甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

文字の大きさ
48 / 263
第一部五章 軍神

頭巾と亡魂

しおりを挟む
 中天にあった太陽が、その光を熟れさせつつ西へ傾き始めた頃――、
 襲いかかる敵を躱し蹴散らしながら一心不乱に東を目指していた、信繁と飯富虎昌が率いる武田赤備え衆は、その日最大の難所へ差し掛かっていた。
 目的地の広瀬の渡しは目と鼻の先――なれど、その進路を完全に塞ぐように、直江景綱率いる上杉軍千五百が陣を展開している。
 広瀬へ出るには、この直江隊を何が何でも抜かねばならぬ。――だが、雨宮の渡しからここまで、休む間もなく駆け続け戦い続けてきた武田隊の人馬の疲労は、とうの昔に限界を超えていた。
 対して、彼らを準備万端で待ち構えていた直江隊の士気は横溢。どちらが優勢かは、火を見るよりも明らかであった。
 ――かといって、武田隊は引き返す事も出来ない。後ろから、ここまでの道程で抜いてきた上杉軍の諸隊が、彼らを追ってどんどんと近付いてくる。
 退くも敵、進むも敵……。
 ならば、馬首を向ける方向は――!
 馬上の信繁が、手槍を大きく前に振った。

「――進めぇい! ここまで来ればあと一息だ! 眼前の敵を打ち破り、何としても千曲川まで辿り着くのだ! ――者ども、かかれぇい!」

 信繁の大音声での号令を受け、武田の兵達が一斉に、地鳴りの如き喊声かんせいを上げた。彼らは、残り僅かな気力と体力を振り絞ると、行く手を埋め尽くす上杉軍の群れに向かって、雄々しく突貫とっかんしていく。
 武田赤備え衆と上杉軍直江隊、互いへの殺気に満ち満ちたふたつの集団が、遂に真正面から激突した。

「怯むなッ! 何としてでも押し通れ!」
「脇目を振るな! ただひたすら……前の敵のみを斃し、一歩でも半歩でも前に進む事のみを考えよ!」
「固まれ! 散れば、周りを囲まれて、一人ずつ討ち取られるだけじゃ! 馬を寄せ、塊を成して進むのじゃ!」

 赤備えの組頭達が声を張り上げるが、敵と味方が入り混じって刃を合わせる乱戦のさ中で、その指示の通りに動く事は簡単ではない。
 百戦錬磨の武田赤備え衆の精鋭達といえど、これまでの逃避行と戦いの中で蓄積していた疲労と負傷によって、その動きは鈍かった。
 相手の直江隊は、かちの足軽が編成の中心だったが、緊密な連携で騎馬の武田兵を一騎ずつ集団から引き剥がし、馬から引きずり落として押さえ込み、強引に首を掻き落としていく。
 時を経るごとに、地面に倒れ臥す朱い甲冑の骸が増えてゆく……。
 が、多大な犠牲を出しながらも、赤備え衆の前進は止まらない。彼らは出来る限り密集し、まるで紅き錐の如き隊形を成し、犠牲を厭わずに前進し続ける。その遮二無二な突進によって、直江隊の陣はゆっくりと、そして確実に穿たれてゆく。
 ――そして、遂に。

「――おお!」

 赤備え衆の成した錐の陣形の先頭に立ち、修羅の如き形相で手槍を振るっていた信繁が、思わず感嘆の声を上げた。
 前方に、西日を反射してキラキラと煌めく、千曲川の流れが見えたからだ。
 信繁は、自分に向かって突き出された長槍の穂先を躱し、その持ち主の足軽を馬上から突き伏せると、後方を振り返って声を枯らして叫んだ。

「者ども! 遂に千曲川が見えたぞ! あと一息だ! 気力を振り絞れぃ!」
「お――おおおおおおおおっ!」

 信繁の叱咤に、赤備え衆の生き残り達の士気が一気に上がった。彼らの目に光が灯り、その動きは精細さを取り戻す。
 き返った武田軍は、最後の力を振り絞って、その勢いを増した。
 対する直江隊は、武田軍の凄まじい気魄きはくに怯み、堪らずその攻囲を緩める。
 
「今だ! 圧し通れ!」

 赤備え衆は、その隙を逃さず、一斉に眼前に見える千曲川へ向かって奔り出した。

(……もう大丈夫だ――)

 その先頭を駆ける信繁は、小さく安堵の息を漏らし、一瞬だけ気を緩めた。
 ――その時、

『――典厩様ッ!』

 確かに、聞き慣れた――そして、が耳朶を打ち、信繁はハッと我に返った。

(ゆ――幸実ゆきざね……っ?)

 彼は驚愕に目を見開き、思わず右に振り向く――。
 その視界に、白馬に乗り、刀を振り上げて突っ込んでくる、白い頭巾の騎馬武者の姿が映った!

「――ッ!」

 突然の襲撃に不意を衝かれた信繁は、咄嗟に手槍を掲げるが、頭巾の武者が刀を振り下ろすのが早い。

「! くっ!」

 敵が振るった銀色の一閃は、信繁の鎧の壺袖を断ち切り、彼の右肩に食い込んだ。その衝撃と痛みで、信繁は持っていた手槍を取り落とす。
 ――が、浅い。
 直前に振り返ったおかげで、信繁の首元を狙った一撃が逸れ、彼の命を救ったのだ。
 それを悟った敵は、頭巾の下で小さく舌打ちをすると、素早く刀を引く。そして、巧みに手綱を操って、信繁から一旦距離を取った。
 が、すぐに馬首を返すと、再び刀を振りかぶり、信繁へ向かって斬りかかる。

「ちッ!」

 信繁は、素早く腰に差した刀の柄に右手をかけ、一気に抜き放った。肩の傷が痛んだが、耐えられぬ程ではない。
 頭巾の武者が振り下ろしてきた太刀を、信繁は刀の鎬で受け、ふたりの間で火花が散った。

「むん……ッ!」
「――ッ!」

 ふたりの武者は、互いに刀を押し込み、鍔迫り合いの形になった。互いの力が均衡を生み、一瞬の間、ふたりは馬上で静止する。
 と――、
 唐突に、頭巾に覆われた敵の目元が緩んだ。

「……その前立の武田菱――。お前が武田左馬助信繁か。……一度会ってみたかった」

 頭巾越しでくぐもってはいたが、細く、涼やかな響きを感じさせる声が、信繁へかけられる。
 鎬を削り、歯を食いしばりながら、信繁は頷いた。

「……如何にも。そういうお主は、どなたかな……っ?」
「ふふ……」

 頭巾の男は、信繁の問いには答えず、ほくそ笑むだけであった。
 が、信繁は、すぐにその正体を悟った。

「お主――貴殿は、上杉……輝――ッ!」
「フンッ!」

 驚きの混じった信繁の言葉を遮るように、頭巾の男は、信繁の刀を弾いた。その反動で、ふたりの距離が少し開く。

「オオオッ!」

 今度は、信繁の方から斬りかかった。頭巾武者に反撃をさせまいと、続けざまに斬撃を加えるが、頭巾武者はその悉くを巧みな刀捌きでいなす。
 と――、

「いかん! 典厩様をお助けしろ!」
「兜首じゃ! 討ち取れば手柄だぞ!」

 ようやく、隊将の危機に気が付いた武田の将兵たちが、ふたりの間に割り込み、頭巾武者に向かって槍の穂先を突きつけた。
 さすがに、ひとりで多勢に対する不利を悟ったのか、頭巾武者は白馬の手綱を引き、立ち止まる。

「むう、無粋な奴らめ。せっかくの楽しい時間はこれまでのようだな、武田信繁よ!」

 そう叫ぶと、彼はおもむろに馬首を返した。

「――では、これにてさらばだ!」

 そう言い捨て、頭巾武者は馬をけしかけ、その場から駆け去ってゆく。
 信繁を守らんと、その前方で壁を作っていた武田の将兵が、

「ええい、逃がすな!」
「待てい!」

 と口々に叫んで彼を追おうとするが、

「――止めよ!」

 信繁は短く叫んで、それを制した。

「逃げる敵には構うなと言うておったであろう! 今は広瀬への脱出が先だ! 征くぞ!」

 逸り立つ味方に向かって怒鳴ると、信繁は馬首を広瀬の方に向け、馬の横腹を蹴った。
 赤備え衆の騎馬武者たちも、彼の後に続いて、次々と乗騎の速度を上げていく。
 ――と、

「……ッ」

 激しく揺れる馬上で、忘れていた右肩の痛みを思い出し、信繁は顔を顰める。
 同時に、三年前の戦いで喪った右目が疼くのを感じた。
 その疼きで、彼の脳裏にかつての友の顔が浮かび上がる。

(そうか……死してなお、儂を助けに来てくれたのか。――すまぬ、恩に着るぞ……幸実)

 信繁の盲いた右目から、涙の粒が零れた。
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

If太平洋戦争        日本が懸命な判断をしていたら

みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら? 国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。 真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。 破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。 現在1945年夏まで執筆

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

徳川慶勝、黒船を討つ

克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。 もしかしたら、消去するかもしれません。

東亜の炎上 1940太平洋戦線

みにみ
歴史・時代
1940年ドイツが快進撃を進める中 日本はドイツと協働し連合国軍に宣戦布告 もしも日本が連合国が最も弱い1940年に参戦していたらのIF架空戦記

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

処理中です...