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第一部八章 陰謀
政務と使い
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「……済まぬな、典厩……それに太郎。暫しの間、後を頼むぞ」
躑躅ヶ崎館の門前で、難儀そうな様子で駕籠に乗り込んだ信玄は、青白い顔を信繁と義信に向けて言った。
「――すぐに身体を治して戻ってくるゆえ……」
「いけませぬ。お屋形様は、今までずっと休みなくお働きだったのです。此度の事は、そのツケが回ってきたからにございます」
信玄の言葉に、信繁は厳しい顔で首を横に振る。
「……こう言ってはなんですが、丁度良い機会です。石和の湯に浸かって、存分に骨休めして下さいませ。後の事は、某と若殿にお任せ下さい」
「しかし……」
「しかしも案山子もございませぬ」
抗弁しようとする信玄を制して、信繁はズイッと顔を近づけた。
「早くても、法印殿がお屋形様のお身体を看て太鼓判を押すまでは、この館へ戻る事は相成りませぬぞ。――良いですな、兄上」
「…………分かった」
信繁に厳しく釘を刺され、不承不承といった様子で頷く信玄。その答えを聞いた信繁は、満足げに頷くと、その顔に微笑みを浮かべた。
「なに、ご安心下さい。若殿も、もう二十七。立派な男でござる。……それに、嫡男として、ゆくゆくは当主を継ぐ身。今の内に当主の御役目に慣れてゆく必要もござりまするし。……そういった意味でも、此度の件は良い機会かと」
「は――はい! お任せ下さい、父上! 叔父上たちや、飯富や馬場たちもおりますし……非才ながら、存分に御役目を果たして参ります!」
信繁の言葉に続いて、義信も顔を紅潮させながら頷く。
信玄は、じっとふたりの顔を見据えていたが、フーッと息を吐くと、小さく頷いた。
「……そうだな。分かった……。太郎、政はお主に預ける」
「は――ハッ! 畏まり申した!」
信玄は、顔を輝かせて、勢いよく頭を下げる義信に頷くと、顔を上げて、信繁の目をジッと見て言った。
「典厩……頼むぞ。太郎の事を輔けてやってくれよ」
「はっ、勿論でござります。どうぞご安心を――兄上」
信繁は微笑みながら、兄に向かって深々と頭を下げた。
◆ ◆ ◆ ◆
信玄が、塩山(現在の甲州市小屋敷)にある恵林寺へ療養に向かった後、義信はその陣代として、精力的に政務をこなしていた。
国主の政務は多岐にわたる。
領民の訴えに耳を傾けて裁定を下したり、安堵状の発給といった内政的な事柄。
信濃・西上野の各城主からの報告を受け、他勢力の動向を把握した上で、それに対する指示を下す、外交的・軍事的な事柄。
そして、日々訪ねてくる他国の使者への対応――。
義信と、彼を補佐する信繁には、休む間も無かった。
「……父上の凄さが、今更ながらに思い知らされますな」
ある日の昼下がり、右筆が書き上げた発給文書に延々と花押を捺し続けながら、義信は疲れた声を漏らした。
「どうした? もう、音を上げたのか? まだ、兄上がここを発ってから、十日も経っておらぬぞ」
彼の傍らで、とある村同士の水争いに関する訴状に目を通しながら、信繁は苦笑を浮かべる。
義信は、むっとした表情を浮かべて硯の上に筆を置くと、首をぐるぐると回しながら答えた。
「……別に、音を上げたわけではございませぬ。ただ、感服していただけです。――父上は、私の年齢の頃には、もうこんな事を毎日繰り返しておったのだな――と」
「……確かにな」
信繁も、訴状から目を上げると、大きく頷いた。
「だが、昔の兄上の時には、板垣や甘利たちが脇で支えておったからのう。――微力ながら、儂もな。……しかし、そうだな。確かに最近の兄上は、少々ひとりで抱えすぎだな」
「抱えすぎ……ですか?」
義信の戸惑いを浮かべた表情に、再び苦笑いを向ける信繁。
「うむ……。特に、上田原の戦い(1548年)で板垣や甘利が討死してしまってから、頓にそのきらいが目立ってきたような気がする。……儂が、ふたりの分も兄上の事を支えようとしてはいたのだが……」
「確かに……三年前に、叔父上があのような事になってからは、更に独断が目立ってきたかように思えまする。……私が、叔父上の分まで、父上を輔佐できれば良かったのですが……」
「まあ、そう気を病むな。兄上は、ああいったご気性の御仁だ。責任感が些か強すぎる。――決して、お主が頼りにならぬからという訳ではない」
「……そうでしょうか……?」
信繁の慰めの言葉にも、義信の顔は晴れない。
「……太郎」
「――御免」
重ねて声をかけようとした信繁の声は、廊下からの小姓の声に遮られた。仕方なく、信繁は声の方へと振り向いた。
「……何だ。今は執務中だが」
「も……申し訳ございませぬ。ですが、国境の――若神子 (現在の北杜市須玉町)から火急の使いが参っておりまして……」
「……若神子から?」
小姓の言葉に、信繁と義信は互いの顔を見合わせた。そして、顔を引き締めると、小さく頷き合う。
若神子とは、甲斐府中から見て北西に位置し、信濃へと出る際の中継点としての役割を果たしていた地である。逆に、信濃で何か事が起こった際には、府中の最終防衛地点のひとつとして機能する砦でもある。
そこからの火急の使いとは、穏やかな話ではない。
内心の動揺を落ち着かせるように、軽く咳払いをして、義信が小姓に問う。
「で――若神子からは何と……?」
「は……」
小姓は、片膝をついたまま、その端正な顔を上げると、はっきりとした口調で二人に告げた。
「今朝――、若神子に、尾張 (現在の愛知県西部)の織田弾正忠信長殿より、此度の事に対する御見舞の使者がおいでになった由に御座います。……是非とも、お屋形様に御目通りしたいと申しておられるようなのですが……いかが取り計らいましょうか?」
躑躅ヶ崎館の門前で、難儀そうな様子で駕籠に乗り込んだ信玄は、青白い顔を信繁と義信に向けて言った。
「――すぐに身体を治して戻ってくるゆえ……」
「いけませぬ。お屋形様は、今までずっと休みなくお働きだったのです。此度の事は、そのツケが回ってきたからにございます」
信玄の言葉に、信繁は厳しい顔で首を横に振る。
「……こう言ってはなんですが、丁度良い機会です。石和の湯に浸かって、存分に骨休めして下さいませ。後の事は、某と若殿にお任せ下さい」
「しかし……」
「しかしも案山子もございませぬ」
抗弁しようとする信玄を制して、信繁はズイッと顔を近づけた。
「早くても、法印殿がお屋形様のお身体を看て太鼓判を押すまでは、この館へ戻る事は相成りませぬぞ。――良いですな、兄上」
「…………分かった」
信繁に厳しく釘を刺され、不承不承といった様子で頷く信玄。その答えを聞いた信繁は、満足げに頷くと、その顔に微笑みを浮かべた。
「なに、ご安心下さい。若殿も、もう二十七。立派な男でござる。……それに、嫡男として、ゆくゆくは当主を継ぐ身。今の内に当主の御役目に慣れてゆく必要もござりまするし。……そういった意味でも、此度の件は良い機会かと」
「は――はい! お任せ下さい、父上! 叔父上たちや、飯富や馬場たちもおりますし……非才ながら、存分に御役目を果たして参ります!」
信繁の言葉に続いて、義信も顔を紅潮させながら頷く。
信玄は、じっとふたりの顔を見据えていたが、フーッと息を吐くと、小さく頷いた。
「……そうだな。分かった……。太郎、政はお主に預ける」
「は――ハッ! 畏まり申した!」
信玄は、顔を輝かせて、勢いよく頭を下げる義信に頷くと、顔を上げて、信繁の目をジッと見て言った。
「典厩……頼むぞ。太郎の事を輔けてやってくれよ」
「はっ、勿論でござります。どうぞご安心を――兄上」
信繁は微笑みながら、兄に向かって深々と頭を下げた。
◆ ◆ ◆ ◆
信玄が、塩山(現在の甲州市小屋敷)にある恵林寺へ療養に向かった後、義信はその陣代として、精力的に政務をこなしていた。
国主の政務は多岐にわたる。
領民の訴えに耳を傾けて裁定を下したり、安堵状の発給といった内政的な事柄。
信濃・西上野の各城主からの報告を受け、他勢力の動向を把握した上で、それに対する指示を下す、外交的・軍事的な事柄。
そして、日々訪ねてくる他国の使者への対応――。
義信と、彼を補佐する信繁には、休む間も無かった。
「……父上の凄さが、今更ながらに思い知らされますな」
ある日の昼下がり、右筆が書き上げた発給文書に延々と花押を捺し続けながら、義信は疲れた声を漏らした。
「どうした? もう、音を上げたのか? まだ、兄上がここを発ってから、十日も経っておらぬぞ」
彼の傍らで、とある村同士の水争いに関する訴状に目を通しながら、信繁は苦笑を浮かべる。
義信は、むっとした表情を浮かべて硯の上に筆を置くと、首をぐるぐると回しながら答えた。
「……別に、音を上げたわけではございませぬ。ただ、感服していただけです。――父上は、私の年齢の頃には、もうこんな事を毎日繰り返しておったのだな――と」
「……確かにな」
信繁も、訴状から目を上げると、大きく頷いた。
「だが、昔の兄上の時には、板垣や甘利たちが脇で支えておったからのう。――微力ながら、儂もな。……しかし、そうだな。確かに最近の兄上は、少々ひとりで抱えすぎだな」
「抱えすぎ……ですか?」
義信の戸惑いを浮かべた表情に、再び苦笑いを向ける信繁。
「うむ……。特に、上田原の戦い(1548年)で板垣や甘利が討死してしまってから、頓にそのきらいが目立ってきたような気がする。……儂が、ふたりの分も兄上の事を支えようとしてはいたのだが……」
「確かに……三年前に、叔父上があのような事になってからは、更に独断が目立ってきたかように思えまする。……私が、叔父上の分まで、父上を輔佐できれば良かったのですが……」
「まあ、そう気を病むな。兄上は、ああいったご気性の御仁だ。責任感が些か強すぎる。――決して、お主が頼りにならぬからという訳ではない」
「……そうでしょうか……?」
信繁の慰めの言葉にも、義信の顔は晴れない。
「……太郎」
「――御免」
重ねて声をかけようとした信繁の声は、廊下からの小姓の声に遮られた。仕方なく、信繁は声の方へと振り向いた。
「……何だ。今は執務中だが」
「も……申し訳ございませぬ。ですが、国境の――若神子 (現在の北杜市須玉町)から火急の使いが参っておりまして……」
「……若神子から?」
小姓の言葉に、信繁と義信は互いの顔を見合わせた。そして、顔を引き締めると、小さく頷き合う。
若神子とは、甲斐府中から見て北西に位置し、信濃へと出る際の中継点としての役割を果たしていた地である。逆に、信濃で何か事が起こった際には、府中の最終防衛地点のひとつとして機能する砦でもある。
そこからの火急の使いとは、穏やかな話ではない。
内心の動揺を落ち着かせるように、軽く咳払いをして、義信が小姓に問う。
「で――若神子からは何と……?」
「は……」
小姓は、片膝をついたまま、その端正な顔を上げると、はっきりとした口調で二人に告げた。
「今朝――、若神子に、尾張 (現在の愛知県西部)の織田弾正忠信長殿より、此度の事に対する御見舞の使者がおいでになった由に御座います。……是非とも、お屋形様に御目通りしたいと申しておられるようなのですが……いかが取り計らいましょうか?」
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