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第一部五章 軍神
後退と前進
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「兵部! 無事か?」
上杉軍の包囲を突き破って現れた武田隊の中から虎昌に声をかけてきたのは、何と、雨宮の渡しを守備しているはずの武田信繁その人であった。
「て――典厩様! な……何故ここに? あ――雨宮はどうなされたのです?」
虎昌は、信じられないといった顔で、信繁に訊く。
「雨宮は、昌幸に任せた。北岸は棄てても構わぬが、南岸は死守せよ、とな」
信繁は、手綱を操り、虎昌の傍に馬を寄せながら答える。
「恐らく、上杉軍の支隊が手薄になった雨宮に攻めかかるだろうが、きっと彼奴なら上手くやってくれるであろう。――それに、併せて海津城の若殿にも遣いを出しておいた。『至急、雨宮へ兵を出されたし』――とな。海津の兵を後詰めに回して頂ければ、上杉に渡しの南岸までを取られる事は無かろう」
「……で、ですが、典厩様!」
信繁に向かって、虎昌は上ずった声で叫んだ。
「貴方様は、何をしにこのような死地にわざわざお出でなされたのです? ここは既に、敵の陣のただ中で御座いますぞ!」
「何をしに来たかだと? それはもちろん、お主ら赤備え衆を救援に参ったに決まっておろう。――とはいえ、連れてきたのは、僅か千ほどだがな……」
そう言うと、馬上で信繁は苦笑を浮かべた。
信繁の言葉に愕然とした虎昌だったが、すぐにふるふると首を横に振る。
「救援……でござるか。それは忝い事に御座りますが、正直、この局面を生きて切り抜ける事は難しいかと……。赤備え衆だけでは無く、典厩様をも冥土への道連れにしたとなっては、この飯富兵部少輔虎昌――お屋形様に顔向けができませぬ」
「兵部! 早々と死を覚悟するとは、お主らしくも無いな!」
「は……?」
信繁は、虎昌の言葉を一笑に付した。それを見て、思わずムッとした表情を浮かべた虎昌は、手にした槍を大きく振って、その穂先で一分の隙も無く己らを取り囲んでいる上杉兵達を指しながら、声を荒げる。
「……では、典厩様は出来るというのですかっ? この上杉の包囲網を破って、雨宮へ退く事が――?」
「――雨宮へ退く? はて……儂は、その様な事は一言たりとも言っておらぬぞ」
虎昌の困惑に満ちた問いに、信繁は涼しい顔で答える。歴戦の老将は、彼の言葉の意味を図りかね、目を丸くした。
「は――? い、一体、何を――」
「儂らは退くのでは無い」
そう言うと、信繁は手槍を掲げ、東の方角を指した。
「進むのだ。広瀬の渡しへ――な」
「な――っ?」
虎昌は、信繁の言葉に思わず絶句した。
と、
「……広瀬へ向かう……。それは、上杉の陣を突っ切って――と、いう事ですか?」
それまで、無言でふたりのやり取りを聞いていた昌景が、初めて口を挟む。
昌景の問いに対し、信繁は大きく頷いた。
「赤備え衆の一番の武器は何よりも、騎馬を駆り、前へ前へと突進する力。だが、背中にへばりつく敵を振り向きながら引き剥がす、退き戦は不得手だ。なれば――」
「騎馬隊の特長を活かして只管前進し、待ち受ける敵を蹴散らす方が分がある……そういう訳ですな」
昌景は短い顎髭を撫でつけつつ頷き、それから真っ直ぐに信繁を見ると、ニヤリと笑った。
「面白い! 一歩間違えれば、皆枕を並べて討死ですが、前進して死ぬのならば悪くない。乗りましょう!」
「……兵部は、どうだ?」
信繁は、虎昌の方に向き直って問うた。
虎昌は、数瞬の間、じっと目を瞑って考えていたが、つと目を開ける。そして、先程までとは違った、覇気が溢れる瞳を輝かせながら、力強く頷いた。
「――確かに、このまま動かずに嬲り殺されるよりはマシですな。……危うい賭けではありますが、我ら武田の兵どもならばきっと成し遂げられましょう。――畏まり申した! 典厩様の下知に従い申す!」
「――よし」
信繁は、虎昌の答えに小さく頷くと、押し寄せる上杉兵と必死で戦い続ける、赤備え衆の面々に向けて大音声で叫んだ。
「者ども、確と聞けい! これより、我らは一丸となって、敵の陣を突き抜ける! ――目標は、広瀬の渡し!」
信繁の言葉を聞いた武田軍の将兵は、思わず耳を疑い、響めいた。
その意図を図りかね、広がる将兵の動揺も構わず、信繁は尚も大きく声を張り上げる。
「――よいか! ひたすら駆けよ! 群がり、前を塞ぐ敵は斬り捨てよ! だが、首は取らずに捨て置け! 此度の戦いでの一番の手柄は、敵の首の数では無く、生きて広瀬の渡しに辿り着く事と心得よ!」
「――!」
「遅れる者は置いてゆく! 倒れ、遅れた朋輩を助ける為に、その足を止める事も――許さぬ! これは、たとえ儂や兵部であっても例外では無い! 捨て置かれたくなければ、何が何でも付いてこい、よいな!」
その言葉を耳にして、疲れ切っていた将兵たちの目に、徐々に輝きが戻ってくる。
「確かに、容易い事ではないかもしれぬ。――だが、我ら武田の精兵達、その中でも……他ならぬ“武田の赤備え衆”であれば、きっと成し遂げる事が出来ようぞ! 儂は、そう信じておる!」
「オオオオオオオオ――っ!」
信繁の檄に呼応して、覇気を全身に漲らせた武田の将兵達が、万雷の如き咆哮をあげる。
すっかり士気横溢となった武者たちの顔を見回した信繁は、口を真一文字に結んだまま、彼らに向かって大きく頷いた。
そして、掲げた手槍を振り下ろし、信繁は厳かに全軍に下知を下す。
「――者ども、征くぞッ! ……死ぬなよ!」
上杉軍の包囲を突き破って現れた武田隊の中から虎昌に声をかけてきたのは、何と、雨宮の渡しを守備しているはずの武田信繁その人であった。
「て――典厩様! な……何故ここに? あ――雨宮はどうなされたのです?」
虎昌は、信じられないといった顔で、信繁に訊く。
「雨宮は、昌幸に任せた。北岸は棄てても構わぬが、南岸は死守せよ、とな」
信繁は、手綱を操り、虎昌の傍に馬を寄せながら答える。
「恐らく、上杉軍の支隊が手薄になった雨宮に攻めかかるだろうが、きっと彼奴なら上手くやってくれるであろう。――それに、併せて海津城の若殿にも遣いを出しておいた。『至急、雨宮へ兵を出されたし』――とな。海津の兵を後詰めに回して頂ければ、上杉に渡しの南岸までを取られる事は無かろう」
「……で、ですが、典厩様!」
信繁に向かって、虎昌は上ずった声で叫んだ。
「貴方様は、何をしにこのような死地にわざわざお出でなされたのです? ここは既に、敵の陣のただ中で御座いますぞ!」
「何をしに来たかだと? それはもちろん、お主ら赤備え衆を救援に参ったに決まっておろう。――とはいえ、連れてきたのは、僅か千ほどだがな……」
そう言うと、馬上で信繁は苦笑を浮かべた。
信繁の言葉に愕然とした虎昌だったが、すぐにふるふると首を横に振る。
「救援……でござるか。それは忝い事に御座りますが、正直、この局面を生きて切り抜ける事は難しいかと……。赤備え衆だけでは無く、典厩様をも冥土への道連れにしたとなっては、この飯富兵部少輔虎昌――お屋形様に顔向けができませぬ」
「兵部! 早々と死を覚悟するとは、お主らしくも無いな!」
「は……?」
信繁は、虎昌の言葉を一笑に付した。それを見て、思わずムッとした表情を浮かべた虎昌は、手にした槍を大きく振って、その穂先で一分の隙も無く己らを取り囲んでいる上杉兵達を指しながら、声を荒げる。
「……では、典厩様は出来るというのですかっ? この上杉の包囲網を破って、雨宮へ退く事が――?」
「――雨宮へ退く? はて……儂は、その様な事は一言たりとも言っておらぬぞ」
虎昌の困惑に満ちた問いに、信繁は涼しい顔で答える。歴戦の老将は、彼の言葉の意味を図りかね、目を丸くした。
「は――? い、一体、何を――」
「儂らは退くのでは無い」
そう言うと、信繁は手槍を掲げ、東の方角を指した。
「進むのだ。広瀬の渡しへ――な」
「な――っ?」
虎昌は、信繁の言葉に思わず絶句した。
と、
「……広瀬へ向かう……。それは、上杉の陣を突っ切って――と、いう事ですか?」
それまで、無言でふたりのやり取りを聞いていた昌景が、初めて口を挟む。
昌景の問いに対し、信繁は大きく頷いた。
「赤備え衆の一番の武器は何よりも、騎馬を駆り、前へ前へと突進する力。だが、背中にへばりつく敵を振り向きながら引き剥がす、退き戦は不得手だ。なれば――」
「騎馬隊の特長を活かして只管前進し、待ち受ける敵を蹴散らす方が分がある……そういう訳ですな」
昌景は短い顎髭を撫でつけつつ頷き、それから真っ直ぐに信繁を見ると、ニヤリと笑った。
「面白い! 一歩間違えれば、皆枕を並べて討死ですが、前進して死ぬのならば悪くない。乗りましょう!」
「……兵部は、どうだ?」
信繁は、虎昌の方に向き直って問うた。
虎昌は、数瞬の間、じっと目を瞑って考えていたが、つと目を開ける。そして、先程までとは違った、覇気が溢れる瞳を輝かせながら、力強く頷いた。
「――確かに、このまま動かずに嬲り殺されるよりはマシですな。……危うい賭けではありますが、我ら武田の兵どもならばきっと成し遂げられましょう。――畏まり申した! 典厩様の下知に従い申す!」
「――よし」
信繁は、虎昌の答えに小さく頷くと、押し寄せる上杉兵と必死で戦い続ける、赤備え衆の面々に向けて大音声で叫んだ。
「者ども、確と聞けい! これより、我らは一丸となって、敵の陣を突き抜ける! ――目標は、広瀬の渡し!」
信繁の言葉を聞いた武田軍の将兵は、思わず耳を疑い、響めいた。
その意図を図りかね、広がる将兵の動揺も構わず、信繁は尚も大きく声を張り上げる。
「――よいか! ひたすら駆けよ! 群がり、前を塞ぐ敵は斬り捨てよ! だが、首は取らずに捨て置け! 此度の戦いでの一番の手柄は、敵の首の数では無く、生きて広瀬の渡しに辿り着く事と心得よ!」
「――!」
「遅れる者は置いてゆく! 倒れ、遅れた朋輩を助ける為に、その足を止める事も――許さぬ! これは、たとえ儂や兵部であっても例外では無い! 捨て置かれたくなければ、何が何でも付いてこい、よいな!」
その言葉を耳にして、疲れ切っていた将兵たちの目に、徐々に輝きが戻ってくる。
「確かに、容易い事ではないかもしれぬ。――だが、我ら武田の精兵達、その中でも……他ならぬ“武田の赤備え衆”であれば、きっと成し遂げる事が出来ようぞ! 儂は、そう信じておる!」
「オオオオオオオオ――っ!」
信繁の檄に呼応して、覇気を全身に漲らせた武田の将兵達が、万雷の如き咆哮をあげる。
すっかり士気横溢となった武者たちの顔を見回した信繁は、口を真一文字に結んだまま、彼らに向かって大きく頷いた。
そして、掲げた手槍を振り下ろし、信繁は厳かに全軍に下知を下す。
「――者ども、征くぞッ! ……死ぬなよ!」
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