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第一部六章 軋轢

父と酒

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 ――あれは、何時の頃だっただろうか。

 まだ、前髪を落として間もない頃だったから、十四・五くらいだったはずだ。
 ある夏の日の夜、信繁は、当時の甲斐国主であった父・武田信虎の横に控え、彼の干す盃に酒を注いでいた。いつもは母の役割だったのだが、この日の夜は信虎直々の命により、信繁がその役目を仰せつかっていた。
 最愛の息子に酒を注がれ、珍しく上機嫌だった信虎は、酒で真っ赤に染めた顔で傍らに控える信繁に声をかけた。

「次郎よ」
「――はっ! 何でございましょう、父上」

 己の呼びかけに、緊張を露わにして受け答えた信繁に、信虎はずいと盃を突きつけた。
 注げと催促されたのかと思い、慌てて徳利を取ろうとする信繁だったが、信虎は「違う!」と苛立たしげに怒鳴ると、大きく頭を振った。

「お前も飲め!」
「……はい、父上」

 信繁は一瞬の間だけ躊躇ったが、すぐに素直に頷くと、差し出された盃を受け取った。正直のところ、酒癖の悪い父と飲む事は御免被りたかったが、断れば機嫌を悪くするに決まっている。ここは素直に従った方が利口だ――そう考えたのである。
 案の定、素直に従った信繁の態度に信虎は大いに満足した様子で、うんうんと頻りに頷きながら、信繁の持つ盃に酒をなみなみと注いだ。
 盃から溢れんばかりに満ちた白濁した液体に、彼は心中秘かに辟易とする。
 まだ元服して間もない信繁は、飲み始めて間もない酒の味に慣れてはいない。喉が灼ける様な辛さも苦手だった。
 ――が、ここで飲む事を逡巡しては、せっかくの父の機嫌を損なう事になろう。そう考え、信繁は覚悟を決めた。

「……有り難く頂戴いたしまする、父上」

 そう言って盃を高く掲げると、その端に口をつけ、一気に呷った。
 たちまち、濁り酒のムッとする芳香と強烈な辛みが口中から鼻に抜け、思わず信繁は噎せかける。……が、吐き気を必死で堪えて、無理矢理飲み込んだ。
 酒が通り過ぎた喉と胃の腑が、まるで灼ける様に痛い。だが、表面では平静を装いながら、父に盃を返す。

「――ハッハッハッハッ! さすが次郎! 天晴れな飲みっぷりじゃ!」
「……あ、ありがとう……ござります……」

 上機嫌で息子を称える信虎に向かって、こみ上げる吐き気を堪えながら、信繁は会釈した。
 信虎は自ら手酌で酒を注ぐと、ぐいっと呷り、酒臭い息を吐きながらぼそりと呟く。

「まったく……それに比べて、太郎ときたら……」
「……兄上が……いかがなさったのですか?」

 信繁は、突然信虎の口に上った兄の名に、訝しげに眉を顰めた。
 ――と、信虎の眉間に皺が寄った。不機嫌になった時の彼の癖だ。
 突然信虎は、目の前の膳に向かって盃を叩きつける。甲高い音を立てて、土器かわらけの盃が粉々に砕けた。

「いかがも何も無いわ!」

 信虎は、髻を逆立てながら、まるで羆のように吼えた。

彼奴アヤツは、ワシが勧めてやった酒を、一口つけただけで置きおったのじゃ! ワシがもっと飲めと言うても、鼻で笑って言う事を聞かんかった! ……それだけではない! 彼奴はいつも、小馬鹿にしたような目でワシを見おって、口を開けば、常にワシを蔑むような言葉を吐きおる!」
「そ……それは……」

 誤解だ。信繁は父にそう言おうとした。
 確かに、兄晴信は、滅多に表情を変える事が無く、しばしば冷たい印象を周囲に与える事がある。更に口下手で必要最低限な事しか言わない為に、しばしば周囲に誤解されやすいきらいがあるのは確かだ。
 ――だが、それは思慮深さの裏返しなだけであって、決して、意味も無く他人を蔑んだり侮ったりする事はしない。それは、弟として、常に彼の隣で一挙手一投足を見てきた信繁には、痛い程分かる事だった。
 ……なのに、そんな兄の心が、何故実の父である信虎には解らないのか――信繁には理解が出来ず、父に対して漠然とした苛立ちを感じた。
 だから、信繁は言った。

「……父上、それは――誤解でございます。兄上は、決してそのようなお心で、父上の事を思ってはおりま――」
五月蠅うるさい!」

 信繁の言葉を遮るように、信虎の大喝が彼の耳朶を打ち、次の瞬間、パァンという高い音と共に、彼の右頬に激しい衝撃が加わった。信繁は堪らず吹き飛び、床に転がる。
 ――生まれて初めて、父に頬を張られたのだと理解したのは、数瞬を経てのちだった。突然の打擲ちょうちゃくに、信繁は痛みや怒りを感じるよりも前に、ただただ驚くだけだったが――そんな彼よりもずっと驚いていたのは、他ならぬ信虎本人だった。

「……! じ、次郎! すまぬ」

 酒で真っ赤に染めていた顔を真っ青に変えて、信虎は息子を助け起こした。そして、優しく彼の頬を撫でながら、

「すまぬ、次郎……。つい、頭に血が上ってしもうた。……すまぬ、すまぬ――」

 譫言うわごとのように、信繁に向かって詫びの言葉を繰り返すばかりだった。
 ――と、その、酒で濁った瞳が剣呑な光を放つ。
 彼は、誰も居ない虚空をジッと睨みつけ、低い声で負の感情に満ちた言葉を吐き出す。

「それもこれも、全ては太郎のせい……彼奴さえ――彼奴さえ、いなければ……ッ!」
「――ち……父――う――」

 信虎に抱き抱えられた信繁は、やにわに恐怖を感じた。それだけ、間近にある父の顔に凄惨で狂的な影を感じたのだ。彼は必死に藻掻いて、父の手から逃れ出る。

「ち……父上。某は大丈夫です。どうぞ――どうぞ、お気を落ち着けて――」
「……そうじゃ」

 信虎は、信繁の言葉も耳に入らないかのように、焦点の合わない目で虚空を見上げ、ニヤリと笑った。その表情に、再び信繁の背に怖気が走る。
 そして信虎は、ゆっくりと目を落とし、信繁の顔をジッと見た。その光はギラギラと輝き、まるで熱病に浮かされているかのようだ。

「ち……父う――」
「彼奴が……太郎がいなければ、この武田信虎の後を継ぐ者は、お主になるのじゃ……次郎。……簡単、至極簡単な事じゃ……」
「――父上ッ! それは……それはなりませぬ! それは――」

 それは――それだけは、父の口から聞いてはならぬ。そう、信繁は本能的に悟った。
 が、信繁の耳に、父の口から紡がれた、呪いにも似た言葉は――届いてしまったのだった。

「――次郎よ。ワシは決めたぞ。近いうちに、太郎を廃嫡し、お前を武田家の統領につけてやろうぞ。――必ず、な」
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