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第一部六章 軋轢
隊と城
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箕輪城攻めに加わった家臣達への論功行賞が一段落し、次いで、奥信濃防衛に参陣した者たちへの裁定が始まった。
一番手柄とされたのは他でもない。上杉方の有力武将のひとりにして、前の北信濃の支配者であった村上左近衛少将義清を一騎討ちの末に討ち取った、武田六郎次郎信豊であった。
彼は、今回の戦での手柄により、騎馬百騎を任され、併せて東信濃の重要な拠点である小諸城の城主へと任じられた。当主信玄の甥だとはいえ、齢僅か十五の信豊が要衝の城主に就く事に対して、居並ぶ家臣達は驚きの声を上げたが、異論を唱える者はいなかった。
次いで信玄に名を呼ばれたのは、飯富三郎兵衛尉昌景である。
「三郎兵衛、前に出よ」
「……はっ」
信玄の声に応え、居並ぶ家臣の中から立ち上がった立ち上がった昌景は、前の戦で負った傷がまだ癒えておらず、微かに足を引きずりながら前へと歩を進める。
そして、信玄の前に出ると、どっかりと腰を下ろし、両手をついて深々と一礼する。その頭にも白布が巻き付けられ、じんわりと血が滲んでいて痛々しい。
「……傷の具合はどうだ、三郎兵衛」
そんな彼を前にして、労りの言葉をかける信玄。
昌景は、ひょこりと頭を上げると、涼しい顔で主君の問いに答える。
「お気に掛けて頂き、恐悦に存じまする。おかげをもちまして、順調に快癒へと向かっておりまする」
「あの“越後の赤鬼”鬼小島弥太郎と戦い、勝利したと聞いておる。その上、単騎で上杉の陣を突っ切り、生還したとは……誠に天晴れなる働きじゃな」
「……お屋形様より、その様な過分のお褒めを頂き、この飯富三郎兵衛尉昌景、天にも昇る心地にござる」
昌景は、口では喜びの言葉を紡ぐ。が、その言葉とは裏腹に、その兎顔はいつも通りの仏頂面のままだ。
素っ気ない彼の態度のせいで、妙に白けてしまった場の雰囲気を戻そうとするかのように、信玄は大きな咳払いをし、小姓から渡された一片の折紙を広げる。
「――飯富三郎兵衛尉昌景、此度の働き、誠に天晴れである。……よって、お主に赤備え衆を任せ、併せて葛尾城の城代へと任ずるものとする」
「――ッ!」
信玄の言葉に、論功行賞の場に居合わせた家臣達が一斉に、言葉にならない叫びを上げ、大広間は騒然とした。
家臣達が大いに狼狽するのも――無理はない。
だがそれは、昌景の功への評価に不満や疑問があってでのどよめきではない。
窮地に陥った自軍の将兵を、己が身を擲って、死地から遠ざけさせた――その報いとしては申し分ない内容だ。……しかし、
「お――お屋形様! 畏れながら……」
そう叫んで、家臣の群れの中から一歩躙り出てきたのは、馬場民部――いや、馬場美濃守信春であった。
彼は、顔にありありと困惑の表情を浮かべながら言う。
「わ、我らは誓って三郎兵衛の勲功に異議を申し上げる気はございませぬが……。三郎兵衛に赤備え衆と葛尾城を任せるとなると……」
信春は、そこで一度言葉を切り、大きく息を吸って心と呼吸を落ち着けると、微かに震える声でその先を口にした。
「……今まで、その任に就いていた――兵部殿は一体……?」
「……馬場殿。良いのだ。ワシは――隠居するからの」
信春の問いに答えたのは、信玄ではなく、飯富兵部少輔虎昌自身だった。
彼の言葉に、再び大広間はどよめきに包まれる。
その喧騒の中、虎昌は真っ直ぐに目を上げて、静かに言った。
「……此度の戦いでは、ワシが不甲斐ないばかりに赤備え衆の統率が乱れ、数多の将兵の犠牲が出た。その上、我らの救援に駆けつけた、お屋形様の御舎弟であらせられる典厩様のお命をも危うくさせてしもうた……」
虎昌は、落ち着いた声で滔々と言葉を紡ぎ、それまで騒然としていた諸将も、姿勢を正して彼の言葉に耳を傾ける。
しんと静まり返った大広間に、虎昌のしわがれた声だけが響く。
「――その責は、赤備え衆の隊将であるワシが背負わねばならぬ。それ故、後の事を源四郎……昌景に任せ、ワシは退こうと――」
「――兵部殿、しかし!」
到底承服できぬと、信春は声を荒げる。
「貴殿のこれまでの働きは、武田家の中でも随一でござる! たかだか、ただ一度の不手際に、そこまで責任を負われる事は……!」
いつも沈着冷静な信春が、ここまで取り乱す事は珍しい。それだけ、虎昌を引き止めたい思いが強いのだ。
彼と虎昌は、信玄の父信虎の代から、共に武田家に仕え、支えてきた――正に“戦友”と呼べる間柄であった。虎昌の方が十一歳上であったが、そんな年の差にも構わず、親しく交流していたのだ。
信春は、何とか虎昌の決心を翻させようと言葉を尽くすが、彼は頑として首を振らなかった。
「馬場殿、お気持ちは有り難いが、もうこれ以上言ってくれるな。ワシは、既に心を決めたのじゃ。此度の戦で命を喪った千余りの者たちに手向ける、せめてもの詫びの気持ち――それが、この隠居なのだ」
「兵部殿――」
信春は、虎昌の決意に満ちた言葉を聞くと、グッと唇を噛み締め、小さく頷いた。
「……分かり申した。貴殿程の男が、そこまでお心を固められているのであれば、これ以上言っても詮無き事でござるな……」
そう、小さい声で言うと、信春はガックリと肩を落として、その場に座り込む。
すると、それまで黙ってふたりのやり取りに耳を傾けていた信玄が口を開いた。
「……では、話を進めるとしよう。――飯富三郎兵衛尉昌景よ。お主を――」
「あいや! お待ちあれ!」
再び喋り始めた信玄の言葉は、またもや中途で遮られた。さすがにムッとした顔で、信玄が居並ぶ家臣達を見回す。
「何じゃ、今度は!」
「お屋形様! 先程の、飯富殿の件、某は大いに異議がござる!」
そう叫んで、勢いよく立ち上がったのは、青々と頭を剃り上げた壮年の男だった。
そして彼は、真っ直ぐに伸ばした指を飯富に突きつけながら、傲慢な態度を隠しもせずに言い放った。
「この長坂釣閑斎、飯富兵部殿には切腹こそ相応しいと存じまする!」
一番手柄とされたのは他でもない。上杉方の有力武将のひとりにして、前の北信濃の支配者であった村上左近衛少将義清を一騎討ちの末に討ち取った、武田六郎次郎信豊であった。
彼は、今回の戦での手柄により、騎馬百騎を任され、併せて東信濃の重要な拠点である小諸城の城主へと任じられた。当主信玄の甥だとはいえ、齢僅か十五の信豊が要衝の城主に就く事に対して、居並ぶ家臣達は驚きの声を上げたが、異論を唱える者はいなかった。
次いで信玄に名を呼ばれたのは、飯富三郎兵衛尉昌景である。
「三郎兵衛、前に出よ」
「……はっ」
信玄の声に応え、居並ぶ家臣の中から立ち上がった立ち上がった昌景は、前の戦で負った傷がまだ癒えておらず、微かに足を引きずりながら前へと歩を進める。
そして、信玄の前に出ると、どっかりと腰を下ろし、両手をついて深々と一礼する。その頭にも白布が巻き付けられ、じんわりと血が滲んでいて痛々しい。
「……傷の具合はどうだ、三郎兵衛」
そんな彼を前にして、労りの言葉をかける信玄。
昌景は、ひょこりと頭を上げると、涼しい顔で主君の問いに答える。
「お気に掛けて頂き、恐悦に存じまする。おかげをもちまして、順調に快癒へと向かっておりまする」
「あの“越後の赤鬼”鬼小島弥太郎と戦い、勝利したと聞いておる。その上、単騎で上杉の陣を突っ切り、生還したとは……誠に天晴れなる働きじゃな」
「……お屋形様より、その様な過分のお褒めを頂き、この飯富三郎兵衛尉昌景、天にも昇る心地にござる」
昌景は、口では喜びの言葉を紡ぐ。が、その言葉とは裏腹に、その兎顔はいつも通りの仏頂面のままだ。
素っ気ない彼の態度のせいで、妙に白けてしまった場の雰囲気を戻そうとするかのように、信玄は大きな咳払いをし、小姓から渡された一片の折紙を広げる。
「――飯富三郎兵衛尉昌景、此度の働き、誠に天晴れである。……よって、お主に赤備え衆を任せ、併せて葛尾城の城代へと任ずるものとする」
「――ッ!」
信玄の言葉に、論功行賞の場に居合わせた家臣達が一斉に、言葉にならない叫びを上げ、大広間は騒然とした。
家臣達が大いに狼狽するのも――無理はない。
だがそれは、昌景の功への評価に不満や疑問があってでのどよめきではない。
窮地に陥った自軍の将兵を、己が身を擲って、死地から遠ざけさせた――その報いとしては申し分ない内容だ。……しかし、
「お――お屋形様! 畏れながら……」
そう叫んで、家臣の群れの中から一歩躙り出てきたのは、馬場民部――いや、馬場美濃守信春であった。
彼は、顔にありありと困惑の表情を浮かべながら言う。
「わ、我らは誓って三郎兵衛の勲功に異議を申し上げる気はございませぬが……。三郎兵衛に赤備え衆と葛尾城を任せるとなると……」
信春は、そこで一度言葉を切り、大きく息を吸って心と呼吸を落ち着けると、微かに震える声でその先を口にした。
「……今まで、その任に就いていた――兵部殿は一体……?」
「……馬場殿。良いのだ。ワシは――隠居するからの」
信春の問いに答えたのは、信玄ではなく、飯富兵部少輔虎昌自身だった。
彼の言葉に、再び大広間はどよめきに包まれる。
その喧騒の中、虎昌は真っ直ぐに目を上げて、静かに言った。
「……此度の戦いでは、ワシが不甲斐ないばかりに赤備え衆の統率が乱れ、数多の将兵の犠牲が出た。その上、我らの救援に駆けつけた、お屋形様の御舎弟であらせられる典厩様のお命をも危うくさせてしもうた……」
虎昌は、落ち着いた声で滔々と言葉を紡ぎ、それまで騒然としていた諸将も、姿勢を正して彼の言葉に耳を傾ける。
しんと静まり返った大広間に、虎昌のしわがれた声だけが響く。
「――その責は、赤備え衆の隊将であるワシが背負わねばならぬ。それ故、後の事を源四郎……昌景に任せ、ワシは退こうと――」
「――兵部殿、しかし!」
到底承服できぬと、信春は声を荒げる。
「貴殿のこれまでの働きは、武田家の中でも随一でござる! たかだか、ただ一度の不手際に、そこまで責任を負われる事は……!」
いつも沈着冷静な信春が、ここまで取り乱す事は珍しい。それだけ、虎昌を引き止めたい思いが強いのだ。
彼と虎昌は、信玄の父信虎の代から、共に武田家に仕え、支えてきた――正に“戦友”と呼べる間柄であった。虎昌の方が十一歳上であったが、そんな年の差にも構わず、親しく交流していたのだ。
信春は、何とか虎昌の決心を翻させようと言葉を尽くすが、彼は頑として首を振らなかった。
「馬場殿、お気持ちは有り難いが、もうこれ以上言ってくれるな。ワシは、既に心を決めたのじゃ。此度の戦で命を喪った千余りの者たちに手向ける、せめてもの詫びの気持ち――それが、この隠居なのだ」
「兵部殿――」
信春は、虎昌の決意に満ちた言葉を聞くと、グッと唇を噛み締め、小さく頷いた。
「……分かり申した。貴殿程の男が、そこまでお心を固められているのであれば、これ以上言っても詮無き事でござるな……」
そう、小さい声で言うと、信春はガックリと肩を落として、その場に座り込む。
すると、それまで黙ってふたりのやり取りに耳を傾けていた信玄が口を開いた。
「……では、話を進めるとしよう。――飯富三郎兵衛尉昌景よ。お主を――」
「あいや! お待ちあれ!」
再び喋り始めた信玄の言葉は、またもや中途で遮られた。さすがにムッとした顔で、信玄が居並ぶ家臣達を見回す。
「何じゃ、今度は!」
「お屋形様! 先程の、飯富殿の件、某は大いに異議がござる!」
そう叫んで、勢いよく立ち上がったのは、青々と頭を剃り上げた壮年の男だった。
そして彼は、真っ直ぐに伸ばした指を飯富に突きつけながら、傲慢な態度を隠しもせずに言い放った。
「この長坂釣閑斎、飯富兵部殿には切腹こそ相応しいと存じまする!」
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