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第一部四章 会戦
夜闇と琵琶
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ベン…… ベベン……
夜闇に包まれた善光寺に、幽かな琵琶の音が響く。
寺の境内と宿坊のあちこちには帷幕が張り巡らされ、甲冑姿の男達が忙しげに動き回っていた。
幅の広い参道の脇に建つ宿坊の中でも、最も大きな建物。その門前には、『毘』の一文字を染め抜いた、大きな旗印が掲げられており――琵琶の音はそこから聴こえてくる。
ベン…… ベン…… ベベン……
宿坊の濡れ縁に腰掛けて、一心不乱に琵琶を掻き鳴らしていたのは、朱い鎧直垂を身に纏った、まるで女かと見紛うような妖艶な美貌をしたひとりの男。
彼は、旋律に沿って細かに頭を振り、後ろで束ねた長く艶やかな黒髪を微かに揺らしながら、その切れ長の目を軽く閉じて、自らが鳴らす弦の音に耳を澄ましていた。
と、
――不意に、男は琵琶を鳴らす手を止める。
そして彼は、目を閉じたまま、静かに口を開いた。
「……どうした?」
どちらかというと線の細い印象を与える声色だったが、その声は宿坊の庭に凜と響き渡る。
――と、彼の声に応えるように、庭の奥から、ひとつの人影がのっそりと現れた。
「戻ったのか、村上」
「…………はっ」
男の発する静かな声に、人影は微かに身体を震わせながら答えた。
人影は、甲冑の擦れ合う耳障りな金属音を立てながら、庭を横切ると、男の前で片膝をついた。彼の纏う甲冑は、あちこちに刀で斬りつけられた痕や槍の穂先が掠った痕で傷ついていて、その顔と同じく、戦塵と返り血で真っ黒に汚れていた。
「――村上左近衛少将義清、ただいま帰着仕りました」
人影はそう名乗ると、男に向かって恭しく頭を垂れる。
それを聞いた男は、閉じた目を薄く開くと、義清を一瞥した。
「どうであった、首尾は」
男は、持っていた琵琶を脇に置きながら、静かに訊いた。
義清は、ビクリと身体を震わせ、ゴクリと唾を呑んだが、意を決したように口を開いた。
「も――申し訳御座らぬ。我が手勢にて、雨宮の渡しを奪取せんと攻めかかりましたが……。その途上、敵の援軍が現れ――失敗に終わりまして御座る……」
「……失敗に終わった――か」
「……」
義清の報告を、男は抑揚に乏しい声で繰り返した。返答に窮した義清は、無言のまま、更に深く頭を垂れる。
男は、その切れ長の瞳で義清の頭を見下ろしながら、言葉を継いだ。
「……『雨宮の渡しなど、我が村上衆のみで十分に御座る』と、そちは昨夜の軍議の席で申しておったな。……その大言壮語の結果が、これか?」
「い――いえ……それは――!」
男の冷めた言葉に、義清は覿面に狼狽え、青ざめた顔を上げた。何とか釈明しようと、縺れる舌を必死で動かす。
「も……もう一息だったのです! もう少しで、渡しの守備についている武田軍を蹴散らす事が出来たのですが、――まさか、援軍が斯様に早く現れようとは……」
「……」
口角泡を飛ばしながら、必死での形相で捲し立てる義清を、男は無言で冷ややかな目で見つめ続ける。
男の鋭い視線に見据え続けられた義清は、額からダラダラと冷や汗を流しながら、尚も言葉を絞り出す。
「も……もちろん、我が方も怯まず戦いましたが……何分、敵はあの“赤備え衆”でありました故、その勢いは凄まじく……」
「ほう……赤備え衆か」
義清が発した『赤備え衆』という単語に、初めて男は反応した。髭の無い、白い顎を指で撫でながら、男は愉快そうに薄笑みを浮かべる。
「武田最強の隊が現れたというのなら、確かに貴様には荷が重かろうな」
「……」
容赦の無い物言いに、義清はムッとした顔で言葉を詰まらせる。
男は、そんな義清の様子を気にする素振りも無く、唇を白魚の様な人差し指で軽く叩きながら、思考を巡らせる。
「――と、いう事は、その援軍の指揮を執っていたのは、飯富――虎昌か」
「は……それが――」
男の呟きに、義清は躊躇いがちに頭を振った。その様子に、男は首を傾げた。
「……違うのか?」
「……確かに、赤備え衆の指揮を執っていたのは飯富の様でしたが、総指揮は別の男でした。右目が潰れ、顔相が大分変わっておりましたが、あの顔は――」
義清は、昼間の事を思い浮かべながら、静かに続けた。
「……恐らく――武田左馬助信繁……かと」
「ほう……」
義清の言葉に、再び男は口角を上げると、
「因果だな」
と、ボソリと呟いた。その言葉に、義清も、
「……左様で御座るな」
と、苦々しげな顔をして頷いた。
ふたりがそう思うのも無理はない。
三年前、武田軍と、この善光寺からほど近い八幡原の地で激しく衝突した際、鶴翼に陣を敷いた武田軍に対し、村上義清率いる信濃衆が上杉軍の一部隊として攻めかかったのが、右翼に展開した武田信繁隊だったのだ。
頑強な抵抗に遭い、少なからぬ損害を出したものの、村上衆は数と勢いに任せて信繁隊を文字通り磨り潰した。隊将の信繁も、あと一歩で討ち取れるところであったが、彼の家臣の献身的な働きに妨げられ、すんでのところで取り逃がしたのだった。
三年前に討ち漏らした男によって、今日の作戦の失敗がもたらされる――何という因果。特に義清にとっては、天に向かって恨み言を言いたい皮肉な因果である。
――が、
悔しげに唇を噛み締める義清とは打って変わって、濡れ縁に腰掛けた男は、先程までの浮かない表情が嘘のように生き生きと、その黒曜石のような黒々とした瞳を輝かせた。
「――面白い!」
男は、そうやにわに叫ぶや、傍らの琵琶を再び手に取り、乱暴に掻き鳴らした。さっきとは違い、調子の早い激しい曲が、琵琶の弦から紡がれる。
「これこそ、毘沙門天が余に与え給うた天啓であろう! 一度は討ち逃した仏敵を、再び誅する機会を与えて下さったのだ!」
そう叫ぶや、男はすっかり興奮した顔で天を仰ぐと、狂的なものを感じさせる恍惚とした表情で叫んだ。
「良かろう! 毘沙門天よ、ご覧じろ! この上杉弾正少弼輝虎、必ずや彼の死に損ないめを、冥府へと送り返して進ぜようぞ!」
夜闇に包まれた善光寺に、幽かな琵琶の音が響く。
寺の境内と宿坊のあちこちには帷幕が張り巡らされ、甲冑姿の男達が忙しげに動き回っていた。
幅の広い参道の脇に建つ宿坊の中でも、最も大きな建物。その門前には、『毘』の一文字を染め抜いた、大きな旗印が掲げられており――琵琶の音はそこから聴こえてくる。
ベン…… ベン…… ベベン……
宿坊の濡れ縁に腰掛けて、一心不乱に琵琶を掻き鳴らしていたのは、朱い鎧直垂を身に纏った、まるで女かと見紛うような妖艶な美貌をしたひとりの男。
彼は、旋律に沿って細かに頭を振り、後ろで束ねた長く艶やかな黒髪を微かに揺らしながら、その切れ長の目を軽く閉じて、自らが鳴らす弦の音に耳を澄ましていた。
と、
――不意に、男は琵琶を鳴らす手を止める。
そして彼は、目を閉じたまま、静かに口を開いた。
「……どうした?」
どちらかというと線の細い印象を与える声色だったが、その声は宿坊の庭に凜と響き渡る。
――と、彼の声に応えるように、庭の奥から、ひとつの人影がのっそりと現れた。
「戻ったのか、村上」
「…………はっ」
男の発する静かな声に、人影は微かに身体を震わせながら答えた。
人影は、甲冑の擦れ合う耳障りな金属音を立てながら、庭を横切ると、男の前で片膝をついた。彼の纏う甲冑は、あちこちに刀で斬りつけられた痕や槍の穂先が掠った痕で傷ついていて、その顔と同じく、戦塵と返り血で真っ黒に汚れていた。
「――村上左近衛少将義清、ただいま帰着仕りました」
人影はそう名乗ると、男に向かって恭しく頭を垂れる。
それを聞いた男は、閉じた目を薄く開くと、義清を一瞥した。
「どうであった、首尾は」
男は、持っていた琵琶を脇に置きながら、静かに訊いた。
義清は、ビクリと身体を震わせ、ゴクリと唾を呑んだが、意を決したように口を開いた。
「も――申し訳御座らぬ。我が手勢にて、雨宮の渡しを奪取せんと攻めかかりましたが……。その途上、敵の援軍が現れ――失敗に終わりまして御座る……」
「……失敗に終わった――か」
「……」
義清の報告を、男は抑揚に乏しい声で繰り返した。返答に窮した義清は、無言のまま、更に深く頭を垂れる。
男は、その切れ長の瞳で義清の頭を見下ろしながら、言葉を継いだ。
「……『雨宮の渡しなど、我が村上衆のみで十分に御座る』と、そちは昨夜の軍議の席で申しておったな。……その大言壮語の結果が、これか?」
「い――いえ……それは――!」
男の冷めた言葉に、義清は覿面に狼狽え、青ざめた顔を上げた。何とか釈明しようと、縺れる舌を必死で動かす。
「も……もう一息だったのです! もう少しで、渡しの守備についている武田軍を蹴散らす事が出来たのですが、――まさか、援軍が斯様に早く現れようとは……」
「……」
口角泡を飛ばしながら、必死での形相で捲し立てる義清を、男は無言で冷ややかな目で見つめ続ける。
男の鋭い視線に見据え続けられた義清は、額からダラダラと冷や汗を流しながら、尚も言葉を絞り出す。
「も……もちろん、我が方も怯まず戦いましたが……何分、敵はあの“赤備え衆”でありました故、その勢いは凄まじく……」
「ほう……赤備え衆か」
義清が発した『赤備え衆』という単語に、初めて男は反応した。髭の無い、白い顎を指で撫でながら、男は愉快そうに薄笑みを浮かべる。
「武田最強の隊が現れたというのなら、確かに貴様には荷が重かろうな」
「……」
容赦の無い物言いに、義清はムッとした顔で言葉を詰まらせる。
男は、そんな義清の様子を気にする素振りも無く、唇を白魚の様な人差し指で軽く叩きながら、思考を巡らせる。
「――と、いう事は、その援軍の指揮を執っていたのは、飯富――虎昌か」
「は……それが――」
男の呟きに、義清は躊躇いがちに頭を振った。その様子に、男は首を傾げた。
「……違うのか?」
「……確かに、赤備え衆の指揮を執っていたのは飯富の様でしたが、総指揮は別の男でした。右目が潰れ、顔相が大分変わっておりましたが、あの顔は――」
義清は、昼間の事を思い浮かべながら、静かに続けた。
「……恐らく――武田左馬助信繁……かと」
「ほう……」
義清の言葉に、再び男は口角を上げると、
「因果だな」
と、ボソリと呟いた。その言葉に、義清も、
「……左様で御座るな」
と、苦々しげな顔をして頷いた。
ふたりがそう思うのも無理はない。
三年前、武田軍と、この善光寺からほど近い八幡原の地で激しく衝突した際、鶴翼に陣を敷いた武田軍に対し、村上義清率いる信濃衆が上杉軍の一部隊として攻めかかったのが、右翼に展開した武田信繁隊だったのだ。
頑強な抵抗に遭い、少なからぬ損害を出したものの、村上衆は数と勢いに任せて信繁隊を文字通り磨り潰した。隊将の信繁も、あと一歩で討ち取れるところであったが、彼の家臣の献身的な働きに妨げられ、すんでのところで取り逃がしたのだった。
三年前に討ち漏らした男によって、今日の作戦の失敗がもたらされる――何という因果。特に義清にとっては、天に向かって恨み言を言いたい皮肉な因果である。
――が、
悔しげに唇を噛み締める義清とは打って変わって、濡れ縁に腰掛けた男は、先程までの浮かない表情が嘘のように生き生きと、その黒曜石のような黒々とした瞳を輝かせた。
「――面白い!」
男は、そうやにわに叫ぶや、傍らの琵琶を再び手に取り、乱暴に掻き鳴らした。さっきとは違い、調子の早い激しい曲が、琵琶の弦から紡がれる。
「これこそ、毘沙門天が余に与え給うた天啓であろう! 一度は討ち逃した仏敵を、再び誅する機会を与えて下さったのだ!」
そう叫ぶや、男はすっかり興奮した顔で天を仰ぐと、狂的なものを感じさせる恍惚とした表情で叫んだ。
「良かろう! 毘沙門天よ、ご覧じろ! この上杉弾正少弼輝虎、必ずや彼の死に損ないめを、冥府へと送り返して進ぜようぞ!」
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