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第一部六章 軋轢
父子と兄弟
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「……厩様? ――典厩様! いかがなされましたか?」
「――ん? あ……ああ……」
すっかり、昔の恐ろしい記憶に囚われていた信繁は、心配そうな表情を浮かべた昌幸に肩を揺すられて、ようやく我に返った。
顔を仄かに青ざめさせながら、気つけ代わりに目の前の盃に口をつけるが、濁り酒の芳香が鼻腔に漂った瞬間、再びあの記憶が蘇り、信繁は激しく噎せた。
「ゴホッ! ごふっ! ……ッ!」
「典厩様!」
信繁のただならぬ様子に、昌幸は慌てて彼の背を擦る。
程なくして、信繁は落ち着いた。
「……すまぬな、昌幸」
「い――一体、いかがなされたのです?」
いつもの様子に戻った信繁の様子に、安堵の表情を浮かべた昌幸だったが、つと眉を顰めて尋ねる。
信繁は、バツ悪げに苦笑を浮かべると、大きく息を吐いてから答えた。
「……いや、太郎と四郎の事を考えていたら、昔の事を思い出してしまってな……。父上……前のお屋形様の事だ」
「お父上――信虎公の事でございますか……」
「……ああ」
昌幸の言葉に小さく頷く信繁。ふと、自分の喉がカラカラに渇いている事に気付いた。
だが、酒では駄目だ。先程のように、昔の事を思い出してしまう。
「昌幸……すまぬが、水を持ってきてくれぬか。……今宵は、とても酒を飲む気にはなれぬ故な」
「あ……はっ、畏まりました! ただ今お持ちいたします!」
信繁の頼みに大きく頷いた昌幸は、襖に飛びつき、けたたましい音を立てて引き開けるや、脱兎の如き勢いで水を汲みに走っていった。
座敷に一人残された信繁は、脇息に肘をついて身体の体重を預けて大きな溜息を吐き、静かに目を瞑った。
(……あの時の事を思い出すのは、久しぶりだな)
あの時の父の怖気立つような凄惨な顔、そして、血と闇の色に染まったような、兄への怨嗟に塗れた言葉――今でもハッキリと思い出す。
例え、戦場のただ中にあっても、そう――三年前の八幡原で右目を斬り裂かれ、槍に貫かれた時も、つい先月に、上杉輝虎と斬り合った時も――あの幼い日に、父に対して抱いた以上の恐怖を、信繁は感じた事は無かった。
そしてその時、恐怖と同時に感じた、父信虎への限りない不信と、武田家を父が恣にしている現状への危機感は、信繁を晴信の元へと走らせる。
彼は、晴信に、ありのままを打ち明けた。「父が、晴信を廃嫡し、自分を跡継ぎに据えようと考えている」と――。
意外な事に、それを聞いた晴信は少しも驚かなかった。――日頃の言動から、父が自分に対してどういう思いを抱いているのかを、ハッキリと察していたのだろう。
信繁の話によって、その憶測が確信へと変わってから、晴信の行動は迅速だった。
晴信と、彼の守役であった板垣駿河守信方は、甘利備前守虎泰をはじめとした譜代の家臣達に秘かに働きかけて、次々と味方に引き入れていった。元々、日頃の信虎の粗暴な行いに不満を持つ者は家中に多く、一部の腹心を除いた大部分の家臣達は、みな晴信に従う事を誓ったのだ。――もちろん、信繁もその中のひとりだった。
(……そして、天文十年のあの日に――)
――天文十年 (1541年)六月十四日。信虎が、駿河国主にして、自身の娘婿でもある今川治部大輔義元に会いに、駿河へと赴いた。そして、その時こそまさに、かねてから計画していた策――国主武田信虎の国外追放――を実行に移す好機であった。
晴信と信繁は、駿河と甲斐の国境に兵を出し、直ちに封鎖した。
駿河からの帰途を、兵達の長槍を以て妨げられた信虎の形相――それは、正に醜悪を絵に描いたような、悪鬼のそれであった。
そして、槍衾の後ろで立っている、甲冑を纏った晴信と信繁の姿を目敏く見付けた信虎は、まるで飢えた狼のように犬歯を剥き出して、二人に向かって吼えた。
「おのれ、太郎! この親不孝の痴れ者が! 父に向かって槍を向けるとは何事ぞ! おまけに、何も知らぬ次郎まで取り込みおって! ――この恩知らずがぁっ!」
「……」
信繁は信虎の怒声を聴きながら、彼がこの期に及んでもなお「信繁が晴信に誑かされて、今回の企てに参加した」と信じ込んでいる事に、内心驚愕していた。
父は、長子晴信の言動の全てを信じられないのと同じくらいに、『次郎が自分を無条件で信奉し慕っている』という事を、未だに一片の疑いもなく盲信しているのだ。
(……結局の所、父上は、兄上とも儂とも、心を通じ合わせてはいなかったのだな。あくまで己の先入観と思い込みだけで、儂と兄上の心など二の次で、こうあるべきだという己の価値観を儂らに押しつけていただけ……そういう事か)
彼は、そう唐突に悟り、同時に、父親に対して猛烈で決定的な嫌悪感を抱いたのだ。
信繁は、槍衾の前で為す術も無く怒鳴り散らすばかりの、醜悪な父の姿を見る事が嫌になり、思わず顔を背けた。そして、チラリと横目で傍らの兄の顔を盗み見――、
その顔に冷たい嘲笑が貼り付いている事に気が付いて、微かに寒気を感じた事を憶えている……。
(廃嫡……か。再び、その言葉が現実味を帯びてくるとは思わなんだな)
武田太郎義信――そして、諏訪四郎勝頼。
兄・信玄の次男である信親は、生まれた頃から目を患っていて盲目であり、既に僧籍に入り“竜芳”と名乗っている為、家督の相続権は無い。
そして、三男である信之は、齢十一で既に夭折しているから、万が一、義信が嫡男の地位を失うような事になれば、自然、武田の家督は四男である勝頼が継ぐ事となる。
……確かに、勝頼にその気があるというのならば、先程昌幸が仄めかしたように、彼が義信を追い落とそうとするというのも頷ける。
が――、信繁の脳裏に、勝頼が昼間の論功行賞の場で見せた、配下の助けを借りて挙げた手柄を賞されるのを潔しとしない態度が過ぎった。
(……四郎が、斯様に邪な事を考えておるようには見えなかったが……)
信繁は深く溜息を吐くと、こめかみを指で押さえた。
……どうやら、これ以上考えても答えは出ないようだ。
ならば、どうするべきか。
「ふむ……」
――そして彼は、閉じていた左目をうっすらと開ける。
彼の胸の中に、ひとつの腹案が生まれていた。
(……いっその事、直接四郎と見え、儂自身の目で、その為人を見極める方が早いのかもしれぬな――)
「――ん? あ……ああ……」
すっかり、昔の恐ろしい記憶に囚われていた信繁は、心配そうな表情を浮かべた昌幸に肩を揺すられて、ようやく我に返った。
顔を仄かに青ざめさせながら、気つけ代わりに目の前の盃に口をつけるが、濁り酒の芳香が鼻腔に漂った瞬間、再びあの記憶が蘇り、信繁は激しく噎せた。
「ゴホッ! ごふっ! ……ッ!」
「典厩様!」
信繁のただならぬ様子に、昌幸は慌てて彼の背を擦る。
程なくして、信繁は落ち着いた。
「……すまぬな、昌幸」
「い――一体、いかがなされたのです?」
いつもの様子に戻った信繁の様子に、安堵の表情を浮かべた昌幸だったが、つと眉を顰めて尋ねる。
信繁は、バツ悪げに苦笑を浮かべると、大きく息を吐いてから答えた。
「……いや、太郎と四郎の事を考えていたら、昔の事を思い出してしまってな……。父上……前のお屋形様の事だ」
「お父上――信虎公の事でございますか……」
「……ああ」
昌幸の言葉に小さく頷く信繁。ふと、自分の喉がカラカラに渇いている事に気付いた。
だが、酒では駄目だ。先程のように、昔の事を思い出してしまう。
「昌幸……すまぬが、水を持ってきてくれぬか。……今宵は、とても酒を飲む気にはなれぬ故な」
「あ……はっ、畏まりました! ただ今お持ちいたします!」
信繁の頼みに大きく頷いた昌幸は、襖に飛びつき、けたたましい音を立てて引き開けるや、脱兎の如き勢いで水を汲みに走っていった。
座敷に一人残された信繁は、脇息に肘をついて身体の体重を預けて大きな溜息を吐き、静かに目を瞑った。
(……あの時の事を思い出すのは、久しぶりだな)
あの時の父の怖気立つような凄惨な顔、そして、血と闇の色に染まったような、兄への怨嗟に塗れた言葉――今でもハッキリと思い出す。
例え、戦場のただ中にあっても、そう――三年前の八幡原で右目を斬り裂かれ、槍に貫かれた時も、つい先月に、上杉輝虎と斬り合った時も――あの幼い日に、父に対して抱いた以上の恐怖を、信繁は感じた事は無かった。
そしてその時、恐怖と同時に感じた、父信虎への限りない不信と、武田家を父が恣にしている現状への危機感は、信繁を晴信の元へと走らせる。
彼は、晴信に、ありのままを打ち明けた。「父が、晴信を廃嫡し、自分を跡継ぎに据えようと考えている」と――。
意外な事に、それを聞いた晴信は少しも驚かなかった。――日頃の言動から、父が自分に対してどういう思いを抱いているのかを、ハッキリと察していたのだろう。
信繁の話によって、その憶測が確信へと変わってから、晴信の行動は迅速だった。
晴信と、彼の守役であった板垣駿河守信方は、甘利備前守虎泰をはじめとした譜代の家臣達に秘かに働きかけて、次々と味方に引き入れていった。元々、日頃の信虎の粗暴な行いに不満を持つ者は家中に多く、一部の腹心を除いた大部分の家臣達は、みな晴信に従う事を誓ったのだ。――もちろん、信繁もその中のひとりだった。
(……そして、天文十年のあの日に――)
――天文十年 (1541年)六月十四日。信虎が、駿河国主にして、自身の娘婿でもある今川治部大輔義元に会いに、駿河へと赴いた。そして、その時こそまさに、かねてから計画していた策――国主武田信虎の国外追放――を実行に移す好機であった。
晴信と信繁は、駿河と甲斐の国境に兵を出し、直ちに封鎖した。
駿河からの帰途を、兵達の長槍を以て妨げられた信虎の形相――それは、正に醜悪を絵に描いたような、悪鬼のそれであった。
そして、槍衾の後ろで立っている、甲冑を纏った晴信と信繁の姿を目敏く見付けた信虎は、まるで飢えた狼のように犬歯を剥き出して、二人に向かって吼えた。
「おのれ、太郎! この親不孝の痴れ者が! 父に向かって槍を向けるとは何事ぞ! おまけに、何も知らぬ次郎まで取り込みおって! ――この恩知らずがぁっ!」
「……」
信繁は信虎の怒声を聴きながら、彼がこの期に及んでもなお「信繁が晴信に誑かされて、今回の企てに参加した」と信じ込んでいる事に、内心驚愕していた。
父は、長子晴信の言動の全てを信じられないのと同じくらいに、『次郎が自分を無条件で信奉し慕っている』という事を、未だに一片の疑いもなく盲信しているのだ。
(……結局の所、父上は、兄上とも儂とも、心を通じ合わせてはいなかったのだな。あくまで己の先入観と思い込みだけで、儂と兄上の心など二の次で、こうあるべきだという己の価値観を儂らに押しつけていただけ……そういう事か)
彼は、そう唐突に悟り、同時に、父親に対して猛烈で決定的な嫌悪感を抱いたのだ。
信繁は、槍衾の前で為す術も無く怒鳴り散らすばかりの、醜悪な父の姿を見る事が嫌になり、思わず顔を背けた。そして、チラリと横目で傍らの兄の顔を盗み見――、
その顔に冷たい嘲笑が貼り付いている事に気が付いて、微かに寒気を感じた事を憶えている……。
(廃嫡……か。再び、その言葉が現実味を帯びてくるとは思わなんだな)
武田太郎義信――そして、諏訪四郎勝頼。
兄・信玄の次男である信親は、生まれた頃から目を患っていて盲目であり、既に僧籍に入り“竜芳”と名乗っている為、家督の相続権は無い。
そして、三男である信之は、齢十一で既に夭折しているから、万が一、義信が嫡男の地位を失うような事になれば、自然、武田の家督は四男である勝頼が継ぐ事となる。
……確かに、勝頼にその気があるというのならば、先程昌幸が仄めかしたように、彼が義信を追い落とそうとするというのも頷ける。
が――、信繁の脳裏に、勝頼が昼間の論功行賞の場で見せた、配下の助けを借りて挙げた手柄を賞されるのを潔しとしない態度が過ぎった。
(……四郎が、斯様に邪な事を考えておるようには見えなかったが……)
信繁は深く溜息を吐くと、こめかみを指で押さえた。
……どうやら、これ以上考えても答えは出ないようだ。
ならば、どうするべきか。
「ふむ……」
――そして彼は、閉じていた左目をうっすらと開ける。
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