甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第一部五章 軍神

赤焔と赤鬼

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 朦々と土煙を巻き上げながら、朱い騎馬の一群は、燎原を灼く炎の如く平原を駆ける。

「と――止めろーっ! 敵は小勢ぞ! 討ち取って手柄とせよ!」

 上杉軍の隊将が、声を張り上げ、陣太鼓の音が空気を振るわせる。
 広く展開していた上杉軍の諸隊が、ゆるゆると動き出し、まさに風の如き疾さで近付いて来る武田赤備え衆の行く手を阻まんとする。

「者どもッ、鞭を入れよ! 敵の陣形が整う前に、何としても囲みを打ち破るのだ!」

 馬上で信繁が叫び、頭上で手槍を振り回す。

「おおーっ!」

 信繁の命に、地鳴りの様な咆哮で応える武田軍の将兵。

「良いか! 先程の典厩様の下知通り、己の三方の敵には構うな! 只々前方の敵のみを蹴散らし、前に進む事のみを考えるのじゃ!」
「応っ!」

 虎昌の声に短く応えると、赤備え衆の面々は、手にした得物を固く握り締めた。
 もはや、その心には、一欠片の畏れも狼狽も躊躇も無かった。
 只管ひたすら、一歩でも半歩でも広瀬の渡しへと近付く。その障害となるものは、たとえ万を超える兵だろうと、軍神だろうと蹴散らし排除する――。彼らの胸に去来する思いは、ただそれだけだった。
 迷い無く、単純な目的の元で団結した集団の力は、本来の力の何倍にもなる。
 いわんや、武田家最強の“赤備え衆”をば――。
 馬に鞭を入れ、十分な加速をつけた士気横溢な赤備え衆と最初に会敵した、上杉軍の中条越前守藤資隊は、その勢いの前に為す術も無く、僅か四半刻 (30分)も経たずに蹴散らされた。

 ◆ ◆ ◆ ◆

 「敵の赤備え衆、我が軍の包囲を破り、更にその勢いを殺す事無く、東へ向かって進軍中! 中条隊は損害多数にて、潰走致しまして御座います!」
「……ほう」

 伝令からの報告に、八幡原に布いた本陣で床几に腰掛ける上杉輝虎は、その細い眉を上げた。
 彼は、色々威の胴丸の上に、羅紗の陣羽織を着込み、白い頭巾で頭を覆って、その豊かな黒髪を隠している。

「……よもや、雨宮へ退かずに、そのままこちらへ向かって進軍してくるとは。――随分と思い切った采配を致しますな、向こうの大将も」
「……そうだな。――無謀ではあるが、騎馬衆の卓越した突撃力を考えれば、寧ろ上策といえよう」

 傍らに控える宇佐美駿河守定満の言葉に、輝虎も頷く。
 彼は、定満の方へ首を廻らすと、

「中条隊以外の動きはどうか?」

 と訊いた。
 定満は、「はっ」と応えると、目の前に広げられた地図を扇子で指し示す。

「……中条隊の後方に控えているのは、小島隊でございます。中条隊が抜かれた故、直に敵と会敵に至るかと」
「弥太郎か……」

 輝虎は、そう呟くと、何故か眉を顰めた。
 そんな主君の仕草に、定満は目敏く気付く。

「……何か、ご憂慮でも?」
「……いや」

 輝虎は、怪訝な顔をして訊く定満に微かに笑いかけると、小さく頭を振った。

「……あいつの事だから、またぞろ勝手な事を仕出かすのではないかと、少し心配になってな」
「……大丈夫でしょう――とは、言い兼ねますな、彼奴に限っては……」

 定満は、渋面を浮かべながら、溜息交じりに言った。

「あの“鬼小島”は、『部隊の指揮よりも、組み討ちの方が性に合っている』と、自ら放言して憚らぬ男ですからな。……また、いつものが頭を出さねば良いのですが……」

 ◆ ◆ ◆ ◆

 中条隊を、文字通り鎧袖一触で退けた赤備え衆は、その勢いを殺さぬまま、東へ向けて、脇目も振らずに突き進む。
 ――と、

「典厩様、新手にござる!」

 先頭を駆ける騎馬武者が、前方を指差した。

「あの旗印は――“越後の赤鬼”鬼小島弥太郎!」

 敵が掲げる旗幟を確認した兵の言葉に、将兵達の顔色が変わった。
 ――“鬼小島弥太郎”こと、小島弥太郎貞興は、その類稀なる大力と勇猛果敢な戦いぶりで、“越後の赤鬼”という二つ名と共に、他国にまでその名を轟かせる威丈夫である。
 その怖気を振るうまでの獰猛さを、三年前のこの地で、赤備え衆は直に目にしている。妻女山から、武田本隊を救援すべく千曲川を越えた彼らが暫しの間足止めされたのが、ほかならぬ弥太郎率いる一隊だったのだ。
 此度も三年前と同じ様に足を止められては、せっかくついた勢いを削がれ、後方から追いかけてくる上杉諸隊と挟み撃ちにされてしまう危険が増す。

「……真正面からぶち当たるには、少々厄介な相手じゃ……」

 虎昌の顔に、焦りの色が浮かぶ。
 と、その時、

「……兄上、典厩殿」

 ふたりに馬を寄せてきたのは、飯富昌景であった。
 彼は、目をすがめて前方の小島隊を確認すると、兜の庇を上げて言った。

「恐れ入りますが、この場は拙者にお任せ頂きたい」
「任せる? ……一体、何を?」

 弟の、飄々としながらも決然とした響きを湛えた言葉に、訝しげな声色で返す飯富。
 昌景は、兎口に似合わぬ狂暴な笑みを浮かべながら言う。

「……あの男とは、三年前に些か因縁がございましてな。その因縁を上手く利用して、お味方を無傷で通せないかと思いまして」
「因縁? 鬼小島とか?」
「左様。――まあ、見ていて下され」

 昌景は、そう言い置くと、ふたりの答えも聞かずに、馬の横腹を蹴った。

「あ――!」
「ま――待て、源四郎!」

 ふたりが慌てて、制止しようと手を伸ばすが、既に遅かった。
 昌景の乗騎は、ぐんぐんと速度を上げると、先頭を走る騎馬を躱し、ひとりで突出した。
 そのままの勢いを殺さず、どんどんと小島隊へと接近していく。
 昌景の独走に、武田兵以上に慌てたのは、当の小島隊の面々だ。

「な――何奴じゃ! 頭でもおかしいのか?」

 と、当惑しながらも、大急ぎで弓兵が前に出ると、弓に矢を番え、キリキリと引き絞る。

「――放てぇーい!」

 組頭の声と共に、昌景ただひとりを狙った数多の矢が降り注ぐ。
 己に襲いかかる白羽の矢を前にして――昌景は、口の端に薄笑みを浮かべた。

「……むううううぅぅん!」

 昌景は、巧みな手綱捌きで騎馬を操りつつ、右手に握った片刃槍を軽々と振り回し、飛来する矢を全てはたき落とす。
 そして、前方の上杉兵をキッと睨み据えると、割れんばかりの大音声で叫んだ。

「――小島弥太郎殿が隊とお見受けする! 我こそは、武田家家臣・飯富三郎兵衛尉さぶろうひょうえのじょう昌景なり! 今ここで、三年前の借りを返しに参ったぞ!」
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