甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

文字の大きさ
77 / 263
第一部八章 陰謀

政務と使い

しおりを挟む
 「……済まぬな、典厩……それに太郎。暫しの間、後を頼むぞ」

 躑躅ヶ崎館の門前で、難儀そうな様子で駕籠に乗り込んだ信玄は、青白い顔を信繁と義信に向けて言った。

「――すぐに身体を治して戻ってくるゆえ……」
「いけませぬ。お屋形様は、今までずっと休みなくお働きだったのです。此度の事は、そのツケが回ってきたからにございます」

 信玄の言葉に、信繁は厳しい顔で首を横に振る。

「……こう言ってはなんですが、丁度良い機会です。石和の湯に浸かって、存分に骨休めして下さいませ。後の事は、某と若殿にお任せ下さい」
「しかし……」
「しかしも案山子かかしもございませぬ」

 抗弁しようとする信玄を制して、信繁はズイッと顔を近づけた。

「早くても、法印殿がお屋形様のお身体を看て太鼓判を押すまでは、この館へ戻る事は相成りませぬぞ。――良いですな、兄上」
「…………分かった」

 信繁に厳しく釘を刺され、不承不承といった様子で頷く信玄。その答えを聞いた信繁は、満足げに頷くと、その顔に微笑みを浮かべた。

「なに、ご安心下さい。若殿も、もう二十七。立派な男でござる。……それに、嫡男として、ゆくゆくは当主を継ぐ身。今の内に当主の御役目に慣れてゆく必要もござりまするし。……そういった意味でも、此度の件は良い機会かと」
「は――はい! お任せ下さい、父上! 叔父上たちや、飯富や馬場たちもおりますし……非才ながら、存分に御役目を果たして参ります!」

 信繁の言葉に続いて、義信も顔を紅潮させながら頷く。
 信玄は、じっとふたりの顔を見据えていたが、フーッと息を吐くと、小さく頷いた。

「……そうだな。分かった……。太郎、まつりごとはお主に預ける」
「は――ハッ! 畏まり申した!」

 信玄は、顔を輝かせて、勢いよく頭を下げる義信に頷くと、顔を上げて、信繁の目をジッと見て言った。

「典厩……頼むぞ。太郎の事をたすけてやってくれよ」
「はっ、勿論でござります。どうぞご安心を――兄上」

 信繁は微笑みながら、兄に向かって深々と頭を下げた。

 ◆ ◆ ◆ ◆

 信玄が、塩山えんざん(現在の甲州市小屋敷)にある恵林寺へ療養に向かった後、義信はその陣代として、精力的に政務をこなしていた。
 国主の政務は多岐にわたる。
 領民の訴えに耳を傾けて裁定を下したり、安堵状の発給といった内政的な事柄。
 信濃・西上野の各城主からの報告を受け、他勢力の動向を把握した上で、それに対する指示を下す、外交的・軍事的な事柄。
 そして、日々訪ねてくる他国の使者への対応――。
 義信と、彼を補佐する信繁には、休む間も無かった。


「……父上の凄さが、今更ながらに思い知らされますな」

 ある日の昼下がり、右筆が書き上げた発給文書に延々と花押を捺し続けながら、義信は疲れた声を漏らした。

「どうした? もう、音を上げたのか? まだ、兄上がここを発ってから、十日も経っておらぬぞ」

 彼の傍らで、とある村同士の水争いに関する訴状に目を通しながら、信繁は苦笑を浮かべる。
 義信は、むっとした表情を浮かべて硯の上に筆を置くと、首をぐるぐると回しながら答えた。

「……別に、音を上げたわけではございませぬ。ただ、感服していただけです。――父上は、私の年齢としの頃には、もうこんな事を毎日繰り返しておったのだな――と」
「……確かにな」

 信繁も、訴状から目を上げると、大きく頷いた。

「だが、昔の兄上の時には、板垣や甘利たちが脇で支えておったからのう。――微力ながら、儂もな。……しかし、そうだな。確かに最近の兄上は、少々ひとりで抱えすぎだな」
「抱えすぎ……ですか?」

 義信の戸惑いを浮かべた表情に、再び苦笑いを向ける信繁。

「うむ……。特に、上田原の戦い(1548年)で板垣や甘利が討死してしまってから、とみにそのきらいが目立ってきたような気がする。……儂が、ふたりの分も兄上の事を支えようとしてはいたのだが……」
「確かに……三年前に、叔父上があのような事になってからは、更に独断が目立ってきたかように思えまする。……私が、叔父上の分まで、父上を輔佐できれば良かったのですが……」
「まあ、そう気を病むな。兄上は、ああいったご気性の御仁だ。責任感が些か強すぎる。――決して、お主が頼りにならぬからという訳ではない」
「……そうでしょうか……?」

 信繁の慰めの言葉にも、義信の顔は晴れない。

「……太郎」
「――御免」

 重ねて声をかけようとした信繁の声は、廊下からの小姓の声に遮られた。仕方なく、信繁は声の方へと振り向いた。

「……何だ。今は執務中だが」
「も……申し訳ございませぬ。ですが、国境の――若神子 (現在の北杜市須玉町)から火急の使いが参っておりまして……」
「……若神子から?」

 小姓の言葉に、信繁と義信は互いの顔を見合わせた。そして、顔を引き締めると、小さく頷き合う。
 若神子とは、甲斐府中から見て北西に位置し、信濃へと出る際の中継点としての役割を果たしていた地である。逆に、信濃で何か事が起こった際には、府中の最終防衛地点のひとつとして機能する砦でもある。
 そこからの火急の使いとは、穏やかな話ではない。
 内心の動揺を落ち着かせるように、軽く咳払いをして、義信が小姓に問う。

「で――若神子からは何と……?」
「は……」

 小姓は、片膝をついたまま、その端正な顔を上げると、はっきりとした口調で二人に告げた。

「今朝――、若神子に、尾張 (現在の愛知県西部)の織田弾正忠信長殿より、此度の事に対する御見舞の使者がおいでになった由に御座います。……是非とも、お屋形様に御目通りしたいと申しておられるようなのですが……いかが取り計らいましょうか?」
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

If太平洋戦争        日本が懸命な判断をしていたら

みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら? 国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。 真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。 破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。 現在1945年夏まで執筆

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

徳川慶勝、黒船を討つ

克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。 もしかしたら、消去するかもしれません。

東亜の炎上 1940太平洋戦線

みにみ
歴史・時代
1940年ドイツが快進撃を進める中 日本はドイツと協働し連合国軍に宣戦布告 もしも日本が連合国が最も弱い1940年に参戦していたらのIF架空戦記

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

処理中です...