62 / 263
第一部六章 軋轢
会談と昼餉
しおりを挟む
信繁と諏訪四郎勝頼の顔合わせは、勝頼と信豊が、それぞれ高遠と小諸に向けて発つ前々日に実現した。
午の刻 (午前十二時)頃に、僅かな供回りの者のみを連れて、信繁の屋敷を訪れた勝頼は、門前で昌幸と信豊に丁重に出迎えられた。
「典厩様。おふたりを、座敷へとお通し致しました」
自室で書状を認めていた信繁は、襖を開けて勝頼の来訪を告げる昌幸の声に、胡乱げな表情を浮かべて顔を上げた。
「……ふたり? 四郎だけではないのか?」
「は――左様にござります」
信繁の問いに、昌幸は頷いた。
「四郎様は、弟君の五郎様をお連れになっております」
「何……五郎もか?」
五郎とは、信玄の五男・五郎盛信の事である。つまり、勝頼とは腹違いの兄弟にあたる。
彼はまだ齢七歳ではあるが、四郎と同じ日に元服の儀を行い、信濃の名族である仁科氏の名跡を継いだ、歴とした仁科家の当主である。
「四郎様にお伺いしました所、五郎様が一緒に行くと駄々を捏ね――強くご要望なされたとか……」
「泣く子と地頭には勝てぬというヤツか」
「その様で。――ただ、傍目で見ていても、おふたりの仲は大層睦まじいようでございますな。同じ腹から出てきた真田三兄弟よりも、仲は宜しいんじゃないでしょうか」
昌幸はそう言うと、思わず苦笑を漏らした。
信繁は、書状に仕上げの花押を捺すと、着ていた直垂の乱れを調えながら立ち上がった。
「さて……参ろうか」
そう呟くように言うと、微かに緊張の面持ちを見せながら自室を出る。その後ろを、昌幸が静かに続いた。
◆ ◆ ◆ ◆
信繁が座敷に入ると、上座に向かって平伏するふたりの背中と、その傍らに座る信豊の頭が見えた。
上座の円座に腰を下ろした信繁は、軽く咳払いをすると、目の前のふたりに向かって静かに声をかける。
「……四郎、そして五郎。まだ暑い中、我が屋敷へ、よくぞおいで下さった。どうぞ、頭を上げられよ」
「「はっ」」
信繁の言葉に若々しい声と幼い声が同時に応え、おずおずといった様子で、ふたりが面を上げた。
「――典厩様。直接お目にかかるのは初めてとなり申す。……諏訪四郎勝頼にござります」
「に……仁科五郎盛信に、ございます!」
落ち着いた若者の声と、緊張で強張った童の声が、同時に信繁にかけられた。
信繁は、思わず口元を綻ばせながら、鷹揚に頷く。
「――まあ、おふたりとも、そうしゃちほこばらずとも良い。どうぞ、寛がれよ」
「然様でござるぞ、四郎殿、五郎殿。父上の事は、気安く“叔父上”とお呼び下され」
信繁の言葉を補うように、信豊もふたりに声をかけた。
その穏やかな反応に、ふたりもホッとした表情を浮かべ、やや相好を崩す。
勝頼と盛信は、顔を見合わせると小さく頷き合い、まず勝頼が口を開いた。
「――では、お言葉に甘えまして、叔父上とお呼び致します。――叔父上、今までキチンとご挨拶もせず、大変失礼をば致しました」
「良い。そなたらの元服の儀が終わってすぐ、箕輪攻めの準備に入ってしまったからな。お互い、暢気に挨拶する暇も無かった。詫びるには及ばぬ」
勝頼の詫び言に、信繁はゆるゆると首を振りながら言うと、襖の方に向けてポンポンと手を叩く。
すると、静かに襖が開き、彼の妻の桔梗と娘の綾が侍女達と一緒になって、料理の載った膳を運んできた。
「それよりも、もう昼時だ。おふたりとも、腹は減っておるかの? 是非とも、我が奥 (妻)が腕によりをかけて拵えた昼餉を食してくれ。自慢ではないが、美味いぞ」
「まあ……主様、そんな事をおっしゃって……」
信繁の言葉に、思わず頬を赤らめる桔梗。
「四郎様と五郎様のお口に合えば宜しいのですが……」
彼女は困り笑いを浮かべながら、テキパキと四人の前に膳を並べる。
「はい! ごろうさま、どうぞっ!」
綾も、ニコニコと太陽のような笑顔を見せながら、母を助けて配膳を手伝っている。
「これは――忝うございます、叔母上」
「あ――ありがとうございます」
勝頼と盛信も、思わず顔を綻ばせながら、ふたりに向けて頭を下げた。
和やかな会見の場に、食欲を誘う香りが仄かに漂う。
――ぐぅ~。
「――ん?」
――と、誰かの腹の音が、その場に居合わせた者たちの鼓膜を揺らした。
皆は「一体、誰だ?」と、訝しげな表情を浮かべてキョロキョロと周囲を見回す。
そして、
「…………失礼仕りました」
と言って、顔を真っ赤にしたのは――信豊だった。
「……ぷ、ぷはははははっ! お前か、六郎次郎!」
信繁の声を皮切りにして、座敷の間が爆笑に包まれた。信繁も、勝頼も、盛信も、大きな口を開けて爆笑している。
桔梗でさえ、袖に手を当てて、必死で笑いを圧し殺していた。
――ただひとり、
「もうっ! にいさまのくいしんぼうっ! しろうさまとごろうさまのまえで、はずかしいですよっ!」
綾だけは、その小さな頬をパンパンに膨らませて、カンカンに怒っていた。
午の刻 (午前十二時)頃に、僅かな供回りの者のみを連れて、信繁の屋敷を訪れた勝頼は、門前で昌幸と信豊に丁重に出迎えられた。
「典厩様。おふたりを、座敷へとお通し致しました」
自室で書状を認めていた信繁は、襖を開けて勝頼の来訪を告げる昌幸の声に、胡乱げな表情を浮かべて顔を上げた。
「……ふたり? 四郎だけではないのか?」
「は――左様にござります」
信繁の問いに、昌幸は頷いた。
「四郎様は、弟君の五郎様をお連れになっております」
「何……五郎もか?」
五郎とは、信玄の五男・五郎盛信の事である。つまり、勝頼とは腹違いの兄弟にあたる。
彼はまだ齢七歳ではあるが、四郎と同じ日に元服の儀を行い、信濃の名族である仁科氏の名跡を継いだ、歴とした仁科家の当主である。
「四郎様にお伺いしました所、五郎様が一緒に行くと駄々を捏ね――強くご要望なされたとか……」
「泣く子と地頭には勝てぬというヤツか」
「その様で。――ただ、傍目で見ていても、おふたりの仲は大層睦まじいようでございますな。同じ腹から出てきた真田三兄弟よりも、仲は宜しいんじゃないでしょうか」
昌幸はそう言うと、思わず苦笑を漏らした。
信繁は、書状に仕上げの花押を捺すと、着ていた直垂の乱れを調えながら立ち上がった。
「さて……参ろうか」
そう呟くように言うと、微かに緊張の面持ちを見せながら自室を出る。その後ろを、昌幸が静かに続いた。
◆ ◆ ◆ ◆
信繁が座敷に入ると、上座に向かって平伏するふたりの背中と、その傍らに座る信豊の頭が見えた。
上座の円座に腰を下ろした信繁は、軽く咳払いをすると、目の前のふたりに向かって静かに声をかける。
「……四郎、そして五郎。まだ暑い中、我が屋敷へ、よくぞおいで下さった。どうぞ、頭を上げられよ」
「「はっ」」
信繁の言葉に若々しい声と幼い声が同時に応え、おずおずといった様子で、ふたりが面を上げた。
「――典厩様。直接お目にかかるのは初めてとなり申す。……諏訪四郎勝頼にござります」
「に……仁科五郎盛信に、ございます!」
落ち着いた若者の声と、緊張で強張った童の声が、同時に信繁にかけられた。
信繁は、思わず口元を綻ばせながら、鷹揚に頷く。
「――まあ、おふたりとも、そうしゃちほこばらずとも良い。どうぞ、寛がれよ」
「然様でござるぞ、四郎殿、五郎殿。父上の事は、気安く“叔父上”とお呼び下され」
信繁の言葉を補うように、信豊もふたりに声をかけた。
その穏やかな反応に、ふたりもホッとした表情を浮かべ、やや相好を崩す。
勝頼と盛信は、顔を見合わせると小さく頷き合い、まず勝頼が口を開いた。
「――では、お言葉に甘えまして、叔父上とお呼び致します。――叔父上、今までキチンとご挨拶もせず、大変失礼をば致しました」
「良い。そなたらの元服の儀が終わってすぐ、箕輪攻めの準備に入ってしまったからな。お互い、暢気に挨拶する暇も無かった。詫びるには及ばぬ」
勝頼の詫び言に、信繁はゆるゆると首を振りながら言うと、襖の方に向けてポンポンと手を叩く。
すると、静かに襖が開き、彼の妻の桔梗と娘の綾が侍女達と一緒になって、料理の載った膳を運んできた。
「それよりも、もう昼時だ。おふたりとも、腹は減っておるかの? 是非とも、我が奥 (妻)が腕によりをかけて拵えた昼餉を食してくれ。自慢ではないが、美味いぞ」
「まあ……主様、そんな事をおっしゃって……」
信繁の言葉に、思わず頬を赤らめる桔梗。
「四郎様と五郎様のお口に合えば宜しいのですが……」
彼女は困り笑いを浮かべながら、テキパキと四人の前に膳を並べる。
「はい! ごろうさま、どうぞっ!」
綾も、ニコニコと太陽のような笑顔を見せながら、母を助けて配膳を手伝っている。
「これは――忝うございます、叔母上」
「あ――ありがとうございます」
勝頼と盛信も、思わず顔を綻ばせながら、ふたりに向けて頭を下げた。
和やかな会見の場に、食欲を誘う香りが仄かに漂う。
――ぐぅ~。
「――ん?」
――と、誰かの腹の音が、その場に居合わせた者たちの鼓膜を揺らした。
皆は「一体、誰だ?」と、訝しげな表情を浮かべてキョロキョロと周囲を見回す。
そして、
「…………失礼仕りました」
と言って、顔を真っ赤にしたのは――信豊だった。
「……ぷ、ぷはははははっ! お前か、六郎次郎!」
信繁の声を皮切りにして、座敷の間が爆笑に包まれた。信繁も、勝頼も、盛信も、大きな口を開けて爆笑している。
桔梗でさえ、袖に手を当てて、必死で笑いを圧し殺していた。
――ただひとり、
「もうっ! にいさまのくいしんぼうっ! しろうさまとごろうさまのまえで、はずかしいですよっ!」
綾だけは、その小さな頬をパンパンに膨らませて、カンカンに怒っていた。
3
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
If太平洋戦争 日本が懸命な判断をしていたら
みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら?
国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。
真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。
破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。
現在1945年夏まで執筆
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
徳川慶勝、黒船を討つ
克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。
もしかしたら、消去するかもしれません。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる