61 / 263
第一部六章 軋轢
叔父と甥
しおりを挟む
四郎の真意を見極める為には、彼と直接会うのが一番早い事は判った。――だが、何故か信繁は、それを行動に移す事に抵抗を覚えた。
なかなか気が進まない。
自分が四郎に会うという事自体は至極簡単な事のはずなのに、どうしても躊躇いを感じるのだ。
寝所の中に入っても、モヤモヤする思いは晴れない。
その理由が判らぬもどかしい思いに囚われながらも、疲れと酔いから、信繁はいつしか深い眠りに落ちていった。
――そして、翌日、
「――おはようございます、父上」
と、バツの悪げな顔をしながら現れた信豊は、父に向かって深々と頭を下げた。
結局、彼が屋敷へと帰ってきたのは、翌朝になってからだった。したたかに酩酊し、両親に碌な挨拶もせぬまま、昌幸の肩を借りて千鳥足で自室へと入っていった彼がようやく起きてきたのは、既に日が中天を過ぎた頃であった。
信繁は、彼の横に座って団扇で扇いでいる桔梗に目配せをすると、いかにも不機嫌そうな顔を作りながら、低い声で息子に声をかける。
「……おはようございますと言うには、随分と遅いな」
「……も、申し訳ございませぬ」
「朝帰りとは、父の知らぬ内に、随分と立派な大人になったものよのう、六郎次郎」
「あ……い、いえ!」
険しい表情の父が紡ぐ皮肉交じりの言葉に、信豊は顔を真っ青にしながら、必死で口を動かす。
「そ――その! あ、朝帰りとは言っても、父上がお考えの――そういう理由ではなく……」
「……ぷ、ははははは! 戯れだ。悪かったな、六郎次郎」
その身体を小さく縮こまらせる信豊の様子に、信繁は堪らず吹き出した。彼の横に座る桔梗もまた、袖を口に当てながら、クスクスと笑っている。
そんな両親を見て、信豊は思わず憮然とした表情を浮かべる。
「……ふたり揃って、拙者をおからかいになられたのですか? ――いや、綾も……ですか?」
「何だ、綾にも何か言われたのか?」
「ええ……まあ……。『ちちうえは、かなりおいかりです!』と、起きてから散々に脅され申した……」
「まあ……うふふ」
「はっはっはっ! 綾も、なかなか言うようになったのう!」
信豊の言葉に、信繁と桔梗は顔を綻ばせた。
そんな愉快そうなふたりの様子を恨めしげに見ていた信豊だったが、やにわに顔を顰めると、こめかみを押さえた。
「痛つつつ……」
「――何だ六郎次郎。二日酔いか?」
「え……ええ、はあ……い、痛つつ……」
頭痛に歯を食いしばって耐えながら、信豊は頷く。
「あらあら、それは大変。――どれ、白湯でもお作りしましょう」
そう言いながら、桔梗は立ち上がって、台所の方へと向かった。
「……で、どうだった、四郎は?」
信繁は、桔梗が置いた団扇を手に取り、自分で扇ぎながら、さり気なく信豊に尋ねた。
――途端に、信豊の顔が輝く。
「いや、楽しゅうございました!」
「ほう……」
喜色満面で大きく頷いた信豊の様子を見て、心中秘かに驚いた信繁だったが、その心の内は表には出さず、相槌を打つに止める。
一方の信豊は、二日酔いなど何処かへ行ってしまったような様子で言葉を継いだ。
「四郎殿……彼は、げに傑物と呼ぶに相応しき御方です! 昨日、酒を酌み交わしながら、夜を徹して様々な事を語り合いましたが、この信豊、四郎殿のお人柄にほとほと感服仕り申した!」
「ふむ……」
「四郎殿は、拙者とたったの三つしか歳が離れておりませぬが、とても落ち着いた、柔らかい物腰で他人と接するのに長けておられます。さすがは神家・諏訪氏の血を継いでおられるだけありますな」
「……諏訪――か」
――その氏族の名を聞いた瞬間、信繁の脳裏に、二十数年前に見た情景が目に浮かんだ。
炎に包まれる湖畔の城。
泥と血に塗れながら、義弟達に恨み言を吐きつける諏訪頼重。
涙を浮かべた目で、自分たちを睨みながら逝った実姉の顔――。
「……諏訪か」
信繁は、またしても掘り起こしてしまった、旧く苦い記憶を吹き飛ばすかのように、乱暴に団扇を振ると、殊更に平静を装って信豊に微笑みかける。
「それにしても――お主が、他人の事をそこまで褒めそやすのは珍しいな」
親の贔屓目ではないが、信豊の人を見る目は確かだ。そんな彼が、そこまで手放しで賞賛するとは――。
(諏訪四郎勝頼という男、余程の器量を持ち合わせているのか、それとも……)
と、信繁が思いを巡らせていると、ハッと思い出したように、信豊が声を上げた。
「――そうそう! 四郎殿が仰っており申した。『近いうちに、お父上にもお目見得したい』と――」
「……儂と?」
突然の話に、信繁は思わず目を丸くした。
「儂と会いたいと申しておったのか……四郎は」
「はい、左様にござります!」
信豊は、再び大きく頷いてみせた。
「四郎殿は、武田の副将として、日々精励なされておられる父上に深い敬服の念を抱かれているとの事で、是非とも直にお話をお伺い致したいと仰っておりました。――そうそう」
信豊は、ポンと手を叩くと、言葉を継いだ。
「あと、こうも言っておられました。――兄を支える弟としての心構えというものも、是非ともお伺いしたい――と」
「! ……弟としての……心構え――とな」
信繁は、その信豊の言葉で、ハッと気付いた。
――そう、似ているのだ。かつての自分の立場と、現在の勝頼の立場が。
だから、自分でも気付かぬ心の底の方で、彼を拒絶し、避けようとした。
それが、昨夜に感じた躊躇いの理由だ。
「……そうか」
――ならば、なればこそ。
(儂は、必ず会わねばならぬ。兄上の為、儂自身の為、武田家の未来の為、――そして、何より……四郎の為に)
信繁は、顔を引き締めると、信豊の顔を真っ直ぐに見つめて、大きく頷きながら言った。
「そうか……。分かった。ならば、四郎にこう伝えよ。『こちらこそ、願ってもない話。喜んでお会い致したい』――とな」
なかなか気が進まない。
自分が四郎に会うという事自体は至極簡単な事のはずなのに、どうしても躊躇いを感じるのだ。
寝所の中に入っても、モヤモヤする思いは晴れない。
その理由が判らぬもどかしい思いに囚われながらも、疲れと酔いから、信繁はいつしか深い眠りに落ちていった。
――そして、翌日、
「――おはようございます、父上」
と、バツの悪げな顔をしながら現れた信豊は、父に向かって深々と頭を下げた。
結局、彼が屋敷へと帰ってきたのは、翌朝になってからだった。したたかに酩酊し、両親に碌な挨拶もせぬまま、昌幸の肩を借りて千鳥足で自室へと入っていった彼がようやく起きてきたのは、既に日が中天を過ぎた頃であった。
信繁は、彼の横に座って団扇で扇いでいる桔梗に目配せをすると、いかにも不機嫌そうな顔を作りながら、低い声で息子に声をかける。
「……おはようございますと言うには、随分と遅いな」
「……も、申し訳ございませぬ」
「朝帰りとは、父の知らぬ内に、随分と立派な大人になったものよのう、六郎次郎」
「あ……い、いえ!」
険しい表情の父が紡ぐ皮肉交じりの言葉に、信豊は顔を真っ青にしながら、必死で口を動かす。
「そ――その! あ、朝帰りとは言っても、父上がお考えの――そういう理由ではなく……」
「……ぷ、ははははは! 戯れだ。悪かったな、六郎次郎」
その身体を小さく縮こまらせる信豊の様子に、信繁は堪らず吹き出した。彼の横に座る桔梗もまた、袖を口に当てながら、クスクスと笑っている。
そんな両親を見て、信豊は思わず憮然とした表情を浮かべる。
「……ふたり揃って、拙者をおからかいになられたのですか? ――いや、綾も……ですか?」
「何だ、綾にも何か言われたのか?」
「ええ……まあ……。『ちちうえは、かなりおいかりです!』と、起きてから散々に脅され申した……」
「まあ……うふふ」
「はっはっはっ! 綾も、なかなか言うようになったのう!」
信豊の言葉に、信繁と桔梗は顔を綻ばせた。
そんな愉快そうなふたりの様子を恨めしげに見ていた信豊だったが、やにわに顔を顰めると、こめかみを押さえた。
「痛つつつ……」
「――何だ六郎次郎。二日酔いか?」
「え……ええ、はあ……い、痛つつ……」
頭痛に歯を食いしばって耐えながら、信豊は頷く。
「あらあら、それは大変。――どれ、白湯でもお作りしましょう」
そう言いながら、桔梗は立ち上がって、台所の方へと向かった。
「……で、どうだった、四郎は?」
信繁は、桔梗が置いた団扇を手に取り、自分で扇ぎながら、さり気なく信豊に尋ねた。
――途端に、信豊の顔が輝く。
「いや、楽しゅうございました!」
「ほう……」
喜色満面で大きく頷いた信豊の様子を見て、心中秘かに驚いた信繁だったが、その心の内は表には出さず、相槌を打つに止める。
一方の信豊は、二日酔いなど何処かへ行ってしまったような様子で言葉を継いだ。
「四郎殿……彼は、げに傑物と呼ぶに相応しき御方です! 昨日、酒を酌み交わしながら、夜を徹して様々な事を語り合いましたが、この信豊、四郎殿のお人柄にほとほと感服仕り申した!」
「ふむ……」
「四郎殿は、拙者とたったの三つしか歳が離れておりませぬが、とても落ち着いた、柔らかい物腰で他人と接するのに長けておられます。さすがは神家・諏訪氏の血を継いでおられるだけありますな」
「……諏訪――か」
――その氏族の名を聞いた瞬間、信繁の脳裏に、二十数年前に見た情景が目に浮かんだ。
炎に包まれる湖畔の城。
泥と血に塗れながら、義弟達に恨み言を吐きつける諏訪頼重。
涙を浮かべた目で、自分たちを睨みながら逝った実姉の顔――。
「……諏訪か」
信繁は、またしても掘り起こしてしまった、旧く苦い記憶を吹き飛ばすかのように、乱暴に団扇を振ると、殊更に平静を装って信豊に微笑みかける。
「それにしても――お主が、他人の事をそこまで褒めそやすのは珍しいな」
親の贔屓目ではないが、信豊の人を見る目は確かだ。そんな彼が、そこまで手放しで賞賛するとは――。
(諏訪四郎勝頼という男、余程の器量を持ち合わせているのか、それとも……)
と、信繁が思いを巡らせていると、ハッと思い出したように、信豊が声を上げた。
「――そうそう! 四郎殿が仰っており申した。『近いうちに、お父上にもお目見得したい』と――」
「……儂と?」
突然の話に、信繁は思わず目を丸くした。
「儂と会いたいと申しておったのか……四郎は」
「はい、左様にござります!」
信豊は、再び大きく頷いてみせた。
「四郎殿は、武田の副将として、日々精励なされておられる父上に深い敬服の念を抱かれているとの事で、是非とも直にお話をお伺い致したいと仰っておりました。――そうそう」
信豊は、ポンと手を叩くと、言葉を継いだ。
「あと、こうも言っておられました。――兄を支える弟としての心構えというものも、是非ともお伺いしたい――と」
「! ……弟としての……心構え――とな」
信繁は、その信豊の言葉で、ハッと気付いた。
――そう、似ているのだ。かつての自分の立場と、現在の勝頼の立場が。
だから、自分でも気付かぬ心の底の方で、彼を拒絶し、避けようとした。
それが、昨夜に感じた躊躇いの理由だ。
「……そうか」
――ならば、なればこそ。
(儂は、必ず会わねばならぬ。兄上の為、儂自身の為、武田家の未来の為、――そして、何より……四郎の為に)
信繁は、顔を引き締めると、信豊の顔を真っ直ぐに見つめて、大きく頷きながら言った。
「そうか……。分かった。ならば、四郎にこう伝えよ。『こちらこそ、願ってもない話。喜んでお会い致したい』――とな」
3
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
If太平洋戦争 日本が懸命な判断をしていたら
みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら?
国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。
真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。
破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。
現在1945年夏まで執筆
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
徳川慶勝、黒船を討つ
克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。
もしかしたら、消去するかもしれません。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる