甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第一部五章 軍神

犠牲と成果

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 激動の一日がようやく暮れた川中島の一帯は夜の帳に覆われて、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
 千曲川――広瀬の渡しの南岸。
 武田軍の本陣――その帷幕の中で、上半身裸の信繁は顔を顰めていた。

「痛つつつ……。も……もう少し優しくやってくれぬか、弾正……」
「カッカッカッ! それは無理な御相談にござる」

 信繁の懇願を耳にしながらも、涼しい顔で、彼の肩の傷を“治療”するのは、真田弾正幸綱だ。
 彼は、傍らに置いた瓢箪を手に取ってグビリと呷ると、信繁の肩傷に思い切り吹きかけた。

「ぐ――ッ!」

 灼けるような痛みに、歯を食いしばって耐える信繁。
 幸綱は、木椀にこんもりと盛られている、薬草を磨り潰して作った“薬”をヘラで掬い、白布にべたりと塗りつける。
 そして、その白布を信繁の肩にし付けた。

「痛――ッ! くうう……!」

 先程に倍する痛みに、思わず悲鳴を上げる信繁の様子など知らぬ顔で、幸綱は慣れた手つきで白布を彼の肩に巻き付けていく。
 最後に、布の端をきつく結び上げて、

「…………これで良し!」

 と言うや、信繁の肩を平手で叩いた。

「痛いっ!」

 信繁は、思わず跳び上がった。

「ええい、弾正! お主、わざと痛くなるようにやっておるだろうッ?」
「カッカッカッ! 痛いというのは、まだ神経が通っている証拠でござるぞ! 我が真田家秘伝の塗り薬をたっぷりと塗って差し上げましたからな。その様子なら、直ぐに良くなりましょうぞ」

 信繁の抗議にも悪びれる事なく、白々しい事をぬかす幸綱を恨めしげに睨みながら、彼は脱いでいた上衣を着直した。
 そして、大きな息を吐くと、下座の床几に座る飯富虎昌に顔を向ける。

「――ところで、赤備え衆の損害はどのくらいだ、兵部?」
「……はっ――」

 頭に血の滲んだ包帯を巻き付けた虎昌は、青ざめた顔で小さく頷いた。

「……まだ、確定はしておりませぬが、恐らく、五百程の兵が討死したものと思われます。生きてここまで辿り着いた者も、無傷の者は居りませぬ。深傷ふかでを負いし者も少なくなく、その半数は明日の朝日を拝めぬものと……思われます」

 虎昌は、沈痛な表情で項垂うなだれ、微かに声を震わせながら、言葉を継いだ。

「――今後の戦いに耐えられる程度の浅傷あさでの者は……せいぜい、多めに見積もっても七百程かと……」
「七百か……」

 赤備え衆――飯富隊は、当初二千の兵数であったから、今日一日の戦いだけで、六割強の戦力を喪った事になる。……少なくない被害だ。

「……敵陣を突貫すると決断した時に、ある程度の損耗は覚悟したが……厳しいな」
「――とはいえ、あのまま上杉軍に囲まれたままであったら、全滅は免れないところだったのです。寧ろ、強引に突破を図った事で、七百も残せた――そう考えるべきでしょう」

 暗鬱な表情の信繁を慰めるように言ったのは、広瀬守備隊の隊将を務めていた、彼の嫡男・信豊だった。その言葉に、幸綱も大きく頷く。
 が、信繁の表情は晴れない。

「とは言っても、我が武田の同胞が数多あまた、その命を散らした事は紛う事なき事実……。それを命じたのは、他ならぬ儂だ。……兵部」
「は……」

 信繁は、再び虎昌に顔を向けると、静かな声で言った。

「――落ち着いてからで構わぬから、此度の戦いで討死した者の名を纏めておいてくれ。憶えておきたい」
「……畏まり申した」

 信繁の命に、虎昌は深々と頭を下げた。
 ――と、

「あと――」

 信繁は、少し躊躇いながらも、を口にする。

「……飯富三郎兵衛は、まだ戻ってきておらぬか?」
「…………」

 信繁の問いに、誰も言葉を返せなかったが、その事が何よりも雄弁に、その答えを語っていた。
 先程までよりも一段と重い空気が、本陣の中に垂れ込める。

「……そうか――」
「されど、ご心配には及びませぬ、典厩様」

 失嘆に肩を落としかけた信繁にそう言ったのは、飯富昌景の実兄である飯富虎昌であった。
 彼は、目に光を湛えながら、力強い言葉で言った。

「――源四郎が七つくらいの頃、彼奴が嵐の翌日に、水嵩の増した釜無川に流された事がありましてな……」
「……釜無川に?」

 信繁は思わず聞き返した。
 釜無川とは、甲斐の北西部を流れる大きな川である。四年前に、俗に言う『信玄堤』が完成する前には、度々氾濫を起こしてきた、所謂“暴れ川”である。
 水位を増した釜無川に流される……それは即ち――、

「我々、飯富の家の者達は、源四郎が流されたと知って、すぐさま捜索にかかったのですが、渦を巻いて流れる濁った水面を見て直ぐに、奴の命は無いと諦め申した」
「……」
「そして、死体も上がらぬまま弔いをし、墓まで拵えたのですが、その二日後に、泥塗れの彼奴が涼しい顔をして帰って参りましてな。源四郎の実の母などは、亡霊だと思って卒倒してしまい、大変で御座った……」
「何と……はは」

 俄には信じ難い虎昌の話に、一同の間からは、思わず笑いが溢れる。
 和らいだ場の空気の中で、飯富はキッパリと言った。

「……釜無川に呑まれても、尚生き延びた源四郎の事です。此度も生きておるに違いござらぬ。あの時と同じ様に、その内ひょっこりと、泥塗れになって戻ってくる……ワシは、そう信じておりまする」
「……そうだな」

 虎昌の言葉に、信繁は大きく頷いた。

「あの不貞不貞しい男が、そう易々と死ぬ訳は無いか。……相分かった。実の兄のお主が言うように、我々も、彼奴の帰りをもう暫し待つ事にしよう」

 信繁の言葉に、場の一同は一斉に頷いた。
 ――と、諸将の反応に、満足げな表情を浮かべた信繁は、今度は信豊の方へと目を向ける。

「……ところで、雨宮の武藤勢は、上手く退いたのか? 報せは来ておらぬのか?」
「ああ……昌幸ですか」

 信豊はそう言うと、柔らかな微笑を浮かべて答えた。

「そちらのご心配は無用のようです。彼奴は、攻め寄せる上杉方を二刻 (約四時間)程も翻弄し続けて、悠々と南岸へ引き上げたとの事でございます。兵の損耗も殆ど無いとの由」
「何と。二刻もか」

 信豊の言葉に驚く信繁。と幸綱が、ふふんと鼻を鳴らした。

「源五郎は、ウチの倅の中で、一番悪知恵が回りますからな。小狡い手を打って二刻くらいの時間を稼ぐのは、容易い事でしょう。……まあ、ワシだったら、上杉勢を釘付けにするのみならず、北岸を保持した上で、悉く返り討ちにしてやるところですがな! まだまだ、あの青二才はワシには及ばぬという事ですかのぉ――カッカッカッ!」
「……」

 息子を引き合いに、馬鹿笑いする幸綱に、その場の一同は、一斉に白い目を向ける。
 信繁は、そんな白けた場の空気を戻すように咳払いをすると、口を開いた。

「まあ、雨宮の渡しの北岸は失ったが、南岸に昌幸と若殿の兵が展開していれば、上杉が千曲川を易々と渡る事は出来まい。我らはこのまま守りを固め、時間を稼げれば良い……箕輪城が落ちるまで、な」

 ◆ ◆ ◆ ◆

 その日の深更――。

「――ん?」

 千曲川の河原に立ち、見張りをしていた兵は、川のせせらぎとは違う、バシャバシャという水音に、耳をそばだてた。

「……おい! 曲者じゃ! 何者かが、川を渡って、こちらに向かってやって来るぞ!」

 兵は、慌てて声を張り上げ、仲間に異変を知らせる。

「者ども! 槍をもて! 弓兵は、矢を番えよ!」
「ええい、暗くて水面が見えぬ! 誰か、もっと松明を持ってこい!」

 深夜の闖入者に、武田兵達は戸惑いながらも、迎撃の体勢を整える。
 その間にも、川の流れを掻き分けてこちらに近付いてくる水音は、どんどんと大きくなってくる――。
 やがて、数多の松明に照らされ、川面を歩く人影がボンヤリと見えてきた。
 弓兵は、番えた矢を引き絞り、足軽達は、構えた槍の穂先を川へと向ける。
 そして、兵達の先頭に立った組頭の一人が、川上の人影に誰何する。

「……そこの怪しげなる者、そこで止まれ! 貴様は、何や――!」
「怪しげなる者とは、まったく、酷い言い草よ。拙者は味方じゃ! 弓を下ろせぃ!」
「な――み、味方ぁ?」

 人影が発した声に、組頭は戸惑いの表情を浮かべた。だが、相手の言う事を鵜呑みにする訳にもいかず、兵達の臨戦態勢は解かなかった。
 すかさず、松明を持った兵が数人、得物を構えつつ、ジリジリと人影に近付いていく。
 松明の光に照らされ、人影の纏う、がギラギラと光を弾いた。

「ええい! 上杉方の重囲から、やっとの思いで抜け出してきたかと思えば、今度は味方に刃を突きつけられるとはな……!」

 夥しい血と泥と埃に塗れた人影は、あちこちが凹み、撓み、傷ついた烏帽子形兜を乱暴に脱ぎながら叫んだ。

「――飯富三郎兵衛尉昌景、ただ今帰参致した! 腹が減って堪らぬ。誰か、酒と握り飯を持ってこい!」
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