甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

文字の大きさ
33 / 263
第一部四章 会戦

挑発と暴発

しおりを挟む
 「……何なんじゃ、あの坊主は?」
「不貞不貞しいツラをしておるな……」
「何故、あんな所で……?」

 上杉兵達は、川の向こうを指さしながら、戸惑いを隠せない様子で、お互いの顔を見合わせている。
 村上義清と直江景綱は、慌てて馬を駆けさせ、どよめく兵達の前に出た。
 兵達の視線の先を見ると、確かに、一人の坊主が河原に筵を敷き、強い日光を遮る大きな日傘の下で胡座をかきながら、のんびりとした顔で盃を傾けている。

「……何じゃ、彼奴は――?」

 景綱は、その奇妙な光景に、訝しげに首を傾げる。

「……」

 一方、傍らの義清は眉根を寄せて目を凝らし、対岸の坊主をじっと凝視する。
 そんな上杉軍の喧騒をよそに、渦中の坊主は涼しい顔をしながら、飲み干した盃に、瓢箪の酒を注ぐ。

「いや~、美味うまし、美味うまし!」

 なみなみと注いだ盃を一気に呷ると、彼は彼岸の上杉軍にまで届くような大音声で至福の声を上げた。

「信州一の清流を見ながら、昼間から酒を飲む酒は格別でござるぞ! 上杉の皆様も、その様な物々しいよろいなど脱ぎ捨てて、川遊びでもされたら如何ですかな? カッカッカッ!」

 不審極まりない怪僧はそう言いながら、真っ赤に染まった化け狸の様な顔を綻ばせて、呵々大笑する。
 が、上杉軍は、顔面を緊張で強張らせたまま、無言で男を凝視している。
 ――と、その時、
 村上義清が目を剥き、ハッと息を呑んだ。

「あの男――真田……真田弾正!」

 彼は、目を血走らせ、血が出るほどに下唇を噛みながら呟いた。
 その呟きに、景綱が振り返る。

「真田……? 村上殿……お主、真田弾正と申したか? ――まさか、あれが、あの真田幸綱だと……!」

 景綱が狼狽するのも無理はない。
 ――今、対峙している武田軍の中に、“武田の攻め弾正”の異名が越後にも轟く屈指の謀将・真田弾正幸綱が加わっているという情報は、今の今まで上杉軍の中には入っていなかったからだ。
 驚きを含んだ景綱の言葉に頷く事も忘れ、義清は阿修羅の如き形相で、対岸の坊主を睨みつけている。
 ――そんな、殺意に満ちた無数の視線を浴びながらも、坊主――幸綱は緩みきった顔で、また一口酒を啜ると、ほぅと息を吐いた。

「いや~、酔った酔った! と……いやはや、まったく、歳を取るといかんなァ。些か催してしもうたわい」

 そう、対岸にも届く程の声で独り言ちながらフラリと立ち上がると、フラフラと頼りない千鳥足で、眼前の千曲川の水の中へと足を踏み入れる。
 そして、僧衣の前をはだけ、褌に無造作に手を突っ込むと、己のイチモツを摘まみ出した。
 それを見ていた上杉軍は、一際大きくどよめく。
 幸綱は、そんな対岸の様子を横目に、不敵な半笑いを浮かべながら、

「カッカッカッ! ほ~れほ~れ~ぃ!」

 と、まるで対岸に居並ぶ上杉の兵達に引っかけようとするかのように、半笑いでイチモツを振り回しながら、盛大に小便を撒き散らし始めた。

「――!」

 上杉兵達の顔色が変わる。
 幸綱の放出する小便が、上杉の陣にまで届く訳は無いのだが、それはまるで――いや、明らかに自分たちを嘲り挑発している所業だという事が、ハッキリと解ったからだ。

「こ――この、生臭坊主め! 儂らを愚弄するかァッ!」
「痴れ者が! 今すぐ叩っ斬ってくれようぞ!」
「直江様! 直ちに突撃の下知を!」
「ここまで馬鹿にされて、黙ってはおれませぬ!」

 こめかみに青黒い血管を浮き立たせ、目を真っ赤に血走らせた騎馬武者達が、身体を怒りで震わせて、景綱に向かって訴える。
 だが、景綱は大きく頭を振った。

「――いかん! あの様な安い挑発に乗るな! あれは、我々を誘き寄せようとする罠じゃ! 何かあるに違いない……」
「で、ですが……!」
「絶対に何かある! あの男は、真田弾正幸綱じゃぞ! !」
「――ッ!」

 景綱の吐いた言葉に、一気に顔色がんしょくを失ったのは、村上義清だった。――十一年前、真田幸綱に砥石城を乗っ取られたのは、他ならぬ義清自身だったからだ。
 彼は、ギロリと景綱を睨み、怒声を発しようと息を吸い込む――
 と、

「おやおやあ! そこにおわせられるは、村上殿ではござりませぬか!」

 対岸からかけられた親しげな声に、彼の呼吸は止まった。

「……!」

 目を真っ赤に充血させたまま、義清はゆっくりと、声の方向――向こう岸へと振り向く。

「……真田ッ……!」
「いやいや、お久しゅうござる! ご健勝のようで何よりですなあ、カッカッカッ!」
「……」

 ニタニタといやらしい薄笑みを浮かべた幸綱が、義清に向かって脳天気に手を振っている。
 義清は黙ったままだったが、物凄い目で仇敵の事を睨みつけている。幸綱の安い挑発に乗らぬよう、怒りで身体を瘧のように震わせながらも、必死で感情の爆発を抑えていた。
 幸綱は、そんな義清の反応に、ニタニタ笑いを更に強めながら言葉を続ける。

「昔は、大変お世話になり申した! 貴殿に領地を逐われて、上野に逃げ延びた事もありましたなあ! いやはや、その節は大変でしたわぁ。――まあ、そのおかげで、西上野の諸将と繋がりが出来、此度の西上野攻めの調略がしやすくなり申したので、結果的には良かったと言うべきですかな? いや、『禍福はあざなえる縄の如し』とは、良う言うたものですのう! おかげで、ワシは武田家中でデカいツラができ申す! 今では感謝しておりますぞ、村上殿!」
「……ぐ――!」

 義清の顔色が、真っ赤を通り越して、真っ黒に変わってきた。
 幸綱は、遠回しに『上杉が西上野を失いつつあるのは、お前が自分を上野に逐ったからだ』――つまり、『上杉の苦境は義清おまえのせいだ』と揶揄しているのだ。
 義清にとっては、到底看過しがたい言い草だった。
 だが、義清は耐える。唇を噛み切り、掌に爪が食い込んで血が滴る程にきつく握り締めながらも、彼は必死で激情を耐えている。
 と、

「――ああ、これはいかんなあ」

 幸綱は、急に腹を押さえて独りごちた。

「いくら、夏の昼下がりだといっても、川風に曝されっぱなしで、少々腹が冷えてしもうた……。少々、失礼をば致しますぞ」

 彼はそう言うや、後ろを向き、僧衣の裾をからげ、尻を露わにした。

「な――ッ!」

 いきなり尻を向けられて愕然とする上杉兵を、文字通りに尻目にして、彼は褌をずらし、腰を屈める。
 その仕草を見た上杉兵は、完全に頭に血が上ってしまった。

「こ――この野郎! 儂らに背を向けて糞を……!」
「我らを何処までも馬鹿にしおって……ッ!」
「もう赦せぬッ!」

 そして、血相を変えた一人の兵が、携えていた火縄銃を構え、その火蓋を切った。

 ダ――――ンッ

 千曲川の水面の上を、雷の如き轟音が響き渡る。
 ――だが、その弾丸は、狙った坊主の尻から遠く外れた水面に着弾し、小さな水飛沫を上げただけだった。
 しかし、それだけで十分だった。……将兵たちの激情の箍を外すには――。

「――オオオオッ!」

 上杉の兵たちは、各々の得物を掲げて、我先にと渡しの川べりに殺到しようする。
 が、ただひとり、直江景綱のみは冷静だった。
 彼は、傍らの足軽から火縄銃を奪うと、上空に構え、引き金を引いた。

 ダ――ンッ!

 再び鳴り響く銃声に、今にも暴走しそうだった上杉兵の足がビクリと止まる。
 景綱は、打ち放った火縄銃をなげうつと、乗騎の上から兵達を睥睨しつつ叫んだ。

「たわけが! 安い挑発に乗るなと言うておろうが! 鎮まれぃ!」

 百戦錬磨の上杉軍の武将の中でも、抜きん出た実力を持つ景綱の叱声に、上杉の将兵は、冷水を浴びせ掛けられたように冷静さを取り戻した。
 乱しかけた陣形を再び調えようと、ゆるゆると動き始める。
 ――が、

「な、直江様っ! 信濃衆が……!」

 近侍の声にハッとして、景綱は頭を巡らせた。上杉の陣から、夥しい蹄の音を響かせながら、黒光りする甲冑の一団がするすると抜け出した。

「――村上殿っ!」

 景綱は、思わず舌打ちをしながら、一団の中央で、采配を振りながら疾駆する老将の名を叫んだ。
 ――だが、彼の呼びかけは、真田憎しに燃える義清の耳には、もはや届かない。
 黒い炎の如き勢いで、次々と千曲川へと駆け込んでいく村上隊を止める術は無かった。

「……な、直江様……いかが致しましょう? どうにかして、信濃衆を呼び戻さねば……」
「――もう良い!」

 景綱は、近侍の言葉に、苛立たしげに吐き捨てた。

「……信濃衆あやつらは捨て置け! 奴らが勝手に突出したのだ。――もう知らぬ!」

 そして、景綱は軍配を翻すと、麾下の将兵に厳かに命じる。

「我らはこのまま、隊形を乱さずに待機する! 決して動くな。――良いな!」
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

If太平洋戦争        日本が懸命な判断をしていたら

みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら? 国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。 真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。 破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。 現在1945年夏まで執筆

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

徳川慶勝、黒船を討つ

克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。 もしかしたら、消去するかもしれません。

東亜の炎上 1940太平洋戦線

みにみ
歴史・時代
1940年ドイツが快進撃を進める中 日本はドイツと協働し連合国軍に宣戦布告 もしも日本が連合国が最も弱い1940年に参戦していたらのIF架空戦記

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

処理中です...