甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

文字の大きさ
65 / 263
第一部六章 軋轢

出立と別離

しおりを挟む
 勝頼に、義信との仲介を約束した信繁だったが、さすがに、その翌日にすぐ面会を実現させる事は出来なかった。
 その次の日は、勝頼が、城主を任じられた高遠城へと赴く日という事も有り、勝頼は方々への挨拶回りと出立の準備に追われていたし、信繁は信繁で、嫡子信豊の小諸出立に関わる諸々の雑事に忙殺されていたからだ。
 結局、夜に開かれた、ふたりの門出を祝う宴の場で勝頼と義信は顔を合わせたものの、周囲に信玄や家臣達が居並ぶ中であり、形式的な挨拶しか出来なかった――。


 そして、その翌日。

「……それでは、行って参ります。父上、母上」

 一昨日、勝頼と盛信を見送った屋敷の門前で、今日は旅装に身を包んだ信豊が、その顔を緊張で引き締めつつ、深々と頭を下げる。

「うむ。しっかりと務めを果たせよ、六郎次郎。……息災でな」

 信繁は、小さく頷いて、目の前の息子に向かって、言葉をかける。

「ほ……本当に、身体に気をつけるのですよ。悪い風邪などに罹らぬように……。暑いからと言って、布団を除けて寝たりしてはいけませんよ」
「母上……。もう、そんな子供の頃のような事は致しませぬよ……」

 目尻を袖で拭いながら、息子にそう言う桔梗に、信豊は苦笑混じりで答えた。
 そして、母の腰に手を回して、信豊から顔を隠している妹にも声をかける。

「のう……綾。いい加減に機嫌を直して、兄に顔を見せてくれよ」
「……いやです」

 綾は、母の腰に回した腕に、より強く力を込め、一層顔を圧し付けて言った。

「いやです……。あにうえが、こもろにいくのをやめてくれなければ、あやはあにうえに、にどとかおをみせませぬ!」
「無理を申すな……」

 綾の言葉に、困り顔になる信豊。
 桔梗は苦笑しながら、腰にしがみつく綾を諭す。

「これ、綾。あまり兄上を困らせてはなりませぬよ。せっかくの門出です。笑顔で見送って差し上げましょう」
「いやです!」
「ははは。仕方が無いのう」

 頑なな幼子あやの我が儘に、信繁も苦笑いを浮かべつつ、綾のおかっぱ頭を優しく撫でた。
 そして、意地悪そうな表情を浮かべて、綾の耳元で囁いた。

「……そこまで、兄との別れが惜しいのならば、一緒に小諸まで行っても良いのだぞ? 儂と母上が、この屋敷で留守番をしているから、安心せい」
「――ッ?」

 信繁の囁きを耳にした瞬間、綾は目をまん丸にして、物凄い勢いで顔を上げた。

「おお、それは良い!」

 信豊も、父の軽口に乗って、ニヤニヤと笑いながら言う。

「では、綾。一緒に参ろうか? 綾が一緒ならば、兄も嬉しいぞ」
「――ッ!」

 信豊の言葉を聞いた綾は、唖然とした表情を浮かべた。
 そして、信繁と信豊の顔を交互に凝視するや、その瞳を涙でいっぱいにして、くしゃくしゃに顔を歪め、

「い――いやですぅっ! あにうえとはなれるのはいやですけど、ははうえとはなれるのは、もっといやでずうぅっ!」

 そう、金切り声で叫ぶと、顔中を口にして、ワンワンと泣き始めた。
 その姿に、ふたりの男は覿面に狼狽えた。

「あ――、いや……戯言だ。綾……真に受けるな……」
「す、済まぬ済まぬ! 兄と父が悪かった! 大丈夫だから、泣くのは止めてくれ……」
「主様! 六郎次郎殿! 綾をからかうにも程がありますよっ!」

 慌てて言い繕うふたりに、桔梗は珍しくその眦を吊り上げ、厳しい言葉で窘める。

「あ……相済まぬ……」
「も……申し訳……ございませぬ」

 桔梗の剣幕を前に、信繁と信豊はシュンとして項垂れる。

「……ははは。まさしく“母は強し”。おふたりとも、すっかり形無しですなぁ」

 そんな一家の様子に思わず吹き出したのは、背後に控えていた昌幸だった。
 彼はずいっと前に出ると、手に持っていた小さな包みを信豊に差し出す。

「六郎次郎様、そばがきを拵えました。道中、小腹が空いた時にでもおつまみ下され」
「お――おお、すまぬな、昌幸」

 信豊は相好を崩して、昌幸の手の上の包みに手を伸ばした。
 昌幸は、まだ温かいそばがきの包みを信豊に渡すと、微笑を湛えながら言った。

「小諸で、何かございましたら、遠慮無く真田の者どもにお申し付け下され。岩櫃や真田本城には兄上達がおりますし、箕輪には真田の親父殿がおりまする。……特に親父殿は、お役目を与えずに放っておくと一日中酒を呷って過ごしておるような御仁ゆえ、暇を与える事無く、せいぜいこき使ってやって下され」
「ははは、そうだな。弾正殿に関しては、前の川中島で、さんざん振り回――世話になったゆえ、気心は知れておる。……相分かった。そう言っていたと、確と伝えて進ぜよう」

 と、破顔する信豊に、昌幸は「いや、それは止めて下され……」と、慌てて首を振る。
 ――と、信豊は、おもむろにその表情を引き締め、

「……では、お名残惜しゅうござるが、そろそろ……」

 と言った。
 信繁は、彼の言葉に小さく頷く。

「うむ……。道中、気をつけよ」
「行ってらっしゃいませ……お元気で」

 信繁と桔梗の言葉に、信豊は微笑で応えると、馬の鐙に右足を掛け、馬上の人となった。
 その時、

「……い――いってらっしゃいませぇっ、あにうえっ! がんばって――くださいませぇっ!」

 綾が溢れる涙をぐっと堪えて、兄に向かって大きく手を振りながら叫ぶ。
 それを見た信豊も、一瞬妹と同じ表情を浮かべたが、無理矢理に笑顔を拵えて、皆に向かって手を振り返して応えた。

「おうっ! 行って参る! ――皆も、お達者で……!」

 ◆ ◆ ◆ ◆

 勝頼と信豊が、それぞれの居城に向けて出立した翌日。
 夕餉を摂った後、武田家の嫡男・太郎義信は突然、父・信玄に呼びつけられた。

(……一体、何事か?)

 父に呼ばれた時、義信の胸中を過ぎったのは、微かな不安と、大きな疑問と――僅かな歓喜であった。
 様々な感情で、秘かに心乱れる義信が通されたのは、信玄の居室。
 部屋の中央に置かれた碁盤の向こうに、寛いだ寝間着姿の父が座っていた。

「父上、お召しにより参りましたが……一体、何用で――」
「いや……何。久方ぶりに、お主と碁を打ちたくなってな。いかんか?」
「あ、いえ……喜んで」

 父の意外な言葉に、一瞬呆気に取られた義信だったが、慌てて頭を振った。一礼すると、円座わろうどに腰を下ろし、碁盤を挟んで信玄と向かい合った。

 …………

 それから、一刻……。

 ……パチリ ――パチリ ……パチ……

 父子は無言のまま、ただただ碁盤に石を置き合う。
 ふたりとも、際立って碁が上手い訳ではない。同じくらいの腕前なので、盤上の形勢は拮抗している。
 それは、玄人が見ていたとしたら、欠伸が出る程退屈な碁だったが、義信にとってはとても楽しい時間だった。
 父とふたりで、ゆったりとした時間を過ごす――それは彼にとって、幼少の頃以来とんと遠ざかった経験であり、長年心の底で待ち望んだ瞬間だったのだ。
 義信の心は今、至福に満ちていた――。
 ――と、

「……太郎」

 唐突に、信玄が口を開き、同時に石を打った。

「――あ。――何でしょう、父上?」

 上の空だった義信は、父の問いかけに気付くのが遅れ、慌てて聞き返した。
 信玄は、目を碁盤の上に据えたまま右掌の上で碁石を転がし、左手で顎髭を撫でながら、ゆっくりと口を開く。

「……事前に、お主に告げておく事がある」

 ……ぞわり。
 信玄の低い声を耳にした瞬間、義信の背筋を、嫌な寒気が撫でた。
 義信は、本能的に思った。

 ――信玄ちちの口から紡がれる、この先の言葉は……聞きたくない、と。

「あ……あの……その……ッ!」

 彼は、咄嗟に信玄を止める言葉を発しようとした――が、喉の奥が、カラカラに乾いて貼り付いてしまったかのように、上手く言葉が出ない。

「儂は……決めた」

 そうしている内に……信玄は、訥々とした口調で、義信に告げる。

「――近々に、今川とは手切れをし、我らは駿河に攻め込む。……太郎、お主も左様心得よ」

 ――決して、彼には承服できぬ、かねてより己の胸の内に秘めていた事を。
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

If太平洋戦争        日本が懸命な判断をしていたら

みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら? 国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。 真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。 破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。 現在1945年夏まで執筆

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

徳川慶勝、黒船を討つ

克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。 もしかしたら、消去するかもしれません。

東亜の炎上 1940太平洋戦線

みにみ
歴史・時代
1940年ドイツが快進撃を進める中 日本はドイツと協働し連合国軍に宣戦布告 もしも日本が連合国が最も弱い1940年に参戦していたらのIF架空戦記

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

処理中です...