めに加わりとう御座います! 何とぞ……」
「……む?」

 義信の懇願に、信玄の太い眉がピクリと上がった。
 そんな父の表情の変化にも気付かぬように、義信は血相を変えて詰め寄る。

「も、元々、箕輪……西上野攻めは、私が父上から命ぜられていたもので御座る。せめて、落城の場に立ち会わせて頂きた――」
「たわけッ!」

 捲し立てる義信を、信玄は声を張り上げて一喝した。
 彼は、怒気を露わにして、怒声に竦む息子を睨みつける。

「お主は、ゆくゆくは一国の主となる男であろう! それなのに何だ? 己の意地だか矜恃だか知らぬが、たかが山城ひとつに拘泥しおって! 儂の跡を継ぐ気があるのなら、斯様な些末な戦場いくさばのみを見るのではなく、もっと大きな目で大局を見定めよ! それが、“国主”としての戦というものだッ!」
「……!」

 信玄の叱責に、顔面蒼白となり、唇を噛んで俯く義信。

「……若殿」

 そんな甥に、静かに声をかけたのは、信繁だった。
 彼は、興奮して荒い息を吐いている信玄に目配せすると、ゆっくりと諭すように義信に語りかける。

「お屋形様の仰る通りで御座る。お屋形様は、ただ単に、若殿を箕輪攻めから外した訳では御座らん。より重要な役割として、越後の上杉……長尾景虎への牽制の任を、若殿にお任せなさったのですぞ。別働隊の――お屋形様の名代みょうだいとして」
「……大将? ……名代――。そうか!」

 信繁の言葉を聞いた義信の顔に、赤みが差した。

「左様で御座ったか! この義信、しかと理解致しました! そういう事であれば、喜んでその任、承りましょうぞ! 父う――お屋形様のとして、川中島へ出張ると致します!」
「……あ、いや、大将は――」

 先程までとは打って変わって意気軒昂たる様子の義信に、当惑顔で何事か言いかける信玄。彼は、義信の隣に座る信繁の方へチラリと視線を送る。
 だが、信繁は小さく首を振って、それを制した。

「……」

 信玄は信繁の目が訴えかけた事の意味を察した。小さな咳払いをひとつ吐くと、義信を厳しい目で見据えて、厳かに言った。

「……うむ。別働隊の指揮は、お主に任せよう。長尾の動きをよくよく観察し、隙があるようならば、機を見て越後国内へ攻め込むも良い。――典厩は、太郎の補佐を頼む。……今、そなたも見たように、大将としては、まだまだ未熟なところもある故、しっかりと手綱を引いてやってくれ。――頼んだぞ」
「ハッ! 畏まりました!」
「畏まって御座る」

 信玄の命に、義信は嬉々として、信繁は落ち着いた所作で答える。
 信繁が顔を上げると、信玄が複雑な表情で、彼を見ていた。
 その目は、(別働隊は、お前に任せるつもりだったのだが……)と言いたげだった。
 ――信繁は、口元に微かな苦笑を浮かべると、そんな兄の視線を当然のように無視した。
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