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第一部六章 軋轢

血縁と離縁

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 「は――?」

 一瞬、義信は父の言った言葉の意味を理解できず、口を半開きにしたまま、呼吸すら忘れて固まった。

「……」

 信玄は、そんな息子の様子を一瞥すると、盤上に目を落とす。そして、碁笥ごけの白石をひとつ摘まむと、パチリと音を立てて打った。
 ――悪手である。
 現在の戦局では、一時の利を得るが、対局が続けば続く程、己の首を絞める――そんな手を打ってしまった。
 ……だが、先程の信玄の一言にすっかり気を取られていた義信は、それには気が付かない。
 彼は顔を真っ青にして、先程耳にした父の言葉が聞き間違いである事を祈りつつ、震える声で父に問いかけた。

「ち――父上。今……何と言われましたか? 良く――聞き取れませなんだ」

 信玄は、息子の青ざめた顔をチラリと見ると、小さな咳払いをして、再び言った。

「……態勢が整い次第、今川とは手切れをする。その後、全軍を上げて駿河・遠江とおとうみへと攻めかかり、彼の地を平らげる。――そう言うた」
「ッ! ――気はお確かかッ、父上ッ!」

 義信は、我を忘れて、思わず立ち上がって叫んだ。頭に一気に血が上り、視界がユラユラと揺らいだ。

「……」

 一方、胡座をかいたままの信玄は、沈黙したまま、立ち上がった義信を下から見上げている。
 そんな信玄の落ち着き払った様子に、義信の激情は更に増した。
 彼は目を剥き、父に向かって怒鳴った。

「今川と手切れする? 何故、その様な事をお考えになったのです? 武田と今川は、二代にわたって親密な関係を――」
「情勢が変わったのじゃ、太郎」

 その鷲のような鋭い目で義信を睨みつけながら、信玄は静かな声で言った。

「……義元殿が桶狭間で敗死され、氏真が後を継いだが、彼奴きゃつは若輩の上、愚鈍だという話だ。父の敵を討とうともせず、日々を公家遊びに費やしておると聞く。今川の臣共も、次々と愛想をつかし、三河 (現在の愛知県東部)と遠江 (現在の静岡県西部)は、いち早く今川から独立した松平蔵人佐くろうどのすけ家康に、一方的に蹂躙されておる有様じゃ」
「……それで、弱った今川が松平に喰い尽くされぬ内に、駿河と遠江を掠め取ろうという訳でござるか?」

 信玄の意を先取りした義信に、信玄は無言で頷いた。
 それを見た義信の眦が跳ね上がった。

「――愚かな! ご乱心召されたか、父上!」
「……何だと?」

 義信の激しい言葉に、信玄の太い眉がピクリと動いた。

「太郎……貴様、父に向かって――」
「愚かな事を愚かと言うて、何が悪い!」
「――!」

 面と向かってハッキリと言われ、思わず言葉を喪った信玄に、義信は更に激しく言い募る。

「今川の盟友は、武田だけではございませぬ! 我らと同様に、小田原の北条とも血の契りを重ねておるのです! ……いや、北条と今川の方が、契り合った血は遙かに濃い!」

 義信の言う通りである。
 今川家の先代・義元の正室は、武田信虎の娘――即ち、信玄の姉であり、義信の正室は、義元の娘であり、現当主・氏真の妹である。
 ――だが、北条と今川の血の濃さは、それとは比べものにならない。
 そもそも、北条家の始祖である伊勢宗瑞 (北条早雲)の姉・北川殿が、今川家当主・今川義忠の室である。更に、義忠と北川殿の子である氏親 (義元の父)の家督相続に、宗瑞が力を貸した事もあって、ふたつの家の縁は太い。
 今川と北条は、一時敵対する事もあったが、天文二十三年 (1554年)に締結された善徳寺の会盟 (甲相駿三国同盟)の際に、北条家当主・北条氏康の娘が今川氏真の元に嫁ぐ事で、その関係は修復されたのだった。

「我らが、一方的に三国の盟約を破棄して駿河へと攻め込めば、東の北条が黙っている訳がありませぬ! 北条は、直ちに我らを敵と見なすでしょう。……そうなれば、北の上杉・南の今川・東の北条と、我が武田家は三方に敵を作る事となります! そうなれば、逆に滅ぼされるのは、我らの方ですぞ!」
「……そうならぬ様に、以前より根回しは行っておる。――それに」

 ――信玄は、そこで一度言葉を切り、乾いた咳をすると、再び口を開いた。

「……北条が動く前に、速やかに駿府を落とせば、氏康殿もおいそれと手出しする事は出来まい。今川と北条に血の繋がりがあるというのなら、我らと北条も同じじゃ」
「……梅の事を言っておられるのですか?」

 梅とは、善徳寺会盟の礎のひとつとして、北条家嫡男・北条氏政に嫁いだ、信玄の娘――つまり、義信の妹である。
 義信は、信玄の言葉に、大きく頭を振った。

「――血の繋がりを当てにされておられるのですか? そんなもの血縁は、何の歯止めにもなりませぬ。……今、父上が口走っている世迷言こそが、その何よりの証でございませぬか!」
「……世迷言だと?」

 義信の歯に衣着せぬ言葉に、信玄の顔が次第に赤黒くなっていく。
 そんな信玄の顔を見下ろしながら、義信は興奮で肩を上下させていたが――、

「……嶺は、どうするのです?」

 声の調子を一変させ、信玄に懇願するように訊いた。

「今川から嫁いできた嶺は……武田と今川の仲が切れたら、我が妻をどうなされようというのですか、父上は……?」
「……」

 義信の震える声を聞き、信玄は暫し目を閉じた。
 そして、重い口を開く。

「……嶺殿は、離縁せよ。なるべく早い内に駿河へと帰――」
「お断り致す!」

 信玄の命を最後まで聞かずに、義信は絶叫した。唇を戦慄わななかせながら、首を激しく横に振った。
 頑なな態度の義信を前に、信玄も、怒気を込めた目で義信を睨みつける。
 まるで、真剣で斬り合うかのような殺気を露わにしながら、父と子は無言で睨み合った。
 ――その沈黙を破ったのは、信玄ちちだった。

「父の……主君の命に従えぬと申すか、太郎――」
「ハッ! 『父の命には黙って従え』と仰るのですか? それを、父上あなたが! 命に従うどころか、貴方が――!」
「太郎ッ!」

 義信の言葉に、信玄は激昂した。
 鬼のような形相で、傍らに置いた碁笥をむんずと掴んで、激しく声を荒げる。

「貴様ッ! 父に向かって、その様な――巫山戯ふざけた口を……叩く……と、は……」

 が、次第にその声は小さく、掠れていく。

「……父上?」

 父の異変を感じた義信が、訝しげに彼に声をかける。――と、

「……ゴホ、ゴホッ! ゴフッ――ゴホガハッ!」

 突然、信玄が激しく咳き込み、上体を折って、碁盤の上に突っ伏した。
 盤上の碁石が落ち、乾いた音を立てる。

「ち……父上ッ!」

 父の急変に、義信は慌ててその背中を擦る。

「ガハッ! ゴホッ! ――グフッ!」
「父上! いかがなされました! 父上ッ?」

 背を丸めた信玄の耳元で、懸命に呼びかける義信だったが、父は止まらない咳に苦しむばかりだ。
 義信は襖を開け放つと、廊下に向かってあらん限りの声で叫んだ。

「誰か! 誰かあるかッ! 薬師くすしを呼べェッ! 急げ……一刻も早くッ!」
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