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第一部七章 血縁
依頼と懇願
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信繁の口から出た「信玄」という名に、昌幸は、ピクリと眉を上げたが、口を一文字に結んで沈黙を保つ。
一方、佐助は目を見開き、皮肉気に口の端を上げてみせた。
「ほう……、信玄とな――」
「……」
「だが。それは、さっきオレが言っただろう。何故、さっきは否定した?」
「――儂は、お屋形様を殺せとは言っておらぬ」
佐助の問いに、信繁は語調を強めて答える。
「お主に頼みたいのは、あくまでお屋形様の周囲を探り、日頃どういった者たちと接触しているのかを具に観察し、逐一を儂に報せる事。――そして、どういった者が、お屋形様と密に繋がっているのかを見極める事だ」
「……ふん、成程。確かにそれは、武田家子飼いの乱破どもには決して頼めぬ事だな。――猟犬に、己の飼い主を嗅ぎ回らせるが如き事ゆえな」
「……それで、どこの誰にも従っておらぬ、“根無し”の佐助に――」
「そういう事だ」
信繁は、佐助に大きく頷き、じっとその顔を見据えた。
「どうだ、頼まれてくれるか? 無論、その働きに対する代価は、存分に支払うつもりだ」
「……」
佐助は、無言のまま、信繁の隻眼を睨み返す。
そして、不敵な笑みを浮かべて言った。
「もし……オレが断ったとすれば……どうする?」
「佐助ッ!」
佐助の物言いに、昌幸が血相を変えて怒鳴るが、信繁は無言で片掌を上げ、彼を制する。
そして、その顔に暗い翳を落としながら、静かに口を開く。
「……もし、お主が乗らぬのならば、やむを得ぬ――」
「この場でオレを殺る――か?」
信繁の言葉を遮り、佐助は低い声で言った。腰を僅かに浮かし、袖先に潜ませた仕込み苦無に手を伸ばしながら――。
その仕草を目にした昌幸は、顔色を変え、手元の太刀を引き寄せる。
やにわに、琵琶の弦の如く張り詰める三人の空気――。
だが、
信繁は苦笑を浮かべつつ、「いやいや」と、首を大きく横に振った。
「そう容易く、手練れの乱破であるお主を討てるとは思っておらぬし、はじめからその気も無い。――こうするのだ」
そう言うと――、
信繁は威儀を正し、両拳を板敷きの床につくと、佐助に向かって深々と頭を下げたのだった。
「――頼む。我が武田家の為、どうか、お主の力を貸してくれ」
「……っ!」
「て――典厩様ッ! いけませぬ!」
思いもかけぬ信繁の所業に、佐助は思わず目を見開いたが、彼よりも覿面に仰天したのは、昌幸だった。
「いけませぬ! いみじくも、武田家の副将である典厩様が、一介の乱破に対し軽々に頭を下げるなどと……!」
彼は慌てて信繁の元ににじり寄り、その身体を起こそうとする。
そして、佐助を睨みつけると、
「佐助! 典厩様が、ここまでなさっておられるのだ! いい加減、典厩様のお頼みを請けろ!」
と、怒鳴る。
……しかし、佐助は口をへの字に結んだまま、無言で座っているだけだった。
そんな彼の不遜な態度に業を煮やした昌幸は、「ええい!」と舌を打つと、忌々しげに両手をついた。
「分かった! 拙者も頭を下げる! この通りだ! 佐助、どうか力を貸してくれ、この通りじゃ!」
そう言い捨てて、信繁よりも更に低く、板張りの床に額を擦りつけんばかりに頭を下げる。
暫しの間、部屋は沈黙に包まれた。
――が、
「………ぷ、ふははははは……」
その沈黙を破ったのは、佐助の愉快げな笑い声だった。
「いや……驚いた。まさか、武田家の副将殿と、あの悪童源五郎が、一介の根無しの乱破でしかないオレに、頭を下げようとはな……」
「……ッ」
佐助の挑発的な物言いに、昌幸はギリギリと歯を食いしばるだけだったが、信繁は違った。
彼は、頭を伏せたまま、静かな声で言う。
「……別に驚くような事では無い。今は、武田家の行く末が大きく変わるか否かの瀬戸際。武田の征く道を違えさせぬ為には、どうしても、お主の力が必要なのだ。――お主が力を貸してくれると言うのならば、儂が頭を下げる事くらい、安いものよ」
「て……典厩様……」
「……」
信繁の言葉を聞いた佐助は、笑い声を止めると、神妙な顔をして考え込む。
そして、片膝を立てると、右手を床につき、ゆっくりと頭を垂れた。
「頭をお上げ下され、武田典厩……殿。――この“猿飛”の佐助、貴殿のお心、確と受け止め申した。――オレの力で良ければ、存分に遣ってくれ」
◆ ◆ ◆ ◆
「ふう……何とか、上手く運んだな」
具体的な務めの内容を聞いた佐助が音も無く部屋を立ち去った後、信繁は大きく息を吐いた。
そんな彼に、昌幸は苦い顔で苦言を呈す。
「典厩様……。話の流れでやむを得ぬ事だったとはいえ、お屋形様に次ぐ立場であらせられる貴方が、下々の者に対して軽々しく頭を下げるのは、今後お控え下され。当家の品格が損なわれますぞ……」
「分かった分かった……」
信繁は、昌幸の剣幕に辟易しながら頷くと、言葉を継ぐ。
「……成り行きとはいえ、お主にも頭を下げさせてしまって、済まなかったな」
「拙者の頭など、典厩様のそれに比べれば、それこそ鴻毛の如く軽いものゆえ、お気になさる必要は要りませぬ」
昌幸は、そうぶっきらぼうに言い放つと、立ち上がった。
「……では、もう夜も遅いゆえ、拙者も失礼致しまする」
「……おう。分かった」
突然立ち上がった昌幸を見上げ、信繁は頷く。
すると、昌幸はくるりと振り返って言った。
「……お屋形様の件、拙者も探ってみます」
「探る? ……どうやって?」
首を傾げる信繁に、昌幸はニヤリと笑いかけ、言葉を続けた。
「昔の――近習だった頃の伝手に、明日にでも当たってみようかと思います」
一方、佐助は目を見開き、皮肉気に口の端を上げてみせた。
「ほう……、信玄とな――」
「……」
「だが。それは、さっきオレが言っただろう。何故、さっきは否定した?」
「――儂は、お屋形様を殺せとは言っておらぬ」
佐助の問いに、信繁は語調を強めて答える。
「お主に頼みたいのは、あくまでお屋形様の周囲を探り、日頃どういった者たちと接触しているのかを具に観察し、逐一を儂に報せる事。――そして、どういった者が、お屋形様と密に繋がっているのかを見極める事だ」
「……ふん、成程。確かにそれは、武田家子飼いの乱破どもには決して頼めぬ事だな。――猟犬に、己の飼い主を嗅ぎ回らせるが如き事ゆえな」
「……それで、どこの誰にも従っておらぬ、“根無し”の佐助に――」
「そういう事だ」
信繁は、佐助に大きく頷き、じっとその顔を見据えた。
「どうだ、頼まれてくれるか? 無論、その働きに対する代価は、存分に支払うつもりだ」
「……」
佐助は、無言のまま、信繁の隻眼を睨み返す。
そして、不敵な笑みを浮かべて言った。
「もし……オレが断ったとすれば……どうする?」
「佐助ッ!」
佐助の物言いに、昌幸が血相を変えて怒鳴るが、信繁は無言で片掌を上げ、彼を制する。
そして、その顔に暗い翳を落としながら、静かに口を開く。
「……もし、お主が乗らぬのならば、やむを得ぬ――」
「この場でオレを殺る――か?」
信繁の言葉を遮り、佐助は低い声で言った。腰を僅かに浮かし、袖先に潜ませた仕込み苦無に手を伸ばしながら――。
その仕草を目にした昌幸は、顔色を変え、手元の太刀を引き寄せる。
やにわに、琵琶の弦の如く張り詰める三人の空気――。
だが、
信繁は苦笑を浮かべつつ、「いやいや」と、首を大きく横に振った。
「そう容易く、手練れの乱破であるお主を討てるとは思っておらぬし、はじめからその気も無い。――こうするのだ」
そう言うと――、
信繁は威儀を正し、両拳を板敷きの床につくと、佐助に向かって深々と頭を下げたのだった。
「――頼む。我が武田家の為、どうか、お主の力を貸してくれ」
「……っ!」
「て――典厩様ッ! いけませぬ!」
思いもかけぬ信繁の所業に、佐助は思わず目を見開いたが、彼よりも覿面に仰天したのは、昌幸だった。
「いけませぬ! いみじくも、武田家の副将である典厩様が、一介の乱破に対し軽々に頭を下げるなどと……!」
彼は慌てて信繁の元ににじり寄り、その身体を起こそうとする。
そして、佐助を睨みつけると、
「佐助! 典厩様が、ここまでなさっておられるのだ! いい加減、典厩様のお頼みを請けろ!」
と、怒鳴る。
……しかし、佐助は口をへの字に結んだまま、無言で座っているだけだった。
そんな彼の不遜な態度に業を煮やした昌幸は、「ええい!」と舌を打つと、忌々しげに両手をついた。
「分かった! 拙者も頭を下げる! この通りだ! 佐助、どうか力を貸してくれ、この通りじゃ!」
そう言い捨てて、信繁よりも更に低く、板張りの床に額を擦りつけんばかりに頭を下げる。
暫しの間、部屋は沈黙に包まれた。
――が、
「………ぷ、ふははははは……」
その沈黙を破ったのは、佐助の愉快げな笑い声だった。
「いや……驚いた。まさか、武田家の副将殿と、あの悪童源五郎が、一介の根無しの乱破でしかないオレに、頭を下げようとはな……」
「……ッ」
佐助の挑発的な物言いに、昌幸はギリギリと歯を食いしばるだけだったが、信繁は違った。
彼は、頭を伏せたまま、静かな声で言う。
「……別に驚くような事では無い。今は、武田家の行く末が大きく変わるか否かの瀬戸際。武田の征く道を違えさせぬ為には、どうしても、お主の力が必要なのだ。――お主が力を貸してくれると言うのならば、儂が頭を下げる事くらい、安いものよ」
「て……典厩様……」
「……」
信繁の言葉を聞いた佐助は、笑い声を止めると、神妙な顔をして考え込む。
そして、片膝を立てると、右手を床につき、ゆっくりと頭を垂れた。
「頭をお上げ下され、武田典厩……殿。――この“猿飛”の佐助、貴殿のお心、確と受け止め申した。――オレの力で良ければ、存分に遣ってくれ」
◆ ◆ ◆ ◆
「ふう……何とか、上手く運んだな」
具体的な務めの内容を聞いた佐助が音も無く部屋を立ち去った後、信繁は大きく息を吐いた。
そんな彼に、昌幸は苦い顔で苦言を呈す。
「典厩様……。話の流れでやむを得ぬ事だったとはいえ、お屋形様に次ぐ立場であらせられる貴方が、下々の者に対して軽々しく頭を下げるのは、今後お控え下され。当家の品格が損なわれますぞ……」
「分かった分かった……」
信繁は、昌幸の剣幕に辟易しながら頷くと、言葉を継ぐ。
「……成り行きとはいえ、お主にも頭を下げさせてしまって、済まなかったな」
「拙者の頭など、典厩様のそれに比べれば、それこそ鴻毛の如く軽いものゆえ、お気になさる必要は要りませぬ」
昌幸は、そうぶっきらぼうに言い放つと、立ち上がった。
「……では、もう夜も遅いゆえ、拙者も失礼致しまする」
「……おう。分かった」
突然立ち上がった昌幸を見上げ、信繁は頷く。
すると、昌幸はくるりと振り返って言った。
「……お屋形様の件、拙者も探ってみます」
「探る? ……どうやって?」
首を傾げる信繁に、昌幸はニヤリと笑いかけ、言葉を続けた。
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