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第一部四章 会戦
戦勝と先勝
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白波を立てながら流れる千曲川の川面が、真紅に染まる。
それは、手槍で突かれ、或いは腰刀で首を掻き切られ、または太刀で斬り捨てられた兵達の屍が流した血の色である。
雨宮の渡しを確保するべく、善光寺の本陣より攻め上ってきた、村上義清率いる上杉軍は、救援に現れた武田信繁と飯富虎昌が率いる武田軍と激しく衝突した。
上杉軍は、隊将の村上義清が自ら手槍を振るい、将兵を叱咤したが、いかんせん相手が悪かった。
彼が対峙したのは、精強な武田軍の中でも最強を謳われる“赤備え衆”だったからだ。
彼らは、巧みに騎馬を操り、馬上から的確に手槍を繰り出し、上杉の兵を次々と屠っていく。
その朱い羅刹の如き戦い振りを前に、上杉軍が浮き足立ち、そして潰走するまでには、然程の時間を要しなかった。
「え――ええいっ! 怯むな! ………退くなぁっ! 貴様ら――それでも、上杉の兵かァッ!」
ひとり奮戦する村上義清は、こめかみに青筋を立てながら怒鳴りつけるが、恐怖と焦燥に駆られた兵達の敗走を止める事は出来ない。
彼は、必死の形相で我先にと逃げはじめた兵達の濁流の中、茫然と馬上からそれらを目で追っていたが、やがてギリリと唇を噛み締めると、乗騎の手綱を操り、敗走の濁流の一滴となった。
上杉軍は、武田軍に包囲されながらも、不自然に開いた包囲の穴をこじ開け、這々の体で善光寺方面へと退却していったのだった。
――そして、
「エイ エイ オ――――ッ!」
上杉軍が去った雨宮の渡しに、武田軍の上げる勝鬨の声が響き渡った。
◆ ◆ ◆ ◆
「いや、緒戦は大勝利でしたな!」
その夜、雨宮の渡しに設けられた武田軍の本陣。その帷幕の中では、首実検を終えた信繁を中心に、虎昌や昌幸達が酒宴を催していた。
「上杉方の将兵を二百あまり討ち取ったのに対して、当方の損耗は数名。――我が赤備え衆は、矢傷や槍傷を負った浅手の者が十数名のみ。まずは上首尾といったところですかな? ワシャ見ましたぞ! 馬上の義清めが、真っ青な顔で逃げ去っていくのを! いつぞやの上田原や砥石城で討たれた、駿河殿 (板垣信方)や備中殿 (横田高松)の借りを返してやろうと思ったのだが、雑魚どもが邪魔で取り逃がしたのは残念であった。しかし、良いものを見られたわい!」
と、虎昌が赤ら顔に満面の笑みを浮かべながら言い、盃を呷った。
彼の言葉に、信繁も満足そうに頷く。
「うむ。取り敢えず、雨宮の渡しを上杉方に渡さずに済んで良かった。ココを抑えられては、我々と海津城との連携が絶たれてしまうからな」
「……若殿と六郎次郎殿、あとついでにウチの親父殿の方も、無事に“広瀬の渡し”を確保したようですしね」
と、盃を置いて、箸で肴をつつきながら、昌幸も言った。
つい先ほど、信繁達と分かれ、雨宮の渡しの上流にあるもうひとつの千曲川の渡し――“広瀬の渡し”に向かった武田義信と信豊の率いる第一軍が、敵方と交戦しつつ渡河に成功。その勢いを駆って、上杉軍を撃退し、広瀬の渡しを掌握したとの伝令が来たのだ。
――と、
「若殿は、兵一千を率いて、夕刻に海津城内へ入られた由に御座る」
そう、ボソリと報告したのは、虎昌の隣で徳利を傾ける、風采の上がらない小柄な男である。
「これ、源四郎! 戦勝の宴じゃぞ! もちっと楽しそうに呑まんか!」
虎昌は破顔しながら怒鳴るや、小柄な男の背中をバンと叩く。彼は、ちょうど盃を口の端に付けていたところだった為、当然のように酒が零れて、鎖帷子を濡らした。
「と――、兄上、零れてしまったではありませぬか……」
と、小男は、恨めしげな目で虎昌を睨むと、「勿体ない……」と呟きながら、手で拭き取った酒を舐め取る。
「おう、すまぬすまぬ……て、止めぬか、源四郎。貧乏くさいぞ!」
顔を顰めた虎昌は、そう言って小男を窘めた。
――この小柄な男は、飯富虎昌の実弟で赤備え衆の一員でもある、飯富三郎兵衛尉昌景である。その身長は、僅か四尺六寸 (約140cm)程の痩躯で、風采も冴えなかった。
だが、その常人に劣るような外見とは裏腹に、戦場では修羅の如く縦横無尽に暴れ回り、武田家の中でも一・二を争う武勇を誇っている。
今日の戦いでも、上杉軍を次々と討ち取り、その朱の鎧を敵の返り血で更に紅く染め、数珠繋ぎにした敵の首を持って、涼しい顔をして首実検の場に現れたのだった。
……だが、戦場以外では、何処か抜けたような表情の、朴訥とした男である。
昌景は、空になった盃にもう一度酒を注ぎ、チビリと口に含むと、兄をジロリと見てボソリと言った。
「……というか、“戦勝”と浮かれるには、まだ早いのでは御座らぬか?」
「む――? げ、源四郎! 貴様、急に何を言う――!」
昌景の言葉に、虎昌は顔色を変えた。唇を戦慄かせながら、怒鳴りつけようと大きく息を吸うが――、
「――うむ、三郎兵衛の言う通りだ」
上座の床几に座った信繁が、昌景の言葉に賛意を示した事で二の句が継げなくなり、目を白黒させながら押し黙った。
信繁は、肴の梅干しを口に含むと、静かな口調で言った。
「……まだ、緒戦も緒戦。敵の先鋒を、一時的に退けたに過ぎない。本格的な戦いはこれからだ。――何より」
と、信繁は一旦言葉を措き、居並ぶ諸将の顔を見回しながら言った。
「善光寺の上杉方の本陣に居るのは、上杉輝虎本人だ。……自らを“軍神”を標榜するあの男がいる限り、鴻毛ほどの油断も出来ぬ」
信繁の一言一句に、虎昌や昌幸らは、その顔を引き締めた。
――彼らの脳裏に、三年前の八幡原の惨状の様子が過ぎる。
信繁の言う通りだ。
上杉輝虎という神がかった男の率いる軍を前にして、慢心は命取り……それは、嫌というほど身に沁みて知っている。
“油断禁物”――その事を、一同は改めて肝に銘じる。
――すっかり静まり返った諸将を前に、彼は無意識に右頬の傷を擦りながら、厳しい声で言葉を続けた。
「各々方……儂らの役割は、お屋形様が箕輪を落とすまで、上杉をこの川中島に釘付けにする事だ。徒に功名に走る事無く、且つ、慎重になるあまり臆病になる事も無く、上杉に対していこうぞ。――抜かりなく、な」
それは、手槍で突かれ、或いは腰刀で首を掻き切られ、または太刀で斬り捨てられた兵達の屍が流した血の色である。
雨宮の渡しを確保するべく、善光寺の本陣より攻め上ってきた、村上義清率いる上杉軍は、救援に現れた武田信繁と飯富虎昌が率いる武田軍と激しく衝突した。
上杉軍は、隊将の村上義清が自ら手槍を振るい、将兵を叱咤したが、いかんせん相手が悪かった。
彼が対峙したのは、精強な武田軍の中でも最強を謳われる“赤備え衆”だったからだ。
彼らは、巧みに騎馬を操り、馬上から的確に手槍を繰り出し、上杉の兵を次々と屠っていく。
その朱い羅刹の如き戦い振りを前に、上杉軍が浮き足立ち、そして潰走するまでには、然程の時間を要しなかった。
「え――ええいっ! 怯むな! ………退くなぁっ! 貴様ら――それでも、上杉の兵かァッ!」
ひとり奮戦する村上義清は、こめかみに青筋を立てながら怒鳴りつけるが、恐怖と焦燥に駆られた兵達の敗走を止める事は出来ない。
彼は、必死の形相で我先にと逃げはじめた兵達の濁流の中、茫然と馬上からそれらを目で追っていたが、やがてギリリと唇を噛み締めると、乗騎の手綱を操り、敗走の濁流の一滴となった。
上杉軍は、武田軍に包囲されながらも、不自然に開いた包囲の穴をこじ開け、這々の体で善光寺方面へと退却していったのだった。
――そして、
「エイ エイ オ――――ッ!」
上杉軍が去った雨宮の渡しに、武田軍の上げる勝鬨の声が響き渡った。
◆ ◆ ◆ ◆
「いや、緒戦は大勝利でしたな!」
その夜、雨宮の渡しに設けられた武田軍の本陣。その帷幕の中では、首実検を終えた信繁を中心に、虎昌や昌幸達が酒宴を催していた。
「上杉方の将兵を二百あまり討ち取ったのに対して、当方の損耗は数名。――我が赤備え衆は、矢傷や槍傷を負った浅手の者が十数名のみ。まずは上首尾といったところですかな? ワシャ見ましたぞ! 馬上の義清めが、真っ青な顔で逃げ去っていくのを! いつぞやの上田原や砥石城で討たれた、駿河殿 (板垣信方)や備中殿 (横田高松)の借りを返してやろうと思ったのだが、雑魚どもが邪魔で取り逃がしたのは残念であった。しかし、良いものを見られたわい!」
と、虎昌が赤ら顔に満面の笑みを浮かべながら言い、盃を呷った。
彼の言葉に、信繁も満足そうに頷く。
「うむ。取り敢えず、雨宮の渡しを上杉方に渡さずに済んで良かった。ココを抑えられては、我々と海津城との連携が絶たれてしまうからな」
「……若殿と六郎次郎殿、あとついでにウチの親父殿の方も、無事に“広瀬の渡し”を確保したようですしね」
と、盃を置いて、箸で肴をつつきながら、昌幸も言った。
つい先ほど、信繁達と分かれ、雨宮の渡しの上流にあるもうひとつの千曲川の渡し――“広瀬の渡し”に向かった武田義信と信豊の率いる第一軍が、敵方と交戦しつつ渡河に成功。その勢いを駆って、上杉軍を撃退し、広瀬の渡しを掌握したとの伝令が来たのだ。
――と、
「若殿は、兵一千を率いて、夕刻に海津城内へ入られた由に御座る」
そう、ボソリと報告したのは、虎昌の隣で徳利を傾ける、風采の上がらない小柄な男である。
「これ、源四郎! 戦勝の宴じゃぞ! もちっと楽しそうに呑まんか!」
虎昌は破顔しながら怒鳴るや、小柄な男の背中をバンと叩く。彼は、ちょうど盃を口の端に付けていたところだった為、当然のように酒が零れて、鎖帷子を濡らした。
「と――、兄上、零れてしまったではありませぬか……」
と、小男は、恨めしげな目で虎昌を睨むと、「勿体ない……」と呟きながら、手で拭き取った酒を舐め取る。
「おう、すまぬすまぬ……て、止めぬか、源四郎。貧乏くさいぞ!」
顔を顰めた虎昌は、そう言って小男を窘めた。
――この小柄な男は、飯富虎昌の実弟で赤備え衆の一員でもある、飯富三郎兵衛尉昌景である。その身長は、僅か四尺六寸 (約140cm)程の痩躯で、風采も冴えなかった。
だが、その常人に劣るような外見とは裏腹に、戦場では修羅の如く縦横無尽に暴れ回り、武田家の中でも一・二を争う武勇を誇っている。
今日の戦いでも、上杉軍を次々と討ち取り、その朱の鎧を敵の返り血で更に紅く染め、数珠繋ぎにした敵の首を持って、涼しい顔をして首実検の場に現れたのだった。
……だが、戦場以外では、何処か抜けたような表情の、朴訥とした男である。
昌景は、空になった盃にもう一度酒を注ぎ、チビリと口に含むと、兄をジロリと見てボソリと言った。
「……というか、“戦勝”と浮かれるには、まだ早いのでは御座らぬか?」
「む――? げ、源四郎! 貴様、急に何を言う――!」
昌景の言葉に、虎昌は顔色を変えた。唇を戦慄かせながら、怒鳴りつけようと大きく息を吸うが――、
「――うむ、三郎兵衛の言う通りだ」
上座の床几に座った信繁が、昌景の言葉に賛意を示した事で二の句が継げなくなり、目を白黒させながら押し黙った。
信繁は、肴の梅干しを口に含むと、静かな口調で言った。
「……まだ、緒戦も緒戦。敵の先鋒を、一時的に退けたに過ぎない。本格的な戦いはこれからだ。――何より」
と、信繁は一旦言葉を措き、居並ぶ諸将の顔を見回しながら言った。
「善光寺の上杉方の本陣に居るのは、上杉輝虎本人だ。……自らを“軍神”を標榜するあの男がいる限り、鴻毛ほどの油断も出来ぬ」
信繁の一言一句に、虎昌や昌幸らは、その顔を引き締めた。
――彼らの脳裏に、三年前の八幡原の惨状の様子が過ぎる。
信繁の言う通りだ。
上杉輝虎という神がかった男の率いる軍を前にして、慢心は命取り……それは、嫌というほど身に沁みて知っている。
“油断禁物”――その事を、一同は改めて肝に銘じる。
――すっかり静まり返った諸将を前に、彼は無意識に右頬の傷を擦りながら、厳しい声で言葉を続けた。
「各々方……儂らの役割は、お屋形様が箕輪を落とすまで、上杉をこの川中島に釘付けにする事だ。徒に功名に走る事無く、且つ、慎重になるあまり臆病になる事も無く、上杉に対していこうぞ。――抜かりなく、な」
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